僕の病状は進行し、ついに手の施しようがなくなった。今度こそ本当にいつ死ぬか分からない。10歳まで生きられないと言われていた僕が余命宣告を覆して、この年まで生きていられたのは奇跡だ。エリちゃんとの思い出が僕を支えてくれていたのだと思う。元気になってエリちゃんともう1度遊ぶ日を夢見て今日まで生きてきた。

 どうせ死ぬのなら、最期に自由が欲しかった。エリちゃんのようになりたかった。外に出て、エリちゃんが見てきた世界と同じ景色を見たい。叶わないと分かっているけど、エリちゃんにもう1度会いたい。あの日食べられなかったチョコレートを、エリちゃんと一緒に食べたい。

 死期が迫るのを感じる毎日の中、看護師さん同士の会話に「小早川エリ」の名前が出てきたのを耳にした。ペットロス症候群を患って、精神科に通院しているらしい。噂話の的になったのは彼女が名門女子校の制服を着ていたから、そして顔と足に目立つ傷があったからのようだ。

 ペットのシロを失った彼女の力になりたかった。僕に生きる希望をくれた彼女に恩返しがしたかった。何よりもう1度会いたかった。

 彼女に会えるかもしれないと知った日から、僕の病状は気休め程度の回復の兆しを見せた。そして今日、起きた時の調子が今までで1番良かった。エリちゃんと宝探しごっこをして病院中を歩き回ったあの日よりも体が軽い。今日1日くらいなら、何をしてもそうそう疲れたり発作が起こったりしなさそうだ。自分の体のことは自分が1番良く分かっている。そして、こんなに調子が良くなることも二度となさそうだ。

 病室の窓からちょうど制服姿のエリちゃんを見つけたのはもう運命だとしか思えない。たとえ死んでも構わないから病室を抜け出してエリちゃんに会いに行くことを決めた。お守りに何千回もお祈りしたから、きっと1日だけ神様が元気な体をくれたのだと思う。

 彼女の前で「シロ」を名乗ったのは迂闊だったけれど、僕の本名を覚えていたとも思えないので仕方がない。彼女は僕をペットのシロの幽霊だと思い込んだ。エリちゃんは僕のことなんて忘れていた。当たり前だ。僕にとってはエリちゃんがすべてだったけれど、エリちゃんは学校に行けば友達がいて家に帰れば犬のシロがいるのだから。

 悲しかったけれども、抱きついてくるエリちゃんの柔らかさと温もりの前に邪な気持ちが芽生えた。「最後に会ったのが何年も前の知り合い」として恋心を告げるより、「愛犬のシロの幽霊」に成りすました方が幸せな時間を過ごせると僕の中の悪魔がささやいた。

 罪悪感がなかったわけじゃない。でも、最初で最期のチャンスだった。実際に、何千回も妄想したエリちゃんとのデートを実現している時が人生で1番幸せだった。何度「生きててよかった」なんて不謹慎な言葉を飲みこんだか分からない。エリちゃんが笑ってくれたことだけが救いだった。1つだけ神様に言い訳をするならばエリちゃんに笑顔でいてほしいという気持ちも確かに真実だった。

 幼い頃エリちゃんが教えてくれた場所に一緒に行くことが出来た。エリちゃんが可愛いジェスチャーを交えて話す公園や河原での出来事は、どんな御伽噺よりも僕を虜にした。シロみたいにエリちゃんとかけっこをする体力はさすがになかったけれど、エリちゃんが教えてくれた外の世界をこの目で見られただけで満足だ。

 観覧車の中でしたファーストキス。僕はこのために今日まで生きてきたのだと思った。神様に心の底から感謝した。この幸せな時間がずっと続けばいいのに。そうは問屋が卸さなかった。

 観覧車が地上に着いて、座席から立ち上がった瞬間、全身に痛みが走った。街を歩き回り医者に止められたお菓子を食べれば当然体調は悪くなる。悔しいけれど、自分の体調の事なんて自分が1番分かっている。そろそろタイムリミットだ。

 我ながらうまくごまかせたと思う。遠方に住む祖父母や、僕の入院費を稼ぐために多忙ゆえなかなかお見舞いに来られない親の前では、元気に見えるように振る舞ってきた経験が生きた。

 屋上の自動販売機で大きい方の水を買って、男子トイレに駆け込む。ここならエリちゃんに見られずに薬を飲める。決められた時間に飲む薬と、体調が悪化した時に飲む薬と、発作を抑える薬。250ミリリットルの水では飲みきれないほどの大量の薬を、500ミリリットルの水で流し込んでいく。

 チョコレートの苦さとは全然違う、ただ苦いだけの薬。まずい薬。嫌な臭いがする粉薬。エリちゃんとのキスが薬の味で上書きされていくのがとても悲しかった。飲み終わった後、軽く口をゆすいでも口の中から薬の味が消えてくれない。

「こんなんじゃ、もうキスできないなあ」

 やるせなさに天井を仰いだ。泣きたくない。泣きながら帰ってエリちゃんを心配させたくない。好きな子の前では最期までかっこいい男の子のフリをしたい。涙をこらえて、深呼吸を繰り返すうちに、薬が効いて体調が落ち着いてきた。

 エリちゃんを家まで送り届けた後、タクシーを拾って病院に戻るくらいの余力はありそうだ。催事場を通り抜けて待ち合わせ場所であるエレベーターに向かう。催事場ではタイムリーにもチョコレートフェアをやっていた。

 犬のロゴが描いてある金色の箱が、ふと目に入った。これが俗にいうパッケージ買いというものなのだろうか。病院の売店以外の実店舗での買い物は人生で初めてなのでよく分からないが、思わず衝動買いした。金色の犬のお守りをくれたエリちゃんへの最初で最後のプレゼント。

 幸いにも発作を起こすことも体調不良を悟られることもなく、エリちゃんを家に送り届けることに成功した。「消える瞬間を人に見られると天国に行けない」なんて口から出まかせで、エリちゃんの前から自然に姿を消す。人生最大の嘘はどうにか突き通せた。

 最後にエリちゃんが「大好き」と言ってくれた。嬉しかった。調子に乗ってもう1度キスしてしまった。ほとんど病院から出られない生涯だったけれど、その一言だけでお釣りがくるほど僕の人生は幸せなものだったと自信を持って言える。

 エリちゃんの家の庭には小さなお墓があり花が供えてあった。僕は会ったことの無い彼に手を合わせる。
「ごめんなさい。君の名前を勝手に騙りました」
死者を冒涜した僕はもうすぐ地獄に堕ちるだろう。それでも後悔しない。最低な僕はもう1度深く頭を下げてエリちゃんの家を後にした。
(許すよ、だってエリちゃんが笑ってくれたから)
 後ろから誰かの声がして振り返ったが、誰もいなかった。その声は祖父の声に少し似た渋い声だった。シロと僕の生年月日は同じだと昔エリちゃんが言っていた。犬の16歳は人間で言うと80歳くらいだっただろうか。昔聞きかじったそんな話をふと思い出す。全部僕の都合のいい自己正当化なのかもしれないけれど。

罰が当たったかのように、2つ目の角を曲がって大通りに出たところで眩暈がした。全身の力が抜けてその場で倒れた。神様がくれた束の間の幸せの時間が終わったようだ。薄れゆく意識の中、チョコレート味のキスを思い出す。

あの苦さも甘さも全部、僕の初恋そのものだった。