「お待たせ」

 シロに声をかけられてはっとする。

「次、どこ行きたい?」

「うーん、そろそろタイムリミットだし、エリちゃんのこと家まで送っていくよ」

 タイムリミット。その言葉に冷水を頭からかけられたような気持ちになる。

「ギリギリまで、シロのやりたいことやろうよ」

 現実から逃げたくて、何とか声を絞り出す。

「ほら、何でもいいんだよ。あるでしょ、やりたいこと。お父さんとお母さんが結婚式あげた教会に忍び込んで、結婚式ごっこするとかどう?」

 動揺のあまり、無茶苦茶な提案をしてしまった。シロの眉毛がぴくっと動く。

「出来るならしたいけど……もう時間ないから」

「ダメ元でも行こうよ。今から行けば、間に合うかもしれないじゃん」

 ここから教会までは少し距離がある。

「ダメだよ。外暗くなってから、エリちゃん一人で家に帰すわけにいかない。エリちゃん女の子なんだから危ないし」

 最期だと言うのに、自分のことより私のこと。やっぱり、シロは優しすぎる。

「帰ろう、エリちゃん」

 シロが私の手を取った。シロも、最期にもう1度我が家に帰りたいのだろう。

「あ、でも、お父さんとお母さん今日帰り遅いって……。ごめんね、2人にも会いたかったよね」

 両親はどちらも仕事柄、勤務中は連絡が通じにくい。仮に連絡が取れたとしても、職場も遠いので、今から呼んでも間に合わない。

「謝らないで。エリちゃんに会えたから充分だよ」

 シロが私の頭を優しく撫でてくれた。また心臓がトクンと鳴る。そのまま手を繋いでゆっくりと家路を行く。

 我が家は目と鼻の先だ。今は家に誰もいないから、帰ったらシロと2人きりだ。シロが生きていた頃は当たり前の日常だった。でも、シロが人間の姿だと言うだけで今までとは全然違う。

 隣を歩くシロの横顔はかっこいい。人間の姿だと意外と背が高い。犬のシロの声も大好きだったけれど、人間のシロの声も好き。さりげなく車道側を歩いてくれる優しさはまるで王子様みたい。

 シロは男の子なんだ。それで、私をすごく大事に女の子扱いしてくれる。シロに楽しんでもらうためのデートだったはずなのに、私の方がいつの間にか夢中になっていて、私ばっかりドキドキしていた気がする。言い逃れできないくらい、私は人間のシロのことを一人の男の子として好きだ。

 そんなドキドキを抱えたまま、家について玄関に入る。私の緊張をよそに、シロが告げた。

「じゃあ、僕はもう行くから。今日は本当にありがとう。元気でね」
 シロが何を言っているのか分からなかった。
「なんで……? 最期まで一緒にいたいよ」
「あー……ごめんね。最期の瞬間はエリちゃんに見られちゃいけないんだ」
「シロの言ってること、よく分かんないよ」
「ほら、こういう奇跡のお約束的なやつ。ルール破ると天国いけなくなっちゃうみたいな感じ」
「嫌だ、行かないで!ずっと一緒にいてよ!」

 私はデート前と同じように泣いてシロに縋りついた。今度こそ永遠のお別れ。寂しい。悲しい。苦しい。神様がくれたボーナスタイムも全然足りない。私の寿命をシロと半分こできればいいのに。

シロは親指で私の涙を拭った。

「エリちゃん、泣かないで。これ、エリちゃんにあげるから」

 シロに小さな紙袋を手渡される。金色の箱に、犬のロゴと英字。海外のメーカーのチョコレートだった。デパートでこっそり買ったのだろう。

「エリちゃんが元気になりますようにっておまじない。大事に食べてよ、僕からの最期のプレゼントだからさ」

 シロは私の味覚障害を気にかけてくれていた。私は最後の最後まで、天国へと旅立つシロに心配をかけていた。

「僕がいなくなっても、もう泣かないでね。涙でしょっぱいチョコなんて美味しくないでしょ?」

 シロが笑う。優しいシロは私に思い出を作るために1日一緒に過ごしてくれた。私が前を向けるように。だから、笑って送ってあげないとシロは安心できない。頑張って口角を上げて笑顔を作った。

「バイバイ、エリちゃん。大好きだよ」

シロは「大好き」を、恋としての好きなのか家族としての好きなのか明言しなかった。でも、私にとってはいつの間にか今日の恋人ごっこはいつの間にかごっこ遊びではなくなっていた。
 私も言わなきゃ。涙をこらえて、シロはすぐ近くにいるのに思いっきり叫んだ。この気持ちが少しでも強く、シロに伝わるように。

「私も大好きだよ! ずっと、忘れないから!」

 シロが目を見開く。キラキラした瞳が一層光る。シロは微笑むと、私が持っていたチョコレートの箱に手を伸ばす。蓋を開けて一粒チョコレートを取り出すとそれを咥えた。

 私の頬に手を添えると、そのまま顔を近づける。やっぱり目が綺麗だと見惚れていたら、そのままそのチョコレートを私に食べさせた。一瞬だけ、シロの唇が私の唇に触れた。

 放心状態の私の髪をそっと撫でると、シロは私に背中を向けて歩き出す。ドアを開けて、玄関を1歩出た後、シロはもう1度振り返って手を振ってくれた。

「さよなら」

シロがそう言ってドアを閉めた。この扉を開けちゃいけない。追いかけちゃいけない。泣いちゃいけない。シロがちゃんと天国に行けるように。

 生まれた時から、ずっとシロが隣にいた。そのシロが私の元から空の彼方へ旅立ってゆく。公園でかけっこをして、かくれんぼや宝探しで日が暮れるまで一緒に遊んだシロ。学校の話も、楽しかった話も、ちょっとアンラッキーだった話も何でもシロになら話せた。シロがいたから私は幸せだった。

 シロがいなくなって、空っぽになった私を助けてくれたのもシロだった。一緒にチョコレートを食べる日が来るなんて思わなかったし、観覧車に乗れるとも思っていなかった。男の子と手を繋いで、キスをして……。

 16年間誰よりも大切な家族だった。今日、シロは最期に恋を教えてくれた。シロがいたから私の人生は幸せだったと言えるように、頑張ってみようと思う。シロ、天国で見守っていてね。

 シロとの思い出を噛みしめるように、シロが食べさせてくれたチョコレートを噛んだ。口の中でガナッシュがとろける。久しぶりに味がしたそれはちょっとだけ苦くて、とびっきり甘かった。