「学校って、疲れる。」

なんて独り言が、口から零れ落ちた。放課後、地学室の机に突っ伏して目を瞑る。久しぶりに学校での5日間を過ごしたらなんだか大分疲れてしまって、こんなに疲れるものだっけ?と首をかしげてしまった。夏だからか、関係ないか、いや、無くもないか。

そのまましばらく机にダラーと突っ伏したまま、セミの大合唱に耳を傾けた。急にガラガラッと扉が開く音がして、びっくりして飛び起きる。

「うわ、珍しい。」
「・・・何が?」
「先輩、金曜日はいつもいないから。」

入ってきた海老名はそう言って欠伸をする。海老名の言葉に心臓が小さく音を立てた。そうだ、私は金曜日はいつも部室に寄らず直接帰宅している。海老名、気づいてたんだなあ。なんだかいつにも増してダルそうな海老名は、いつもの席に腰かけて私と同じように机に突っ伏して、もう一度大きな欠伸をする。どうやら眠いらしい。少しだけ瞼を開ければ、海老名の手のひらがすぐそこに見えた。私の髪に触れそうなほど近くて、そしてまた私の手も海老名の髪に触れられそうなほど近かった。少しだけ息をのんで、でも手は伸ばさなかった。代わりに目を瞑って、この時間をいつまでも覚えていたいと強く願った。

そのままお互いに少しだけ本当に眠ってしまった。目を開けばギラギラしていた太陽が夕日に変わっていて、海老名と一緒に大きな欠伸をする。少しの沈黙の後、彼の名前を呼ぶ。

ねえ。

「私の名前、知ってる?」
「なに急に。」
「・・・いや。いつも先輩呼びだしなあと。」
「・・・知ってるに決まってんじゃん。」

少し、少し躊躇うように、彼が口を開く。
彼の前髪が夕日に照らされて少し透けていて、綺麗だな、なんて思ってしまった。

凛乃(りの)。」

少し視線を落として、私の名前を呼ぶ。

「高坂、凛乃。」

何だか少し恥ずかしそうに俯いたままそう言って、そして、ゆっくりと視線をあげた。数秒、彼と目が合う。なんとも形容できない感情が胸の中をぐるぐると渦巻いて、それがバレないようにと大きく深呼吸をした。先に目を逸らしてしまったのは、私だった。

「・・・正解。」
「よっしゃ。」

小さくガッツポーズをして見せる彼に思わず笑ってしまった。そのまましばらく静かな時間が流れて、窓から差し込む夕日を浴びて少しだけ目を閉じた。あれ、なんだか、泣きそうだ。

「あ、俺、そろそろ行かなきゃ。」
「うん。じゃあね。」
「先輩は?まだ帰らない?」
「これだけ読んだから帰ろうかな。」

そっか、と海老名なひらひらと手を振って地学室を出ていく。その背中をボーッと見つめてしまっていれば、突然彼が振り向いた。

「凛乃先輩。」

「これ、あげる。」

不意に彼が何かを投げる。慌ててキャッチすれば、チリン、と手のひらの中で小さく音が鳴った。海老名はそのまま振り返らずに教室を出て行く。その耳は真っ赤に染まって見えて、でも夕焼けのせいだという事にしておこう、なんて。だから今私の頬が赤いのも、全部夕焼けのせいだ。青色の鈴を優しく握りしめる、そしてその手のひらごと抱きしめた。




「なあ(しゅん)。カラオケ寄って帰ろうぜ。」
「悪い、遅れて合流するわ。」
「なんだよ、また地学室かよ。」
「だって俺地学部員だもん。」

じゃ、また後で、と同じクラスの友人に手を振って教室を出る。その足で地学室へ向かったけれど、中々扉を開ける気にはならなかった。ふう、と大きく息を吐いて、勢いよく扉を開ける。

けれどやっぱり、中には誰もいなかった。

先輩に鈴を渡した日を最後に、先輩は学校には来なかった。2週間たっても、この前みたいに1か月がたっても、2か月たっても、先輩は来なかった。寂しさを通り越して、怒りになって、でも今はもう、不安で仕方なかった。気づけば俺は毎日地学室に寄って、その足で先輩の教室の前を通るのが日課になっていた。でも昨日も先輩はいなかったし、今日もいないし、明日もきっといない。でも、どうすればいいか分からなかった。

「ねえ、誰か探してるの?」

先輩の教室の前を通り過ぎた時、丁度教室から出てきた人に声を掛けられた。目についてしまうほど髪の毛がサラサラで、彼女は真っ直ぐに俺の目を見つめていた。

「え、あ、いや。」
「もしかして、高坂さん?」
「え、なんで。」
「前も一回、クラスの子に聞いてなかった?」

その言葉に頷けば、その先輩はなんだかとても悲しそうに目を伏せた。嫌な予感がして、でも、聞かなければならないと思った。

「私も、最近初めて聞いたんだけどさ・・・。」

彼女の話を聞き終わる前に、俺の頭の中が真っ白になってしまって、気付けば俺は自分の部屋に居た。どうやって家に帰ったかも覚えていないけど、でもきちんと自分の部屋にいた。ご飯を食べて、お風呂にも入っていた。

寝巻のままベランダに出る。夜は静かだ。ゆっくりと吹き抜ける風はもう冷たくて、ねえ先輩、また季節が変わっちゃっちゃったよ。

プルルル、と着信音が続いて、もう諦めていたその時に、プツ、と電話がつながる音がした。

『もしもーし。』
『・・・』
『おいおい。掛けて来たのに無視かよ。』
『・・・』
『あのさあ、不在着信2桁は怖いのよ。ホラーなのよ。』

ねえ、海老名、聞いてる?

そんな彼女の問いかけに、俺はしばらく何も答えることが出来なかった。言いたい事は沢山あるはずのに、何も出てこない。それでも電話越しでも先輩の声が聞けて、少し安心している自分がいた。

先輩、さあ。

『・・・せんぱい、死ぬの?』

やっと出てきたのは、絞り出したのは、なんのデリカシーもないそんな言葉だった。電話口で先輩が息を呑んだのが分かって、何か言わなきゃと思ったけど、結局何も出てこなかった。

『・・・はは、そうね、死ぬね。』

先輩が乾いた笑いを零す。先輩のクラスメイトが言っていた、担任の先生から話があったと。「高坂は元々病気でしばらく病院に入院することになった。戻ってきた時は、温かく迎えてあげましょう。」なんて言っていたと。「いつ頃戻ってこれるんですか?」そんなクラスメイトの問いかけには、「それは分からない。」と首を振ったと。

『大学病院に転院になったんだ。もう、多分、学校には行けない。』

俺の希望を打ち消すように先輩がそんな事を言うから、思わず唇を強く噛んだ。この感情をどうすればいいかも分からなくて、それでも繋がったこの電話に今は縋るしか無かった。

『・・・ねえ、俺、お見舞い行きたい。』
『ありがとう。でもね、ほら、少し前にウイルスが流行ったでしょう?それでまだ、原則面会禁止なんだ。お母さんに会ったのも、1週間前が最後かなあ。』

また先輩が、俺の希望を1つ潰す。やめてくれよ、もう。口の中は血の味がした。強く握りしめている拳も、爪がくい込んで痛かった。

海老名。電話口で先輩が俺の名前を呼ぶ。何度も聞いた声で、俺の名前を呼ぶ。

『言わなくてさ、言えなくてさ、ごめんね。』

先輩の声はいつも通りだった。震えてるわけでも、泣いてるわけじゃないし、むしろ笑っていた。でも俺には分かる、彼女は隠している。上手に上手に、笑顔に色んなものを隠している。

『指切り、したでしょ。苦しくて苦しくて。私さあ。』

『あんなに守りたいと思った約束、初めてだったよ。』

我慢出来ずに涙が頬を伝う。でも泣いていることを先輩にバレたくなくて、大きく深呼吸をした。俺が泣いてどうするんだ、しっかりしろ。呼吸を整えることに精一杯で、何も答えることが出来なかった。

先輩には何もかもお見通しなんだろうか。『海老名、泣くなよ。』なんて言って笑った。何度も見た先輩の笑顔が、脳裏に浮かんだ。

『1個だけお願いがあるんだよね。引き出し、開けてほしいの。ほら、いつもの所。将棋盤とか入ってる所。分かった?』
『・・・うん。』
『よし。ほら、もしかしたら100万円とか入ってるかもしれないよ。期待しときな。』

なんて言ってまたおどけて笑う。俺はもう泣いてるのを隠すなんて見栄も忘れてしまった。ボタボタと涙が零れて、息が苦しかった。

『なあ、海老名。』

これが最後なのだろうか。俺の名前を呼ぶ先輩の声。
絶対に忘れたくないと、目を瞑った。

『今日も生きててえらい、満点花丸だよ、アンタ。』

ガチャン、と電話が切れた。




いつの間にか季節はすっかり秋だった。秋どころか、冬の気配も感じるくらい、今日は寒い。放課後、俺は地学室にいた。先輩に言われた通り何度も開けた引き出しを開ける。将棋、トランプ、それらが入っている所よりもっと奥に、何かが入っていた。手を伸ばして、触れる。

「・・・俺にだけは見られたくないって言ってたくせに。」

出てきたのは、先輩がいつも持ち歩いていたスケジュール帳だった。スケジュール帳にしては分厚いなあと思っていたが、開いて分かった。予定だけではなく日記も書き込めるタイプのもので、そこには日々先輩の文字で日記がつづられていた。・・・こんな大切なもの、俺が、読んでいいのだろうか。

少し怖くなって、でも少しずつページをめくった。
初めて見る先輩の文字は、なんだか、丸くて可愛かった。

いつも先輩が座っていた席に座って、日記を読む。そこには、先輩の日常と、抱えている想いと、色んな事が書かれていた。

生まれつき病気で高校卒業まで生きれるかわからないと言われていたこと、毎週金曜日が通院日だったこと。文化祭の日が元々決まっていた検査入院の日だったこと、その直前に風邪をこじらせて肺炎になってしまい、そのまま入院が長引いてしまった事。大学病院に、転院になりそうな事。それだけじゃなかった。俺の名前も、たくさんあった。

『海老名に将棋で56勝目。勝つ気あんのかアイツ。』『海老名と帰り道に肉まんを食べた。うまかった。』『海老名って意外と身長高い。今度何センチか聞いてみよ。』文字でも口悪いのかよ。と思わず笑ってしまう。ねえせんぱい、俺結局身長聞かれてないよ。

あの日、俺が先輩のスケジュール帳を見ようとした日、「アンタにだけは見られたくない。」と正直結構傷ついちゃった日。先輩の日記にも、その事が書いてあった。

『海老名にスケジュール帳を見られそうになって、柄にもなく慌ててしまった。反省。』
『でもどうしてもあいつにだけは見られたくない。だって・・・』

その続きを読んで、心臓が大きく音を立てた。もう一度先輩のスケジュールのページを見て、指でなぞる。5月の1周目は月、水。6月のこの週は水、木。ああ、この週は月曜日だけだ。確かテスト期間で家で勉強していたな、なんて。

小さな花丸が書いてあった。俺が地学室に来た日、その日付のすぐ横に。先輩の丸っこい字で、花丸があった。

『どうしてもあいつにだけは見られたくない。だって・・・』

『海老名が来てくれた日をメモってるなんて、知られたら私はもうあいつの顔を見れない。』

ポツ、と水滴が零れる。先輩の文字を濡らす。

『高坂、凛乃。』

名前を呼んだ時の、先輩の顔を思い出した。驚きと、恥ずかしさと、色んな感情が混ざった顔をしていた、初めて見る表情をしていた。名前もっと早く呼べばよかった、もっといろんな表情が見たかった、いろんな話がしたかった。

ああ、どうか、神様。
どうにもならない事は分かっているのに、願ってまた泣いた。

引き出しの奥に、もう一つ、入っていたものがあった。手を伸ばして、触れる。まあるくて、チリンと綺麗な音がした。

ピンクの鈴をゆっくりと手のひらに閉じ込める。そして、手のひらごと、抱きしめた。涙はぬぐわなかった、目を瞑って、ずっとずっと、抱きしめた。