「うわ、寒っ……」

 雪のちらつく夜道をポケットに手を入れ歩く道すがら、駅前通りが何やらいつもより賑わっているのに気が付いた。

 歩調を僅かに緩め何気なく横目に見ると、厳重に着込んだ男達が声を掛け合い、道の端に作られた四角い雪の台の近くに大きな氷を幾つも積み上げている。そして一定の距離を置いて、同じような集団が何組も続いた。

 毎年この冬祭りの時期になると、こうして駅前通りを舞台として、四十時間かけて氷の彫刻を作り上げる大会が行われるのだ。

 観光客なんかは物珍しそうにカメラを構えるけれど、地元の恒例行事となったそれは、僕からすればそこそこ日常の風景で。寒さを通り越して痛みさえ感じる二月の夜の寒さの前では「またやってるな、もうそんな時期か」くらいにしか思っていなかった。

 大きな氷を煉瓦のように切って、雪の台座に積み上げ、線を描き、削り、形を作り上げていく。極寒の中、早朝から夜中まで連日だ。

 確かに毎年見る氷の彫刻は繊細かつダイナミックで、昼間の太陽光に煌めく透き通った氷も、色とりどりにライトアップされ輝く夜にも、違った魅力を見せた。
 けれど所詮氷は氷。細かく丁寧に拘り削ったとしても、気温が少しでも高ければ部分的に溶けてつららになってしまうし、丹精込めて仕上げた作品達は、会期が終わるとあっさりと壊されてしまう。

 そんな儚い存在のために、何故ここまで熱中出来るのかと、作業風景を見るといつも不思議でたまらなかった。


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 翌朝、通学のために再び駅前を通ると、夜の内に随分と作業が進んだのであろう、大体の氷がある程度何を作っているか分かるようになっていた。

 建物、動物、物語の登場人物、何かのシンボルマーク。あらゆるモチーフが混在する氷の間を歩きながら、ふと、一つの彫刻が気になり足を止める。

「……?」

 雪の台座に腰掛けた、髪の長い女のシルエットは、本来足があるべき部分が大きな魚の尾のように見えた。作品前の小さな立て札にも、確かに『人魚姫』と書かれている。
 氷の存在しないであろう海底に暮らす人魚姫を、わざわざ氷で作るのか。
 一瞬そう思ったが、幼い頃読んだ泡となり消えてしまう人魚姫の物語が、数日であっさり壊されてしまう氷の彫刻の運命と重なって、少しだけ……ほんの少しだけ、気になってしまったのだ。

 まだ朧気な輪郭しかないその人魚が、男達の手により研磨され、時を重ねる度明確な形を成していく。
 つい足を止め作業に見入ってしまったところで、ポケットの中震えたスマホのアラームに電車の時間を思い出し、僕は雪に足を取られつつ駅まで駆けた。

「人魚姫、か……」

 何とか電車に間に合い、走ったせいで速まる鼓動と呼吸を何とか落ち着かせる。
 帰る頃には、もう少し氷の彫刻は完成に近付いているだろうか。
 早く人魚姫の美しい姿が見たいという期待と、仄かに感じた寂しさ。着実に進む作業は、終わりに向けてのカウントダウンそのものだった。

 作品は例外なく、会期が終われば壊される。完成後、たった三日の命なのだ。
これまで日々の流れの中で然して気にも留めていなかったその儚い存在を、その日一日、気付けば想っていた。


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「おはようございます、差し入れ持ってきました!」
「あれ、昨日の兄ちゃん。また来たのか」
「おっ、珈琲か! ありがとうな」

 吐いた息が白く揺らぎ、凍てつく空気に溶けて消える。寒さに身を震わせながら僕が挨拶をすると、防寒着に身を包んだ男達が顔を上げた。

 始めから終わりが決まっている、人魚姫に残された限られた時間。
 僕は少しでも彼女に長く会うために、昨日の学校からの帰り道、制作者の男達に差し入れをして、少しの間作業を見学させて貰っていた。

 そして学校が休みの今日もまた、コンビニ袋片手についつい訪れてしまったのだ。それも朝早く、まだ日が昇りきる前から、やがて辺りが暗くなり美しい水色の光に照らされるまで。

 寒さに耐えかねて時折離脱することはあれど、飽きることなくその場で人魚姫が生まれ行く瞬間を眺め続けた。

「……兄ちゃん、よく飽きねぇなぁ」
「こんな熱心に見学する奴、初めてだ」
「あはは……僕も、こんなに何かに夢中になるの、初めてです」

 確かに、他の組を見渡してみても、氷の彫刻の作業風景を物珍しそうに立ち止まり写真に撮る人はちらほら居るけれど、僕のように関係者でもないのに長々と居座る奴は他に居ない。

「そんな熱視線で見られちゃ、氷が溶けちまうな!」
「え……っ!?」

 そう言って笑う男達は、イレギュラーな僕の存在に気分を害した様子もなく、珈琲を飲み終えると作業を再開した。
 集中し始めると周りが見えなくなるのだろう、僕の存在は既に背景で、彼等は先程の気さくな雰囲気も消え黙々と設計図と見比べながら作業を進める。
 もし熱視線で氷が溶けるのなら、彼等の視線で既に氷は水になっているはずだ。

 僕は極力邪魔にならないよう、その後も暗闇に紛れながら静かに作業を見守った。雪と光に照らされ煌めく生まれかけの人魚姫は、とても美しかった。


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 翌日も、早朝から作業は始まる。大会の日程では、今夜作品が完成する予定だった。

 ここまで見守ったのだから、当然今日も見に行こうと朝四時にアラームを掛けていたのだが、止めるために動かした身体が、どうにも重怠い。それと同時に、まるで氷に囲われているような寒気がした。

「……三十八度五分……」

 真冬にろくに動かず一日中外に居たのだから、風邪を引くのも無理はなかった。
 けれどまあ、発熱するほどの体調不良なんていつぶりだろう。布団から起き上がれずに、溜め息を吐く。

 波間を漂うように意識は浮かんでは途切れ、がんがんと痛む頭で、今頃仕上げに入ったであろう人魚姫がどうなっているのかとぼんやり考えた。

 髪は昨日より細かく靡いているだろうか、鱗は形を成しただろうか、尾びれは透き通った美しい曲線を描いただろうか。
 誕生の瞬間を見届けられなかった悔しさと、早く会いたいと逸る心。
 熱に魘された頭で、僕はようやく、あの氷で出来た彼女に恋をしていたのだと自覚した。

「……これじゃ本当に、人魚姫だな」

 別世界に住む別の種族に恋をして、声なき想いは届かずに、最後は泡となり消える。
 ただ物語と違うのは、失恋したのは僕の方で、彼女は最後砕かれて消えてしまうのだ。

 叶うはずもない、数日で離れ離れになってしまう、夢より儚い刹那の恋。普通の恋人のように揉めたり擦れ違ったりすることすら出来ない、理由も猶予もない決まりきった別れの運命。

 自然と零れた涙は、氷なんて一瞬にして溶かしてしまえるくらいには、とてもとても熱かった。


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