涙が枯れるなんて表現は嘘だ。
 だって、泣けども泣けども涙は止まらない。
 このままでは足元に小さな水溜りくらい作ってしまいそうなほどなのだ。

──どうして、あたしなの?

 神様、あたし、何か悪いことした? 
 どうして、あたしが死ななきゃいけないの。
 
 だって、あたしまだ16歳だよ?
 人生これからなのに。
 まだまだ楽しいこと、悲しいこと、いっぱい経験したいよ。
 だから、どうか嘘だと言って。
 ねえ、神様……。

☆☆☆

 今日、入学した第一志望の高校を退学してきた。

 入学してから1年。
 入退院を繰り返し、高校にはほとんど通えなかった。
 
 そして、新学期を間近に控えた3月の末、勉強することも、友達を作ることも、恋人を作ることも、2年生に進級することも、青春を謳歌することも叶わないまま、旗野小夜(はたのさよ)は高校を去った。

 小夜をそんな目に遭わせた張本人である癌は、すでに全身に広がり、小柄な身体を蝕んでいた。

 余命半年。

 それが小夜に下された、血も涙もない宣告だった。

 治るという希望を捨てることなく、辛い治療に励んできた1年間だった。
 それなのに、下された宣告。
 何故、自分ばかりがこんな辛い目に遭うのか。
 理不尽な現実に、もう何リットルの涙を流しただろう。

 退学届を提出した、その足で向かった、通院する大学病院の会計を待つ間も、俯いたまま、顔を上げることが出来ないでいた。

 自分の服が目に入る。
 二度と着ることがない、制服姿。
 紺のブレザーにネクタイ、チェックのスカート。
 制服が可愛いことも、高校を選んだ理由のひとつだった。
 合格して、新しい制服に袖を通した時の高揚感を、昨日のことのように覚えている。
 あの時は、まだ見ぬ未来にあるであろう希望を、疑いもしなかった。

 老若男女が集う病院の会計を待つ間、顔を隠しながら涙に暮れていた小夜は、耳に飛び込んできた名前に、はっと顔を上げた。

桜庭翼(さくらばつばさ)さん』

 そう、マイク越しにアナウンスされ、会計のカウンターに、20歳くらいの青年が向かっていく。
 その後ろ姿を、小夜は、信じられないものを見たように凝視し、息を呑む。

『桜庭翼』

 その名前は、ざわざわと騒がしい人々の話し声に紛れて、会計を済ませる青年に注目する者はいない。


 しかし、小夜は弾かれたようにソファを立ち上がっていた。
 自分の順番が来ていないにも関わらず、カウンターから離れていく青年のあとを追う。

「あのっ」

 小夜の呼び掛けに、青年が振り向いた。
 
 暗い色のニット帽にサングラスに黒のマスク。
 体型は中肉中背で、パーカにジーンズというカジュアルな服装。
 左の耳たぶに、ピアスのような、ホクロがある。

 間違いない。
 『彼』だ。

 小夜は、興奮を抑え切れずに、青年に掴みかからんばかりの勢いで話し掛けた。

「あの、『Sweet Honey』の、咲良(さくら)さんですよね?」

 ちら、と小夜を見下ろした青年は、何も答えようとせず、歩き去ろうとする。

「待ってください!
 あたし、『Sweet Honey』の大ファンで、咲良さんの、大ファンで……。
 いつも、咲良さんの曲には救われていて……。
 だから、お会いできて幸せです!」

 一息にそう言ってしまってから、ぽつりと付け加える。

「無事で良かったです、本当に」

 青年は無反応のまま、ポケットに手を入れると、小夜を無視して自動ドアを潜って病院を出ていってしまった。

 残された小夜は、呆然と青年の後ろ姿を見送った。


☆☆☆

 『Sweet Honey』は、男性3人組のロックバンドだ。
 メンバーは中学の同級生で結成され、高校在学中に、メジャーデビューを果たすと、ヒット曲を連発し、メンバー全員がモデル級のビジュアルだったことも相まって、一躍若者のカリスマとなった。
 デビュー当時、メンバーはわずか17歳であった。

 中でも、作詞作曲編曲を手掛けるギターボーカルの『咲良』は天才と称され、バンド成功の立役者といわれた。

 最近は、高い作詞作曲スキルと、唯一無二の声と表現力を武器に、様々な年代のファンを獲得している。
 バンドの売り出しに関わった大人たちは、咲良を天才と呼び、大型新人として、鳴り物入りでメジャーデビューすると、実力を証明するように、デビュー年の新人賞を総なめにした。

 バンドが人気絶頂の最中、ボーカルの咲良が、去年の夏、失踪した。
 当初は、体調不良と発表されていたが、予定されていたツアーが中止になり、バンドの動きが完全にストップした期間が長く続くうちに、ファンの中にも、咲良の異変を疑う声が上がり始めた。
 
 重病説、メンバー不仲説、解散説が、まことしやかに語られるようになった。

 バンドの所属事務所も、メンバーも沈黙を貫いた。
 『Sweet Honey』は活動を完全に停止し、表舞台から姿を消した。

 新曲のリリースを心待ちにするファンのひとりが、小夜だった。
 病気になる前から、小夜は熱狂的な『Sweet Honey』のファンだった。
 とりわけ、ボーカルの咲良に熱を上げていた。
 バンドの顔である咲良は、疑いようのない美形で、高音低音を自在に操る、稀有なボーカリストだった。
 豊かな表現力を持ち、特に情感豊かに歌い上げるバラードは真骨頂で、繊細な芸術作品のようだ。
 心が浄化されるようだと、飽きることなく同じ曲を何百回と繰り返し聴いてきた。
 美しい旋律に表情豊かな歌声。

 いつかライブに行って、直に咲良の歌声を聴いてみたい。
 それが、小夜の夢でもあった。

 小夜の生活を支えていると言っても過言ではないのが、咲良が紡ぐ、心に刺さる歌詞だった。
 無責任に希望を謳うでもなく、そのままの自分でいて良いのだと、寄り添ってくれる、咲良の優しさが表れた歌詞。

 小夜は、自分に自信を持ったことがない。
 「自分なんて」、が口癖で、いつも周りを見ては、劣等感に苛まれていた。

 咲良の歌詞は、そんな自分を肯定してくれる唯一の存在だった。 
 小夜の拠り所だった。

 病気が見つかってからは、更にどっぷりと『Sweet Honey』の曲を聴くようになった。
 まるでそうでもしなければ、自分を保てないとでもいうように。
 治療は過酷を極めたし、死が近付く気配に、筆舌に尽くしがたい恐怖を味わっていた。
 心の支えが必要だった。
 そんな時、諦めてしまいそうな自分を、『大丈夫』と鼓舞し、闇に埋もれそうな小夜に、『生きろ』と活を入れてくれたのが、咲良の歌詞だった。

 咲良の歌詞には、『綺麗事』を感じない。
 常に真剣で、思いやりと優しさに溢れた歌詞は、彼の本気を感じさせ、咲良という人間の本質を反映していた。
 だから、小夜は咲良の言葉を信じられた。
 それはまるで恋のように、咲良の言葉が、すうっと何の抵抗もなく心の奥深くに染み渡っていく。
 間違いなく、小夜は咲良に生かされていた。 
 同時に、画面の向こうの咲良に、本気で恋をしていた。

 高校生にもなって、芸能人に恋するなんて、我ながら痛い。
 でも抑えきれない想いというのも、また確かに存在する。
 今こうして、小夜がまだ何とか生きているのは、希望を捨てるなと声高らかに謳ってくれる咲良がいたからだ。

 咲良が消えた世界で、心にぽっかりと穴を開けたまま、どうやって生きていけばいいのか、小夜の心は羅針盤を失い、途方に暮れていた。

☆☆☆

 『Sweet Honey』のボーカル『咲良』が『桜庭翼』で、ベースの『tetsu』が『山本徹郎(やまもとてつろう)』で、ドラムの『(ひびき)』が『鶴岡響(つるおかひびき)』だということは、ファンならもちろん知っている基礎知識だ。

 だから、間違えるはずがない。
 病院の会計で声を掛けたあの青年が、『咲良』であることに確信を持っていたし、咲良に並々ならぬ想いを抱いている自分が間違えるはずがないのだ。

☆☆☆

 咲良に声を掛けた日から、小夜の頭は、咲良のことしか考えられなくなっていた。
 いつものように、曲を聴いていても、病院で見掛けた咲良の姿を思い出してしまい、結局、曲を集中して聴くことが出来ない。

「これは駄目だ……」

 ヘッドホンを外し、自室のベッドに寝転びながら、小夜はひとり呟いた。

 白と薄ピンクで統一された、こだわりの自分の部屋。
 気に入っているぶんだけ、虚しくなる。
 もうしばらくすれば、このお気に入りの部屋も見ることが叶わなくなる。

 涙がまた、顔をもたげる。

 大好きなものに囲まれれば囲まれるだけ、そこに自分が存在しない未来を思い浮かべてしまい、やるせない暗澹たる気分になる。

 小夜はぎゅっと眼を閉じ、こみ上げるものを封じ込めた。

☆☆☆

 病院で見た咲良──あれは幻覚なのではないかと思い始めたいつもの受診終わり。
 病院前のバス停から、がらがらのバスに乗り込む。
 他人事ながら、採算は取れているのか心配になる。
 通院する人にはお年寄りが多いし、足代わりのバスがなくなっては困るのだろうが。

 一番後ろから、ひとつ手前の、窓側の座席に腰を降ろす。
 カバンからイヤホンを取り出し装着する。
 すぐに『Sweet Honey』の曲が小夜を満たした。
 どの曲も、本当に良い。
 心躍るようなアップテンポな曲も、胸を締め付けるようなバラードも、全てが好みだった。
 家でもずっと聴いているのに、中毒のように、少しでも時間が空くと聴きたくなってしまう。

 家までの20分、現実を忘れて咲良の声に包まれ、その声を堪能する。

 今日は、病院で咲良を見掛けなかった。
 やはり、あれは咲良に心酔する自分が作り上げた幻想だったのだろうか。 
 
 きっと、そうなのだろう。
 咲良に会えるはずがない。
 人違いをしてしまったのだろう。

 ゆっくり走り出したバスの車窓から、何気なく外を見つめる。

──ああ、入学式までまだ間があるのに、気が早い桜が、もう散り始めている。
 
 地球温暖化の影響か、近年は桜の開花も、散りも早い。
 道路の上を舞う薄桃色の花弁を見て、綺麗だなと思う。

 毎年、いつ桜が開花するとか、何故世間が大騒ぎしているのかわからなかったけれど、今なら少しわかる。
 来年の桜を、もう見ることが叶わないのだとわかって見る桜は、切なく美しかった。

 儚い、刹那の人生を送る自分と重ね合わせているのかもしれない。

 桜を見て、こんなに感傷的になるなんて、自分もやっぱり日本人なんだな、と実感する。

 舞う花びらを眼で追いながら、耳に流れ込んでくる咲良の歌声を辿るように、無意識に小さな声で鼻歌を奏でる。

 がらがらの車内では、咎める人は誰も居ないと思っていた。

 自分の世界に入り込んで、2、3曲歌っていると、突然後ろから、がしっと肩を掴まれた。

 驚いてイヤホンを耳から払い除け、振り返ると、一番後ろの席に座っていたのだろう、ニット帽にサングラス、黒マスクの男性が小夜の肩を掴んでいた。

「さ、咲良さん……!?」

 眼を白黒させて驚く小夜の眼前に、咲良がスマホの画面を突き付けてきた。

〈おれのかわりに、うたってくれないか?〉

 急いで打ち込んだのであろう、文面は変換すらされていない。

「俺の代わりにって……」

 突然の咲良の出現に、小夜が戸惑っていると、咲良は更にスマホに文字を打ち込んだ。

〈君の声は、天使の歌声だ〉

 何回か文面を追って、内容を時間を掛けて、咀嚼すると、小夜は途端に恥ずかしくなった。

「天使って、そんな……。
 聴いてたんですか、あたしが歌ってるの」

 咲良が頷く。
 小夜はますます赤面して、顔から火が出る思いだ。

 自分の下手くそな歌を、こともあろうに咲良に聴かれていた。 
 曲を汚してしまった気がして、申し訳なさに俯いてしまいそうになったその瞬間、思い直して小夜が顔を上げる。

「っていうか、やっぱり咲良さんだったんですね!」

 今度は、小夜が眼を輝かせ、咲良をたじろがせる番だった。

 観念したように、咲良がサングラスを外し、特徴的な男性にしては大きなアーモンド形の瞳を小夜に向ける。
 色素の薄い、澄んだ美しい瞳。
 小夜は思わず息を呑んだ。
 声の掛けられ方があまりにも衝撃的だったので、意識に上らなかったが、目の前にいるのは、紛れもなく、憧れの、あの咲良なのだ。
 小夜が恋い焦がれた、あの。
 
 そして、違和感を抱く。
 何故咲良は、他に人がいないバスの中で、わざわざスマホの画面越しに会話をしているんだろう。
 今なら、変装しなくても、咲良だとバレることはないのに。

「あの……」

 戸惑いの眼を向けると、咲良が小夜の隣の席に腰掛け、帽子とマスクを外した。

 『咲良』だった。
 美しい……。
 テレビやライブ映像で見るのと、寸分違わない、小夜が焦がれてやまない咲良だった。

──咲良って、実在したんだ。

 小夜がつやつやで、色白のキメの細かい咲良の肌に眼を奪われていると、咲良は何やら躊躇ったように、スマホの画面の上の、細い指を彷徨わせたあと、意を決したように、画面を叩き始める。

〈声が出ない〉

「えっ?」

 画面を見るなり、小夜は頭を殴られたような衝撃を受ける。 

「声が出ないって……」

 咲良は続けて指を動かす。

〈心因性のものらしい。
 だから、通院している〉

「心因性……。
 ストレスとかが原因ですか?」

 小夜が通院する大学病院には、精神科がある。
 咲良は、そこに通っているのだろう。
 東京とはいえ、郊外のこんな場所にある病院に何故通っているのだろうか。
 芸能人がお忍びで通うほど、腕利きのお医者さんでもいるのだろうか。

『Sweet Honey』は、ファンに何の説明もせずに、活動停止した。
 その理由は、咲良の声が出なくなったからだったのだ。

 納得すると同時に、新たな疑問が思い浮かぶ。

 声が出なくなったことが活動停止の理由なら、そう公表すれば、ファンは心配はするだろうが、変な憶測で誤解を生むこともなかっただろう。

 小夜がそう聞こうとすると、先手を打って咲良がスマホを見せてきた。

〈声が出ないことを、メンバーもスタッフも知らない〉

「……えっ」

〈だから、声のことは誰にも喋らないでほしい〉 

「あ……はい。
 わかりました」

 怪訝に思いながらも、小夜は一応素直に頷く。

 関係者の誰にも告げることなく、咲良は声が出ないことを隠してメンバーやファンの前から姿を消した──つまり、失踪した。

 何故、メンバーにすら、病状を隠すのだろう。
 

 小夜の頭の抽斗は、『Sweet Honey』のことで一杯だ。
 その抽斗から記憶を取り出す。

『Sweet Honey』の楽曲製作やライブの演出などの、バンドのプロデュースは、全て咲良が一手に担っている。 
 天才と言われる咲良と、咲良のあとを必死に追い掛けるメンバーの間に、軋轢があることは、ファンなら皆知るところだ。
 孤高の天才である咲良が見ている世界と、小夜のような凡人が見ている世界は、どうあっても交わらないのだろうと思う。
 だから、咲良は常に孤独を抱えているのではないか、理解してくれる人がいないのではないか──というのが小夜の見解だ。

 もしかしたら、メンバーに弱みを見せることが出来ないのかも知れない。

 これは、小夜のただの憶測に過ぎないし、もし当たっていたら悲しいことこの上ない。
 咲良を理解し、支える存在がそばにいてほしい、というのが、ファンの心理ではないだろうか。

〈ボーカルを探している〉

 そう画面を見せられ、小夜は頭の中の抽斗を閉めて、改めて咲良が声を掛けてきた理由を思い出す。

「ボーカルって……あたしが、ですか?」

 咲良は深く首肯する。

〈声が出なくなっても、音楽は続けたい。
 ストックしてある曲を、君に歌ってほしい。
 君の声は天使のように澄んでいて温かい。
 君みたいな声を、ずっと探してた〉

 まるでプロポーズでも受けたかのように、愛の告白でも受けたかのように、小夜はくすぐったくて、咲良の顔を真っ直ぐ見ることが出来ない。

「そんな……あたしじゃ咲良さんの期待には応えられません。
 あたしなんか選んでも、失敗だったと後悔するだけですよ。
 あたしは、本当に何も出来ない、何の役にも立たない人間ですから……。
 そんな人間だから、神様はあたしに余命宣告したんだろうし」

〈余命宣告?〉

 咲良のメッセージに、小夜は皮肉げに嗤う。

「あたし、余命半年なんです。
 もう、完治の可能性がなくて、お医者さんにも見放されちゃって……。
 死ぬまでにやりたいこととか、成し遂げたいこともなくて、このままずるずると無駄に時間ばかりが過ぎて、それで、あたしの人生は終わりです。
 そんな人間が、咲良さんの曲を歌うなんて、恐れ多くて出来ません」

 またいつもの、『自分なんて』が始まったな、と自覚しつつも、ネガティブな思考は止められない。

 こんなことを、咲良に話してどうなるというのか。
 自分が嫌いですと咲良に伝えて、何と答えてほしいのか、小夜自身にもわからなかった。

〈君の残りの時間を俺にくれないか?〉

 そう文面を見せられた時、何故だか小夜の心は揺らいだ。

 自分に残された最期の時間。
 何をやり切れば、自分は満足に生を終えられるだろう。
 何も果たさなかったと、未練を残さずに済むだろう。

──やってみても良いんじゃないか?

──いや、自分に出来るわけがない。自信がない。
 失敗して、失望されるだけ。
 
 咲良に失望されるなんて、耐えられない。
 親に棄てられるよりも、残酷だ。 

──でも。

 小学校の卒業文集に、将来の夢を何と書いたっけ。

──そう、『歌手になりたい』。

 一番古い記憶の中でも、自分は歌っていた。
 歌うことが好きだった。

 幼稚園のころから、所構わず歌っていた。

 小学生になって、合唱の練習中に、上手いとか下手とかではなくて、旗野さんの声は、みんなの声に埋もれずに、一番響いてくる、綺麗な声ですね、と、声質を先生に褒められた。

 ますます小夜は、歌うことに魅了された。
 自分には、それしかないとも思い始めた。

 今思えば、勘違いした愚か者だとわかるが、当時は、先生の言うことを真に受けて、親にボイストレーニングに行きたいと申し出た。
 小夜がひとりっ子でもあったせいか、両親は快諾してくれた。
 両親だって、まさか娘が本当にプロの歌手になれるだなんて思っていなかっただろう。
 小夜が初めて自分から、やりたいと言ったことを尊重してくれたのだろう。

 ボイストレーニングの先生も、小夜の声質を絶賛してくれた。
 舞い上がった小夜は、自分は特別なんだと思い込んだ。

 中学に入り、小夜は現実に直面した。
 自分より遥かに歌の上手い人など、世間にはごまんといることを知った。
 自分は、どこも『特別』ではなかった。
 すっかり自信を失った小夜は、ボイストレーニングに通うことも辞めてしまった。

『歌手』になれる人は、ギフトを授かった、ほんの一握りの人なのだと、早くも現実の厳しさを知った。
 自分は、その『器』ではない。
 その他大勢の凡人。
 才能とはほど遠い。

 ひとつ諦めると、自分には本当に何もないのだと、あらゆることに真剣に取り組む気力が削がれていった。
 何も特別なものを持たない空っぽな人間。
 やがて小夜は、自分を卑下するようになる。
 『自分なんて』が口癖になる。
 自分に期待なんて持てない。
 『自分なんて』を振りかざして逃げ続けてきた。

──でも。

 やろうがやるまいが、後悔しようが反省しようが、どうせ半年が過ぎるころには、尽きる命なのだ。
 ならば──。 
 
「……本当に、あたしで良いんですか?」

 窺うように、咲良に視線を送る。
 咲良は、美しい造形の顔に希望を浮かべて、力強く頷いた。

 小夜は息を呑む。
 そして、一息に言った。

「やります。素人が、どこまで役に立てるのかは、わかりませんけど」

 予防線を張りつつも、咲良の誘いを受け入れることにした。
 見慣れた咲良の顔に、初めて笑みが浮かんだ。
 つい見惚れてしまう。
 この屈託のない笑顔を作ったのが自分なのだと思うと、冷え切った小夜の心もほぐされていくようだった。

──何より。
 咲良と一緒にいられる。
 画面の向こうの、遠い遠い存在のはずだった咲良が、こんなにも近くに、隣にいて、自分だけを見てくれている。
 下心が働かないわけがない。
 だって、咲良は人生の全てなのだ。
 手の届かない、実在することすら疑うほどの違う世界の住人。
 奇跡のような偶然の出会い。

 咲良に促され、小夜は彼と連絡先を交換した。

 小躍りしたい思いだった。
 あの咲良の、プライベートの連絡先を入手した。
 ファン冥利に尽きる。

──いや、浮かれるな。
 あくまで必要に駆られて、交換しただけだ。
 別に友達になったとか、ましてや恋人になったわけではない。
 咲良が求めているのは、小夜の声に過ぎないのだ。
 しかし、咲良が自分を求めてくれるなど、二度とある機会ではない。
 これをチャンスと捉えると、断る選択は、小夜になかったといえる。

 あとは、小夜が持ち得る表現力が、どこまで咲良を満足させることが出来るかだ。

 歌うことが好きとはいえ、小夜は音楽に関しては全くの素人だ。
 せめて咲良のやりたいことの足を引っ張らないようにしなければいけない。
 責任重大だ。

〈うちに来てほしい〉

 咲良からのメッセージに小夜は眼を見開く。
 
──咲良の、家に行く?

 そんなこと、いちファンに許されることなのだろうか。
 小夜が固まっていると、咲良は追加のメッセージを打ち込む。

〈変なことはしないから、心配しないでほしい。
 うちに録音の機材があるから、レコーディングしたいだけだ〉 

「あ、いえ、心配なんてしていません。
 ただ、ちょっと、急な話にびっくりして」

  小夜は、変な誤解を与えたと、慌てて首を左右にぶんぶんと振る。
 その様子が可笑しかったのか、くす、と咲良が笑う。

〈もし良ければ、明日にでも来てほしい。
 一緒にデモテープを聴いて、録音する曲を決めたいから〉

「録音して、どうするんですか?
 デビューとか、するんですか?
 恥ずかしいから、顔とか出したくないんですけど……」

〈誰の楽曲かは匿名で、動画投稿サイトにアップすることも可能だ。
 顔も名前も出さない。
 評判が良ければ、アルバムを作りたい〉

「アルバム……。
 あたし、そこまで命が持つんでしょうか……」

 咲良が眉を下げる。
 そんな咲良の顔を見たくなくて、小夜は訂正する。

「あ、あたし、頑張りますから。
 出来るところまで全力で頑張ります」

 不安を顔に貼り付けながらも、咲良が頷く。

 ああ、最寄りのバス停を通り過ぎてしまう、と慌てて降車ボタンを押そうとした小夜と、咲良の手が重なる。

「……え?」

 咲良も、驚いた表情をしている。

 小夜が住むマンションの前のバス停だった。

「咲良さんも、ここで降りるんですか?」

 咲良が首肯する。

 不思議な縁だなと思いながら、小夜は咲良とバスを揃って降りる。

〈このマンションに部屋を借りてる。5階〉

 その文面を見て、「ここ!?」と小夜が眼を白黒させる。

「あたしの家も、このマンションなんですけど……」

 咲良も、驚きに眼を瞠る。

〈うちは503号室だ〉

「えっ、あたしのうちは504
です。お隣さんですよ!」

 画面を覗き込みながら小夜が興奮したように声を上げる。
 本当に、不思議な縁があるものだ。
 2人は思わず顔を見合わせた。


☆☆☆

 都内にある所属事務所の応接室にて、社長の熊谷敦士(くまがいあつし)と、『Sweet Honey』のメンバー2人は、気まずい沈黙の中にいた。
 熊谷が社長を務める芸能事務所に所属するのは、鳴かず飛ばずのインディーズとメジャーを行き来するようなバンドばかりだ。
 その中にあって、『Sweet Honey』は、間違いなく事務所の稼ぎ頭で、『Sweet Honey』がいなければ、事務所は立ち行かないといって良い。

 50歳前後の、髭をたくわえた強面の熊谷は、ソファにどっしりと身を沈め、ガラスのローテーブルを挟んだ対面に、『Sweet Honey』の2人、響とtetsuが、居心地悪そうに身じろぎしながら座っていた。

「で、咲良はまだ見つからないのか。
 お前ら、メンバーがどこに行ったのかもわからないのか?」

 2人は陰鬱な表情で黙り込む。
 熊谷の叱責は止まない。

「わかるだろ、プロなんだから、商業的な結果も出してもらわなきゃ困るんだよ。
 ツアーの払い戻しも莫大な損失が出た。
 体調不良でいつまでも誤魔化すことは出来ない。
 お前らに、一体いくらカネを使ったと思ってる。
 やりたくありません、がまかり通る甘い業界じゃないんだよ。
 好きな曲歌っていたいなら、インディーズでやれ。
 とにかく、咲良を探せ。
 見つからないのなら、新しいボーカルを探してバンドを組み直せ」

 熊谷の言葉に、響が顔を上げる。

「うちのボーカルは、咲良しかいません。
 違うボーカルを入れたら、それはもう『Sweet Honey』じゃない。
 それなら俺たちは、解散を選びます」

「だから、それが甘いと言ってるんだ!
 子供じゃないんだ、いつまでも学生気分で、わがままに好き勝手振る舞って、許されると思うな!
 いいから、早く咲良を連れ戻せ!」

 ばん、とテーブルを叩いて、熊谷が激昂する。

 tetsuが心底困惑した声音で、言葉を発する。

「でも、あいつ、どこに行ったのか、本当にわからなくて……。
 家ももぬけの殻だし、スマホも繋がらない。
 俺たちは、待つことしか出来ないと思います」

 熊谷は、虫でも払うかのように手を振ると、「もういい。とにかく咲良を探せ。いいな」と吐き捨てるように言い、応接室を出て行った。

「咲良を信じて待とう」

 響がそう言うと、tetsuは力なく頷いた。


☆☆☆

 咲良と再会を果たした翌日、小夜はマンションの隣の部屋を訪れていた。

 郊外に建つ、家族向けの、お洒落さの欠片もない何の変哲もないマンション。
 咲良の部屋は、家具が少なく、生活感が欠如していた。

 壁際に押しやられた質素なパイプベッド。
 リビングにある背の低い冷蔵庫。
 自炊はしないようで、栄養補助食品の袋がテーブルの周辺に散乱していた。
 不摂生な生活を送っていることが窺える。

 部屋のほとんどを、楽曲製作のための機材が占めている。
 まるでスタジオのようだ。

 咲良が、なけなしのもてなしで、クッションを差し出してきたので、小夜はそこに座った。
 咲良は、ライブ映像のドキュメンタリーで見たような眼鏡姿だった。
 ああ、咲良だ、と今更ながら実感する。

 小夜がにわかに緊張していると、テーブルの物を無造作に薙ぎ払って、ノートパソコンを操作していた咲良が、ヘッドホンを手渡してきたので、装着する。

 パソコンひとつで作ったという、デモテープの曲が流れ始める。
 CDとしてリリースした曲だと言われても、何の遜色もないクオリティの作品だった。
 咲良のボーカルも乗せられていて、小夜が改めて歌う必要があるのかわからないほどの完成度だ。

 何度も何度も、曲を繰り返して聴いた。
 耳を澄ましながら、歌詞を意識しながら、飽きることなく、聴き続けた。
 ミディアムバラードで、女性目線で書かれた歌詞。
 元々、女性ボーカルに歌ってもらおうと作ったものなのだと咲良は説明した。

 やがて、何十回と聴き続けるうちに、小夜は自然と歌詞を口ずさみ始めた。
 メロディが、歌詞が、自分の中に、すうっと入っていき、身体の一部になったようだ。

 『Escape』というタイトルの、恋人との別れを歌った繊細な物語性のある楽曲は、世間から逃げ続ける、今の咲良の心情にも通じている気がした。
 もちろん、咲良のボーカルが入っているのだから、声が出なくなる前、失踪前に作った曲なので、全く関連はないのだろうが。

 数時間かけて、一曲を咀嚼した小夜を、咲良がついたてのように四方を囲った部屋の隅へと促した。

 そこには、マイクスタンドがあり、アーティストのレコーディング風景なんかで見るような、網がついたマイクがセットされていた。

〈レコーディングを始めよう〉

 咲良がスマホを見せる。

「えっ、もうですか?」

〈歌詞は頭に入ってるようだし、声の調子も良さそうだから。
 レコーディングの経験はある?〉

「ないです、ないです!」

〈人前で歌ったことは?〉

「……一応、あります。
 昔、ボイトレに通っていたので……」

 敗北した思いでボイストレーニングの教室を去ったことを思い出し、小夜は苦々しい表情になる。
 しかし、咲良は、小夜のそんな変化など気にせずに、親指を立ててみせた。

〈声の出し方は知ってるんだね。じゃあ、問題ないよ。
 音が洩れないようにしてあるから、大きな声で歌って大丈夫だから〉

 ついたてに囲まれたブースに入ると、お腹に手を当てて、腹式呼吸を意識する。
 ヘッドホンを装着して、眼を閉じ、大きく息をする。
 そして、歌い始めた。

 一曲歌い切って、ヘッドホンを外すと、パソコンから眼を離した咲良が、ぬっと顔を覗かせ、笑顔で拍手した。
 
──上手く歌い切れた。

〈凄く良かったよ。
 やっぱり俺の見立ては間違っていなかった。
 小夜ちゃんは天使の歌声の持ち主だ〉

 咲良の『ちゃん』呼びに、小夜は内心でもだえる。
 昨日、自己紹介をしてから、咲良が小夜を『ちゃん』付けで呼ぶので、もう心臓に悪いことこの上ない。
 加えてこの笑顔だ。
 咲良に飢えていたファンとしては、一日一緒に過ごせるだけで、ほとんど奇跡だ。

 小夜がほっとしたのも束の間、咲良が再びスマホを向けてくる。

〈でも、プロとして見過ごせない点がいくつかある〉

 小夜の目の前で、歌詞をプリントした紙に、咲良が赤ペンを走らせる。
 細かい注意点が書き込まれ、用紙はあっという間に、ダメ出しの赤で埋め尽くされた。
 上手く歌えたと思っていた小夜は、表情を引きつらせた。


☆☆☆

 2日かけて初めてのレコーディングは終了した。
 さすがにプロのアーティストとあって、咲良は妥協という言葉を知らなかった。
 疲労をにじませながら、咲良の部屋を訪ねると、こちらも疲れた顔の咲良が出迎えた。

 リビングへ通され、いつものクッションに座る。
 咲良が、編集したてほやほやの『Escape』を再生させる。
──まるで、自分の声じゃないみたいだ。
 それが、最初の感想だった。
 曲として、完成されている。
 何だか恥ずかしい。
 しかし、清々しい想いもする。
 幼いころに抱いた歌手になりたいという夢への一歩を踏み出した気がした。 
 咲良がパソコンの画面に、何やら動画を流し始める。

「あっこれって、リリックビデオ?」

 頷く咲良の横で、再生される動画に見入ってしまう。

 アーティストの顔を出すことなく、イラストや映像とともに、歌詞をテロップにして前面に押し出し創られるミュージックビデオ。
 歌詞が小夜の歌声とともに流れる。

「もしかしてこれ、徹夜で創ったんですか?」

〈そう。久々に編集してたら、面白くなっちゃって〉 

 眼の下の隈を隠しもせずに微笑んだ咲良は、音楽に対する偏執的なこだわりを内包した天才肌の職人のような顔をしていた。

〈これから、完成した動画を投稿するよ〉

 食い入るようにリリックビデオを観ていた小夜は、にわかに緊張しながら咲良の作業を見守った。
 アーティスト名は、そのまま『小夜』。
 どんな反応が返ってくるのか。
 はたまた何の手応えもなしに終わるのか。
 結果は、誰にも、おそらく咲良にさえ、わからないのだろう。


☆☆☆

 『Escape』の動画は、公開一週間で、50万回再生を記録した。

〈小夜ちゃんの声マジ天使〉
〈綺麗な声。誰が歌ってるのかな?〉
〈早く違う曲も聴いてみたいです〉
〈歌、うますぎ〉

 寄せられたコメントに、小夜は感激し、地を這うレベルだった自己肯定感が、少しだけ浮上した。

〈予想外の反響だな〉

 咲良も感慨深そうに呟いた。
 ふと、コメントを読んでいた咲良の手が止まる。

〈響さんのコメントを見て聴きました!〉
〈tetsuさんが絶賛していたので聴いてみたけど、確かに咲良さんっぽい!〉

「これって……」

 小夜が窺うと、咲良は響とtetsuのSNSを表示した。
 2人のSNSには、『小夜』というアーティストの曲が良かったと、書き込まれていた。
 反響の要因は、この2人の影響力あってのものだったのだ。

「気付いて、いるんですかね?
 咲良さんの曲だって」

 咲良が渋い顔をする。
 気を遣って聞かなかったが、小夜は思い切って尋ねてみた。

「どうして、メンバーの方に、声のこと黙っているんですか?」

〈今まで、ワンマンに振る舞って、あいつらのこと見下した態度を取っていたのに、プレッシャーから声が出なくなりましたなんて、プライドが邪魔して言えない〉

 大方、小夜の予想通りの答えだった。

「でも、メンバーは待っているかもしれませんよ、咲良さんが弱さを見せてくれるところ」

〈どうだかな。とにかく、今は録音することに集中しよう。まだ、一曲録っただけなんだから。先は長いよ〉

☆☆☆

 2曲目以降、デモテープには、歌詞がなく、ららら、と咲良の声が入っているだけの状態だったため、歌いこなす難易度は、格段に増したが、小夜は咲良の創る曲に食らいついて新たな楽曲を生み出し続けていた。

 咲良は、昼も夜もなく楽曲製作に没頭し、ニ週に一曲のペースで曲を投稿するうちに、再生回数はぐんぐん伸び、『小夜』の話題で世間はもちきりだった。
 誰もが小夜の正体を知りたがったし、次々と投稿される小夜の楽曲を待ち焦がれていた。
 
☆☆☆

 そして、越えられないといわれていた夏を越えた。

 小夜は衰弱し、痩せ細り、身体のあちこちが不調を訴えていたが、常に笑顔を絶やさなかった。
 ベッドから起きられない日もあったが、諦めるという言葉は、彼女にはなかった。

 何故そこまで頑張れるのか、咲良は訊いたことがある。
 小夜は、『大好きな咲良さんと一緒にいられるから』と笑顔を見せながら答えた。
 その発言の意味するところが、いちファンとしての言葉なのか、はたまた恋愛感情を含んだ言葉なのか、咲良には判断が付かなかった。
 出会った当初、あれだけ自己肯定感が低かった小夜が、大勢の人に認められ、歌に生きる意味を見出して、こんなに眩しく輝いている。
 心を動かされないほうがおかしかった。
 咲良は、小夜を人として尊敬すると同時に、芽生えてしまった特別な感情に戸惑ってもいた。
 それは、純粋に、恋と呼べるものだった。
 しかし、と咲良の中に感情を押し留める何かが働く。
 確かに、自分は小夜が好きだ。 
 けれど、現実は残酷で、小夜の命の火は、いつ消えてもおかしくない。
 失うとわかっている彼女を愛するということに、咲良は臆病になっていた。
 好きになればなるほど、失ったときのショックは計り知れない。
 心に保険をかけるなら、これ以上小夜を好きになることは危険といえた。

 咲良は、小夜の部屋を自由に訪ねることが許されている。
 小夜の両親に、アーティスト活動をしていることを説明したとき、娘の憧れの人である咲良の登場に、両親は呆気にとられた様子だったが、やりたいことを見つけた小夜を応援してくれ、同時に咲良に深く感謝してくれた。

 小夜は、辛い顔ひとつ見せずに咲良の部屋を訪れ、ありったけの力を込めて歌い続けた。
 傍から見れば、痛々しい姿で、それでも心折れることなく歌と真正面から向き合っていた。

 困難とともに生きる小夜を見ているうちに、咲良は、自分の悩みがいかにちっぽけであるか気付き、メンバーと連絡をとることを決意した。
 声が出なくなったことを素直に報告すると、2人からは、いつまでも待つと、返信があった。
 『小夜』のプロデュースを頑張って、とメッセージが最後に付け加えられていた。
 やはり、2人は小夜の楽曲を創ったのが咲良であることに気付いていたのだ。
 中学生のときから志しをともにした2人の眼を誤魔化すことは到底無理だったのだ。
 小夜にそのことを話すと、まるで自分のことのように喜んで、「ほら、やっぱり大丈夫だったじゃないですか。変な意地を張る必要なかったんですよ」と、してやったりという顔をされた。

 初冬。
 『小夜』の楽曲を纏めた『1st Sayo』と冠されたアルバムが、咲良の自費で製作された。
 全10曲で構成された、バリエーション豊かな一枚に仕上がったと、プロデューサーである咲良は自負している。
 小夜の歌声も、特徴である透き通ったハイトーンボイスから、がなり、シャウトといわれる低音でパンチが効いた歌唱まで、七色の声を駆使して、咲良を感動させた。
 やはり、自分が見込んだ通り、小夜は音楽に愛された歌声の持ち主だった。
 ちょっと勇気を出すだけで、小夜は何者にだってなれたのだ。
 死期が近付いたことで己の才能に気付くなんて、神様は全く残酷なシナリオを用意したものだ。

 自室のベッドで横になりながら、咲良から出来たてのアルバムを手渡された小夜は、ジャケットに咲良直筆のイラストが描かれたCDを大切そうに指で撫でた。
 咲良は、絵を描くことも得意だったな、と小夜は思い出す。
 このアルバムが、小夜の人生の集大成。
 旗野小夜という少女が生きた証。

 咲良が創ったと明かされたわけでも、メジャーレーベルからリリースされたわけでもない『小夜』のファーストアルバムは供給が追い付かないほどの記録的なヒットを飛ばした。
  
 どれだけの人が、小夜の歌声を待ち望んでいたのかが窺える結果に、小夜は心から嬉しそうに笑った。
 今の小夜なら、自分という存在を誇れる。

 小夜の部屋を訪れた咲良は、アルバムヒットの報告をすると、いつも通り微笑んでいる小夜を、たまらず抱きしめた。
 理性では、どうにも出来なかった。
 本能が、小夜を求めている。
 彼女が愛しいと心が叫ぶ。
 咲良に抱きしめられた小夜は、眼を白黒したのち、大きな目にいっぱいの涙を溜めて、咲良の背中に手を回し、強く引き寄せた。

「生きたい……。
 咲良さん、あたし、もっと生きたいよ。
 死にたくない……やっと、やりたいこと見つかったのに……こんなのって、ないよ……」

 小夜は、初めて咲良の前で泣いた。
 生きたい、小夜の内面から、その執念にも似た感情が溢れていた。
 咲良の温かな身体が、小夜
の心を溶かし、身体の奥から涙として溢れさせた。
 伝えたい、と思った。
 自分の声で、ありったけの愛を伝えたいと、もどかしい思いで咲良は思った。
 小夜が生きているうちに、この声が出てほしい。
 そうしたら、小夜への愛も、小夜が愛した自分の歌声も、声高に謳えるのに。

「……泣かないって決めてたのになあ。咲良さんが、ファンサービスするから……」

 充血した眼で、恥ずかしそうに小夜は笑った。


☆☆☆

「配信ライブ?」

 体調が安定した日、咲良の部屋へやってきた小夜は、消え入りそうな声で囁いた。
 
〈顔は出さずに、歌うだけでいいんだ。
 『小夜』のライブを望む声が、たくさん寄せられてる。
 ……どうかな、出来そう?〉

 もはや、小夜の存在は、世間の最大の関心事と言って良かった。
 小夜の歌声は、日本中の人々の胸に届いている。
 その歌声に魅せられた人々が、ライブをしてほしいと望むのは、当然の帰結であった。
 正直、身体は限界だった。
 しかし、小夜は笑って言った。 

「もちろん、やります。
 あたしを待ってくれてる人がいるなら、あたしは歌います」

〈わかった。じゃあ、調整に入るね。無理はしなくていいから〉

 咲良の気遣いに、小夜は嬉しそうに頷いた。


☆☆☆

 小夜が救急搬送されたのは、配信ライブの予定が決まったその深夜のことだった。
 病室には、咲良の同席も認められた。
 小夜は眼を閉じ、酸素マスクの下で、苦しそうに呼吸を繰り返していた。

 小夜の両親が、身を寄せ合って、不安げに部屋の隅で涙を流す中、ベッドに横たわる小夜の手を、咲良は祈るように握っていた。

「桜……見たかったな……」

 くぐもった声で、小夜が言葉を発した。

 不幸のどん底の中で見た、美しく舞い散る花びら。
 儚く、切ない、あの。

 小夜は宣告された余命半年を、気力だけで跳ね除け、生き甲斐を得て冬まで生きた。


 小夜、生きろ、来年も、桜を見るんだろ──。

 声が出ない。
 彼女に伝えたい言葉はたくさんあるのに。
 好きな人に、『好き』の二文字が、伝えられない。
 肝心なときに、どうして自分はこんなにも不甲斐ないんだ。
 ぎゅ、と小夜の骨ばった手を握りしめる。
 少しだけ顔を咲良に向けて、小夜が微笑む。

──どうしてこんなときまで笑えるんだ。
 もう、強がる必要はないのに。

「大丈夫ですよ、咲良さん」

 咲良が握った手を持ち上げ、小夜は慈しむように咲良の髪を撫でる。

「大丈夫です、咲良さんなら」

 その言葉を最期に、小夜の眼が閉じる。

──小夜、小夜、待て、行くなっ!

 心停止を告げる無情な音が病室に鳴り響く。
 小夜の両親の嗚咽が狭い病室にひときわ大きく反響した。

「あ、いしてる」

 咲良の喉から、詰まりながらも声が、言葉として形になる。

──愛してる。

 伝えたいのに、もう届かないのに、今更咲良は声を取り戻した。

「愛してる、愛してる」

 突っ伏して、そう繰り返すと、閉じられた小夜の瞳から、涙が一筋頬を滑り落ちた。

 旗野小夜との別れだった。

☆☆☆

 イヤホンを耳に突っ込み、小夜の歌声を聴いていた咲良の肩を、スタッフが叩いた。

「本番5分前です」

 頷き、イヤホンを外す。

 ステージ脇で待っていた響とtetsuと、スタッフで円陣を組んで気勢を上げる。

「ツアーラストだ、今日も飛ばして行くぞ!」

 咲良の声に「おー!」と声を合わせたメンバーとスタッフは、やる気にみなぎった顔で持ち場に散っていく。

 ステージ脇に置かれたイヤホンに視線を向けると、咲良は呟いた。

「行ってくるな、小夜」

 そう告げると、咲良は『Sweet Honey』ドームツアーファイナルのステージに向けて歩き出した。