翌日には熱も大分下がり、起き上がれるようにはなったものの、念のため学校は休むことにした。
 今日も安静にしなくてはならない。それはわかっている。けれどどうしても気になって、厚手のコートとマフラー、それからマスクと帽子を目深に被って変装し、僕は人魚姫に会いに行った。
 彼女に残された時間を思うと、居てもたってもいられなかったのだ。

 普段通い慣れた道程が、やけに遠く感じる。心臓がいつもより速い。そしてようやく辿り着いた先、彼女はそこに『居た』。

 氷で作られているとは思えない繊細な鱗や髪、透き通った表情は、角度によって微笑んでいるようにも悲しんでいるようにも見える。そして僕が見た日にはただの氷の塊が置かれていた場所に、珊瑚や魚など、海の生き物が存在していた。
 彼女はこの氷の海で、今確かに生きている。

「お、居た居た。兄ちゃん」

 写真に収めるのすら躊躇う程の恋心を改めて自覚し立ち尽くす中、不意に声をかけられ振り向くと、彼女の生みの親達が居た。変装は無意味だったようだ。僕は慌てて頭を下げる。

「あ……えっと、完成おめでとうございます。お疲れ様です」
「ありがとうな。兄ちゃん熱心に見てくれてたからさ、これをやろうと思って」
「珈琲の礼だ、取っときな」
「え……あ、ありがとうございます」

 他の作品を見て回るという彼等を見送った後、受け取ったぼろぼろの紙を開く。それは彫刻の完成図だった。
 目の前の、すぐ近くに居るのに触れられない、愛しい彼女の『絵』。これは触れても溶けもしないし、泡にもならず、砕かれもしない。

 会期を終えれば、氷の彼女は壊れて消えてしまう。
 けれどこの絵の中の彼女は、僕の愛する彼女と同じなのだろうか。

 色んな気持ちが込み上げてきて、氷の彫刻と絵を重ねながら泣き笑いを浮かべる僕に、彼女は深海のように凪いだ瞳で、穏やかに微笑んでいた。

「僕の、人魚姫……」

 降り始めた雪に紛れるように呟いて、ほんの一瞬、人目を盗んでロープを越えて、僕は冷たい彼女の頬に触れる。
 僕の熱を受けて、その柔らかな輪郭の頬は、その身を溶かし雫を纏った。それが別れを惜しみ泣いてくれているようで嬉しくて、彼女を自らの手で損なうのが悲しくて、僕は自己満足の愛に浸る。

「あ! ちょっとそこの君、作品に触るのは……」
「す、すみませんっ!」

 不意に通行人に見咎められて、僕は振り返ることもなく慌てて駆け出す。それが、僕達の最後だった。

 帰ってから完成図を落としてしまったことに気付くし、風邪は振り返すしで、その後数日は散々だった。彼女を泣かせてしまった罰が当たったのかも知れない。

 しばらくしてようやく回復した頃には、彼女が居た場所にはもう、何も残ってはいなかった。辛うじて残っていたであろう氷の破片も、既に撤去されてしまっていた。

 彼女がたった数日生きた証は、もうどこにもない。たった写真の一枚すら、僕は撮らずにいたのだ。

 もう二度と会えなくても、記憶に残る触れた指先の冷たさと、僕だけが知る彼女の涙の理由に、痛みと共に愛しさが募る。

 氷で出来た、命のない彼女が天国に行けるのかはわからない。けれど彼女には、必死に作り上げた職人の男達の魂や、僕の愛が籠っていたはずだ。

 だからいつの日か、あたたかな場所で「また会えたね」と微笑み合えるその時まで。
 記憶の海の中を漂う彼女の姿を忘れないよう、僕は確かにそこにあった氷点下の恋の温度を、いつまでも大切に抱き続けた。