とても綺麗な月を見た時に、僕は君のことを思い出します。あの日、本当に偶然、君と出逢えたことが、僕の人生をとても煌びやかなものに変えてくれました。ありがとう。僕はもう、花鳥風月が沁みるぐらいおじさんになってしまったけれど、記憶の中の君は、いつまでもあの時のまま、瑞々しい姿をしています。
 君は今の僕を見て、何て言うだろう? 君だけを想い続けて生きてきた、この滑稽な人生を笑い飛ばすだろうか?
 三十年前、僕と君に永遠の別れが訪れた。
「生まれ変わって会いに行く」
 そんな馬鹿げた君の言葉を信じて、そんな馬鹿げた君の言葉に縋って、僕は今日まで生きてきました。でも、僕はもう終わりにしたい。君のいない三十年はあまりに長すぎたし、平均寿命から考えて、更に三十年はこれから先、生きていかなければならない。
 そんな人生に意味はない。僕は自分のことが嫌いだったし、それは今でも変わっていない。だけど、君と一緒にいる時の自分は嫌いではなかった。君がいない僕は僕ではない。僕という物の在り方は君を通してしか映し出すことができない。そんなことはずっと分かっていた。でも、いつかもう一度って有りもしない幻想を待ち続けた。そんな人生に僕はほとほと疲れてしまったよ。
 君と出逢った川辺に座る。月が綺麗な夜に、僕の思念はあの日にタイムスリップする。
 どうせなら、最後に綺麗な物を見てから死のう。首吊り用のロープをリュックに入れ、都会の喧騒とは無縁の場所まで遥々やってきた。
 観光案内雑誌の見開きページに、デカデカと掲載されていた月があまりにも綺麗で、是非ともそれを生で見てみたいと思った。星空が綺麗に輝く空に、まん丸の月が闇夜を照らしている幻想的なショットに心を奪われた。
 できることなら誰にも邪魔をされたくない。この光景を一人占めした後で、誰にも知られずにひっそりとあの世に行きたい。そう思った僕は、できうる限り人目を避けるために深夜の時間を狙って、最終便で目的地の最寄り駅に辿り着けるように計算をして自宅を出発した。
 勿論、帰りの電車は朝まで出ていないが、もう帰ってくることはないので、構わない。いちいちそんなことに気を割いていたら、あの幻想的な光景がどこかくすんでしまいそうな気がして、僕は雑念の一切を取り払った。
 目的地の最寄駅に着くと、都会では嗅いだことのない自然の匂いが優しく鼻腔を刺激した。まるで、僕がここに来たことを歓迎してくれているかのようだった。
 そこから目的地までは二十分少々歩く。少し山の谷の方に向かって歩くため、所々、道なき道のような場所もあったが気にならない。疲れようが仮に怪我をしようが関係ない。どうせ僕は今日、死ぬのだから。
 
 しばらく山道を歩いていると、下の方に木々が開けて川が流れているのが見えた。夜は深く、辺りは街灯もなく暗いのだが、月明かりが妙に強く僕の周辺を照らしていた。僕は観光案内雑誌を片手に、実際に自分が今見ている風景と見開きページの幻想的なショットを重ね合わそうと努めた。
 川辺に着くと、多少のアングルの違いこそあれ、幻想的なショットと幻想的な風景がぴったりと重なった。僕は完全な状態を見たい。だからこの、アングルの微細なずれも妥協しない。
 僕はさらに少しだけ歩く。月明かりに導かれるように。幻想的なまん丸の月に吸い込まれるように。
 月明かりというのは不思議だ。荒み切った僕の心を、一片一片浄化してくれるかのように優しく包んでくれる。川のせせらぎと虫の声以外は静寂が広がり、僕はこの光景を一人占めできている現状に小さく心が踊った。
 確実に目的の場所に近付いている。少しずつだが確実に、僕の歩は百パーセントの一致に迫っている。でも、本当に微妙に重なり合わない。九十九パーセントは一致しているが、どこか違う。
 僕が百パーセントの一致を追い求め右往左往していると、川のせせらぎと虫の声以外の音が聞こえてきた。
「多分、ここだと思うよ」
 大して大きくない声なのに、静寂を切り裂くような鋭さを感じる。
 女性の声だ。
 声がした方向に顔を向けるが、姿を確認できない。
「こっちだってば」
 少し上の方から声が聞こえたのが分かった。見上げると、恐らく同年代ぐらいの女の子がいた。
 洋服箪笥ぐらいの大きさのコンクリートの置物が、この自然とは不釣り合いな様相で、その場に存在している。ペンキで黒く塗り潰されていたこともあり、一瞬その存在を視認することができず、まるで彼女は宙に浮いているように見えた。
 先客がいたことに驚くと同時に落胆した。この光景を一人占めした後に死ぬという計画が、完全に崩れたからだ。文句の一つでも言ってやろうと思い、僕は彼女の方に歩を進めた。そのコンクリートの置物の側面には、よく見ると簡易的な梯子が取り付けられている。全体的な造りを見ると、元々の用途は推測し切れないが、展望台の一部分だけを切り取ったような姿をしている。
 梯子を上り、彼女の元にたどり着くと、僕はたった数メートル高さが変わっただけなのに、風景の見え方が一変したことに驚いた。まるで、月までの距離が半分に近付いたかのように、引き寄せられたかのように、僕は空を近くに感じていた。
「ねっ! 全然違うでしょ?」 
 僕の心を見透かしたかのように彼女が言う。そんな彼女のことを注視すると、スケッチブックにペンを走らせていた。顔は真剣そのもので、貪るように月とその周辺の風景を描いている。
「何してんの?」
「どこからどう見ても絵を描いているでしょ? 目、付いてないの?」
 語気はやや強いが、怒っている様子はない。僕もまた、そんな彼女に対し嫌な感じはしない。恐らく、月の光に照らされた二人は心が浄化されて、怒りの感情が芽生えにくくなっているのだろう。
 きっと、数メートル空と近付いただけで、月の魔力は何倍にも膨れ上がったのだろう。先程までは文句を言うつもりだったが、そんな気も失せて、風景と彼女の絵を対比しながら彼女のことも眺めている。白く透き通った肌とスッと通った鼻筋と大きな瞳が、月の光に照らされて、より妖艶に強調される。
「何? 私に見惚れているの?」
「うん」
 死ぬつもりでここにやって来たのだ。恥も外聞もない。嘘をつく必要性が毛頭ないので、僕は素直に彼女の言葉を肯定した。
「そこ、恥らいを持って否定するとこでしょ? 何を百パーセントの肯定をしてるの?」
 彼女は僕の反応に笑いながら言った。
「別に。嘘ついても仕方ないから。俺もう死ぬからさ」
 僕の口から死というフレーズが飛び出した瞬間、彼女から笑顔が消えた。少し怒りの表情にも見える。でもそんなことどうでもいい。好かれようが嫌われようが僕はどうせ死ぬ。何なら嫌われた方が気持ちが楽だ。
 お互い後味が悪くならないで済むし、嫌いな奴が勝手に死んだところで悲しむ奴なんてそうはいないだろう。
「贅沢な奴だね」
 彼女は表情に怒りは見えるものの、口調は冷静だった。呆れ果てているから、声を荒げる価値もないと思われたのかも知れない。僕が何も反応せずにただ月を見ていると、彼女は言葉を続けた。
「生きたくても生きられない人が沢山いる中、自ら命を捨てようとするなんて無責任だと思わないの?」
「責任か。考えたこともなかったな」
 彼女の言葉は、むしろ言い尽くされてきたぐらい定番のセリフだと思う。でも、自分は根本的に他人に興味がない。自分自身をないがしろにするぐらい自己肯定感も低く、他人の想いにまで思慮する発想がそもそもなかった。

「一応、話を聞いてあげるよ。何で死にたいの?」
 彼女は呆れながらも、僕に寄り添おうとしてくる。優しい子なのだろう。今の僕にとって、その優しさは喜ばしいものではなかったが、それを無下にするのは何か違うと思った。
「天涯孤独ってやつでさ。物心付いた頃から施設で育ってね。今年から自立支援ってことで施設を出て一人暮らしすることになったんだけど、一人になったら猛烈な孤独感に襲われてさ。何だろう? 誰もいない世界に放り出された気持ちになった。街に出て、どれだけ多くの人とすれ違って、無機質な会話を交わしても、そこに誰もいないような錯覚を起こすんだ。だから何だろう? 俺がいてもいなくても世界って変わらないんだろうなって何か悟った」
 こんなに熱を込めて自分の内側を人に晒したことはなかった。彼女はペンを置いて、僕の話に聞き入っていた。お互い目的は違えど月を見るという共通の行為をしていたが、今はお互いの顔を見るという共通の行為をしている。綺麗な顔をしているな、と思った。どうせなら最後に綺麗なものを見てから死のうと考えていた僕にとって、彼女の存在はありがたかった。綺麗なものが一つ増えたな、と思い、自分でも驚くほど冷静に彼女の顔を凝視していた。