懐かしい、部屋だった。
 本来なら襖か障子があるべき場所には格子状の壁。小さな扉には錠前。手の届かない位置にある小さな窓だけが頼りで、薄暗い。床が畳であることが唯一の救いだった。
 村にいたころ、普段は寝る間もなく働かされたけど、折檻で動けなくなるとここに放り込まれていた。それも、折檻の一環だった。
 池から引き揚げられた私はマツリと船頭の男に捕らえられ、マツリの足を縛っていた荒縄で両手足を縛られこの座敷牢に転がされていた。
 池からここに連れてこられるまでの道中見た村は酷い有様だった。
 縄で引かれて歩いているだけで、死臭が漂ってくる。
 疫病が流行り患者が出た家は焼かれ、諍いが絶えないという。周辺に夜盗も出るようになり、死が蔓延していた。
 これも全て私がコハク神を封じ損ねたせいだとマツリは責め立てた。ちゃんと私を殺してコハク神の元に送って儀式をやり直さなければと彼女は主張した。マツリの嫁入りの儀式は中断され、私を連れ戻り今頃村長の家で会合が開かれているのだろう。でも、私はちゃんと旦那様の元へ行った。私の身で乱された鏡面は降り注ぐ雨で現世を映せず、コハク様はずっとあの庭にいた。私はきちんと花嫁としての役を果たせていたはずだった。なのに、なんで……?

「ウタ様!」

 床に転がされながら眉間にシワを寄せていると、あの庭で聞きなれた声がした。

「遅くなって申し訳ありません。池の中でなかなかアレとの決着がなかなかつかず……」

 窓から法吉の声がした。マツリが池に飛び込まなかったから、法吉もこちらに来られたんだ。池の中から飛び出し、私を引きずり込んだ手。急にあの手の拘束が解けたのは、法吉が戦ってくれたおかげだったんだ。
 ほっとした気持ちで床を転がって窓の方に顔を向ける。法吉の姿を期待してのことだったけど、私が見たのは山伏姿のウグイスではなくただのウグイスだった。

「法、吉……?」

「はい! 法吉でございまーすよぅ!」

 聞きなれた口調と声でそのウグイスがさえずる。窓からぴょこんと畳の上に降り立って、ちょこちょこっと私の方に歩み寄ってくる。近くで見ても、ただのウグイスだった。

「かわいい……ね」

「ありがとうございます! 瘴気が酷くて現世に合わせた姿しか取れないんですよぉ。コハク様が封じられて久しいですから、いずれこうなるとはわかってましたけど、まさかコハク様にまでちょっかい出してくるとは思わなかったですー。まあ、天敵みたいなものですからぁ、排除しておきたいのはわかりますけどぉー」

 不服そうな法吉の言葉に、私は畳の上で首を捻る。

「しょう、き?」

「はいー。コハク様は死を運ぶ神ですからねぇ。死から生じる瘴気も魂とともに常世へ送るんですよー。瘴気が溜まると更なる死を呼びますからねぇ。瘴気も百年以上溜まれば付喪神化するみたいですねぇ」

 あっけらかんと言う法吉くんに、血の気が引くのが分かった。

「今のこの村の有様って、もしかして……」

「はいー。コハク様を封じたりするからですよぉ。一時的に死者は減るかもしれませんが、跳ね返りは激しいですよ。本来よりも多くの死が、瘴気によって運ばれていますね。死は多すぎても少なすぎても、均衡を崩しますから。だから、神の管轄なんですよ。人の枠を超えた抗いは、良くないですねぇ」

 死を、間引くための生贄だった。そう、生贄だった。役目を終えれば現世に還れるとはいえ、人の世ではない地に放り込まれる恐怖はいかほどか。
 闇の中で見た旦那様の姿を思い出し、肌が泡立つ。私でさえ、こうなのだ。死の神という先入観もあれば、歴代の花嫁たちも仕方のないことだったのかもしれない。それでも彼女たちは、村のためになると思って身を捧げ捧げられてきたはずだった。
 旦那様の、愁いを帯びた金の眼を思い出す。
 傷つき傷つけてきたその報いが、この有様……
 あの汚泥の腕も瘴気の成したものなのだろう。旦那様が、心配だった。

「ウタ」

 人の気配がして、私はとっさに法吉を自分の陰に隠した。法吉も見つからない方が良いと判断したのか、大人しく隠れている。
 現れたのはマツリだった。
 昨日見た白装束から普段の着物に着替えていて、衿から覗く首が細くて村の貧窮ぶりが手に取るようにわかるようだった。

「みんなとね、お話したの。やっぱり、貴女が良くなかったのよ。気味が悪いわ。老いもしないまま、また現れるだなんて。コハク神様の手引きをしたんでしょう。だって、この村を恨んでいたでしょう。親に捨てられるようなアンタを、みんな育ててくれたのに。逆恨みなんてみっともないわ」

 瞬きもしないでじっと私から目を逸らさないで、マツリが言う。マツリが言葉を発するたびに、言葉とともに黒い靄が溢れる。どんどんどんどん溢れて、もうマツリの顔も判別できないぐらいだった。

「また夜に、迎えに来るわ。今度は蘇ってこれないように、ちゃんと首を落として沈めてあげる」

 その靄の向こうで、マツリはいつの間にか立ち去っていた。
 時間の経過とともにその靄も霧散して、やっと息をつく。

「あの娘、瘴気に憑りつかれていますね」

 私の陰から出てきた法吉が、私の手を縛る縄をつつきながら言う。

「後添いの予定だった娘でしょう。旦那様を狙うには良い媒介だったのですねぇ」

 小さな嘴だったけど、やっぱり普通のウグイスとは違うのか、すぐに縄は解けた。足の縄は自分で解いて自由に動けるようになったけど、格子の扉には錠がかかったままだった。

「鍵を探してきますねー」

 格子の隙間から法吉は飛び立っていった。
 法吉くんが戻ってくるまでの間、自分でも錠や扉が外れないか、格子の隙間から出られないか、窓に手がとどかないかいろいろ試してみたけど、傷が増えただけだった。
 庭から連れ去られるときに見た旦那様も、襲われていた。死の神というのはどれぐらい強いものなのだろうか。

     ◆

 結局、法吉くんは戻ってこなかった。鍵が見つからずに迷っているだけならいいけど、またあの瘴気とかいうのに襲われていないか心配だった。でも、そんあ風に人を心配している場合じゃないんだろう。
 私は再び荒縄に繋がれ、黒い森を進んでいく。現世では十二年前、私にとってはたった一ヶ月前。旦那様の元に嫁いだ時と同じだったけど、松明を灯した男たちの中に大きなナタを持ったマツリがいることだけが違った。
 マツリが歩くと残像のように黒い靄が尾を引く。靄は男たちにまとわりついて、染み込んでいくようだった。
 私は、どうしたら良いのだろう。
 前にここを通った時は、死ぬ定めだと思いそれを受け入れていた。今は、どうだろう。私が死ねば、法吉くんや旦那様は悲しむのだろうか。前は、皆が生贄花嫁として私が死ぬのを待ち望んでいた。でも、今は違う。優しく傷ついた旦那様が、私の死を悼んで悲しむのなら、私は……!

「ウタ!」

 私は私の縄を握った男に体当たりをして、ひるんだすきにその場を走り出した。
 森の中を駆けていく。来た道を引き返したり脇道に逸れたりはしなかった。元々目指す先だった泉。コハク様の庭に通じる泉へ駆けて行った。
 次の花嫁はまだ身を投げていない。今、飛び込めばコハク様の元へ行けるかもしれない。マツリに首を切られて投げ込まれれば、向こうの泉には私の死体が浮かぶ。そうなる前に……

「ああっ!」

 ふくらはぎに鋭い痛みが走り、膝をついて頬を地について倒れ込む。足が焼けるように痛かった。生ぬるく足が濡れていく。

「往生際が、悪いわね」

 ゆっくりと、黒い靄を纏ったマツリが私を追いかけて笑う。
 真っ赤に染まった私の足元には、マツリが投げたナタが深々と刺さっていた。

「半端なことをするから、ダメなのよね」

 マツリが私の腹に足を乗せて、ナタを引き抜くと自分の喉からかすれた悲鳴が上がる。血が噴き出す感触に、めまいがした。
 マツリは私の髪を鷲塚むと、そのまま引きずり出す。後ろ手に縛られた私は抵抗することも出来ずに引きずられ、私の血が滴るナタと共に泉のほとりに私は連れてこられた。
 血を流す足に感覚がない。逃げられないと、流れた血以上の血を失ったような気がした。

「鏡面を、穢さなきゃ。いつか止む雨なんかに意味はない。血で真っ赤に曇らせて、もう二度と出てこられないようにしなきゃ」

 マツリから広がる靄が男たちを包み込み、意図を組んだように素早く動く。
 私の状態を泉の上に乗り出させ、頭を掴んで首を露にさせる。
 相も変わらず泉は鏡のようで、血の気が引いた私の顔が映りその背後でマツリがナタを振り上げるのが映っていた。

「ウタ様!」

 法吉くんの声がして、矢のように突進してくる。もう既に、小さなウグイスの体は血にまみれていた。
 マツリは法吉くんを意に介さない。流れ出た靄が手の形を成して、法吉くんを捕らえて、そのままナタは振り下ろされる――

「我が花嫁への無体、覚悟は出来ておろうな」

 鼓膜をヤスリで削られるようだった。
 泉の中から伸びた異形の手が、マツリの腕を掴んでいた。泉から姿を現したコハク神。

「うわあああああああああ!」

 男たちはその姿を認めると散り散りになって逃げだし、虚ろな目のマツリだけが残された。
 マツリはナタを引き、コハク様はナタを離すと代わりに私をその腕に抱いた。
 解放された私を抱くコハク様の腕は片方しかなく、その腕も尋常のものではなかった。コウモリの被膜を翼に変えたような、人の腕と鳥の羽が融合したような異形。尋常ならないのは、それだけではない。艶のない灰色の長髪の合間から見える金の眼は片方しか開かれず、一方は潰れて傷になっている。血でも啜ったかのように赤い唇に、青ざめた肌にはまばらに小さな羽毛が生えていた。着物の裾から覗く足は庭で見たまま歪な鳥の足。

「すまない、ウタ。すぐに追ったのだが、時の流れが違う故、苦労をかけた」

 聞くだけで耳が痛む声。それでも私は、旦那様が私をまだ花嫁と呼び名前を呼んでくれることが嬉しかった。

「いいえっ、いいえっ……!」

 縋りつくようにコハク様を抱き返す。異形の姿であっても、この方は私に優しくしてくれた愛しい旦那様。

「ウタ。愛する妻の願いを叶えよう。オマエはこやつらをどうしたい? 我には祓う力がある。祓えばこやつらを救えるだろう。だが、オマエが復讐を望むならこのまま何事もなく我と庭へ還ろう」

 黒い滓。淀み。本来ならコハク様が祓うはずだった瘴気を勝手な思い込みで生贄を捧げ封じ、自業自得の報いをこの村は受けているだけ。私がされてきた仕打ちを思えば、このまま放置して瓦解して廃村となるのも小気味よい。
 でも……

「祓ってください、コハク様」

 私はコハク様の優しさを知っている。望まれないと悲し気に現へ繋がる池の辺に佇む姿。私の復讐心さえ、この方の優しさは包んでくれる。

「相分かった」

 異形の姿で優しく微笑むコハク様。今まさに鳥が大空へ飛び立たんとするような、羽ばたく様な風が吹いた――