そこそこの広さの中庭には、雨の日でも利用出来るようにか透明の屋根が設置されていた。掃除が行き届いていないのか少し霞んでいて空は見えにくいものの、日当たりには問題ないのだろう。庭先には色とりどりの花が咲いていた。
 目に鮮やかな赤や黄色や白。それなのに、その中でも空に少し似たこの花を選ぶ辺り、やはり蓮だなと感じる。

「……」

 何と無くわたしは、その花壇の前から動けなかった。ぐるぐる巡る嫌な予感と、蓮に近付いた実感とで頭がパンクしそうだ。

 もしもこの花の写真を撮って蓮に見せたら、どんな反応をするだろう。偶然を喜ぶのか、ストーカーかと思われるのか、それとも、ここで研修医をしているだとか、話してくれるのだろうか。

 考えが纏まらないまま、僅かに震える手でポケットからスマホを取り出そうとして、入れっぱなしだったこんぺい糖の小瓶が芝生の上に落ちる。

「あ……」

 小瓶に結ばれていた可愛らしい桜色のリボンがほどけてしまったのを見て、我に返った。
 少しの間を置いて、ころころと転がる小瓶を拾おうとして手を伸ばす。すると、同じく拾おうとしてくれたのであろう誰かと、ちょうど手が重なった。
 夏の屋外にしばらく立っていたわたしより少し高めの、しっかりとした人の体温。予想外の感触にわたしは驚いて、反射的に手を引っ込める。

「わっ!? す、すみません……!」
「……いえ」

 わたしの動揺とは真逆の、落ち着いた声。小瓶をそのまま拾い上げた人物へと、戸惑いながらもそっと視線を向け、息を飲む。

 少し伸びた黒い髪、日焼け知らずの色白の肌、涼やかな目元の泣き黒子、いつか見たグレーのカーディガン、そして、小瓶を持つ細くて白い長い指先。

 一目でわかった。彼が、蓮だ。

「どうぞ」
「あ……」

 心の準備も出来ていない。何を話したらいいのかもわからない。こんな出会い、何度も脳内で繰り返したシミュレーションにもないパターンだった。

 差し出した小瓶を中々受け取らないわたしを怪訝そうに見詰める視線に、思わず俯いた顔は一気に熱を帯びた。

「あれ、これって……こんぺい糖?」

 不意に、改めて小瓶を確認した蓮が何かに気付いたように目を見開く。
 そうだ、わたしはあの小瓶の写真をSNSに投稿していた。蓮にも、わたしがサクラだと気付かれてしまったかもしれない。
 そう思った瞬間、わたしは半ば奪うようにして、小瓶を彼の手から受け取った。

「ひ、拾ってくれて、ありがとうございます」
「いえ……あの、それって……」
「あー……えっと、最近流行ってるんです、このお店のお菓子。可愛いですよね!」
「そう、なんですか」
「はい! 本当にありがとうございます。それじゃあまた!」

 流行りものなら誰が持っていてもおかしくない。わたしは咄嗟に誤魔化して、深々と頭を下げて踵返す。
 お姉さんがサービスにと入れてくれたそれは、売り物として店頭にあったのだから誰でも買える。全てが嘘ではないのだと、自分に言い訳をした。

 今度は落とさないようにと握り締めた小瓶は、蓮の手の温もりが残っているようで、じんわりと温かい。

 わたしは振り返ることなく中庭を出て、逃げるようにして駆け出す。そのまま玄関まで向かうと、一気に身体の力が抜けた。

 こんなにも会いたかったのに。あんなにも焦がれていたのに。いざ目の前にすると、緊張とドキドキに耐えられなかった。

「逃げてきちゃった……」

 わたしがサクラだと知られたら、がっかりされないだろうか。彼の目に、わたしはどう映るのだろうか。髪型は、態度は、表情は、いろんな所が気になって仕方なかった。

 わたし達の繋がりは、窓枠越しの空と同じ。四角い画面の向こうの、言葉と写真だけの閉ざされた世界だったのだ。それを越えて『サクラ』ではない、現実の『桜花』を認知されることが、急に恥ずかしくて堪らなかった。

「……おや、大丈夫ですか?」

 玄関近くで壁に凭れていると、不意に声を掛けられた。服装からして、お医者さんか看護師さんだろうか。心配をかけてしまったと慌てて直立する。

「え、あ……大丈夫です」
「顔が赤いですし、熱中症かもしれません。少し休まれますか?」
「いえ、本当に大丈夫です!」
「……そうですか、ならよかった。お大事にしてくださいね」

 わたしの顔を覗き込んでくる爽やかそうな好青年は、そう言ってとびきりの笑顔を向けてくれる。少し影のあるクールで繊細な雰囲気の蓮とはまた違うタイプのイケメンだった。
 こんなお医者さんが小児科にでも居たら、初恋泥棒多発待ったなしだろう。

「それでは、お気をつけて」
「はい、ありがとうございます」

 初恋泥棒さんに手を振り見送られて、わたしはようやく病院から出て駅へと向かう。今日一日で疲労感が凄まじかった。わたしは何度も何度も、動揺を抑えるために記憶を反芻する。

 そしてわたしは自分の感情で精一杯で、彼がカーディガンの下に入院着を着ていたことに気付いたのは、家に帰りついてからだった。

 入院着、つまり彼は入院患者だ。昼間も返信が早い理由に納得がいった。
 そして、彼がまつりの言う『蓮見先生』とは別人であることに安堵したのも束の間、別の意味で動揺する。

「入院するくらい、蓮はどこか悪いってこと……?」

 立って歩いていたし、小瓶を拾い上げる仕草にも違和感はなかった。到底入院する程の怪我をしているようには見えない。
 けれど触れた手は熱かった、熱があったのかもしれない。肌はとても白かったし、同じ年頃の男子にしては線も細かった。入院生活が長いのかもしれない。

 何より彼の撮る写真は、いつも同じ窓枠で切り取られた空だった。あの景色が、日頃病室で過ごす彼にとっての、唯一の自由なのかもしれない。

 色々な想像を巡らせては、あの時逃げてしまった後悔に頭を抱える。あれでは第一印象は最悪だろう。

「……とにかく、もう一度会わなくちゃ」

 幸いメッセージは相変わらずのノリで返してくれたし、夕方に会ったわたしに対する発言もなかった。
 正体がバレていないのなら、サクラとしてではなく桜花として、一からリアルの関係を築くことだって出来るかもしれない。それに第一印象が最悪なら、それ以上下がることもないのだ。

 会おうと決意したものの、サクラとして名乗り出る決心はまだつかなかった。
 伝えるのは、仲良くなれた後からでもいい。もしも桜花として上手くいかなくても、サクラとして話し続けられるよう保険を掛けていたかった。
 恋は人を臆病にさせるのだと、改めて実感した。


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