死ぬとはどういう事なのだろうか。
魂が肉体から抜ける。意識がなくなる。何も感じなくなる。感覚がなくなる。
冷たくなる。存在がなくなる。見えない、聞こえない、動けない、何もできない。
結論、消えるのだ。
この世から、この体から、これからの未来から。
それが、死ぬということ。消えると言うこと。
_________
______
すこしずつ暖かさが町を包んでいく春の朝、家を出る。
タオルよし、時計よし、ポジションよし。
僕はぐっと顎を上げて、走り出した。
もうすぐ春の大会がある。
陸上部に所属する僕・優真は長距離走に出場することになっていた。
今回の大会は優真にとって初の大会だった。先輩達と一緒に走る、最後のチャンスでもあった。
僕は陸上部の長距離の中でもタイムが遅い。
だから、今まで以上に朝の自主練に力を入れていた。
近くにある丘を利用して、いつも僕は走る。
丘の頂上まで行くと、タイミングが良ければ綺麗な朝陽に包まれる町が見れるのだ。
(今日はタイミングピッタリだ)
少しずつ、頂上に一本だけある桜の木が見えてきた。
太陽の光をうけて、つぼみ一つ一つが丁寧に光で洗われていく。
頂上に登り、ある程度息が上がっている僕は、目の前の光景に息を止めた。
確かに景色は綺麗だった。でも、それだけじゃなかった。
一人の女性が立っていた。
長い髪をなびかせて、真っ直ぐ町を見つめる女性。
彼女の澄んだ瞳が、輝く町を写していた。
見とれるのもつかの間、僕は練習の最中だと思い出す。再開しようと試みるも、彼女が道を遮っていた。
声を掛ければ良いものを。でも、声を掛けられないような雰囲気を彼女は纏っていた。
立ちすくむ僕にやっと気付いたのか、彼女がこちらに視線を動かす。
ばっちり視線があった僕らは、気まずさで一瞬固まってしまった。
「あー....えっと、おはようございます」
取り敢えず挨拶だ。小さく頭を下げる。
すると彼女は驚いたように目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑んだ。
「おはよう」
そこで会話はストップだった。でも何故だか気まずさは無くなっていた。
「綺麗ですね」
町を見下ろして、僕は言った。
そしたら彼女がまた驚いたので、慌てて「景色が」と付け加えた。
「確かに...まるで、町が光に沈んでくみたい」
僕がいままで思い付かなかった表現。僕はパッと町へ目を向ける。
今まで当たり前に見ていた町が、新しい空気を纏って見えた。
それからじっと、言葉を交わすことなく、ただ町を眺めた。
そろそろ学校だから、と僕は静かに頂上を降りた。
振り替えったら、まだ彼女は町を見ていた。
次の日も、僕は頂上へ来ていた。
そこにやっぱり彼女は居て、今度はすぐに僕に気づく。
「おはようございます」
「おはよう」
朝日に包まれた僕らは、町を見る。
「君は、走るのが好きなの?」
突然の質問に、僕は少し驚く。
「...はい、好きです」
僕は時計を無意識に後ろに隠した。
タイマーに写された数字は、お世辞にも早いとは言えないだろう。
そっか、と彼女は笑って、僕のジャージの名札を見る。
「君は、優真くん?」
「はい、そうです」
「いい名前」
彼女は、優真くん、と口の中で繰り返した。
ちょっと気恥ずかしくて、うつむく。
それを隠すために、僕は聞き返した。
「あなたの名前は..?」
彼女は首をかしげて、
「えっと、なんだっけ」
今度は僕が首をかしげる番だった。いや、失礼だから心の中だけにするけど。
「えーっと、そうだ、私の名前は、"ツボミ"」
暖かい声だった。
大切に大切に、それは音になっていた。
「ツボミ、さん」
うん、と彼女は...ツボミさんは笑う。
時間が来た僕は、また走り出す。
またね、とツボミさんが手を振ってくれた。
それから僕は毎朝ツボミさんと会うようになった。
他愛もない話をして、笑って、そしてただ静かに町を眺めた。
そして、空が淡い青色に染まる頃、僕は日常へと帰る。
「平野、最近調子がさらに悪いぞ」
部活終わり、顧問の原先生に止められた。
何かと思えば、この話。少し想像はついていたけれど。
「部活はしっかり参加しているようだが…朝と夜の自主練、ちゃんとやってるか?」
ふとツボミさんの顔が頭をよぎる。
最近、朝はツボミさんとの時間を優先してしまっていた。
「お前、大会いつか知ってるか?」
そんなの、見なくたってわかる。
ほとんど無意識に言葉が舌にのった。
「明後日です」
わかってるなら、と先生はため息をつく。
「俺は本気でお前を選んだ。なのにお前が本気じゃないなら、今からでも出場は取り消す」
えっ、と短く声が漏れる。
「とにかく、本番は近い。全力の姿勢を見せろ」
「…はい」
ただただ、心の中にやるせない気持ちが広がった。
今日もやっぱり走って丘まで行くけれど、いつもより足が重く感じた。
今すぐにでも歩きたかった。走ることに意味がない気がした。
それでも、一刻も早く彼女の所に行きたいという気持ちがあったから、僕は足を緩めず走り続けた。
でもそこに彼女はまだいなくて、僕は額の汗をゆっくりと拭う。
暖かい風がふいて、
「おはよう」
ツボミさんが、目の前に現れた。
まるで、ずっと前からそこにいたように。
寂しそうに笑う顔が、朝日で優しく光っていた。
「おはようございます」
いつも通り言ったはずなのに、ツボミさんが首を傾げた。
「優真くん、今日は元気ない?」
「…え、いや…」
すっと目を逸らせば、朝日が視界いっぱいに広がる。
ツボミさんが、町を眺めながら言った。
「話、聴くよ」
視線をツボミさんに戻すと、視線がぶつかった。
澄んだ綺麗な瞳が僕を見つめていて、その瞳に負けて僕は全部話した。
部活のこと。大会のこと。先生に言われたこと。
陸上が、好きじゃないかもしれないこと。
頷きながら聞いてくれたツボミさんは、閉じていた目をゆっくりと開いた。
すると、桜の木に近づき、手を当てる。
「例え話だけどね。桜の蕾は、春に咲くでしょう?」
突然桜の話になって、僕は驚きつつ頷く。
「夏も秋も冬も咲かない。でも、その時期は、じっとじっと、力をためている時期なんだよ」
手を桜に当てたまま、ツボミさんが僕を振り返る。
「優真くんも、今はじっと力をためてる時期なんだよ。ゆっくり、じっくり力をためたら、いつか絶対に君のつぼみが花開く。桜と同じようにね」
さあ、と風が吹き抜ける。
僕の前髪が風に煽られて、涼しい風が顔を撫でた。
「まぁ、こんな事しか言えないけどね」
ツボミさんはそう笑って、それから大きく目を見開く。
大丈夫!?と言いながら慌てて僕に近寄ってきた。
涙が頬を流れて、視界をぼやけさせた。
自分の涙が、太陽で輝いて見える。
消えかけていた炎が、もう一度勢いを取り戻したように、僕の心がじわじわと熱くなる。
ツボミさんがハンカチを僕の顔に当てた。
あぁ、と僕は想う。自覚する。
好きだと。どうしよもなく、僕はツボミさんを好きになってしまった。
ついに大会当日になった。
不安もあるけど、頑張りたいという志が胸の中で燃えていた。
行く前に、と思い、僕は丘へ向かう。
いつもより早い時間、まだ町は薄暗かった。
ツボミさんは丘にいて、町を見ていた。
足早に近づき、挨拶を交わす。
どちらともなく視線を町へ動かす。
薄く青藍色に染まった町は、幻想的で新鮮だった。
ツボミさんの瞳にその青が写って、綺麗に煌めいている。
「好きです」
その言葉は、自然に溢れてきた。
ツボミさんは自然に笑う。
「うん。この群青色の町も、すごく素敵__」
「違います。ツボミさんが、好きです」
この言葉を言うために今日は早く来た。
伝えたかった。
凛として、綺麗で透き通った瞳。
きめ細やかな肌。
艷やかな黒い髪。
不安で覆い尽くされた僕の心に光をくれる優しさ。
真っ直ぐな言葉、綺麗な言葉遣い。
全部、全部が僕にとっての特別だった。
突然にツボミさんの顔が、苦しそうにギュッと歪む。
すると、ポロポロ涙を流し始め、その場に崩れた。
「ツボミさんっ!?」
______
_________
もう誰とも関われないと思っていた。
誰も私を覚えていないと思った。
みんなの心の中で、私は確実に死んでいると思っていた。
君は私が見えていた。
話しかけて、笑いかけて、隣りにいてくれた。
私の孤独で冷え切った心は、じんわりとした暖かさで溶かされた。
でも、いつか私は君からも消えてしまう。
君と心を通わせすぎない方がいい。
君との別れを辛いものにしたくない。
でも、
もう、遅かった
_________
______
落ち着いたのか、ツボミさんが顔を上げた。
視線が交わり、その瞳の中に、強い孤独と決意が混じっているように見えた。
「私__もうすぐ、君の記憶から消えるの」
突然の告白に、僕は理解が追いつかないでいる。
「え?」
そんな思考がだだもれで、思わず口に出てしまった。慌てて口を閉じる。
「信じられないかもしれないけどね、私、未知の謎の病気にかかったんだよ」
ゆっくり、ツボミさんは話し始めた。
「かかったって分かったのは、一年前。友達、職場の人、近所の人、そういった身近な人達が、私のことが見えてない、私のことを知らないような感じで行動しはじめて、さすがにおかしいな、って、病院に行った」
理解できない。なら、理解できるまで聞けばいい。
静かに耳を傾ける。
「そしたら、未知の病気にかかってますって。世界中探しても事例が数件しかない、特殊な病気だった。私もその時まで知らなかったよ。___”次々と周りの人の記憶から自分が消えてしまい、そして自分の姿も認識されなくなる”って病気。名前もないんだ」
だんだんと、ツボミさんが言わんとしていることがわかってきた。
バクバクと心臓が暴れている。
「それから、自分を粗末に扱った。もしかしたら誰か私を見つけてくれるかもしれないって想って、道路に飛び出したこともあった。大声で叫んだこともあった。でも、誰も気づかない。誰も私を認識しない。私、透明人間になっちゃったんだなって思った。」
ただ一人で残される世界。想像してみた。
自分は見えるのに。自分は聞こえるのに。相手には、聞こえも見えもしない。
ましてや自分の存在を忘れられるなんて、苦しいじゃ表せないような日々だろう。
震えるツボミさんの手に、思わず自分の手を重ねた。
「それからは、一人でぼーっとすごすようになった。暇だったから、ずっと考え事してた」
一息ついて、小さく言った。
「死ぬって事について」
ドクンと心臓がひときわ大きく跳ねる。
「死ぬってことは、声が伝わらなくなる。みんなの前から消える。存在がなくなる。みんなから認識されなくなる。みんなの記憶からだんだん消えていく。そういうことだと思った。死ぬって、消えるってことなんだって。じゃぁ、私はもう死んでるのかな。幽霊なのかなって、やる気も何もなかった」
彼女が立ち上がる。
僕も一緒に立ち上がって、手を取った。
「でも、そしたら君が声をかけてくれた。まだ死んでないんだなって、嬉しかった。それから、毎日が楽しかった。朝が待ち遠しかった。」
空は夜明け色へと変わっていた。
「でも、同時に、また私が死ぬまでのカウントダウンが始まった。君の記憶から、君の世界から消えるまでのカウントダウンが。」
彼女の手の震えが大きくなり、強く強く握りしめる。
「近くなりすぎないほうがいいって、ずっと分かってた。君との別れが辛くなる。君ともっと時間を共有したくなる。でも、」
また彼女の目から涙が溢れてくる。
「君が普通に接してくれて、君が話しかけてくれて、君が優しくしてくれて、私は、もう君と離れたくなかった」
僕まで涙が溢れて、でもくっと唇を噛んで嗚咽を止める。
「昨日、君は私が声をかけるまで、私が見えてなかったでしょう?…今日なんだ。私が君から消える日」
「嫌だ」
ついに嗚咽混じりに声を出す。
「嫌だ…これからも、一緒にいたい。話したい。触れていたい。笑っていたい。声を聴きたい。話を聴きたい。僕は、まだまだ弱い_」
「大丈夫」
彼女の姿が、だんだんと赤みを帯びていく太陽に淡く光る。輪郭がぼやけていく。
「私は忘れないよ。だから、大丈夫。またいつか、どこかで会えるよ。会えないって思うより、そう考えよう」
気づけば泣いているのは僕の方で、彼女は僕を励ましている。
僕が泣くのは違うのに。
彼女はこれからも、一人孤独で、何日も何年も過ごさなければならないのだろう。
「今日って、大会だよね。きっと優真くんの努力が、花開くときだよ。君は十分もう強いんだから」
だんだん、なんで泣いているかわからなくなる。でも涙は止まらなかった。
心の奥が、苦しい。
女性は優しく微笑んで、小さく手を振った。
「またね、優真くん」
さぁ、と風が僕の間を通り抜け、反射的に目を強く閉じる。
片手にほのかな温もりを残し、僕は一人立ちすくんでいた。
崩れ落ちていくように、何かが僕の頭の中から消えていく。
誰かの笑顔、誰かの声。リセットボタンを押したかのように、何かが抜け落ちた穴だけを残して、記憶はこぼれていった。
足が震え、今にも座ってしまいそうになったが、導かれるようにして桜の木へ向かう。
蕾が陽に包まれ、大きく膨らんでいた。
そっと樹に手を当てる。
自然と言葉が舞い込んできて、僕は口に出す。
__君は大丈夫
「もうすぐ、花開く」
魂が肉体から抜ける。意識がなくなる。何も感じなくなる。感覚がなくなる。
冷たくなる。存在がなくなる。見えない、聞こえない、動けない、何もできない。
結論、消えるのだ。
この世から、この体から、これからの未来から。
それが、死ぬということ。消えると言うこと。
_________
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すこしずつ暖かさが町を包んでいく春の朝、家を出る。
タオルよし、時計よし、ポジションよし。
僕はぐっと顎を上げて、走り出した。
もうすぐ春の大会がある。
陸上部に所属する僕・優真は長距離走に出場することになっていた。
今回の大会は優真にとって初の大会だった。先輩達と一緒に走る、最後のチャンスでもあった。
僕は陸上部の長距離の中でもタイムが遅い。
だから、今まで以上に朝の自主練に力を入れていた。
近くにある丘を利用して、いつも僕は走る。
丘の頂上まで行くと、タイミングが良ければ綺麗な朝陽に包まれる町が見れるのだ。
(今日はタイミングピッタリだ)
少しずつ、頂上に一本だけある桜の木が見えてきた。
太陽の光をうけて、つぼみ一つ一つが丁寧に光で洗われていく。
頂上に登り、ある程度息が上がっている僕は、目の前の光景に息を止めた。
確かに景色は綺麗だった。でも、それだけじゃなかった。
一人の女性が立っていた。
長い髪をなびかせて、真っ直ぐ町を見つめる女性。
彼女の澄んだ瞳が、輝く町を写していた。
見とれるのもつかの間、僕は練習の最中だと思い出す。再開しようと試みるも、彼女が道を遮っていた。
声を掛ければ良いものを。でも、声を掛けられないような雰囲気を彼女は纏っていた。
立ちすくむ僕にやっと気付いたのか、彼女がこちらに視線を動かす。
ばっちり視線があった僕らは、気まずさで一瞬固まってしまった。
「あー....えっと、おはようございます」
取り敢えず挨拶だ。小さく頭を下げる。
すると彼女は驚いたように目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑んだ。
「おはよう」
そこで会話はストップだった。でも何故だか気まずさは無くなっていた。
「綺麗ですね」
町を見下ろして、僕は言った。
そしたら彼女がまた驚いたので、慌てて「景色が」と付け加えた。
「確かに...まるで、町が光に沈んでくみたい」
僕がいままで思い付かなかった表現。僕はパッと町へ目を向ける。
今まで当たり前に見ていた町が、新しい空気を纏って見えた。
それからじっと、言葉を交わすことなく、ただ町を眺めた。
そろそろ学校だから、と僕は静かに頂上を降りた。
振り替えったら、まだ彼女は町を見ていた。
次の日も、僕は頂上へ来ていた。
そこにやっぱり彼女は居て、今度はすぐに僕に気づく。
「おはようございます」
「おはよう」
朝日に包まれた僕らは、町を見る。
「君は、走るのが好きなの?」
突然の質問に、僕は少し驚く。
「...はい、好きです」
僕は時計を無意識に後ろに隠した。
タイマーに写された数字は、お世辞にも早いとは言えないだろう。
そっか、と彼女は笑って、僕のジャージの名札を見る。
「君は、優真くん?」
「はい、そうです」
「いい名前」
彼女は、優真くん、と口の中で繰り返した。
ちょっと気恥ずかしくて、うつむく。
それを隠すために、僕は聞き返した。
「あなたの名前は..?」
彼女は首をかしげて、
「えっと、なんだっけ」
今度は僕が首をかしげる番だった。いや、失礼だから心の中だけにするけど。
「えーっと、そうだ、私の名前は、"ツボミ"」
暖かい声だった。
大切に大切に、それは音になっていた。
「ツボミ、さん」
うん、と彼女は...ツボミさんは笑う。
時間が来た僕は、また走り出す。
またね、とツボミさんが手を振ってくれた。
それから僕は毎朝ツボミさんと会うようになった。
他愛もない話をして、笑って、そしてただ静かに町を眺めた。
そして、空が淡い青色に染まる頃、僕は日常へと帰る。
「平野、最近調子がさらに悪いぞ」
部活終わり、顧問の原先生に止められた。
何かと思えば、この話。少し想像はついていたけれど。
「部活はしっかり参加しているようだが…朝と夜の自主練、ちゃんとやってるか?」
ふとツボミさんの顔が頭をよぎる。
最近、朝はツボミさんとの時間を優先してしまっていた。
「お前、大会いつか知ってるか?」
そんなの、見なくたってわかる。
ほとんど無意識に言葉が舌にのった。
「明後日です」
わかってるなら、と先生はため息をつく。
「俺は本気でお前を選んだ。なのにお前が本気じゃないなら、今からでも出場は取り消す」
えっ、と短く声が漏れる。
「とにかく、本番は近い。全力の姿勢を見せろ」
「…はい」
ただただ、心の中にやるせない気持ちが広がった。
今日もやっぱり走って丘まで行くけれど、いつもより足が重く感じた。
今すぐにでも歩きたかった。走ることに意味がない気がした。
それでも、一刻も早く彼女の所に行きたいという気持ちがあったから、僕は足を緩めず走り続けた。
でもそこに彼女はまだいなくて、僕は額の汗をゆっくりと拭う。
暖かい風がふいて、
「おはよう」
ツボミさんが、目の前に現れた。
まるで、ずっと前からそこにいたように。
寂しそうに笑う顔が、朝日で優しく光っていた。
「おはようございます」
いつも通り言ったはずなのに、ツボミさんが首を傾げた。
「優真くん、今日は元気ない?」
「…え、いや…」
すっと目を逸らせば、朝日が視界いっぱいに広がる。
ツボミさんが、町を眺めながら言った。
「話、聴くよ」
視線をツボミさんに戻すと、視線がぶつかった。
澄んだ綺麗な瞳が僕を見つめていて、その瞳に負けて僕は全部話した。
部活のこと。大会のこと。先生に言われたこと。
陸上が、好きじゃないかもしれないこと。
頷きながら聞いてくれたツボミさんは、閉じていた目をゆっくりと開いた。
すると、桜の木に近づき、手を当てる。
「例え話だけどね。桜の蕾は、春に咲くでしょう?」
突然桜の話になって、僕は驚きつつ頷く。
「夏も秋も冬も咲かない。でも、その時期は、じっとじっと、力をためている時期なんだよ」
手を桜に当てたまま、ツボミさんが僕を振り返る。
「優真くんも、今はじっと力をためてる時期なんだよ。ゆっくり、じっくり力をためたら、いつか絶対に君のつぼみが花開く。桜と同じようにね」
さあ、と風が吹き抜ける。
僕の前髪が風に煽られて、涼しい風が顔を撫でた。
「まぁ、こんな事しか言えないけどね」
ツボミさんはそう笑って、それから大きく目を見開く。
大丈夫!?と言いながら慌てて僕に近寄ってきた。
涙が頬を流れて、視界をぼやけさせた。
自分の涙が、太陽で輝いて見える。
消えかけていた炎が、もう一度勢いを取り戻したように、僕の心がじわじわと熱くなる。
ツボミさんがハンカチを僕の顔に当てた。
あぁ、と僕は想う。自覚する。
好きだと。どうしよもなく、僕はツボミさんを好きになってしまった。
ついに大会当日になった。
不安もあるけど、頑張りたいという志が胸の中で燃えていた。
行く前に、と思い、僕は丘へ向かう。
いつもより早い時間、まだ町は薄暗かった。
ツボミさんは丘にいて、町を見ていた。
足早に近づき、挨拶を交わす。
どちらともなく視線を町へ動かす。
薄く青藍色に染まった町は、幻想的で新鮮だった。
ツボミさんの瞳にその青が写って、綺麗に煌めいている。
「好きです」
その言葉は、自然に溢れてきた。
ツボミさんは自然に笑う。
「うん。この群青色の町も、すごく素敵__」
「違います。ツボミさんが、好きです」
この言葉を言うために今日は早く来た。
伝えたかった。
凛として、綺麗で透き通った瞳。
きめ細やかな肌。
艷やかな黒い髪。
不安で覆い尽くされた僕の心に光をくれる優しさ。
真っ直ぐな言葉、綺麗な言葉遣い。
全部、全部が僕にとっての特別だった。
突然にツボミさんの顔が、苦しそうにギュッと歪む。
すると、ポロポロ涙を流し始め、その場に崩れた。
「ツボミさんっ!?」
______
_________
もう誰とも関われないと思っていた。
誰も私を覚えていないと思った。
みんなの心の中で、私は確実に死んでいると思っていた。
君は私が見えていた。
話しかけて、笑いかけて、隣りにいてくれた。
私の孤独で冷え切った心は、じんわりとした暖かさで溶かされた。
でも、いつか私は君からも消えてしまう。
君と心を通わせすぎない方がいい。
君との別れを辛いものにしたくない。
でも、
もう、遅かった
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落ち着いたのか、ツボミさんが顔を上げた。
視線が交わり、その瞳の中に、強い孤独と決意が混じっているように見えた。
「私__もうすぐ、君の記憶から消えるの」
突然の告白に、僕は理解が追いつかないでいる。
「え?」
そんな思考がだだもれで、思わず口に出てしまった。慌てて口を閉じる。
「信じられないかもしれないけどね、私、未知の謎の病気にかかったんだよ」
ゆっくり、ツボミさんは話し始めた。
「かかったって分かったのは、一年前。友達、職場の人、近所の人、そういった身近な人達が、私のことが見えてない、私のことを知らないような感じで行動しはじめて、さすがにおかしいな、って、病院に行った」
理解できない。なら、理解できるまで聞けばいい。
静かに耳を傾ける。
「そしたら、未知の病気にかかってますって。世界中探しても事例が数件しかない、特殊な病気だった。私もその時まで知らなかったよ。___”次々と周りの人の記憶から自分が消えてしまい、そして自分の姿も認識されなくなる”って病気。名前もないんだ」
だんだんと、ツボミさんが言わんとしていることがわかってきた。
バクバクと心臓が暴れている。
「それから、自分を粗末に扱った。もしかしたら誰か私を見つけてくれるかもしれないって想って、道路に飛び出したこともあった。大声で叫んだこともあった。でも、誰も気づかない。誰も私を認識しない。私、透明人間になっちゃったんだなって思った。」
ただ一人で残される世界。想像してみた。
自分は見えるのに。自分は聞こえるのに。相手には、聞こえも見えもしない。
ましてや自分の存在を忘れられるなんて、苦しいじゃ表せないような日々だろう。
震えるツボミさんの手に、思わず自分の手を重ねた。
「それからは、一人でぼーっとすごすようになった。暇だったから、ずっと考え事してた」
一息ついて、小さく言った。
「死ぬって事について」
ドクンと心臓がひときわ大きく跳ねる。
「死ぬってことは、声が伝わらなくなる。みんなの前から消える。存在がなくなる。みんなから認識されなくなる。みんなの記憶からだんだん消えていく。そういうことだと思った。死ぬって、消えるってことなんだって。じゃぁ、私はもう死んでるのかな。幽霊なのかなって、やる気も何もなかった」
彼女が立ち上がる。
僕も一緒に立ち上がって、手を取った。
「でも、そしたら君が声をかけてくれた。まだ死んでないんだなって、嬉しかった。それから、毎日が楽しかった。朝が待ち遠しかった。」
空は夜明け色へと変わっていた。
「でも、同時に、また私が死ぬまでのカウントダウンが始まった。君の記憶から、君の世界から消えるまでのカウントダウンが。」
彼女の手の震えが大きくなり、強く強く握りしめる。
「近くなりすぎないほうがいいって、ずっと分かってた。君との別れが辛くなる。君ともっと時間を共有したくなる。でも、」
また彼女の目から涙が溢れてくる。
「君が普通に接してくれて、君が話しかけてくれて、君が優しくしてくれて、私は、もう君と離れたくなかった」
僕まで涙が溢れて、でもくっと唇を噛んで嗚咽を止める。
「昨日、君は私が声をかけるまで、私が見えてなかったでしょう?…今日なんだ。私が君から消える日」
「嫌だ」
ついに嗚咽混じりに声を出す。
「嫌だ…これからも、一緒にいたい。話したい。触れていたい。笑っていたい。声を聴きたい。話を聴きたい。僕は、まだまだ弱い_」
「大丈夫」
彼女の姿が、だんだんと赤みを帯びていく太陽に淡く光る。輪郭がぼやけていく。
「私は忘れないよ。だから、大丈夫。またいつか、どこかで会えるよ。会えないって思うより、そう考えよう」
気づけば泣いているのは僕の方で、彼女は僕を励ましている。
僕が泣くのは違うのに。
彼女はこれからも、一人孤独で、何日も何年も過ごさなければならないのだろう。
「今日って、大会だよね。きっと優真くんの努力が、花開くときだよ。君は十分もう強いんだから」
だんだん、なんで泣いているかわからなくなる。でも涙は止まらなかった。
心の奥が、苦しい。
女性は優しく微笑んで、小さく手を振った。
「またね、優真くん」
さぁ、と風が僕の間を通り抜け、反射的に目を強く閉じる。
片手にほのかな温もりを残し、僕は一人立ちすくんでいた。
崩れ落ちていくように、何かが僕の頭の中から消えていく。
誰かの笑顔、誰かの声。リセットボタンを押したかのように、何かが抜け落ちた穴だけを残して、記憶はこぼれていった。
足が震え、今にも座ってしまいそうになったが、導かれるようにして桜の木へ向かう。
蕾が陽に包まれ、大きく膨らんでいた。
そっと樹に手を当てる。
自然と言葉が舞い込んできて、僕は口に出す。
__君は大丈夫
「もうすぐ、花開く」