死ぬとはどういう事なのだろうか。


魂が肉体から抜ける。意識がなくなる。何も感じなくなる。感覚がなくなる。


冷たくなる。存在がなくなる。見えない、聞こえない、動けない、何もできない。


結論、消えるのだ。


この世から、この体から、これからの未来から。


それが、死ぬということ。消えると言うこと。


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すこしずつ暖かさが町を包んでいく春の朝、家を出る。


タオルよし、時計よし、ポジションよし。


僕はぐっと顎を上げて、走り出した。



もうすぐ春の大会がある。


陸上部に所属する僕・優真(ゆうま)は長距離走に出場することになっていた。


今回の大会は優真にとって初の大会だった。先輩達と一緒に走る、最後のチャンスでもあった。


僕は陸上部の長距離の中でもタイムが遅い。


だから、今まで以上に朝の自主練に力を入れていた。



近くにある丘を利用して、いつも僕は走る。


丘の頂上まで行くと、タイミングが良ければ綺麗な朝陽に包まれる町が見れるのだ。


(今日はタイミングピッタリだ)


少しずつ、頂上に一本だけある桜の木が見えてきた。


太陽の光をうけて、つぼみ一つ一つが丁寧に光で洗われていく。


頂上に登り、ある程度息が上がっている僕は、目の前の光景に息を止めた。


確かに景色は綺麗だった。でも、それだけじゃなかった。


一人の女性が立っていた。


長い髪をなびかせて、真っ直ぐ町を見つめる女性。


彼女の澄んだ瞳が、輝く町を写していた。


見とれるのもつかの間、僕は練習の最中だと思い出す。再開しようと試みるも、彼女が道を遮っていた。


声を掛ければ良いものを。でも、声を掛けられないような雰囲気を彼女は纏っていた。


立ちすくむ僕にやっと気付いたのか、彼女がこちらに視線を動かす。


ばっちり視線があった僕らは、気まずさで一瞬固まってしまった。


「あー....えっと、おはようございます」


取り敢えず挨拶だ。小さく頭を下げる。


すると彼女は驚いたように目を見開き、それから泣きそうな顔で微笑んだ。


「おはよう」


そこで会話はストップだった。でも何故だか気まずさは無くなっていた。


「綺麗ですね」


町を見下ろして、僕は言った。


そしたら彼女がまた驚いたので、慌てて「景色が」と付け加えた。


「確かに...まるで、町が光に沈んでくみたい」


僕がいままで思い付かなかった表現。僕はパッと町へ目を向ける。


今まで当たり前に見ていた町が、新しい空気を纏って見えた。


それからじっと、言葉を交わすことなく、ただ町を眺めた。


そろそろ学校だから、と僕は静かに頂上を降りた。


振り替えったら、まだ彼女は町を見ていた。




次の日も、僕は頂上へ来ていた。


そこにやっぱり彼女は居て、今度はすぐに僕に気づく。


「おはようございます」


「おはよう」


朝日に包まれた僕らは、町を見る。


「君は、走るのが好きなの?」


突然の質問に、僕は少し驚く。


「...はい、好きです」


僕は時計を無意識に後ろに隠した。


タイマーに写された数字は、お世辞にも早いとは言えないだろう。


そっか、と彼女は笑って、僕のジャージの名札を見る。


「君は、優真くん?」


「はい、そうです」


「いい名前」


彼女は、優真くん、と口の中で繰り返した。


ちょっと気恥ずかしくて、うつむく。


それを隠すために、僕は聞き返した。


「あなたの名前は..?」


彼女は首をかしげて、


「えっと、なんだっけ」


今度は僕が首をかしげる番だった。いや、失礼だから心の中だけにするけど。


「えーっと、そうだ、私の名前は、"ツボミ"」


暖かい声だった。


大切に大切に、それは音になっていた。


「ツボミ、さん」


うん、と彼女は...ツボミさんは笑う。


時間が来た僕は、また走り出す。


またね、とツボミさんが手を振ってくれた。




それから僕は毎朝ツボミさんと会うようになった。


他愛もない話をして、笑って、そしてただ静かに町を眺めた。


そして、空が淡い青色に染まる頃、僕は日常へと帰る。



「平野、最近調子がさらに悪いぞ」


部活終わり、顧問の原先生に止められた。


何かと思えば、この話。少し想像はついていたけれど。


「部活はしっかり参加しているようだが…朝と夜の自主練、ちゃんとやってるか?」


ふとツボミさんの顔が頭をよぎる。


最近、朝はツボミさんとの時間を優先してしまっていた。


「お前、大会いつか知ってるか?」


そんなの、見なくたってわかる。


ほとんど無意識に言葉が舌にのった。


「明後日です」


わかってるなら、と先生はため息をつく。


「俺は本気でお前を選んだ。なのにお前が本気じゃないなら、今からでも出場は取り消す」


えっ、と短く声が漏れる。


「とにかく、本番は近い。全力の姿勢を見せろ」


「…はい」


ただただ、心の中にやるせない気持ちが広がった。



今日もやっぱり走って丘まで行くけれど、いつもより足が重く感じた。


今すぐにでも歩きたかった。走ることに意味がない気がした。


それでも、一刻も早く彼女の所に行きたいという気持ちがあったから、僕は足を緩めず走り続けた。


でもそこに彼女はまだいなくて、僕は額の汗をゆっくりと拭う。


暖かい風がふいて、


「おはよう」


ツボミさんが、目の前に現れた。


まるで、ずっと前からそこにいたように。


寂しそうに笑う顔が、朝日で優しく光っていた。


「おはようございます」


いつも通り言ったはずなのに、ツボミさんが首を傾げた。


「優真くん、今日は元気ない?」


「…え、いや…」


すっと目を逸らせば、朝日が視界いっぱいに広がる。


ツボミさんが、町を眺めながら言った。


「話、聴くよ」


視線をツボミさんに戻すと、視線がぶつかった。


澄んだ綺麗な瞳が僕を見つめていて、その瞳に負けて僕は全部話した。


部活のこと。大会のこと。先生に言われたこと。


陸上が、好きじゃないかもしれないこと。


頷きながら聞いてくれたツボミさんは、閉じていた目をゆっくりと開いた。


すると、桜の木に近づき、手を当てる。


「例え話だけどね。桜の蕾は、春に咲くでしょう?」


突然桜の話になって、僕は驚きつつ頷く。


「夏も秋も冬も咲かない。でも、その時期は、じっとじっと、力をためている時期なんだよ」


手を桜に当てたまま、ツボミさんが僕を振り返る。


「優真くんも、今はじっと力をためてる時期なんだよ。ゆっくり、じっくり力をためたら、いつか絶対に君のつぼみが花開く。桜と同じようにね」


さあ、と風が吹き抜ける。


僕の前髪が風に煽られて、涼しい風が顔を撫でた。


「まぁ、こんな事しか言えないけどね」


ツボミさんはそう笑って、それから大きく目を見開く。


大丈夫!?と言いながら慌てて僕に近寄ってきた。


涙が頬を流れて、視界をぼやけさせた。


自分の涙が、太陽で輝いて見える。


消えかけていた炎が、もう一度勢いを取り戻したように、僕の心がじわじわと熱くなる。


ツボミさんがハンカチを僕の顔に当てた。


あぁ、と僕は想う。自覚する。


好きだと。どうしよもなく、僕はツボミさんを好きになってしまった。



ついに大会当日になった。


不安もあるけど、頑張りたいという志が胸の中で燃えていた。


行く前に、と思い、僕は丘へ向かう。


いつもより早い時間、まだ町は薄暗かった。


ツボミさんは丘にいて、町を見ていた。


足早に近づき、挨拶を交わす。


どちらともなく視線を町へ動かす。


薄く青藍色に染まった町は、幻想的で新鮮だった。


ツボミさんの瞳にその青が写って、綺麗に煌めいている。


「好きです」


その言葉は、自然に溢れてきた。


ツボミさんは自然に笑う。


「うん。この群青色の町も、すごく素敵__」


「違います。ツボミさんが、好きです」


この言葉を言うために今日は早く来た。


伝えたかった。


凛として、綺麗で透き通った瞳。


きめ細やかな肌。


艷やかな黒い髪。


不安で覆い尽くされた僕の心に光をくれる優しさ。


真っ直ぐな言葉、綺麗な言葉遣い。


全部、全部が僕にとっての特別だった。


突然にツボミさんの顔が、苦しそうにギュッと歪む。


すると、ポロポロ涙を流し始め、その場に崩れた。


「ツボミさんっ!?」


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もう誰とも関われないと思っていた。


誰も私を覚えていないと思った。


みんなの心の中で、私は確実に死んでいると思っていた。



君は私が見えていた。



話しかけて、笑いかけて、隣りにいてくれた。


私の孤独で冷え切った心は、じんわりとした暖かさで溶かされた。



でも、いつか私は君からも消えてしまう。


君と心を通わせすぎない方がいい。


君との別れを辛いものにしたくない。


でも、


もう、遅かった


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落ち着いたのか、ツボミさんが顔を上げた。


視線が交わり、その瞳の中に、強い孤独と決意が混じっているように見えた。


「私__もうすぐ、君の記憶から消えるの」


突然の告白に、僕は理解が追いつかないでいる。


「え?」


そんな思考がだだもれで、思わず口に出てしまった。慌てて口を閉じる。


「信じられないかもしれないけどね、私、未知の謎の病気にかかったんだよ」


ゆっくり、ツボミさんは話し始めた。


「かかったって分かったのは、一年前。友達、職場の人、近所の人、そういった身近な人達が、私のことが見えてない、私のことを知らないような感じで行動しはじめて、さすがにおかしいな、って、病院に行った」


理解できない。なら、理解できるまで聞けばいい。


静かに耳を傾ける。


「そしたら、未知の病気にかかってますって。世界中探しても事例が数件しかない、特殊な病気だった。私もその時まで知らなかったよ。___”次々と周りの人の記憶から自分が消えてしまい、そして自分の姿も認識されなくなる”って病気。名前もないんだ」


だんだんと、ツボミさんが言わんとしていることがわかってきた。


バクバクと心臓が暴れている。


「それから、自分を粗末に扱った。もしかしたら誰か私を見つけてくれるかもしれないって想って、道路に飛び出したこともあった。大声で叫んだこともあった。でも、誰も気づかない。誰も私を認識しない。私、透明人間になっちゃったんだなって思った。」


ただ一人で残される世界。想像してみた。


自分は見えるのに。自分は聞こえるのに。相手には、聞こえも見えもしない。


ましてや自分の存在を忘れられるなんて、苦しいじゃ表せないような日々だろう。


震えるツボミさんの手に、思わず自分の手を重ねた。


「それからは、一人でぼーっとすごすようになった。暇だったから、ずっと考え事してた」


一息ついて、小さく言った。


「死ぬって事について」


ドクンと心臓がひときわ大きく跳ねる。


「死ぬってことは、声が伝わらなくなる。みんなの前から消える。存在がなくなる。みんなから認識されなくなる。みんなの記憶からだんだん消えていく。そういうことだと思った。死ぬって、消えるってことなんだって。じゃぁ、私はもう死んでるのかな。幽霊なのかなって、やる気も何もなかった」


彼女が立ち上がる。


僕も一緒に立ち上がって、手を取った。


「でも、そしたら君が声をかけてくれた。まだ死んでないんだなって、嬉しかった。それから、毎日が楽しかった。朝が待ち遠しかった。」


空は夜明け色へと変わっていた。


「でも、同時に、また私が死ぬまでのカウントダウンが始まった。君の記憶から、君の世界から消えるまでのカウントダウンが。」


彼女の手の震えが大きくなり、強く強く握りしめる。


「近くなりすぎないほうがいいって、ずっと分かってた。君との別れが辛くなる。君ともっと時間を共有したくなる。でも、」


また彼女の目から涙が溢れてくる。


「君が普通に接してくれて、君が話しかけてくれて、君が優しくしてくれて、私は、もう君と離れたくなかった」


僕まで涙が溢れて、でもくっと唇を噛んで嗚咽を止める。


「昨日、君は私が声をかけるまで、私が見えてなかったでしょう?…今日なんだ。私が君から消える日」


「嫌だ」


ついに嗚咽混じりに声を出す。


「嫌だ…これからも、一緒にいたい。話したい。触れていたい。笑っていたい。声を聴きたい。話を聴きたい。僕は、まだまだ弱い_」


「大丈夫」


彼女の姿が、だんだんと赤みを帯びていく太陽に淡く光る。輪郭がぼやけていく。


「私は忘れないよ。だから、大丈夫。またいつか、どこかで会えるよ。会えないって思うより、そう考えよう」


気づけば泣いているのは僕の方で、彼女は僕を励ましている。


僕が泣くのは違うのに。


彼女はこれからも、一人孤独で、何日も何年も過ごさなければならないのだろう。


「今日って、大会だよね。きっと優真くんの努力が、花開くときだよ。君は十分もう強いんだから」


だんだん、なんで泣いているかわからなくなる。でも涙は止まらなかった。


心の奥が、苦しい。


女性は優しく微笑んで、小さく手を振った。


「またね、優真くん」


さぁ、と風が僕の間を通り抜け、反射的に目を強く閉じる。


片手にほのかな温もりを残し、僕は一人立ちすくんでいた。


崩れ落ちていくように、何かが僕の頭の中から消えていく。


誰かの笑顔、誰かの声。リセットボタンを押したかのように、何かが抜け落ちた穴だけを残して、記憶はこぼれていった。


足が震え、今にも座ってしまいそうになったが、導かれるようにして桜の木へ向かう。


蕾が陽に包まれ、大きく膨らんでいた。


そっと樹に手を当てる。


自然と言葉が舞い込んできて、僕は口に出す。


__君は大丈夫


「もうすぐ、花開く」