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高校を卒業してから何度も、繰り返し見る夢がある。
夢の中で朝、目が覚めると私は高校生まで住んでいた駅前のマンションの子供部屋、そのベッドの上にいた。見慣れた天井の丸い照明。水色の壁紙。上京するときに捨てたはずのキャラクターシールがペタペタ張られた学習机やお気に入りのぬいぐるみたち。もう存在しないはずの、子供のころから過ごした私の部屋の中で、ベッドの上から姿見を見ると、高校生の私が映っている。壁に掛けられたカレンダーは高三の四月になっている。
ああ、私、高校生に戻ったんだ。
いじめられたことも、両親が離婚したことも、大学生になったことも全部夢だったんだ。
そう思ったところでいつも夢から醒める。
祖母の家の、古い天井。顔のような怖い木目が私を見下ろして、現実に戻ったことを私に教えてくれる。気怠く、ゆっくりとした動きで枕元に置いていた携帯を取ると、暗い画面に反射して、寝ぼけた顔をした大学生の私が映っている。アラームが鳴る前に目が覚めたようだ。頭はまだぼーっとしていた。頬に触れると涙で濡れていた。
ああ、またこの夢だ。実習が始まってからこの夢ばかり見て、嫌気がさす。
あの夢を見るといつも泣いてしまう。何故、涙が出るのか、自分でもよく分からない。高校生に戻ってやり直したくて泣いているのか。それとも、辛い高校時代を終えて美大で楽しく過ごしている今が夢だったらどうしようと恐怖で泣いているのか。
この涙はどっちだろう。
過去の後悔か、今を失う恐怖か。その両方なのかもしれない。
しばらくして、泣き止むと私は仏間を出た。廊下を曲がると縁側で祖母が猫を膝に載せて新聞を読んでいた。
「おばあちゃん、おはよう。とろろもおはよう」
祖母の膝で寛いでいる猫の頭を撫でた。キジトラ模様がとろろ昆布に似ているのでとろろと亡き祖父が名付けた。
「おはようさん。香ちゃん、もう起きたん?早いねえ。いい天気やよ」
「そうだね、珍しくちゃんと晴れてる」
空を見上げると真っ青で、雲が数えるほどしかなかった。あまりにも曇りの日が多い所為で、北陸人は多少曇っていても雨さえ降っていなければ晴れだと思ってしまう傾向があると個人的に思う。関東に言ってから、雨が降っていない曇りの日に晴れだと言って笑われてしまったことをふと思い出した。
「お母さんってもう仕事に行ったの?」
「さっきおにぎり作って出て行ったよ。早番とか何とか言ってたねえ。香ちゃんは今日も学校かい?」
「そうだよ、絵の先生。さ、準備して行かなきゃ」
「頑張ってねえ。おばあちゃんもおじいちゃんも、香ちゃんの絵が大好きだよ」
「ありがとう。またモデルになってね」
美人に描いてや、と祖母はいつも通り冗談めかして言った。
私は母が作ってくれたおにぎりをつまんで、身支度を整えると急いで始発のバスに飛び乗った。晴れているおかげでいつもより空いていた。
椅子に座って一息つく。 
車窓から覗く犀川の水面は、朝陽を反射してきらきらと光の粒が揺らめいていた。雨と雪ばかりの冬と違って、春の犀川は明るく穏やかだ。河川敷の木々が途切れ途切れに影を作って、朝日の眩しさを気まぐれに遮ってくれる。バスの揺れに身を任せ、うとうとしながら煌めく水面を眺めていた。
苦戦していた指導案も何とか合格をもらえた。授業の準備も何とか間に合って、今日から私はついに授業をする。緊張していると自分でも分かる。ポケットの携帯電話がぶるっと震えて、取り出して画面を見ると大学の友人、七緒からメッセージが届いていた。
『実習どう?あたし、今日は本命の最終面接!がんばる!』
元気な文面が七緒らしい。指をさっさと動かして『私も、初授業だよ。がんばる。またね!』と送り返した。東京が少し恋しくなった。
学校に着いてからはいつも通りホームルームをして、慌ただしい朝の時間を何とかやり過ごした。他の実習生も皆一様に授業準備などで慌ただしそうに見えた。小会議室を使う実技科目の実習生も、それぞれ授業があるので顔を合わせても一瞬だった。
私は昨日の夜、家で最後まで作り直していた授業用のプリントを印刷機から出力して最終確認をすると、事務棟の大会議室に向かった。コピー機が並ぶ印刷室も別にあるのだが、他の先生方の邪魔にならないようにと実習生は大会議室のコピー機を使うことになっていた。佐々木と顔を合わせたくはないが、こればかりは仕方ない。
恐る恐る会議室の扉を開けると、運の悪いことに佐々木の姿があった。他に彼女を取り巻く連中もいる。私の姿を目に留めると、彼らの会話が一瞬止まる。高校時代に散々味わった嫌な沈黙だ。そして会話が再開した後も嫌な視線がじっとりと纏わりついてきた。私は一刻も早くここから抜け出したくて、足早にコピー機へ向かった。
彼らとほぼ面識もないのに、無遠慮に背中に向けられるこの嫌な視線と空気。その原因は分かっている。大方、佐々木美希が高校時代のように嘘を吹聴したのだろう。私は気付かないふりをして、さっさとコピーを始めた。
無心でコピーしていると、横に人の気配を感じた。視線だけ動かすと、横にいたのは佐々木美希だった。ひゅっと息を飲み込んだ。
「香ちゃん、こっちに来るなんて珍しいね?プリントのコピー?わざわざ実技棟からご苦労様だねぇ」
俄かに手が汗ばんだ。必死に平静を装った。
「話しかけないで」
私は手元に視線を落としたまま、彼女を見ずに低い声で言い捨てた。
あの日以降も地味な嫌がらせは幾度かあった。鞄の中にゴミが入れられていた、ロッカーの靴を汚されていた、すれ違いざまにわざとぶつかられる、など下らないことばかり。一緒に被害を記録してくれる一ノ瀬は「二十歳も越えて、こんな子供じみた嫌がらせする馬鹿がいることに戦慄する」と吐き捨てていた。
確かに毎日想像以上に忙しい実習中、どうして私に子供じみた嫌がらせする余裕があるのか。大人になった今、彼女のやっていることはほとほと理解できなかった。
「ひどーい、折角話しかけてあげたのに」
彼女は言いながら、私の持ち物を嘗め回すように物色した。
「あれー?ペンケース新しくしたの?」
彼女はわざとらしく言って、くすくすと笑った。