恋人らしく、ということでシロと手を繋いで歩き出す。どこに行こうか一生懸命思いを巡らせていると、シロが繋いだ手を5本の指を絡めるように組みかえた。これが俗にいう恋人つなぎだという知識だけはある。
 しかし、いくら相手がシロとはいえ見た目は完全に儚げな美少年だ。こういったことに免疫のない私は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 手を繋いだまま歩いていると、オシャレなカフェの前でシロが立ち止まる。少し値が張るので、学生の身分でしょっちゅう来るようなところではないが、母とは何度か来たことがある。
「こういうところ、来たことないから入りたい」
 シロがチョコレート色の目を輝かせる。確かに、ペットを連れて入れる飲食店は地元にないのでシロと飲食店に入ったことはない。

中に入るとカップルばかりだった。シロの姿は私にしか見えないなんてことはなく、他のカップルと同じように「2名様ご案内です」と席に案内され、ドリンクメニューとフードメニューを手渡される。

 色とりどりのケーキやアイスがメニュー表に並んでいる。季節のフルーツをたくさん使ったタルトも、果肉がたっぷり入ったカラフルなジェラートも昔は大好きだったのに、味覚障害になってから全部色あせて見える。私は何が好きだったんだっけ。

店員さんが来たので、私はアイスティーを、シロはチョコレートパフェを注文する。
「チョコレート、食べて大丈夫なの?」
犬にとってチョコレートは毒だ。
「うん、今日だけは大丈夫。昔からずっと食べてみたかったんだ」
犬だった頃に食べられなかったものを人間の姿になったら食べたいと思うのも自然なことだろう。
「エリちゃん、チョコレート好きだったよね」
歯を見せてシロが笑う。そうだ。家には持ち込まないようにしていたけれど、学校の休み時間や帰り道の買い食いでは友達とチョコレート菓子ばかり食べていた。シロが元気だった頃の、元気だった私を少し思い出す。

 芸術品のような綺麗なパフェが運ばれてくるとシロの顔がまた一段と明るくなった。シロは長いスプーンでおそるおそるパフェをすくうと自分で食べる前に私に差し出した。
「はい、あーん」
ずっと食べたかったはずのチョコレートパフェなのに私に先に食べるように促した。
「どうしたの?溶けちゃうよ?あーん」
私は差し出された一口を食べる。案の定味がしない。シロに申し訳ない気持ちになった。シロが物欲しそうな気持ちでパフェではなく私の顔を見つめている。よく考えてみたら、パフェを食べさせ合うイベントはデートの定番だ。
「あーん」
私も小さい声で言いながら、チョコソースのたっぷりかかったチョコアイスの部分をすくってシロに差し出す。それを口にしたシロの顔が緩む。今までの人生でこんなに幸せそうな表情の人は見たことがない。
「えへへ、ずっと夢だったんだよね」
私たちはお互いにパフェを食べさせ合った。味は分からなかったけれど、大袈裟に喜ぶシロを見ていると私まで幸せな気持ちになってくる。あっというまに容器は空になった。
「美味しかった?」
「うん!最高!エリちゃんも美味しかった?」
美味しい、忘れてしまった感覚だ。でも、美味しいって言わなきゃ。
「う、うん、美味しかったよ」
一瞬反応が遅れたこと、少しどもってしまったことをシロは見逃さなかった。
「あんまり美味しくなかった? もしかしてこれチョコじゃなかった? 間違えて注文しちゃったかな?」
おろおろしながら尋ねられてしまう。シロはチョコレートの味を知らない。せっかくシロの夢が叶ったのにそれを台無しにしたくはなかった。

「チョコで合ってるよ」

「ほんとに?」

 シロは不安そうな目で私を見る。どうすべきか迷ったが、シロを必要以上に心配させない範囲で味覚障害について打ち明けることにした。

「うん、私の問題だから。最近、たまに食べ物の味が分からなくなっちゃうことがあって……って言っても、ご飯が全く食べられないわけじゃないから大丈夫だよ。今日も朝御飯一応食べたし」

 テーブルの上の私の手にシロの大きな手が重なる。

「大丈夫。絶対治るよ」

 シロの言葉に、なぜだかとても安心できた気がする。シロの声は温かい。

 シロがお会計してカフェを出た後、一緒に遊んだ公園を訪れる。シロが元気だった頃はここでよくかけっこをしていた。

「かけっこする?」
「やめとくよ。今日暑いし、熱中症になっちゃうよ。それに、食べた後走ったらお腹痛くなるって言うし……」
「神様もその辺融通利かせてくれればいいのにね」
「僕が無敵状態だったとしても、エリちゃんが具合悪くなるの嫌だし……」

 シロは優しい。部活の大会で負けて落ち込んでいた時も、シロは私に寄り添ってくれた。言葉が通じなくても、慰めようとしてくれているのが伝わって来た。今もこうして、私を気遣ってくれる。

「それよりさ、僕、行きたいところあるんだ」

 次にシロが望んだのはペット立ち入り禁止のデパートの屋上の観覧車だった。よく一緒に遊んだ河原を歩いてデパートに向かう。

 観覧車に乗るのは私も小学生の時以来だ。エレベーターを降りると、昔と何一つ変わらない観覧車が目に映った。シロが券売機で2人分のチケットを買う。

「それでは、快適な空の旅を!」

 私たちが乗り込むと、係員さんがそう言ってドアを閉めた。まるで飛行機に乗るかのようなお決まりの挨拶も昔と全く同じだ。

 小さなゴンドラの中、向かい合って2人きりになる。シロは私の膝を見ながら心配そうに尋ねる。
「傷、まだ痛い?」
もう何年も前の傷だ。シロが罪悪感なんて持たなくていいのに。
「全然痛くないよ、これは私の勲章だから」
 私は胸を張った。突然シロが跪いて、膝の傷痕にキスを落とす。少しくすぐったかった。シロに他意なんてないはずなのに、とてもいけないことをしている気持ちになった。
「エリちゃんは誰かのために命をかけられる強くて優しい子だよ。そんなエリちゃんだから僕は好きになったんだ」
 シロは言い終わるや否や私の隣に座って、次は私の顔の傷にキスをした。
「エリちゃん、僕に命をくれてありがとう」
2人だけの密室で、男の人の唇の感触と吐息を肌で感じれば、意識してしまう。シロは家族なのに。
 緊張のあまり、私は目を逸らした。私が私ではなくなっていくようだった。
「ねえ、シロ。外、綺麗だよ!」
上ずった声を上げて外を指差す。私たちが長年暮らした街を一望できる。シロはその景色に見とれていた。
「すごい、初めて見た」
 私たちが生まれ育った街が夕焼け色に染まっている。昔母がしてくれたように、私たちの思い出のピースを一つ一つ指差してシロに教えてあげる。
「あそこが私たちの家、あれがいつもの公園、あっちはさっき食べに行ったカフェだね。それから、あれがお父さんとお母さんが結婚式挙げた教会! 前に散歩で教会の前まで行ったの覚えてる?」
「えっ……。あ、うん。覚えてる」
 高い所から見下ろした景色を初めて見たシロはそれに心奪われていたようで、少し遅れて反応した。
「ほんとに、綺麗だね。観覧車、ずっと乗ってみたかったんだ」
 シロが呟いた。かじりつくように窓の外を見つめている。観覧車が下り始めた頃、ハッとしたようにシロが言った。
「景色も綺麗だけど、エリちゃんの方が綺麗だよ」
きっと、観覧車の頂上で言おうと思っていたのについ忘れちゃったんだろうな。そんなシロが可愛く思えて頭を撫でた。
「ありがとう」
そう答えると、シロが私の目をじっと見つめる。澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。シロが私をそっと抱きしめ、耳元で囁いた。

「恋人のキス、してもいい?」

 犬のシロは家族だけれど、人間の姿のシロは紛れもなく男の子だ。しかも、紳士的でかっこいい。私は言い訳ができないくらいに人間のシロに惹かれていた。1日限りの恋人ごっこなのに、本気になってはいけないのに私は頷いてしまった。

 目を瞑ると、私の唇にシロの唇が触れる。ふわふわした気持ちにとらわれて何も考えられなくなった。目の奥で銀色の星屑がキラキラした。その星屑の一つ一つが昔好きだった銀紙に包まれたチョコレートの粒に姿を変えていく。

 シロの唇が離れ、目を開けて黙って見つめ合う。
「どうだった?」
「チョコレートみたいだった」
シロに尋ねられ、ぼんやりとした頭で出した答えは支離滅裂だ。シロも赤い顔で頷いた。
「分かる。チョコレートの味したよね」
そう言えば私たちはさっきチョコレートパフェを食べたのだった。頂上から望んだ景色を綺麗だと感じたし、シロと過ごして恋をして少しずつ感覚が戻ってきているのかもしれない。

 観覧車を降りた後もキスの余韻は冷めない。私は何も話せずにいた。シロの顔も直視できない。うまく話せない私と手を繋いで、シロは自動販売機の方へ向かう。ガコンガコン、と飲み物が取り出し口に落ちる音が2回鳴った。その直後、冷たい感覚が頬を襲う。

「ひゃあっ!」

 シロが私の顔に買ったばかりの冷たいペットボトルを押し当てていた。

「エリちゃん顔赤いよ。のぼせちゃうから、お水飲んだ方がいいよ」

 私とは対照的に、シロの顔はもう赤くなくなっていた。透き通るような白い肌。その余裕がなんだか私をからかっているかのように感じて、ついムキになってしまう。

「シロだって、さっきまで顔真っ赤だったじゃない。絶対、シロの方がのぼせそうだった!」

 シロはごまかすように笑った。つい声が大きくなってしまった私を諫めるように唇に人差し指を当てる。

「ごめんね、ちょっとトイレ行ってくるから、5階のエレベーター前の椅子のところで待ってて」

 そう言うなりシロは歩いて行ってしまう。

「ちょっと、逃げるのは反則!」

 シロの後ろ姿に向かってそう言うと、シロが振り返る。手を合わせて、大袈裟な口パクで「ごめんね」と答えられた。その姿にはやっぱり余裕があって、ちょっと悔しい。

 こんな子供っぽいことしか言えない自分がちょっとだけ悔しい。シロに信じられないくらいドキドキしている自分に混乱している。さりげなく待ち合わせ場所をここではなく涼しい屋内にしてくれる紳士的なところも、全部かっこいい。思えば手を繋いだ時から、心臓がずっとおかしい。

 エレベーター前の椅子に腰かけても、ドキドキはおさまらない。絶対に水を飲んで落ち着いた方がいいのに、ほんのりチョコレートの味がしたキスを忘れたくなくて飲まなかった。
「お待たせ」

 シロに声をかけられてはっとする。

「次、どこ行きたい?」

「うーん、そろそろタイムリミットだし、エリちゃんのこと家まで送っていくよ」

 タイムリミット。その言葉に冷水を頭からかけられたような気持ちになる。

「ギリギリまで、シロのやりたいことやろうよ」

 現実から逃げたくて、何とか声を絞り出す。

「ほら、何でもいいんだよ。あるでしょ、やりたいこと。お父さんとお母さんが結婚式あげた教会に忍び込んで、結婚式ごっこするとかどう?」

 動揺のあまり、無茶苦茶な提案をしてしまった。シロの眉毛がぴくっと動く。

「出来るならしたいけど……もう時間ないから」

「ダメ元でも行こうよ。今から行けば、間に合うかもしれないじゃん」

 ここから教会までは少し距離がある。

「ダメだよ。外暗くなってから、エリちゃん一人で家に帰すわけにいかない。エリちゃん女の子なんだから危ないし」

 最期だと言うのに、自分のことより私のこと。やっぱり、シロは優しすぎる。

「帰ろう、エリちゃん」

 シロが私の手を取った。シロも、最期にもう1度我が家に帰りたいのだろう。

「あ、でも、お父さんとお母さん今日帰り遅いって……。ごめんね、2人にも会いたかったよね」

 両親はどちらも仕事柄、勤務中は連絡が通じにくい。仮に連絡が取れたとしても、職場も遠いので、今から呼んでも間に合わない。

「謝らないで。エリちゃんに会えたから充分だよ」

 シロが私の頭を優しく撫でてくれた。また心臓がトクンと鳴る。そのまま手を繋いでゆっくりと家路を行く。

 我が家は目と鼻の先だ。今は家に誰もいないから、帰ったらシロと2人きりだ。シロが生きていた頃は当たり前の日常だった。でも、シロが人間の姿だと言うだけで今までとは全然違う。

 隣を歩くシロの横顔はかっこいい。人間の姿だと意外と背が高い。犬のシロの声も大好きだったけれど、人間のシロの声も好き。さりげなく車道側を歩いてくれる優しさはまるで王子様みたい。

 シロは男の子なんだ。それで、私をすごく大事に女の子扱いしてくれる。シロに楽しんでもらうためのデートだったはずなのに、私の方がいつの間にか夢中になっていて、私ばっかりドキドキしていた気がする。言い逃れできないくらい、私は人間のシロのことを一人の男の子として好きだ。

 そんなドキドキを抱えたまま、家について玄関に入る。私の緊張をよそに、シロが告げた。

「じゃあ、僕はもう行くから。今日は本当にありがとう。元気でね」
 シロが何を言っているのか分からなかった。
「なんで……? 最期まで一緒にいたいよ」
「あー……ごめんね。最期の瞬間はエリちゃんに見られちゃいけないんだ」
「シロの言ってること、よく分かんないよ」
「ほら、こういう奇跡のお約束的なやつ。ルール破ると天国いけなくなっちゃうみたいな感じ」
「嫌だ、行かないで!ずっと一緒にいてよ!」

 私はデート前と同じように泣いてシロに縋りついた。今度こそ永遠のお別れ。寂しい。悲しい。苦しい。神様がくれたボーナスタイムも全然足りない。私の寿命をシロと半分こできればいいのに。

シロは親指で私の涙を拭った。

「エリちゃん、泣かないで。これ、エリちゃんにあげるから」

 シロに小さな紙袋を手渡される。金色の箱に、犬のロゴと英字。海外のメーカーのチョコレートだった。デパートでこっそり買ったのだろう。

「エリちゃんが元気になりますようにっておまじない。大事に食べてよ、僕からの最期のプレゼントだからさ」

 シロは私の味覚障害を気にかけてくれていた。私は最後の最後まで、天国へと旅立つシロに心配をかけていた。

「僕がいなくなっても、もう泣かないでね。涙でしょっぱいチョコなんて美味しくないでしょ?」

 シロが笑う。優しいシロは私に思い出を作るために1日一緒に過ごしてくれた。私が前を向けるように。だから、笑って送ってあげないとシロは安心できない。頑張って口角を上げて笑顔を作った。

「バイバイ、エリちゃん。大好きだよ」

シロは「大好き」を、恋としての好きなのか家族としての好きなのか明言しなかった。でも、私にとってはいつの間にか今日の恋人ごっこはいつの間にかごっこ遊びではなくなっていた。
 私も言わなきゃ。涙をこらえて、シロはすぐ近くにいるのに思いっきり叫んだ。この気持ちが少しでも強く、シロに伝わるように。

「私も大好きだよ! ずっと、忘れないから!」

 シロが目を見開く。キラキラした瞳が一層光る。シロは微笑むと、私が持っていたチョコレートの箱に手を伸ばす。蓋を開けて一粒チョコレートを取り出すとそれを咥えた。

 私の頬に手を添えると、そのまま顔を近づける。やっぱり目が綺麗だと見惚れていたら、そのままそのチョコレートを私に食べさせた。一瞬だけ、シロの唇が私の唇に触れた。

 放心状態の私の髪をそっと撫でると、シロは私に背中を向けて歩き出す。ドアを開けて、玄関を1歩出た後、シロはもう1度振り返って手を振ってくれた。

「さよなら」

シロがそう言ってドアを閉めた。この扉を開けちゃいけない。追いかけちゃいけない。泣いちゃいけない。シロがちゃんと天国に行けるように。

 生まれた時から、ずっとシロが隣にいた。そのシロが私の元から空の彼方へ旅立ってゆく。公園でかけっこをして、かくれんぼや宝探しで日が暮れるまで一緒に遊んだシロ。学校の話も、楽しかった話も、ちょっとアンラッキーだった話も何でもシロになら話せた。シロがいたから私は幸せだった。

 シロがいなくなって、空っぽになった私を助けてくれたのもシロだった。一緒にチョコレートを食べる日が来るなんて思わなかったし、観覧車に乗れるとも思っていなかった。男の子と手を繋いで、キスをして……。

 16年間誰よりも大切な家族だった。今日、シロは最期に恋を教えてくれた。シロがいたから私の人生は幸せだったと言えるように、頑張ってみようと思う。シロ、天国で見守っていてね。

 シロとの思い出を噛みしめるように、シロが食べさせてくれたチョコレートを噛んだ。口の中でガナッシュがとろける。久しぶりに味がしたそれはちょっとだけ苦くて、とびっきり甘かった。
 学校に行けた日数は数えるほどしかなかったから同年代の友達はほとんどいない。しかし、比較対象のサンプルがいくら少なくても分かる。僕の初恋の人は型破りで活発な人だ。
 交通事故に遭って入院してきたその女の子、小早川エリは第一声で僕の心を丸ごと奪った。
「私、エリ! 2年生! ねえ、友達になろうよ!」
「鈴原史郎です。よろしくね。2年生ってことは……同い年だね」
「シロ? うちのワンちゃんとおんなじ名前だ! しかも、目の色もおんなじ! すごーい! じゃあ、私達、もう親友だね!」
 僕に向けてくれた眩しい笑顔。あの日からずっとエリちゃんは僕の女神様だった。

 外の世界を知らない僕に彼女は世界の色を教えてくれた。白い病室しか知らない僕の心は君のおかげでカラフルになっていく。
「誕生日に、お父さんとお母さんが遊園地に連れて行ってくれたんだよ! 観覧車とかジェットコースターとかコーヒーカップがあるの!」
 楽しそうに話すエリちゃんを見ているだけで幸せな気持ちになった。
「観覧車はねー、近所のデパートの屋上にもあるんだよ! 観覧車に乗るとね、街が全部見えるの! おうちの屋根も学校も全部見えるんだよ。あとね、お父さんとお母さんが結婚式した教会も! この間お母さんが教えてくれたんだ」
 エリちゃんの目はいつもキラキラしていて、僕はいつも見惚れていた。

「シロちゃんも何か面白い話してよ」
 僕の世界の全てともいえる女神様は、彼女の愛犬をシロ、僕をシロちゃんと呼び分けた。外の世界を知らない僕にとってはとんだ無茶ぶりだった。でも、入院生活で退屈しているであろうエリちゃんに少しでも楽しんでほしくて、少し前に読んだ本の話をした。
 児童文学のよくあるファンタジー冒険譚。伝説のお宝を探して旅をする男の子と女の子の話。僕の話は全部誰かの受け売り。それなのに、エリちゃんは大きな目をキラキラさせて僕の話を聞いてくれた。
「すっごーい! シロちゃん物知りなんだね!」
「誕生日に、お母さんがいっぱい本買ってくれたんだ」
「そうなんだ! シロちゃんって誕生日いつなの?」
 僕の何億倍も広い世界を知っているエリちゃんが僕に興味を持ってくれた。
「10月27日」
「すごいすごい! 誕生日までシロとおんなじなんだ! やっぱりシロちゃんは最高ね!」
彼女に肯定されたことで、生まれてきてよかったと初めて思えた。
 彼女の存在そのものが、僕の生きる希望だった。僕の病状は一時的な回復を見せた。いつも病院中を車椅子で爆走しているエリちゃんの姿は僕に元気をくれた。ある朝、今までで調子が良くて、歩き回っても大丈夫そうだと感じた。
「シロはね、宝探しとかくれんぼがすごく得意なんだよ! 私が失くしたキーホルダーとかすぐ見つけてくれるし、秋は大きなどんぐりも見つけるの! かくれんぼもシロが鬼だとすぐ見つかっちゃうの。それでね、見つけると私のことペロペロするんだよ」
「楽しそうだなあ。あのね、今日僕すっごく体の調子がいいからシロ君みたいにエリちゃんといっぱい遊びたい」
「じゃあ、今日は一緒に宝探ししよっか!」
 僕はエリちゃんの車椅子を押して色々な人の病室を回った。エリちゃんはほとんどの病室の人と顔見知りになっていた。エリちゃんが宝探しをしていると言えば、ちょっとしたものをくれる大人もいた。
 楽しく宝探しをしていたのに、女の子なのに顔に傷が残るなんて可哀想だと入院中のおばさんたちが噂している現場に居合わせてしまった。エリちゃんが傷ついてしまったらどうしようと本気で心配したけれど、当の本人はあっけらかんとしていた。
「残る方がかっこいいじゃん!私とシロの友情の証みたいで!シロちゃんもそう思うでしょ?」
 僕は自分の体の手術の痕をコンプレックスに思っていた。堂々としている彼女を心底かっこいいと思った。
「うん、かっこいい。僕の傷と違って」
「シロちゃんも傷があるの?じゃあ、おそろいだね!シロちゃんもかっこいい。私もかっこいい。知ってる? かっこいい2人組のこと、大人の言葉でバディって言うんだよ。私たち、世界一かっこいいバディじゃない?」
その日から、きつい治療も何もかも辛くなくなった。エリちゃんがいるから頑張れる。中学生になるまで生きられないと言われていた僕が16歳の今生きているのはエリちゃんがくれた奇跡だ。

 ある日、エリちゃんがお母さんにもらったチョコレートを僕に分けてくれた。
「ねえ、シロちゃんにもチョコあげる!」
「ごめんね、食べられないんだ。せっかくエリちゃんがくれたのにごめんね。僕、おかしいよね」
大好きなエリちゃんがくれたものだから食べたかった。病気でお菓子が食べられない自分の体を呪った。でも彼女は一切気を悪くすることなく、目をキラキラさせた。
「チョコ食べられないことまでシロとおんなじなのね!シロちゃん、絶対シロと仲良くなれそう!」
「シロくんもチョコ食べられないの?」
「そうなの! ワンちゃんってチョコ食べると死んじゃうの。だから、チョコがお菓子の中で1番好きだけど、シロが間違って食べないようにおうちでは食べないようにしてるの」
滅多に食べられない1番大好きなお菓子を僕に分けてくれたその事実が嬉しかった。

 その後同室になった人がお見舞いでもらった高級チョコレートを食べている姿を見たことは何度かある。そのチョコレートの香りを嗅ぐたびに僕は彼女を思い出すことになる。

 中学生になる頃に読んだアステカ神話を題材にした本の中に、「昔、チョコレートは神様の食べ物と言われていた」という記述があった。記憶の中でエリちゃんがチョコレートを食べる姿が神格化されていく。事実として、大人たちが食べていた一粒数百円の高級チョコレートよりも、あの日エリちゃんが食べていた銀紙に包まれた病院の売店でも売っているようなチョコレートの方が僕には美味しそうに見えた。

  エリちゃんは退院する時に、折り紙の犬をプレゼントしてくれた。
「いつか、シロとシロちゃんと3人でかくれんぼして遊ぼうね。約束だよ!」
「治るかな、僕の病気」
「大丈夫! 絶対治るよ! これ、お守りにしてね!」
 その言葉とお守りは、僕にとって何よりの希望になった。本当にいつか病気が治って、また会えると信じていた。だって、エリちゃんは女神様だから。

 僕は女神さまがくれたお守りに何度もお祈りした。
「いつかエリちゃんと一緒に外で遊べますように」
でも、結局その後エリちゃんと僕が会うことも、僕の病気が治ることもなかった。

 僕の病状は進行し、ついに手の施しようがなくなった。今度こそ本当にいつ死ぬか分からない。10歳まで生きられないと言われていた僕が余命宣告を覆して、この年まで生きていられたのは奇跡だ。エリちゃんとの思い出が僕を支えてくれていたのだと思う。元気になってエリちゃんともう1度遊ぶ日を夢見て今日まで生きてきた。

 どうせ死ぬのなら、最期に自由が欲しかった。エリちゃんのようになりたかった。外に出て、エリちゃんが見てきた世界と同じ景色を見たい。叶わないと分かっているけど、エリちゃんにもう1度会いたい。あの日食べられなかったチョコレートを、エリちゃんと一緒に食べたい。

 死期が迫るのを感じる毎日の中、看護師さん同士の会話に「小早川エリ」の名前が出てきたのを耳にした。ペットロス症候群を患って、精神科に通院しているらしい。噂話の的になったのは彼女が名門女子校の制服を着ていたから、そして顔と足に目立つ傷があったからのようだ。

 ペットのシロを失った彼女の力になりたかった。僕に生きる希望をくれた彼女に恩返しがしたかった。何よりもう1度会いたかった。

 彼女に会えるかもしれないと知った日から、僕の病状は気休め程度の回復の兆しを見せた。そして今日、起きた時の調子が今までで1番良かった。エリちゃんと宝探しごっこをして病院中を歩き回ったあの日よりも体が軽い。今日1日くらいなら、何をしてもそうそう疲れたり発作が起こったりしなさそうだ。自分の体のことは自分が1番良く分かっている。そして、こんなに調子が良くなることも二度となさそうだ。

 病室の窓からちょうど制服姿のエリちゃんを見つけたのはもう運命だとしか思えない。たとえ死んでも構わないから病室を抜け出してエリちゃんに会いに行くことを決めた。お守りに何千回もお祈りしたから、きっと1日だけ神様が元気な体をくれたのだと思う。

 彼女の前で「シロ」を名乗ったのは迂闊だったけれど、僕の本名を覚えていたとも思えないので仕方がない。彼女は僕をペットのシロの幽霊だと思い込んだ。エリちゃんは僕のことなんて忘れていた。当たり前だ。僕にとってはエリちゃんがすべてだったけれど、エリちゃんは学校に行けば友達がいて家に帰れば犬のシロがいるのだから。

 悲しかったけれども、抱きついてくるエリちゃんの柔らかさと温もりの前に邪な気持ちが芽生えた。「最後に会ったのが何年も前の知り合い」として恋心を告げるより、「愛犬のシロの幽霊」に成りすました方が幸せな時間を過ごせると僕の中の悪魔がささやいた。

 罪悪感がなかったわけじゃない。でも、最初で最期のチャンスだった。実際に、何千回も妄想したエリちゃんとのデートを実現している時が人生で1番幸せだった。何度「生きててよかった」なんて不謹慎な言葉を飲みこんだか分からない。エリちゃんが笑ってくれたことだけが救いだった。1つだけ神様に言い訳をするならばエリちゃんに笑顔でいてほしいという気持ちも確かに真実だった。

 幼い頃エリちゃんが教えてくれた場所に一緒に行くことが出来た。エリちゃんが可愛いジェスチャーを交えて話す公園や河原での出来事は、どんな御伽噺よりも僕を虜にした。シロみたいにエリちゃんとかけっこをする体力はさすがになかったけれど、エリちゃんが教えてくれた外の世界をこの目で見られただけで満足だ。

 観覧車の中でしたファーストキス。僕はこのために今日まで生きてきたのだと思った。神様に心の底から感謝した。この幸せな時間がずっと続けばいいのに。そうは問屋が卸さなかった。

 観覧車が地上に着いて、座席から立ち上がった瞬間、全身に痛みが走った。街を歩き回り医者に止められたお菓子を食べれば当然体調は悪くなる。悔しいけれど、自分の体調の事なんて自分が1番分かっている。そろそろタイムリミットだ。

 我ながらうまくごまかせたと思う。遠方に住む祖父母や、僕の入院費を稼ぐために多忙ゆえなかなかお見舞いに来られない親の前では、元気に見えるように振る舞ってきた経験が生きた。

 屋上の自動販売機で大きい方の水を買って、男子トイレに駆け込む。ここならエリちゃんに見られずに薬を飲める。決められた時間に飲む薬と、体調が悪化した時に飲む薬と、発作を抑える薬。250ミリリットルの水では飲みきれないほどの大量の薬を、500ミリリットルの水で流し込んでいく。

 チョコレートの苦さとは全然違う、ただ苦いだけの薬。まずい薬。嫌な臭いがする粉薬。エリちゃんとのキスが薬の味で上書きされていくのがとても悲しかった。飲み終わった後、軽く口をゆすいでも口の中から薬の味が消えてくれない。

「こんなんじゃ、もうキスできないなあ」

 やるせなさに天井を仰いだ。泣きたくない。泣きながら帰ってエリちゃんを心配させたくない。好きな子の前では最期までかっこいい男の子のフリをしたい。涙をこらえて、深呼吸を繰り返すうちに、薬が効いて体調が落ち着いてきた。

 エリちゃんを家まで送り届けた後、タクシーを拾って病院に戻るくらいの余力はありそうだ。催事場を通り抜けて待ち合わせ場所であるエレベーターに向かう。催事場ではタイムリーにもチョコレートフェアをやっていた。

 犬のロゴが描いてある金色の箱が、ふと目に入った。これが俗にいうパッケージ買いというものなのだろうか。病院の売店以外の実店舗での買い物は人生で初めてなのでよく分からないが、思わず衝動買いした。金色の犬のお守りをくれたエリちゃんへの最初で最後のプレゼント。

 幸いにも発作を起こすことも体調不良を悟られることもなく、エリちゃんを家に送り届けることに成功した。「消える瞬間を人に見られると天国に行けない」なんて口から出まかせで、エリちゃんの前から自然に姿を消す。人生最大の嘘はどうにか突き通せた。

 最後にエリちゃんが「大好き」と言ってくれた。嬉しかった。調子に乗ってもう1度キスしてしまった。ほとんど病院から出られない生涯だったけれど、その一言だけでお釣りがくるほど僕の人生は幸せなものだったと自信を持って言える。

 エリちゃんの家の庭には小さなお墓があり花が供えてあった。僕は会ったことの無い彼に手を合わせる。
「ごめんなさい。君の名前を勝手に騙りました」
死者を冒涜した僕はもうすぐ地獄に堕ちるだろう。それでも後悔しない。最低な僕はもう1度深く頭を下げてエリちゃんの家を後にした。
(許すよ、だってエリちゃんが笑ってくれたから)
 後ろから誰かの声がして振り返ったが、誰もいなかった。その声は祖父の声に少し似た渋い声だった。シロと僕の生年月日は同じだと昔エリちゃんが言っていた。犬の16歳は人間で言うと80歳くらいだっただろうか。昔聞きかじったそんな話をふと思い出す。全部僕の都合のいい自己正当化なのかもしれないけれど。

罰が当たったかのように、2つ目の角を曲がって大通りに出たところで眩暈がした。全身の力が抜けてその場で倒れた。神様がくれた束の間の幸せの時間が終わったようだ。薄れゆく意識の中、チョコレート味のキスを思い出す。

あの苦さも甘さも全部、僕の初恋そのものだった。
 数日後。
「オンユアマークス」
 放課後、1学期期末試験前最後の部活。本日最後のタイム測定。計測係の後輩の高い声に合わせて、先輩たちと並んでクラウチングスタートの体勢をとる。
「セット」
 私はまっすぐ前を見つめる。パアンとスタートの合図が鳴った。私は全速力で風を切って走る。前には誰の姿も見えない。ひたすら加速する。気づいたらゴールラインを駆け抜けていた。
「コバ先輩、やりましたね! 自己ベスト更新っすよ!」
 肩で息をする私に、ストップウォッチを持った後輩が駆け寄って来た。私は笑顔でピースサインを返す。
「完全復活だね、コバ」
 先輩に背中を軽くたたかれる。振り返ると息を切らせた先輩が満面の笑みで親指を立てている。
「心配かけてすみませんでした」
 息を整えながら軽く頭を下げる。

 シロが死んでからずっと休んでいた陸上部の練習に、デートの翌日久々に顔を出した。いつまでも立ち止まっていたら、シロに合わせる顔がないから。
 しかし、復帰直後はブランクのせいでタイムもひどいしフライングを連発していた。今日、ようやく本調子に戻った。先輩も顧問もコーチも事情を知っていたので、長期の欠席や不調を責められることはなかったけれど、心配をかけたのは事実だ。

 最後の練習日ということもあり、ねぎらいの意味を込めて顧問が全員にアイスを差し入れしてくれた。様々な種類の棒アイスがクーラーボックスいっぱいに入っている。
「コバ、先に選びなよ」
 部員のみんなが気遣ってくれる。私は迷わず大好きなチョコレート味を選んだ。
「ありがとうございます。おいしいです」
 練習後のアイスは美味しい。暴力的なまでの甘さが炎天下で走り続けた身に染みる。

 部員全員で和気藹々とアイスを食べ終わった後、夕方の通学路を友達と歩く。部活をしばらく休んでいたうえ、練習日でない日に限って通院していたので、こうして友達と下校するのも久しぶりだ。けれども、もう病院に行く必要もないだろう。
「うち全然勉強してないんだけど、期末やばい」
「あたしもノートほぼ白紙だわ」
「私もやばいかも」
 みんなで顔を見合わせて笑い合う。これは全員で期末テスト撃沈するフラグだろうか。
「さすがにやばいから、今日うちで勉強会やらない? 三人寄れば文殊の知恵~」
「ありよりのあり! コバも来るよね?」
「うん、ママに連絡入れるね」
「あたしも親に連絡しないと」
 親に遅くなると連絡し、談笑しながら友達の家に向かう。私は日常に帰って来た。これからもこんな日々が続くのだろう。シロと過ごした16年間の思い出と、1日限りの淡い初恋を胸に抱いて私は明日からも生きていく。シロに誇れるように、前を向いて生きていく。
 通っていた病院の前を通り過ぎて、友達のマンションのすぐそばまで来る。シロとよく遊んだ公園があり、滑り台の影が伸びていた。
 公園の前を通り過ぎたタイミングで、キャンキャンと鳴き声が聞こえた。聞き間違えるはずのないシロの声だった。
「え……? シロ?」
 私は思わず振り返る。信じられないことに、天国に行ったはずのシロが犬の姿で吠えていた。一目で幽霊かCGだと分かるほどに体が透けている。思わず駆け寄ると私の体をすり抜けるように私が来た方向へ走り出す。
「ごめん、やっぱり私今日パス」
 シロがついてこいと言っているのはすぐに分かった。私たちは以心伝心なのだから。シロを追いかけて全速力で走った。
「えっ? コバ、どこ行くの?」
 友達の声が後ろから聞こえる。
「ごめん! 今度絶対埋め合わせる!」
 ありったけの声で叫んで、そのままシロを追いかけた。無我夢中で走り続ける。部活であんなに走ったのに、なぜか体の奥底から力が湧いてきた。いくらでも走れる気がした。どこに向かっているのか分からないままに、シロについていく。

 シロが立ち止まって、大きな声で吠えた。私が通院していた病院の前だ。シロに触れようとすると、またシロは病院の中に向かって猛スピードで走り去ってしまった。私もシロを見失わないように、必死で追いかける。
 シロは吠えながら動物立ち入り禁止の院内を全力疾走しているのに、視線は私にばかり集まっている。シロが院内に入った瞬間も誰も気に留めていなかった。他の人にシロの姿は見えないのだろうか。
「院内は走らないでください」
 すれ違った看護師さんに何度か注意されたが、緊急事態だ。私はシロを追いかけて昔入院していた病棟の階段を駆け上る。
 廊下の隅の部屋のドアに向かって、小さい頃に宝探しやかくれんぼで何かを見つけた時と同じようにシロが大声で吠える。ドアには面会謝絶の札が掛けられ、入院患者の名前が表示されている。そこには「鈴原史郎」と書かれていた。その名前には聞き覚えのある気がした。
 思い出す間もなく、シロがドアをすり抜けて中に入る。勝手に入っていい物なのか分からないが、ドアを開けた。幸いにも施錠されていなかったので、そのまま入れた。

 信じられないことに、たくさんの管が繋がれた人間のシロが蒼白い顔で眠っていた。苦しそうな呼吸を繰り返しているけれど、その顔はどこか幸せそうだった。枕元には彼が持っていた金色の犬の折り紙。その傍らに犬のシロが座り、人間のシロの顔をペロペロと舐めている。
 訳が分からない。犬のシロと人間のシロが同時に存在している。そう認識した途端、霧のように犬のシロが消えた。
 人間のシロのはだけた入院着の胸元にはいくつもの手術痕がある。シロは生前手術なんてしていない。
 何か違和感がある。そういえばシロはお財布を所持していて、普通にカフェでお会計をして、デパートで買い物をしていた。「奇跡」の一言で片づけるならそれまでだけれど、お金はどこから降って来たんだろう。
 そもそも、どうしてシロはチョコレートを食べたいなんて言っていたんだろう。私はシロの前でチョコレートを食べたことは16年間ただの一度もない。チョコレートのおいしさについて熱く語ったような記憶もない。シロはチョコレートという食べ物の存在をどこで知ったのだろう。
 あの日見逃した数々の不自然さが浮かんでは消える。それを繰り返すうちに頭の中の靄が晴れてずっと忘れていた遠い記憶が蘇る。幼い日の私が、シロと同じ色の瞳の少年を見てはしゃいでいる。

――シロ? うちのワンちゃんとおんなじ名前だ! しかも、目の色もおんなじ! すごーい! じゃあ、私達、もう親友だね!

 私はこの人を知っている。
 心臓の動悸が止まらない。そんな中、うっすらと目を開けた彼は私の姿に気づいた。

「エリ……ちゃん……?」

 夢現状態の彼に返事をする。

「うん、エリです」

 途端に、彼は目を見開いて驚いている。

「え、何でここにエリちゃんが……」

 どこから話せばいいのだろう。死んだシロが人間になって会いに来たなんて突拍子もない話を心の底から信じていた私が言うのもおかしいが、幽霊のシロにここまで案内されたと言って信じてもらえるだろうか?

「えっと、教えてもらったの」

 誰に、の部分は伏せて答える。彼の顔がこわばる。

「私たち、昔ここで会ったことあるよね。私が事故に遭った時。えっと、お久しぶり」

 私がそう続けると、彼は観念したように謝罪する。

「ごめんね。僕、エリちゃんのこと騙してた。シロ君にも、本当にごめんなさい」
彼は一筋の涙を流した。
「許してなんて言わないけど、泣かないでほしいって気持ちだけは本当でした。僕のこと恨んでもいいから、昔の明るいエリちゃんに戻ってほしい、なんて僕に言われたくないよね。ごめんなさい」
 息も絶え絶えに起き上がった彼に、頭を下げられる。
「怒ってないよ! シロも私も、怒ってないよ。だって、私をここに連れて来てくれたのはシロなんだよ!」
 シロが幽霊になってでも彼がここにいることを教えてくれた。忘れていた大切なことを思い出させてくれた。私の代わりに彼を見つけてくれた。シロが怒っているわけがない。
「私が落ち込んでたから助けてくれたんだよね」
 ずっとふさぎこんでいた私を街に連れ出してくれたのは彼だった。久しぶりに何かを見て綺麗だと思えた。楽しいという感情を思い出した。チョコレートの味が分かるようになった。ちゃんと笑えるようになった。
 シロが成仏できないほど心配をかけていた私を立ち直らせてくれた。
「看護師さんたちが、エリちゃんのこと話してるのを聞いたんだ。それで、いてもたってもいられなくなって病室抜け出しちゃった」
「それで、具合悪くなっちゃったの?」
「大丈夫。あの日はちゃんと通りすがりの親切な人が救急車呼んでくれたから……」
 救急車を呼んだと言うことは倒れたと言うことだろう。
「何で、そんな無茶したの。命にかかわるかもしれないのに」
 声が震える。
「確かにちょっと寿命縮んだかもしれないけど、誤差だよ。元々、10歳までに死ぬって言われてたし。ただ、最近また具合悪くなって、どうせ何もしなくてももうすぐ死ぬんだろうなって。体感だとあと1ヶ月くらいだったし、最後にエリちゃんに会えるなら本望だったから」
「何で、私のためにそこまで……」
「100%エリちゃんのためだって言えたらカッコよかったんだけどね。残念ながら下心があった。初めて会った時からエリちゃんのことずっと好きだったから。ごめんね、気持ち悪いよね。人として最低だよね」
「気持ち悪くなんてないよ! それに、シロだってきっと言葉がしゃべれたら史郎君にありがとうって言うはずだよ!」
 シロのことは私が誰よりよく分かっている。
「信じられないと思うけど、さっきまでシロがここにいたの。かくれんぼで私のこと見つけた時みたいに、史郎君のことペロペロしてた。シロは友達とか家族にしかそういうことしないの。ねえ、覚えてる? いつか3人でかくれんぼしようって約束してたの」
 私の言葉を聞いて、彼は大粒の涙を流した。しかし、その顔は嬉しそうだった。
「覚えててくれたんだ……。そっか、僕は約束守れなかったけどシロ君が会いに来てくれたんだね。本当にシロ君には頭が上がらないや……」
「信じてくれるの?」
「うん、僕が信じたいから」
 彼の言い方には含みがあるような気がしたが、シロの魂の存在を信じてくれたことが嬉しかった。

 突然、彼が咳き込む。
「大丈夫? 起き上がってるの辛くない? ナースコールしなくて平気?」
「うん。心配させてごめんね。昨日まで指動かすのもきつかったんだけど、エリちゃんの顔見たら、ちょっと元気になった。って言っても、もう病室出るのは無理だけど。生きてたらいつかエリちゃんに会えるかなって信じてたら、予定より長生きできたし、エリちゃんが僕に命をくれたんだ。変なこと言ってごめんね。でも、本当に好きだったから、ずっと忘れられなかった」
「私も史郎君のことが好き」
 私は反射的にそう答えた。これは100%の本心だ。彼はシロの幽霊の話をした時よりも遥かに驚いた表情を見せる。
「それは僕がシロ君に成りすましたから……」
「それでも、あの日私と一緒にいたのは史郎君でしょ?だから、私が恋をしたのは史郎君だよ!」
彼が驚いて目を見開いた。驚くのも無理はない。今の今までずっと忘れておいて、再会して1日遊んだだけで「好きです」なんて言って信じてもらおうなんて都合のいい話だと思う。
「ほんとに……?」
「うん。あの日史郎君と一緒に過ごして、楽しくてあったかい気持ちになれたの。キスした時、すっごくドキドキした。気づいたら、史郎君のこと好きになってた。だから、ごっこじゃなくて、ちゃんと恋人になろうよ」
 彼が涙を拭ってはにかんだ。
「シロちゃんでいいよ、エリちゃんにそう呼ばれるの、大好きだったから」
他の誰かと同じ名前で呼ぶのも失礼だと思って、本名を呼んでいたが、不自然さは見抜かれていたようだ。その時、空の上から、誰かの声が聞こえた気がした。

(エリちゃん、幸せになってね)
おじいちゃんみたいにしゃがれたその声はとても懐かしく優しかった。私たちは2人で天を仰いだ後、顔を見合わせる。きっと彼にも同じ声が聞こえたのだろう。そうだ、あの子が応援してくれている。だから、後悔しちゃいけない。

「シロちゃん、好きだよ」
「僕もエリちゃんが大好きだよ」

 私たちは愛を伝えあう。ごっこ遊びじゃない、嘘も勘違いもない、本当の恋人同士として。そして、私は改めて提案する。

「ねえ、やっぱりしようよ。2人だけの結婚式」
「えっ、でも、もう教会までなんて行けないよ」
「うん。だからここでするの」

 私はベッドから白い掛布団を借りて被る。花嫁のヴェールの代わりだ。端から見ればおままごとやごっこ遊びにしか見えないけれど、私はいたって本気だ。
「私、小早川エリは、シロちゃんのことを一生愛して、幸せにすると誓います」

 指輪もないし、口上もお作法も何も知らない。それでも、せめて形だけでも、この恋を「永遠」にしたい。

「僕はエリちゃんのことをこの命がある限り愛し抜くことを誓います」

 シロちゃんもそう返事をしてくれた。私たちは見つめ合い、どちらからともなく唇を重ねた。誓いのキスは、やっぱり少しだけチョコレートの味がした。

 この恋がハッピーエンドになる可能性は限りなく低いのかもしれない。それでも、私たちの不器用で苦い恋に残された時間が少しでも甘いものになることを神様に祈った。

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