***
私がその手紙をもらったのは、高校三年の秋のことだった。
相変わらず、私へのいじめは続いていたけれど学校を休むことはもう無かった。決していじめられることに慣れたわけではない。
ただ、あのピアノがもう一度聞きたかった。
梅雨の終わり、私は優しいピアノに救われた。あの日から、私はこれまで以上に絵に打ち込んだ。それでもいじめで苦しくなる時はあったけれど、あのピアノを聞くと踏みとどまって、何とか耐えることができた。
私を救ってくれたピアノは、いつも水曜日の放課後になると聞こえてきた。いろんな曲を弾いていたが、時折気まぐれにあの優しい曲を弾いてくれる。そうして、いつの間にか水曜日の放課後は真上の音楽室から漏れ聞こえるピアノを美術室で盗み聴くのが私の習慣になった。
毎週、毎週、楽しみにしている自分がいた。学校に通う唯一の楽しみになった。
ピアノのおかげで私は辛い一学期をどうにか乗り越え、夏休みはほとんどを画塾で過ごした。そうして、恐る恐る迎えた二学期は、一学期に比べると、無視や仲間外れ、軽い暴言程度で、率先していじめに加わる人数も大幅に減っていた。夏休みから受験勉強が本格化したのが大きな要因のようだった。二学期は模試や、授業も増え、いじめどころではなくなったのだろう。学校は一学期より格段に過ごしやすくなり、たまに佐々木美希とその取り巻きに嫌がらせを受ける程度にまで改善していた。
秋になって、中庭の木々の葉は色づき始め、日は短くなった。放課後はすぐに夕日が落ちて暗くなる。私は夕暮れの中、相変わらず美術室で絵を描いて画塾までの時間を潰していた。
水曜日はいつものように、夕日を眺めながら三階の音楽室から漏れ聞こえるピアノに耳を澄ませていた。一学期から幾度かピアノを聴きながら考えていた。
「どんな人が弾いてるんだろう……」
この優しくて美しいピアノを奏でているのは、どんな人だろう。
女の子かな。何年生だろう。吹奏楽部か合唱部の部員かもしれない。友達になれたらいいのに。まだ見ぬ頭上のピアニストのことを色々と想像して、仲良くなりたいと願った。けれど、こっそり盗み聞きしている手前、そんなことは無理だと思った。
でも、せめて。話しかけられないとしても、せめて、顔だけでも知りたい。
そんな思いに背中を押され、ある日、私はついに思い切って美術室を出た。いつも美術室でこっそり聞いているだけだった。夕陽でオレンジ色になった階段を、音をたてないように静かに上っていく。ピアノの音がどんどん近くなる。音楽室前の廊下まで来ると、心臓がどきどきした。扉は少しだけ開いていた。ピアノの演奏が続く中、そっと歩み寄ってドアの隙間から中を覗いた。
夕日に照らされた室内は薄暗かった。ピアノの前に座っている人影の背後から夕陽が覗いている。私は眩しくて目を細めた。優しく譜面を捲る指先は絵画のように美しかった。しばらくして演奏が終わると、演者は楽譜を持って立ち上がった。そのシルエットを見て私はびっくりして息を呑んだ。
どう見ても、男子だった。その人は学ランを着ていた。
勝手なイメージで、てっきり女の子が弾いていると思い込んでいた私には、衝撃的だった。息を顰めて彼の顔を見つめたが、夕陽が逆光になって、顔はよく見えなかった。すらっと高い背丈が印象的で、それ以外は何も分からなかった。諦めて美術室に戻った後も、その男子のことばかり考えていた。
泣きたくなるくらい優しいピアノを、あの彼が弾いていたんだ。
彼のことが気になって仕方なかった。彼のことばかり考えた。けれど、声をかける勇気もなく、ただ彼の弾くピアノに耳を傾けるだけの日々が続いた。
転機が訪れたのは、文化祭だった。
二学期最初の行事である文化祭は、三年生にとって最後の楽しい学校行事でもある。この学校では一、二年生が劇やダンス、アトラクション系の出し物をして、三年生は食べ物の屋台をやるのが恒例だった。
「香ちゃんはお絵描き得意だし、それ系全部やってくれるよねぇ?」
佐々木美希の一言で、私に多くの仕事が押し付けられた。佐々木を筆頭にクラスの一軍メンバーはメニューを考えたり、当日の調理担当などやりたい仕事だけを選び取っていた。私には屋台の看板や飾りつけなど、地味で時間のかかる仕事が大量に降ってきた。受験勉強に専念したいクラスメイトたちも、さっさと私に仕事を押し付けて帰って行った。到底一人でできる量ではなかったが、誰も助けてくれないことは分かっていた。担任も見て見ぬふりだった。抵抗しても時間の無駄だと悟り、家に持ち帰って寝る時間を削って作業を終わらせた。私が一人で作った看板を見て佐々木は「ださい、センスない」とクラスメイトたちと嗤っていた。
どうでもよかった。あと数カ月で卒業するのだから。
文化祭当日は盛り上がるクラスに私の居場所があるわけもなく、美術室で部員の作品展をしていたので、そこで受付や留守番をしながら静かに過ごした。保護者や在校生が作品を流し見ては去っていくのを見ているだけで最後の文化祭は終わった。
文化祭の後、美術室で片づけをしていると高岡先生が準備室から「香さん」と嬉しそうな顔でこちらに手招きしていた。準備室に入ると、先生は二つ折りになった紙を私に手渡した。
「なんですか、これ?」
「作品展の出口に、感想を書いてもらう用紙を置いておいたんですよ。何枚か入っていたんですがね、これはどう見てもあなた宛てだ。あなたが持っているといい」
私がその手紙をもらったのは、高校三年の秋のことだった。
相変わらず、私へのいじめは続いていたけれど学校を休むことはもう無かった。決していじめられることに慣れたわけではない。
ただ、あのピアノがもう一度聞きたかった。
梅雨の終わり、私は優しいピアノに救われた。あの日から、私はこれまで以上に絵に打ち込んだ。それでもいじめで苦しくなる時はあったけれど、あのピアノを聞くと踏みとどまって、何とか耐えることができた。
私を救ってくれたピアノは、いつも水曜日の放課後になると聞こえてきた。いろんな曲を弾いていたが、時折気まぐれにあの優しい曲を弾いてくれる。そうして、いつの間にか水曜日の放課後は真上の音楽室から漏れ聞こえるピアノを美術室で盗み聴くのが私の習慣になった。
毎週、毎週、楽しみにしている自分がいた。学校に通う唯一の楽しみになった。
ピアノのおかげで私は辛い一学期をどうにか乗り越え、夏休みはほとんどを画塾で過ごした。そうして、恐る恐る迎えた二学期は、一学期に比べると、無視や仲間外れ、軽い暴言程度で、率先していじめに加わる人数も大幅に減っていた。夏休みから受験勉強が本格化したのが大きな要因のようだった。二学期は模試や、授業も増え、いじめどころではなくなったのだろう。学校は一学期より格段に過ごしやすくなり、たまに佐々木美希とその取り巻きに嫌がらせを受ける程度にまで改善していた。
秋になって、中庭の木々の葉は色づき始め、日は短くなった。放課後はすぐに夕日が落ちて暗くなる。私は夕暮れの中、相変わらず美術室で絵を描いて画塾までの時間を潰していた。
水曜日はいつものように、夕日を眺めながら三階の音楽室から漏れ聞こえるピアノに耳を澄ませていた。一学期から幾度かピアノを聴きながら考えていた。
「どんな人が弾いてるんだろう……」
この優しくて美しいピアノを奏でているのは、どんな人だろう。
女の子かな。何年生だろう。吹奏楽部か合唱部の部員かもしれない。友達になれたらいいのに。まだ見ぬ頭上のピアニストのことを色々と想像して、仲良くなりたいと願った。けれど、こっそり盗み聞きしている手前、そんなことは無理だと思った。
でも、せめて。話しかけられないとしても、せめて、顔だけでも知りたい。
そんな思いに背中を押され、ある日、私はついに思い切って美術室を出た。いつも美術室でこっそり聞いているだけだった。夕陽でオレンジ色になった階段を、音をたてないように静かに上っていく。ピアノの音がどんどん近くなる。音楽室前の廊下まで来ると、心臓がどきどきした。扉は少しだけ開いていた。ピアノの演奏が続く中、そっと歩み寄ってドアの隙間から中を覗いた。
夕日に照らされた室内は薄暗かった。ピアノの前に座っている人影の背後から夕陽が覗いている。私は眩しくて目を細めた。優しく譜面を捲る指先は絵画のように美しかった。しばらくして演奏が終わると、演者は楽譜を持って立ち上がった。そのシルエットを見て私はびっくりして息を呑んだ。
どう見ても、男子だった。その人は学ランを着ていた。
勝手なイメージで、てっきり女の子が弾いていると思い込んでいた私には、衝撃的だった。息を顰めて彼の顔を見つめたが、夕陽が逆光になって、顔はよく見えなかった。すらっと高い背丈が印象的で、それ以外は何も分からなかった。諦めて美術室に戻った後も、その男子のことばかり考えていた。
泣きたくなるくらい優しいピアノを、あの彼が弾いていたんだ。
彼のことが気になって仕方なかった。彼のことばかり考えた。けれど、声をかける勇気もなく、ただ彼の弾くピアノに耳を傾けるだけの日々が続いた。
転機が訪れたのは、文化祭だった。
二学期最初の行事である文化祭は、三年生にとって最後の楽しい学校行事でもある。この学校では一、二年生が劇やダンス、アトラクション系の出し物をして、三年生は食べ物の屋台をやるのが恒例だった。
「香ちゃんはお絵描き得意だし、それ系全部やってくれるよねぇ?」
佐々木美希の一言で、私に多くの仕事が押し付けられた。佐々木を筆頭にクラスの一軍メンバーはメニューを考えたり、当日の調理担当などやりたい仕事だけを選び取っていた。私には屋台の看板や飾りつけなど、地味で時間のかかる仕事が大量に降ってきた。受験勉強に専念したいクラスメイトたちも、さっさと私に仕事を押し付けて帰って行った。到底一人でできる量ではなかったが、誰も助けてくれないことは分かっていた。担任も見て見ぬふりだった。抵抗しても時間の無駄だと悟り、家に持ち帰って寝る時間を削って作業を終わらせた。私が一人で作った看板を見て佐々木は「ださい、センスない」とクラスメイトたちと嗤っていた。
どうでもよかった。あと数カ月で卒業するのだから。
文化祭当日は盛り上がるクラスに私の居場所があるわけもなく、美術室で部員の作品展をしていたので、そこで受付や留守番をしながら静かに過ごした。保護者や在校生が作品を流し見ては去っていくのを見ているだけで最後の文化祭は終わった。
文化祭の後、美術室で片づけをしていると高岡先生が準備室から「香さん」と嬉しそうな顔でこちらに手招きしていた。準備室に入ると、先生は二つ折りになった紙を私に手渡した。
「なんですか、これ?」
「作品展の出口に、感想を書いてもらう用紙を置いておいたんですよ。何枚か入っていたんですがね、これはどう見てもあなた宛てだ。あなたが持っているといい」