彼女が俺のラブレターのなりそこないを読んだのは分からないまま、季節は過ぎ、学校は受験一色になった。
彼女のことは気がかりだったけれど、目の前に迫る受験に追われて日々が過ぎていく。二学期の終わり、最後の水曜日にいつも通り音楽室にピアノを弾きに来た。冬の音楽室は寒く、先生が好意でストーブを焚いていてくれた。窓の外は雪がちらついている。カイロで指先を温めてから、楽譜を取り出してから思い出した。そう言えば、担任に呼び出されていたのだった、と。
仕方なく、楽譜を椅子の上にぽんと置いて、職員室に向かった。担任と進路のことで少し話した後、再び音楽室に戻った。椅子に座ろうとして異変に気付いた。
「あれ?」
楽譜の上に封筒が置いてあった。水曜日のピアニストさんへ、と可愛らしい字で書かれている。
「水曜日のピアニスト……俺のこと?」
裏返しても名前はなかった。不審に思いながら手紙を開くと便箋が一枚入っていた。俺は椅子に腰かけて手紙に目を通す。

『突然手紙を書いてごめんなさい。
あなたの顔も名前も分からないので、こんな宛て名を書いてしまいました。
お礼が言いたくて手紙を書きました。
一学期の終わりに偶然、あなたの演奏を聴きました。その時、私は死にたいくらい辛いことがあって絶望していました。
でも、あなたのピアノに救われました。
曲の名前は分からないけれど、あなたがたまに演奏する優しい曲。あの曲が私を止めてくれました。あの曲のおかげで、私は泣くことができました。
それからは水曜日の放課後が楽しみになりました。勝手に演奏を聴いて申し訳ないけれど、あなたのピアノが大好きになりました。
あなたが誰か私は知らないけれど、本当に感謝しています。
本当にありがとう。
あなたのピアノが好きです。
あなたのことが、好きです』

差出人の名前はなかった。手紙を読み終えて、上を向いた。嬉しくて、言葉にならなかった。手紙をくれた人は俺と同じだ。俺があの絵に救われたように、俺の音楽もまた、誰かを救っていた。それがこんなに嬉しくて、泣きたくなるくらい幸せだと初めて知った。
「ラブレターみたいな手紙だ」
人のことなんて言えやしないのに、俺はなんだか自分を見ているみたいでくすっと笑った。手紙を置いて、鍵盤蓋を開ける。そして、ゆっくりと鍵盤の上に指を添えた。
今までの演奏で一番丁寧に、あの優しい曲を弾き始めた。今日も聞いてくれているのだろうか。
手紙をくれた人に届くように。丁寧に、丁寧に。
最後の一音まで心を込めて弾いた。
 
年が明けて三学期になると、自由登校になって学校にはほとんど行かなくなった。差出人不明のファンレターのような、ラブレターのような手紙をお守りに鞄に入れて俺は受験に臨んだ。結果が出るまで、俺よりも母や妹のほうが不安がって大変だった。
そして三月。卒業式から数日後、有り難いことに第一志望の大学に合格した。合格の報告をしに高校へ出向き、職員室では担任が泣いて喜んでくれた。最初は音大受験に反対していた担任や他の先生たちも、俺が有名音大に合格すると掌を返したように喜んでくれた。なんだかなあ、と思いながらもほっとした気持ちで玄関へ向かう。そして、習慣のように玄関前に飾られているあの絵を見上げた。
「そっか……今日でこの絵を見るのも最後か。もう、高校来ないもんな」
卒業したんだ、とその時になってはっきり思えた。
キャプションの浜木綿香の字にそっと触れる。彼女のことは何も分からなかった。俺とは友人のコミュニティが違い過ぎるのか、彼女を知っている人は周りにいなかった。しかも、不思議なことに卒業アルバムにも彼女の名前はなかった。卒業アルバムを貰った時、彼女の顔が知りたくてすぐに全クラス目を通した。けれど、どのクラスにも浜木綿香はいなかった。
同じ三年のはずなのに。理由があって卒業できなかったのだろうか。年度途中で転校したのだろうか。色々憶測したけれど、意味はなく、一目惚れの恋は終わった。
顔を見ていないから、一目惚れと言っていいのかすら分からないけれど。
「どんな子か、会ってみたかったな」
学ランのポケットから携帯電話を取り出して、絵に向けて掲げた。パシャ、とカメラの音がする。もうこれからは、この絵を生徒玄関で見上げることはできない。俺を救ってくれた絵を見るのはこれが最後。
携帯の待ち受け画面に映る絵を見て、そっと携帯をポケットにしまった。