「じゃあ、今年の文化祭の出し物だけど、何かやりたいことある人いるかな?」
教卓の前に立つ副委員長の古橋君が教室内を見渡す。高校二年生の文化祭、三年生になると受験前ということで出し物はしないから実質的に高校最後の文化祭だけど、みんなどこか気まずそうにしながら古橋君と視線が合わない様にそれとなく目を逸らす。
古橋君がしばらく待つ間、結局発言する人は誰もいなかった。
合図のように1つ息をついた古橋君が隣に立つ委員長である私に視線を送る。
――誰からも手が上がらなかったら、奥の手があるから。
文化祭の出し物決めを始める前、古橋君は私にそう耳打ちした。奥の手が何かは教えてくれなかったけど、この場でどうすることもできない私にはその合図に頷くことしかできない。
「特に誰もやりたいことないなら、僕から一つ提案だけど」
古橋君は問いかけるというよりは説きかけるようにもう一度教室を見渡して、それから教室の一番後ろの角の席に視線を投げかけた。その視線の先にいたのは演劇部の孝太郎だった。孝太郎は渋い顔をしながら立ち上がる。
「孝太郎に脚本を書いてもらって、演劇をやろうと思う。せっかくうちのクラスには我らが演劇部の名脚本家がいるんだしね」
古橋君の一言で途端に教室が騒めきだす。驚いたのは計画を事前に聞いていなかった私も同じだ。一方の孝太郎はどこか苦々しい表情。
「……マジで?」
そう声をあげたのは深田さんだった。明るい髪が目立つ女子で孝太郎と同じく演劇部。深田さんの反応からして、この話は古橋君と孝太郎の二人で進められていたらしい。
演劇を、うちのクラスで。古橋君には悪いけど、やる気も結束力も欠けるうちのクラスで演劇なんて、どれだけ孝太郎の脚本の出来がよくても大惨事になる予感しかしなかった。
「別に無理強いするつもりはないんだ。だから、演劇は嫌だって人がいたら遠慮なく言ってほしい」
古橋君は落ち着いた笑みを浮かべているけど、やっていることは実質脅迫に近い。だって、ここで反対すれば対案を求められるだろうし、クラスのまとめ役的な存在の古橋君の不興は誰だって買いたくない。
みんなが誰かに何か言ってほしそうな気配だけを漂わせながら時間が流れていく。
「……うん。反対はなさそうだし、演劇で決まりだね。孝太郎、ざっくり説明できる?」
水を向けられると孝太郎は面倒くさそうに頭をかいて一つため息をつく。
「定番かもしれないけど、テーマは『身分違いの恋』だ」
小学校時代から知っている孝太郎から「恋」という単語が放たれるとドキドキというかムズムズした。いつもはどこか気だるげな雰囲気を纏っている幼馴染とはあまり結びつかない言葉。
「王子様と町娘が結ばれるまでの話。なんで、メインはそのままその二人。ある程度土台はあるけど、脚本を作りこむためにその二人くらいは今日決めちゃって欲しい」
「その二人だとどっちがメインなの?」
「配役次第だけど、町娘の方が一番主役になる感じだな」
「じゃあ、町娘から決めちゃおう。女子の中で我こそはって人、いるかな?」
古橋君は爽やかな笑みを浮かべながら今日何度目かになる教室全体に視線を送る。もちろん、手を挙げる人などいなかった。古橋君と目が合わないようにみんな俯き加減になっていく。
その中で、パッと手が上がった。永渕さんというクラスのリーダー格の女子だ。よかった。溌溂として主役らしい雰囲気もあるし、永渕さんがやってくれるなら誰も何も言わないだろう――
「主役は委員長がいいと思いまーす」
「わ、私?」
ほっとしたのもつかの間、永渕さんの発言で急に矢面に立たされる。永渕さんは鋭いくらいの視線を容赦なく私にぶつける。
「委員長なら大丈夫でしょ。可愛いし、真面目だし、何より委員長だし」
その言葉に全然心がこもっていないのは直感で分かった。主役を押し付けても今後困らない相手として私が目をつけられただけだ。だけど、永渕さんが作った流れを後押しするかのように他の女子からも「委員長がいいと思う」、「委員長が適任だよね」なんて無責任な言葉が急に溢れだした。男子は我関せずという雰囲気を出して無言でその流れを後押ししている。
「いや、お前ら。委員長選びの時もそうやって香純に押し付けただろ」
孝太郎の声でそんな声が静まる。流れをせき止めた孝太郎に女子たちから非難の視線が向けられるけど、孝太郎は気にした様子もない。
「だいたい、香純はただでさえ委員長やってるんだから、文化祭まで主役なんて――」
「待って、孝太郎」
そんな孝太郎を止めたのは、古橋君だった。
「まだ楠木さんの意向を聞いてないでしょ。楠木さん的にはどうかな?」
さっき視線を向けられた時と違い、古橋君は今度は真正面から私を見る。クラス内外の女子から人気のある整った顔立ちから見つめられると、そんな場合じゃないのに少しドギマギしてしまう。その向こう側には永渕さんをはじめとした「わかってるでしょ?」と言いたげな表情もよく見えた。
わかってる。もしここで断ったら、後々面倒くさいことになるんだろうし、いつまでたってもこの場が収まることもないだろう。
自分に主役なんて到底できるとは思わないけど、今この空間をどうにかしたいという気持ちの方が上回ってしまう。
「……や、やる。私でよければ」
どうにか絞り出した声にパッと古橋君の顔に笑みが広がる。それと同時に教室に安堵の空気が広がったように見えた。
「よかった。ありがとう、楠木さん」
古橋君の言葉に黙ってうなずく。黙ってても整った顔に笑顔なんて浮かぶとなおさらドキドキしてしまうし、私がやるしかなかったじゃんという後ろ暗い思いもあった。
「じゃあ、次は王子役だけど、誰もいなければ僕がやらせてもらおうかな」
サラリと続けた古橋君の言葉。え、という声は私の口からも教室の誰かからも同時に複数溢れだしたようだった。
「委員長の楠木さんが主役やるんだし、男子側の主役は副委員長の僕がやっちゃった方がこの場もまとまっていいかなって」
男子からはホッとした気配を感じたけど、それ以外から少なくないジトっとした視線を感じる。笑顔がキラキラとした古橋君と近づきたいという女子はクラスの中でも少なくなくて、私が古橋君のヒロイン役を演じることを妬むような気配をあちこちから感じた。。
じゃあ貴方がヒロインに立候補してればよかったじゃん、とはとても口には出せないけど。
「それじゃ、細かい配役とか役割は明日からまた決めてくとして、文化祭目指して頑張ろう!」
意気込む古橋君の声に返ってきた「おー」という声はバラバラだった。
教室の隅で何か言いたそうな顔をしている孝太郎が見えたけど、すぐに面倒くさそうに頭をかいて席に座ってしまう。
これから文化祭まで、胃がギリギリとしそうな日々が続くということだけはよくわかった。
*
主役決めが終わるとその日はそのまま解散となり、教室の中にそこはかとない薄黒いしこりを残しつつもすぐに人気は無くなっていった。自然と残ったのは古橋君と孝太郎と私の三人になる。
「楽しみだね。文化祭」
「う、うん。そうだね……」
古橋君がふわりと笑う。古橋君は本当にワクワクした様子だったけど、私は漠然とした不安の方が大きくて素直に頷くことができなかった。古橋君はそんな私の反応にも気を悪くすることもなく孝太郎に向けてニッと口角をあげてみせる。
「というわけで、脚本楽しみにしてるよ。孝太郎センセー」
孝太郎は面倒くさそうな顔に半眼を浮かべて古橋君のことをじっと見るけど、やがて息をついてガシガシと頭をかいた。
「お前の手にだって余るようなの書いてやるよ」
その言葉が予想外だったのか古橋君が一瞬だけポカンとした顔になった。半年くらい委員長と副委員長でやってきたけど、そんな古橋君の表情を見るのは初めてだった。それから古橋君はくつくつと堪えるように笑い始める。
「そっか。一生懸命練習しないとだね」
古橋君と孝太郎が無言で視線を交わす。それは私にはわからない会話をしているようにも見えた。少しだけハラハラとしながらその様子を見守っていると、やがて古橋君が小さく息をついて私たちに背を向けた。
「っと、そろそろ僕も部活行かなきゃ。じゃあ、また明日。楠木さん、孝太郎」
そう言うと古橋君は陸上部らしい軽やかな足取りで教室を後にした。その背を見送った孝太郎が深々とため息をつく。呆れたような顔が私を見ていた。
「で、お前はどうなんだ。主役なんて引き受けてよかったのかよ」
最初からストレートに突き抜けてくる言葉に思わず呻きそうになる。孝太郎に言われなくたって、私が主役なんて柄じゃないってことは他でもなく私が一番よくわかってる。
「でも、私の他に主役を引き受けてくれそうな人なんて……」
「だからって、お前が引き受ける必要ないだろ。春に委員長だって押し付けられてるのに、このままじゃ永渕達にいいように使われちまうぞ」
小学校から高校までずっと同じ学校に通い続けている幼馴染は、人が気にしていることを手心なく突っ込んでくる。今日の文化祭の主役決めはまるで春のクラス替え直後の委員長決めをなぞるような展開だった。
永渕さんが唐突に私を推薦し、周りと取り巻きがそれを後押しして教室全体がそんな雰囲気になる。その流れに逆らえずに受け入れたところで、副委員長を古橋君が買って出てくれた。委員会だったりクラスの活動を率先して引っ張ってくれる古橋君が副委員長になってくれてとても助かったけど、同時に私は少なくない妬みも買ってしまったらしい。それからも永渕さん達による面倒ごとの押し付けに近い推薦は度々あった。
「嫌なことは嫌って言わねえと」
「……でも、孝太郎だって古橋君のムチャブリを引き受けたんでしょ」
孝太郎がうっと詰まる。今回の演劇の企画を孝太郎から古橋君に持ち込むとは考えにくかったし、古橋君から頼まれたとしてすぐに頷くとも思えなかった。それは間違ってなかったようで、孝太郎はバツの悪そうな顔で頭をガシガシと乱暴にかく。
「俺はいいんだよ。演劇がやれればなんでも」
「ふうん」
さっきまで言いたい放題言われていたお返しとばかりに頷いてみると、軽く睨まれた。
「いいか。稽古が始まったら香純がどんな考えで主役を引き受けてようが関係ないからな。ビシバシ行くぞ」
単に話題を変えたというだけでじゃなく、孝太郎のトーンは真剣だった。さっきは古橋君が冗談めかして「センセー」なんて呼んでたけど、実際に孝太郎が担当した脚本でうちの演劇部は賞だってとってるはずだ。文化祭とはいえ、孝太郎の正確なら手を抜くつもりはないんだろう。
「うん。頑張る……」
本当についていけるのか、正直自信はない。だけど、私が引き受けてればどうにか文化祭だって乗り切れるんだ。だから、やるしかない。
あと、ほんの少しだけど古橋君の王子様役を近くで見れるというのは役得だと思う。その代償が大きすぎるんだけど。
「そういえば。古橋君は何で演劇やろうと思ったのかな?」
何となく口から零れた疑問に孝太郎はすぐには答えなかった。不思議に思って孝太郎の方を見ると、さっき古橋君が出ていった教室のドアの辺りをじっと見ている。
「羨ましいよ。自分がやりたいことを周囲を巻き込んで、誘導しながらなしとげようとしちまうあいつが」
「え、どういうこと?」
ハッとしたような顔をした孝太郎がブンブンと首を振る。
「……いや、なんでもねえ。俺も部活行くから、またな」
孝太郎はどこか投げやりな様子で教室を出ていった。
*
その日は、夜遅くなってもなかなか寝ることができなかった。
――嫌なことは嫌って言わねえと。
孝太郎から言われた言葉が何度も頭の中で繰り返される。何ら特別な言葉ではないし、初めて言われた言葉でもない。それなのに、頭がズキズキとするくらいに焼き付いて離れていかない。
中学生くらいになった頃から、人が嫌がることや面倒なことを私が引き受ければいいと思うようになっていった。
勉強も運動もそんなにできなくて、その他の特技もない。だけど周りを見ればキラキラしていた。孝太郎だってその頃から演劇の活動を本格的にはじめて、どんどん活躍するようになっていた。
置いていかれる、と思った。何にもない私は、誰からも見てもらえなくなるんじゃないかと。そのことがすごい怖かった。
それで、なにもできないなら、せめていい人になろうと思った。
人が嫌がる損な役回りを進んで引き受けるようにした。みんなの為に役に立つ人になれば、みんなが私から離れていくこともないはずだから。周りの人たちが私に感謝してくれる度に、私がここにいることを認めてもらえる気がした。
それがどこか歪んでいることには気づいていたけど、その頃にはもう自分自身でも周囲の期待的な意味でもあり方を変えることは出来なくなっていた。
私はこれからもこうやって生きていくのだろうか。だけど、今更どう生きたいかと言われてもよくわからない。
ぐるぐると巡り続ける思考にため息をつくと、枕元に置いていたスマホからピロンという着信音。
【furuhashiからグループに招待されました】
メッセージアプリの通知を開くと、古橋君が作ったグループに私と孝太郎が招待されていた。だけど、私が入ってしばらくしても孝太郎はグループに参加してこない。何か他のことをしているのか、そもそもメッセージアプリなんて殆ど触れることがないのか。
『文化祭、頑張ろうね!』
古橋君からメッセージが届く。今年からおなじクラスになった古橋君は少し変わった人だった。部活をしながら委員会にも参加して、クラスのために忙しく働いている。だけど、私と違って好きでやっている感じだった。じゃあ、去年も委員会に入っていたのかと思ったらそうでもないらしい。
なんにしても、古橋君が副委員長になってくれたから私はどうにかやれている。
『演劇、私が主役でよかったのかな?』
演劇なんてこれまで孝太郎のを見たことがあるくらいで演者なんてやったことがない。私が引き受ければ丸く収まると思って受けてしまったけど、今になって本当に私にできるのか不安になっていた。
『楠木さんなら大丈夫だよ』
古橋君の返信は早かった。
『僕は楠木さんと演じれるの、楽しみにしてる』
楽しみにしてる。何気ない言葉だけど、文字としてみるとじんわりと浸み込んでくる。
嫌だからとか面倒くさいとかじゃなくて、私を私として見てくれる言葉。
『ありがとう。頑張ってみる』
『こちらこそ。っと、明日朝練だからそろそろ寝るね』
『うん。おやすみ』
スマホをぎゅっと握りしめる。少しだけ心が軽くなっていく感じがした。
古橋君の言葉を何度も読み返す。難しいことはいったん置いておいて、今はまず文化祭に集中しようと気持ちが前向きになっていく。
と、不意に握りしめていたスマホが軽やかな着信音とともにブブブと震えた。
『ざっくりだけど書き終わった』
ポップアップしたのは孝太郎からのメッセージだった。続けて「タイトル未定」と書かれたファイルが添付される。開いていると、それは演劇の脚本のあらすじのようなものだった。所々セリフや動作が書きこまれていて、あらすじよりもう少し詳しい流れがわかるようになっている。
教室で語っていた通り、町娘と王子の恋愛が軸のストーリー。
お城で下働きをしている町娘はある日倉庫で古びた鏡を見つける。その鏡は魔法の鏡で、町娘は夜の間だけお姫様の姿になることができるようになる。そして、お城で開かれた舞踏会で王子に出会う。
町娘に一目惚れをした王子に対し、町娘は王子が好きな自分が偽りの姿であることから距離を置く。しかし、魔法で姿を変えていない町娘の自分に対しても王子は気づかぬまま優しく接し、少しずつ王子に惹かれていく。
その後は、自分の娘を王子に嫁がせようとしている貴族や、魔法の鏡の秘密を知って町娘を脅す盗賊の妨害を跳ねのけながら、互いの想いを深めていきついに結ばれる。
読み終わると、深い息が溢れ出してきた。頭の中がグチャグチャとして思考がまとまらない。びっくりするくらいに町娘に感情移入をしてしまって、遂に王子と結ばれると自分の恋が叶ったみたいに嬉しかった。だけど、すぐにその町娘を演じるのは私だという現実に押しつぶされそうになる。
『私にできるかな?』
孝太郎が最後にコメントしてから1時間以上たっている。とっくに日付も変わっているし、もう寝てるかなと思ったけど、着信を示すサウンドがすぐに鳴り響いた。
『お前にしかできねえよ』
*
文化祭の演劇の役決めから一週間くらいたつと、孝太郎の脚本もおおむね仕上がって配役や役割もだいたい決まっていった。そうして、放課後の空き教室で少しずつ稽古が始まった。
「待ってくれ、姫! 君の名前は!」
古橋君が私に向かって手を伸ばす。魔法の鏡によってお姫様の姿になった町娘と舞踏会で知り合った王子が別れ際に名前を聞くシーン。この演劇の前半の一つのピークだった。
古橋君の表情には町娘に惹かれた王子が乗り移っていて、劇だとわかっていても胸のどこかがギュッと強く握りしめられたようになる。
「リオーネ」
私は笑みを浮かべると、古橋君にさっと背を向ける。もうすぐ魔法が解ける。その前にどこかに隠れなければいけない。もう少し王子と話していたいという焦れったさを胸に秘めて名前を教える。
「リオーネ、リオーネ。リオーネっ! 覚えたぞ! また会おう!」
「……ええ、きっと」
王子を振り返ることなく頷いて、そのまま舞台――といっても今日は教室だからドアから廊下の方にはけていく。教室の中では王子が町娘――リオーネへの想いを語る独白のシーンが続いている。演技であることを忘れるくらいの感情が古橋君の台詞にも仕草にも含まれていた。そんな古橋君の演技を聞いているとため息が溢れてくる。私は必然的に古橋君とのシーンが多くて、その度に演技力の差を見せつけられる。お互い演技は素人のはずなのに、どうしてこんなに違うんだろう。
「お疲れ、楠木さん。孝太郎センセーからの講評だって」
やがて演技を終えた古橋君に声をかけられて教室に戻る。稽古を見ていた孝太郎は難しい顔で口を開きかけては閉じるといったことを繰り返していた。その視線は確実に私を見ていて、言いたいことがあるということはよく分かった。
「リオーネは王子を騙してる罪悪感はあるんだけど、基本的には前向きな性格だからもう少し感情を乗せた方がいいと思う」
孝太郎からはものすごく言葉を選んでいる感じが伝わってくる。私は孝太郎の言葉に頷く。頷くのだけど、どうすれば上手くいくかがわからない。練習を始めてから言い方は変わりながらもずっと孝太郎から同じ趣旨の指摘を受けてきた。
「ね、孝太郎センセー。僕はなんかないの?」
いつもより二割ばかし明るい声で古橋君が孝太郎に尋ねる。
「お前は香純以外のときにも同じ熱量で演じろ」
「え、特に変えてるつもりないけど」
「なおさら問題だ。お前、今から他のシーンの特訓な」
「えーっ! 孝太郎センセー、スパルタ過ぎない?」
「演劇やりたいって言い出したのはお前だからな」
孝太郎は手早く別のシーンの稽古を指示する。それは王子がリオーネがどこの国の姫か調べるよう家臣に指示するシーンで、当然私の出番はない。どのあたりに注意しながら演じるかなどを伝えながら、孝太郎がちらっと私の方を見る。
「見るのも稽古ではあるんだけど、香純はちょっと休憩な」
孝太郎の言葉に頷く。本当は古橋君の演技だったりから勉強した方がいいんだろうけど、今は少しだけこの場所にいるのがしんどかった。別シーンの稽古が始まる前に教室を出ると行先もなく廊下を歩く。人気の少ない場所までたどり着くと、窓を開けて胸の奥の方から息を吐き出す。
校内は少しずつ文化祭に向けた色に染まり始めていた。それなのに、私はちっとも上達しない。このままだと間に合わないかもしれないという焦りで指先が小さく震える。
「イインチョー」
誰もいないと思っていたから、突然聞こえてきた声に慌てて窓の外から視線を戻す。明るい髪の女子――深田さんが険しい顔でこちらを見ていた。深田さんは演劇部での役割と同じく衣装を担当だけど、放課後の稽古の時には足りない役柄の代役を務めたりしている。
「さっきの演技。何あれ?」
深田さんの声は鋭い。
「経験ないのはわかるけど、稽古を始めてから全然変わってないじゃん。やる気あんの?」
わかってる。わかっているけど、自分で何となくわかっているのと実際言葉にして告げられるのはまた違う。深田さんの言葉は胸の奥底の方に突き刺さってくる。
「孝太郎はあれで優しいから抑えめに言ってるけど、主役がこんなんじゃ劇全体が死んじゃう」
遠慮のない言葉。だけど、多分それは孝太郎が言いたくてずっと抑えてきた言葉なのかもしれない。ただでさえ部活だ何だと理由をつけて稽古に来ない人も多いのに、主役まで実力不足なのだから。
「……ごめんなさい」
色々な思いは喉の奥でつかえてしまって、シンプルな言葉しか出てこなかった。そんな私の返事に深田さんの視線が鋭くなる。
「何より私が一番気にくわないのは」
深田さんがズカズカと私のすぐ手前まで近寄ってくる。その顔はもうすぐ目の前だった。
「イインチョーが時々被害者っぽい顔してること。押し付けられたって思ってんなら、今すぐ主役降りてよ。みんな知らないだろうけど、孝太郎の書く脚本って、こんなクラスで使うのが勿体ないくらいなのにっ!」
深田さんがギュッと唇をかみしめる。その顔はとても悔しそうで、思わず一歩後ずさる。
「……ごめん」
結局そんな言葉しか出てこなかったのは、深田さんの言ってることが図星だったからかもしれない。私の演技がダメだとしても、そんな私を主役に推したみんなが悪いんだって――そう思っていないと言ったら、多分嘘になる。
深田さんは色々言い足りなさそうな眼でじっと私を見てからふっと息を零して踵を返す。早足に教室の方に歩き出して、その途中で一度だけ振り返った。
「私は主役の代理もできるように準備してるってこと、忘れないで」
去っていく深田さんのことを追いかけることができなかった。
結局、その日はもう教室に戻って稽古の続きをすることは出来なかった。
*
夜、ベッドに転がりながらスマホを付ける。気の進まない思いのままSNSアプリを起動させる。
『明日の稽古はどのシーンやるの?』
『そろそろ中盤のシーンも始めたいな。自分の娘を王子とくっつけようとする貴族とか、盗賊が魔法の鏡の秘密を知るシーンとか』
『わかった。じゃあ、そのシーンの人たちに声かけとくよ』
古橋君が作った私たち3人のグループチャットは、そんな事務的な会話が交わされて終わっていた。最初の頃は古橋君を中心に稽古の感想とかを書き合っていたけど、最近はそんな会話はほとんどない。
それは多分、私に気をつかってるから。もしかしたら、演劇の中身の話は私に見えない様に二人で話してるのかも。
頭の中をぐるぐると巡るのは、深田さんから突きつけられた言葉。いつもどこかに、上手くできなくたって私がやりたかったわけじゃないから仕方ない、なんて思いがあったのかもしれない。演劇の話だけじゃなく委員長だって名ばかりで、実際は副委員長の古橋君が殆ど上手くやってくれているし、それだって向き不向きがあるから仕方ないなんて思っていたのかも。
「でも、どうしたらいいかわからないよ……」
真面目にはやってるつもりだった。孝太郎の脚本を読み込んで自分の台詞は全部覚えた。それだけじゃなくて、自分と関りがあるシーンは出番がなくても頭に入れている。でも、リオーネという町娘になりきることがどうしてもできなかった。
このままじゃみんなに迷惑がかかる。特に、古橋君と孝太郎には迷惑はかけたくなかった。思い出すのは放課後に投げかけられた深田さんの最後の言葉。今ならまだ間に合うかもしれない。
グループチャットから孝太郎のアイコンをタップして連絡先を呼び出す。どうしよう。時間は既に25時近くなってる。もう寝てるかもしれないし、そもそもこんな時間に電話なんて非常識だけど。
それでも、連絡先をタップする。これ以上先延ばしにしても、いいことなんて一つもない。コール音が響き、緊張で心臓が跳ねる。
「……香純? どうした?」
スマホから聞こえる孝太郎の声は少し眠そうだった。やっぱり起こしてしまったのかも。
「こんな時間にごめん。でも、どうしても相談したいことがあって」
「気にすんなよ。それで、相談って?」
孝太郎の声はいつもより穏やかで優しい。そのことが一層罪悪感を深くする。
「私っ」
声が震えた。
「私、主役を降りたい……」
その一言を発しただけで、涙が溢れそうになっていた。だから最初にそう言っただろとか、今更そんなこと言われても困るとか、何を言われても仕方ないと思う。でも、そんな言葉が孝太郎の口から放たれることを思い浮かべると、スマホを握る手も震えた。
しばらく孝太郎は無言だった。すっかり呆れてしまってるのかもしれない。孝太郎の言葉を待つ時間がとても長く感じる。
「……お前が本気で降りたいって言うなら、脚本を書き直すけど」
孝太郎の言葉は想像していたどの内容とも違っていた。
「脚本を? なんで?」
「物語の大筋は決まってたけど、細かいところは当て書き――実際にその役を演じる人に合わせて書いてんだよ。だから、今の脚本のリオーネを演じられるのは香純しかいない」
「嘘っ……」
思わずそんな言葉が零れていた。
リオーネを私に合わせて書いた。でも、演劇の中のリオーネは王子を魔法の力で騙している罪悪感に駆られながらも、明るくて前向きで。それに、魔法の鏡を見つけることができたのは彼女がどの町娘よりも真面目に働いていたから。その一つ一つがリオーネの魅力となっていて、その全てが私に欠けてるものだと思う。
「嘘だよ。私なんてただイイ人のフリを続けてるだけのツマラナイ人間だし。あんなにキラキラしてるはずないよっ……!」
「お前さあ」
孝太郎の声はさっきとは打って変わってムッとしていた。
「なんで勝手に決めつけるんだよ」
「なんでって」
「俺がお前をどんなふうに見てようが、そんなの俺の勝手だろ」
息が止まりそうになる。
孝太郎の言葉をそのまま受け止めれば、孝太郎から見た私はリオーネの様に眩しく輝いていることになる。でも、それってあり得ない。孝太郎がそういう風に私を見てくれる要素なんて私のどこにも存在しない。
「そうだとしても。私より深田さんの方がリオーネを上手く演じられると思う」
「確かに深田は演者としても中々だけど、このリオーネは香純にしか演じられない。俺はそういう風に書いたつもりだ」
孝太郎の言葉には少しも迷いがない。それに口調は相変わらずムッとしたままで、私を励まそうとか慰めようって気配は感じられなかった。だとしたら、本気で孝太郎は私に当ててリオーネという町娘を書いたってことになる。
心臓が変な風に跳ねる。緊張とかじゃなくて、喉が渇いて凄い変な感じ。
「まあ、『嫌なら嫌って言え』って言ったのは俺だしな。だから、本当に無理なら脚本くらいすぐに書き直すけど。どうする?」
「……私、下手くそだけどいいの?」
「そんなのやる前から知ってたし」
なにそれ。まだ心臓は変な風にドキドキしてたけど、思わず吹き出してしまう。
さっきまであんなに重く感じて捨て去ろうと思っていたリオーネという存在が、今はとても愛おしかった。それが私だけのリオーネというのなら、もっと大事にしてあげたい。私のせいでなかったことになんてしたくない。
「私、もっと頑張ってみたい」
「おう」
孝太郎のぶっきらぼうな声は、今日聞いたどんな言葉より優しかった。
*
――待ってくれ、姫! 君の名前は!
古橋君の演技を思い浮かべる。
「……リオーネっ!」
魔法の力で王子を騙している罪悪感を抱きつつ、リオーネは舞踏会で知り合った王子に惹かれ始めている。名前を答える時のリオーネはそんな二つの想いにザワザワとしながらもドキドキとしている。
――リオーネ、リオーネ。リオーネっ! 覚えたぞ! また会おう!
また会おう。王子のその言葉がその後のリオーネの行動に結びついていく。興味本位で魔法の鏡の力でお姫様の姿になったリオーネだったけど、その言葉がきっかけとなりリオーネはその後も夜になると魔法の力でお姫様の姿になることを続ける。
「……ええっ、きっと!」
これまで経験したことの無い様な胸の高まり。そんな想いを抱えながらリオーネは王子の前から立ち去る。二人のその後の可能性を感じさせながら物語の前半は幕を閉じる。それが、中盤に二人を取り巻く様々な障害を引き立てることにつながる。
思い浮かべたシーンを終えて息をつく。誰もいない教室は夕闇色が深くなり始めていた。
先週よりもリオーネの気持ちの理解が深まった気がするけど、まだ足りない。今のままではリオーネへの想いを前面に打ち出してくる古橋君の王子に見劣りしてしまう。
もう一度初めの方から練習して――
「……イインチョー?」
ガラリと教室のドアが開いた。廊下から姿を現したのは深田さんだった。驚いた顔で私を見た後、慌てたように教室の明かりをつける。
「な、何やってるの!? 暗いのに明かりもつけずに」
あの日、深田さんからはっきりとした言葉を突きつけられてから、深田さんのことを見るとドキリとしてしまう。
「みんなと一緒の稽古だけじゃ、追い付けないから」
孝太郎に頑張ると伝えた日から、みんなでの稽古を終えてからも教室に残って練習を続けていた。みんな部活や用事あるから稽古はそんなに長い時間行えないし、見ているだけの時間も少なくない。だから、孝太郎からアドバイスをもらいつつ足りない部分を自分で補うことにした。
そうやって自分の演技に一人で向き合うようになると、思ってたよりずっとわかっているつもりだったところが多いことに気づいた。
「深田さんの言う通り、私はどこかで甘えてたんだと思う」
深田さんの言葉が無ければ、私はまだ漫然と稽古していたかもしれない。
「私こそ、あの時は言いすぎてゴメン。イインチョーがイインチョーとか色々やってくれるから私は部活に集中できてきたはずなのにね」
深田さんは私の目の前までくるとガバリと頭を下げる。そんな風に謝られるのは予想してなくて、むしろ私の方が申し訳なくなってくる。言わなきゃいけないことを言うってことだって勇気がいることで、深田さんはそれをしてくれたんだと思ってる。
「気にしないで、顔上げてよ。深田さんが言ってたこと、何も間違ってないから」
顔を上げた深田さんはそれでも納得いっていない感じだった。
「そうだけど……あ、そうだ。イインチョー、一人で練習してたの?」
「うん。流石に稽古以上に他の人巻き込めないし……」
古橋君と孝太郎は文化祭だけじゃなく、それぞれ陸上部と演劇部としての活動もある。特に孝太郎は演劇部の文化祭の出し物もあるらしくて、最近はいつも忙しそうにしていた。
「じゃあさ、お詫びってわけじゃないけど」
深田さんは鞄から、まだタイトル未定のままの演劇の台本を取り出した。
「私が手伝おっか? 前も言ったけど、みんなの代役してたから誰の役でもできるよ」
一人での練習することの限界も感じていたから、深田さんの申し出は願ってもないことだった。
「いいの? でも、深田さんも演劇部忙しいんじゃ……」
「それがね、演劇部の方は皆制服で演じるから衣装って衣装もなくて。だから、今は結構時間あるの」
それから、と深田さんがはにかみながら台本をそっと胸に抱き寄せる。
「私、普段は衣装とかの担当やってるけどね。代役でもなんでも、孝太郎の脚本を演じるの好きなんだ」
*
文化祭まであと一週間。
「ほら、カスミン! 早く早く!」
「わ、わ、深田さん。ちょっと待って!」
稽古の途中で私と孝太郎は手を引かれるようにして、文化祭準備期間中演劇用のセットや備品を作ったり保管してる空き教室へと連れていかれていた。私の舞台衣装が完成したから見に来てほしいって話だった。
深田さんに演劇の練習に付き合ってもらううちに、「イインチョーは余所余所しいから」とカスミンと呼ばれるようになっていた。そういえば、そんな風に誰かから呼んでもらうのって小学生以来かもしれない。
「俺まで連れてく必要あんのか?」
「そりゃあ、主役の衣装なんだから監督に見てもらわないと!」
「深田が作った衣装なら心配してないんだけど」
「嬉しいこと言ってくれるけど、あの衣装着てるカスミンを見たらきっと孝太郎もイチコロだから! 楽しみにしてて!」
「別に。俺はそういうのは……」
孝太郎の声がブツブツと小さくなる。周囲に遠慮するようなタイプじゃない孝太郎が調子を狂わされてる姿は珍しくて、なんだかおかしい。それと同時に私の知らない幼馴染の姿に何故だか少し寂しくもなる。
大道具用の教室に近づくと、文化祭まで一週間というところで慌ただしそうなざわめきが聞こえてきた。
「なんで委員長が主役の劇の為にこんなことしなきゃいけないかなー」
中から聞こえてきたのは永渕さんの声だった。永渕さんとそのグループはほとんどが演劇自体には参加しない大道具などの役割についていた。だから、稽古の方には一度も顔を出したことがない。
「だいたい、委員長と古橋君じゃ全然釣り合ってないって。あーあ、古橋君が王子様役やるなら、主役やっとけばよかった」
永渕さんの声にこたえるように教室の中から聞こえてくる笑い声。そこには確かに人を馬鹿にするような嘲りの色が含まれていた。
次の瞬間、深田さんが教室のドアを乱暴に開く。中にいた人たちが呆気にとられた様子で深田さんの方を見ている。その中には怪訝な顔をした永渕さん達の姿もあった。
「アンタたちねえ、カスミンがどんな思いで……っ!」
肩を怒らせた深田さんの言葉は思いが溢れてきたように途中で途切れる。パッと振り返った深田さんの顔は今にも泣き出しそうだった。
そんな深田さんの代わりに孝太郎が前に出る。無言なのに後ろから見てもわかるくらい鋭い剣幕で、教室の中はヒリヒリとした緊張感に包まれていた。
「これ、ラストシーンのセットだよな?」
永渕さん達が色を塗っていたセットの前にしゃがみ込むと、孝太郎は不自然なくらいに穏やかな声で尋ねかける。永渕さんが怪訝な顔のまま頷くと、孝太郎は一つ息をついて立ち上がる。
「ちょっとラストシーンのイメージと違うんだよな。やっぱり脚本だけじゃイメージってわからないと思うからさ」
孝太郎の声が静まり返る教室に響く。その声には隠しきれない怒気が含まれている。それが向けられているわけではないのに、私の方までギュッと苦しくなるような思いがした。
「30分後、教室でラストシーンの稽古するから見に来てくれ」
孝太郎は一方的に言い放つとカツカツと歩いて教室を出た。突然の発言に困惑しつつ、深田さんと顔を見合わせてから慌てて孝太郎の後を追う。教室を出てからも孝太郎は何も言わずに早足のまま稽古に使っている教室に戻った。
「孝太郎、どうしたの?」
孝太郎のただならぬ様子に休憩中だった古橋君がすっと眉を寄せる。
「30分後にラストシーンの稽古だ。大道具とかそっちの連中にも見てもらう」
「……わかったけど、なんで突然?」
孝太郎はちらっと私の方を振り返って、だけど何も言わずに古橋君の方に向き直った。その顔にはギラギラとした笑みが浮かんでいる。
「古橋」
「うん?」
「細かいことは気にせず、全力でぶっ放せ」
古橋君は一瞬ポカンとした表情になってから、くつくつと震えるように笑いだす。
「いいね。よくわかんないけど、そういうのは嫌いじゃない」
*
「時間ないから、そんなに本格的なメイクはできないけど……」
孝太郎たちがラストシーンの準備をしている間、深田さんは私を教室の隅に連れていくと手慣れた様子で私にメイクを施していく。本番も深田さんからメイクをしてもらう予定だったけど、メイクした状態で稽古をするのは初めてだった。
「カスミンは愛されてるんだね」
真剣な表情でメイクをしていく深田さんがポツリとそんな言葉を零す。
「あ、愛?」
「古橋君も孝太郎も、カスミンの為に怒ったり頑張ったりしてる」
「そんなこと……」
ない、とは言えなかった。さっき孝太郎が怒ったのも、これまで古橋君が私を励まし続けてくれたのも、みんなに対して同じようにしてるわけじゃない。
「少し前の私だったら、『贔屓されてズルい』とか思ってたんだろうけど。でも、今なら何となくわかるよ。そうしたくなっちゃう理由」
角度を変えながら私の顔を見る深田さんがニッと笑う。
「カスミンが頑張ってる姿見てると、なんだか応援したくなっちゃうんだよね」
「……そう、なの?」
「そうなの。さ、できた」
深田さんから渡された手鏡を見てみると、自分が自分じゃないようだった。深田さんは簡単なメイクだと言っていたけど、私の顔は確かにお姫様に近づいたように感じる。古橋君の相手役が私なんかでいいのかなってずっと思ってたけど、少しだけ自信が沸いてきた。
「さ、古橋君のこと、ノックアウトしてきちゃいなよ!」
深田さんのそんな言葉に背を押されたところで、約束の30分が経過した。永渕さん達が約束通り教室に入ってきた。慌ただしかった教室に更にピリッとした緊張感が走る。自然とみんなの視線は孝太郎に集まった。
「じゃあ、始めるぞ」
孝太郎の視線は私に向けられて、私はしっかりと頷き返す。
*
突如始まったラストシーンの演技は順調に進んでいき、遂にクライマックスのシーンを迎える。
町娘姿のリオーネから盗賊の存在を聞かされた王子は、兵士を伴って魔法の鏡が収められた倉庫に踏み込むと、まさに魔法の鏡を盗み出そうとした盗賊を捕まえる。
「どうしてわざわざ鏡なんてものを盗み出そうとしたんだ」
魔法の鏡の存在を知らない王子が盗賊に詰め寄る。盗賊は王子の後ろで事の成り行きを見守るリオーネを見てニイっと笑う。魔法の鏡の秘密を知った盗賊は、その秘密を隠すことを条件にリオーネから城の情報を聞きだして盗みを働いていたが、リオーネが情報を流さなくなったことで魔法の鏡を盗み出すことに決めたのだった。
「お気楽な王子様だな。てめえが騙されてるってことも知らずによ」
「騙されている。僕が、誰に」
「てめえの後ろに控えている町娘からだよ」
驚いたように振り返る王子に私は黙って俯く。盗賊に情報を流すのを辞めて、王子に盗賊の存在を伝えた時点で、リオーネは全てが明るみになることを覚悟していた。
「てめえが月の舞踏会で出会って懸想してた姫がいるだろ。そんな姫、この世のどこにも存在しねえんだよ! そいつはそこの町娘がこの鏡で姿を変えた紛い物だ!」
開き直ったように高笑いする盗賊の胸ぐらを王子が荒々しく掴む。
「そんな戯言、僕が信じるとでも?」
「じゃあ、そこでうなだれている奴に聞いてみるんだな!」
「……っ! 連れていけっ!」
王子の言葉で兵士が盗賊を連れ出していく。そして、倉庫には王子とリオーネだけが残された。王子は信じられないといった顔で魔法の鏡をじっと見た後、うなだれたままのリオーネに向き直る。
「本当に、君はあのリオーネなのか?」
王子の問いかけに私はゆっくりと頷く。お姫様姿の時に本名を伝えてしまっていたリオーネは、町娘姿の時は王子の前で偽名を使っていた。
「まさか、そんな。信じられない……」
王子の言葉に私は魔法の鏡の前に歩み寄る。鏡をじっと見るとその姿がお姫様姿へと変わり――今日は練習だから服装は変わらないけど――王子へと向き直る。驚きの表情を浮かべる王子に、私はそっと笑いかける。とても痛くて、今にも泣き出しそうな笑み。
「あの盗賊が言っていた通り、月の舞踏会が開かれる夜が来るたびに私は貴方を騙してました」
「どうして、そんなっ」
「初めは舞踏会に出てみたいって思っただけでした。でも、王子様とお話して、もっとお話ししたいと思ったんです。そんなこと、町娘の私には許されないから……」
悪いことだとわかっていた。魔法の鏡の力で気づいた関係なんて、成就しないと気づいていた。それでもリオーネは舞踏会が開かれる夜の度にお姫様の姿になることをやめなかった。
「好き、だったんです。王子としての貴方じゃなくて、お姫様のリオーネの前で見せてくれたただ一人の人間としての貴方のことが」
思いが溢れだしてきて、声が震える。いつかバレることはわかっていた。それが別れを意味することも気づいていた。だけど、それがこんなに辛いことだとは知らなかった。
私はその場にしゃがみ込み、顔を手で覆う。気丈に振る舞おうとしていたリオーネだけど、限界だった。
「私は王子様を騙し続けてました。どんな罰だって受け入れます。もう……私のことはお忘れください」
「そんなことできるわけないっ!」
王子の剣幕に私はハッと顔を上げる。私の前まで駆け寄ってきた王子はそのまま膝をつくと、私をぎゅっと抱き寄せる。
「忘れるなんてできるはずない。僕はリオーネのことも、君のことも、とっくに好きになってしまったのだから」
「……っ! ですが、私はっ!」
「騙したなんて言わないでほしい。僕の世界はあの日、リオーネに会ってから確かに変わったんだ。そして、その世界の中で僕は君を見つけた」
王子の手に力が籠められる。
「リオーネ。僕はこれからも君に傍にいてほしい」
「でも、私はただの町娘です」
「関係ないよ。僕は王子ではなく一人の人間として君が好きなんだ。だから、君の答えを教えてほしい」
「私は……」
恐る恐る王子の背に手を回す。
「私も、ずっとあなたと一緒にいたい、です」
リオーネの想いをハッキリ告げる。その想いへの返事のように私の背に回された古橋君の手に微かに力が籠った。
本番ならここで語り手による王子のリオーネのその後とともに幕が閉じる。今日はそれが無いから様子を見ながらそっと古橋君の背中から腕を外すと、パチリと手を打つ音が聞こえてきた。
深田さんが潤んだ瞳でこちらを見ながら、茫然とした様子で手を叩いていた。パチ、パチ、パチと手を打つ音が重なって、やがてそれが大きな拍手になっていく。いつの間にかずっと緊張していたみたいでほっと息が溢れてきた。
「お疲れ、古橋君」
古橋君の方を見ると、しゃがんだ姿勢のままで目元を覆うように手のひらを顔に被せていた。
「ど、どうしたの?」
「いや、なんというか、ごめん」
古橋君が小さく手をずらすと、心なしか顔が赤い気がした。
「劇だってわかってるのに、なんかすごいグッときちゃって。今はちょっと僕の顔、見せられない」
古橋君の言葉の意味が遅れて頭に入ってくる。
え、うそ。演技を始める前に深田さんから言われた「ノックアウトしてきちゃいなよ!」という言葉を思い出す。景気付けだと思って全然本気にしてなかったけど。いや、劇。これはあくまで劇だから。
なんか急にドキドキしてしまって、古橋君から視線を逸らすように教室の方を見る。拍手はまだなり続けていて、その中で孝太郎だけが複雑そうな顔でじっと私たちを見つめていた。
*
――文化祭当日
楽屋代わりの教室で深田さんにメイクをしてもらう間も心臓がバクバク高鳴っていた。
「カスミンー、そんな緊張しなくても大丈夫だって」
深田さんにそう声をかけてもらうのも何度目になるだろう。その言葉に頷きながらも胃の辺りがキリキリする。こんな風になるなら、どれくらいお客さん来てるのかななんて体育館を覗かなきゃよかった。
「文化祭の劇なのに、なんであんなにお客さんが……」
体育館は劇が始まる1時間前だというのに、殆どの席が埋まっていた。色々な高校の制服だけじゃなく大人の姿もちらほらあって、その空間だけ文化祭とは違った熱気で満ち溢れていた。そのすごさに逃げ出してきたのがさっき。
「まあ、今日は孝太郎が書いた劇が二本ある感じだしねー」
孝太郎の脚本というのがどれだけの意味を持つものなのか改めて思い知らされる。孝太郎の書く脚本がクラスの出し物として使われることを「勿体ない」と言った深田さんの言葉の意味も今ならよくわかる。
その孝太郎は朝から忙しそうにバタバタと駆けまわっていた。
「そういえば、孝太郎大丈夫かな? 急に盗賊役までやることになったけど……」
盗賊役だった男の子が急に昨日から胃腸炎になって文化祭を欠席することとなった。盗賊役は物語の中盤から後半にかけて物語を動かしていく大事な役回りで、急遽代役をできるのは台詞を全部把握している深田さんか孝太郎くらいしかいなかった。だけど、深田さんは劇が始まってからも演者の衣装やメイクの調整があるから、盗賊役は孝太郎が演じることになった。
「ま、孝太郎なら大丈夫でしょ。この脚本、凄い思い入れがあるみたいだし……さ、できた」
深田さんのメイクが終わり、鏡を見る。先週も感じたことだけど、演劇用の衣装を身に纏っていることもあってそこに映っているのが自分ではないような気がした。今日のメイクは衣装にも馴染んでいて、今は町娘の格好だけど、きっとお姫様姿でもこのメイクは輝くだろう。
不思議とメイク後の自分の姿を見ていると緊張が遠くなっていく感じがした。それよりも早く演じたいという思いが強くなっていく。
「そんなに思い入れのある作品なんだね」
「ベース自体は去年の今頃に書き上げてたみたいだし。文化祭用に少しだけ手直しはしたみたいだけど」
深田さんの言葉に頷いてから、違和感を覚える。
高校に入学した頃に書き上げた脚本。別にそういうのがあってもおかしくないと思う。だけど、何かが引っかかる。
「えっ……!?」
そうだ。そんなことはあり得ない。だって、主役を降りたいと私が相談した夜、孝太郎が私に返した答えは。
さっきまでとは違う意味で心臓がバクバクする。じゃあ、なんであの時の孝太郎はあんなことを言ったんだろう。リオーネは一体何者なのか。
何気ない言葉に頭がショートしそうになる中、深田さんは鏡の前に置かれていた私の台本を手に取った。
「私の全力は尽くしたから、次はカスミンの全力を見せてね!」
そんな励ましとともに台本が手渡される。ずっと「タイトル未定」だった表紙に、今は「真夜中の嘘」という文字がしっかりと書き込まれている。
*
孝太郎の書いた脚本――「真夜中の嘘」が一年前には既に書かれていたという事実は良くも悪くも私から緊張を吹き飛ばした。
落ち着く間もないまま劇は始まって、それでも問題なく演じられる程度にはリオーネは私の中に馴染んでいた。劇が進むにつれて、頭の中は目の前のことに対して研ぎ澄まされていく。
「待ってくれ、姫! 君の名前は!」
古橋君の王子の声に私は振り返る。自分の名前を伝え良いのか悩みながら、意を決して口を開く。
「……リオーネっ!」
私の声に古橋君は小さく目を見開いて、ハッと息を呑んだように見えた。それから楽しげに笑う。稽古の時にはなかった古橋君の表情。けれど、それが一番王子の想いを表しているようだった。
「リオーネ……リオーネ。リオーネっ! 覚えたぞ! また会おう!」
古橋君とじっと目が合う。そっと目を閉じて、その視線を受け入れて、笑う。
答える前に古橋君に背を向けて、私は誓うように声をあげる。
「……ええっ、きっと!」
振り返りたいリオーネの想いを堪えるようにしながらそのまま舞台袖に駆けていく。
部隊では、姿を消したリオーネに対する古橋君の想いの込められた独白が続き、前半の幕が閉じた。
そして中盤、急遽代役となった孝太郎の盗賊が舞台に登場する。
心配する必要なんて全然なかった。今、観客席から舞台を見ている人は誰も盗賊役が昨日決まった代役だとは気づかないだろう。
それくらいに盗賊役の孝太郎は舞台の上で躍動し、真夜中に嘘をつくリオーネの苦悩を深く掘り下げていく。
そして、中盤の山場。
お姫様姿のリオーネに対して、盗賊が魔法の鏡の秘密をばらすと脅し、王城の宝物庫の在処を聞き出そうとするところに王子が現れる。
「何者だっ! リオーネから離れろ!」
「ちっ、邪魔が入りやがったか」
古橋君の鋭い声に対して、孝太郎が忌々しそうに返す。互いを憎悪するような二人の視線がバチバチと交錯する。まるで舞台の上であることを忘れそうになるほどに、迫真の演技。私の前にいるのが王子と盗賊なのか、古橋君と孝太郎なのかが曖昧になっていく。
リオーネに手を伸ばそうとする王子を、盗賊はナイフを取り出してリオーネの首に突きつけることで制し、少しずつ後ずさる。王子は足を止め、ギリっと奥歯を噛みしめた。
「リオーネに傷でもつけてみろ。僕はお前をただじゃおかない」
その視線を向けられていないはずの私まで竦んでしまいそうになる古橋君の剣幕に、だけど孝太郎は喉の奥で笑ってみせる。
「……くくっ」
「何がおかしい」
「おかしいに決まってるだろ。王子とやらでもその目は曇ってよく見えないらしい。ああ、それとも何も知らないのか」
嘲るような調子の盗賊の言葉に王子の顔が微かにひるむ。盗賊の言う通り、お姫様姿のリオーネのことを王子はよく知らない。それはリオーネが自分の正体を隠していたからで、リオーネは自分が王子を騙していることへの罪の意識を募らせていく。
「お前がリオーネの何を知ってるって言うんだ」
「よく知ってるさ。この女のことを、俺はよく知っている」
「リオーネ……この男の言ってることは本当なのか?」
王子の傷ついた表情が私に向けられる。
「私は……いえ、この男はっ――」
この男は嘘をついている。続く言葉は頭の中にあるはずなのに、声にならなかった。
台詞が飛んだわけじゃない。それなのに、声が続かない。
「リオーネ?」
心配そうな古橋君の声。本当ならリオーネが盗賊が嘘をついていると王子に訴えることで、不利を悟った盗賊がリオーネを人質に取りながらその場から逃げ出す場面へと変わっていく。
そのきっかけとなる言葉がどうしても喉の奥から出てこない。
「この、男は――」
嘘をついている、という台詞がどうしても言えなかった。
どうして。どうして。どうしよう。言うことを聞かない身体に焦りばかりが募っていく。
せっかくここまで順調だったのに、このままでは私のせいで舞台を壊してしまう。
助けてっ――思わず傍にいる孝太郎の方を見上げてしまう。ダメ。そんな動き脚本にはなかったはずなのに。
「そんな目で俺を見るんじゃねえよ」
孝太郎の声が舞台に響く。
それは脚本には書かれていなかった台詞。
「やめろ。そんな目で見るな。まるで俺が嘘でついているような目で……!」
脚本にはない孝太郎の台詞に、古橋君がハッと顔を上げる。腰に差した剣をサッと抜き放つ。
「やはりお前が嘘をついていたのか! リオーネ、今助けるぞ!」
「近づくな。それ以上近づいたらこの女の命はねえ」
私の台詞を飛ばして舞台は脚本の流れへと戻る。私は孝太郎の人質となる形でそのまま舞台袖に姿を消す。
客席から見えないところまで移動すると、急に足から力が抜けて、それからガクガクと震えてきた。こんなこと、稽古の時は一度もなかった。台詞が飛んだことはなかったし、ましては思い浮かべた台詞が声にならない事なんて。
いつの間にか手の平にじっとりと汗をかいていた。どうしよう。今は孝太郎が上手くフォローしてくれたけど、もしまた似たようなことになったら次も上手くいくとは限らない。そうなったら、ここまで皆で作り上げてきた劇を私が壊してしまう。
「心配すんな」
不意打ち気味にポンっと孝太郎の手が私の頭の上に置かれた。
「これ以上ヤバいことなんて起きないから、心配すんな。それに、もしまた似たようなことになっても俺が絶対にどうにかする」
盗賊の格好をした孝太郎が、まるでヒーローのようなことを言う。
その言葉に思わず目が熱くなって、慌ててそれを我慢する。深田さん会心のメイクをここで崩すわけにはいかない。深田さんが託してくれた全力をまだ私は出し切れてない。
「ありがと。孝太郎」
その代わりに孝太郎に精一杯笑いかける。心配しないでと伝えるために。
視線が重なって数秒、孝太郎は私の頭から手をどけるとパッと視線を逸らした。
「あのさ、香純。今更なんだけど」
「うん」
「お姫様姿、すげえ似合ってる」
頬をかく孝太郎は何だか照れくさそうに見えて。急にそんなこと言うなんてズルい。せっかく落ち着けたと思ったのに、急に息が苦しくなる。
「え、と。孝太郎」
だけど、孝太郎は私が声をかけようとしたのとほぼ同時に、次の出番の為に舞台に出て行ってしまった。
*
ラストシーンまで進んでも、まだどこか夢見心地の様にふわふわとしていた。結局、あの後は舞台の上以外では孝太郎と一緒になる機会は無くて、なんで突然あんなことを言い出したのかはわからないままだった。
「私は王子様を騙し続けてました。どんな罰だって受け入れます。もう……私のことはお忘れください」
それでもリオーネの役は体に馴染んでいて、考えるより先に私は両手を重ねて目を伏せる。これまでのどの稽古よりもお姫様としてのリオーネを演じられている気がする。それは深田さんのメイクのおかげなのか、それとも。
「そんなことできるわけないっ!」
駆け寄ってきた古橋君に抱き寄せられる。その力がいつもよりも強く感じた。
「忘れるなんてできるはずない。僕はリオーネのことも、君のことも、とっくに好きになってしまったのだから」
「……っ!」
稽古で何度も聞いた言葉のはずなのに、好きという言葉に反応してしまう。演技だとわかっているのにドキドキする。
「ですが、私はっ!」
「騙したなんて言わないでほしい。僕の世界はあの日、リオーネに会ってから確かに変わったんだ。そして、その世界の中で僕は君を見つけた」
リオーネ、と私を呼ぶ古橋君の声はいつもより何だか切実で。聞いてる私の方がぎゅっと息が苦しくなるような声。
「僕はこれからも、君に傍にいてほしい」
「ですが、私はただの町娘です」
「関係ない。僕は王子ではなく一人の人間として君が好きなんだ。だから、君の答えを教えてほしい」
「私は……」
私は。私の答えは。
「ずっと一緒にいたい、です」
想いをハッキリ告げる。はっと息を呑む声が耳元で聞こえた。それと同時に長かった舞台の幕が閉じる。
割れんばかりの拍手が自分に向けられるのは初めての経験だった。
終わった。文化祭の出し物が演劇に決まった時はどうなることかと思ったけど、孝太郎の脚本として恥ずかしくない劇になったんじゃないかと思う。
頭がフワフワとしている間も無意識のうちに緊張していたようで、どっと疲れが溢れだしてきた。しゃがみ込んだ姿勢のまま立ち上がることができない。
「お疲れ。楠木さん」
顔を上げると既に立ち上がった王子様姿の古橋君が私に手を差し出していた。その手を取って立ち上がると、まだ足に力が入ってなくて思わずよろけてしまう。とっさに支えてくれた古橋君にもたれかかるような姿勢になってしまう。
「あっ、ごめ――」
「あのさ、楠木さん」
耳元で囁くような古橋君の声。
「僕は君のことが好きだ」
一瞬、私はまだ劇の続きの世界にいるのかと思った。
だけど、私に囁きかけているのは王子様ではなく古橋君で。ポンっと古橋君の手が背中に当たれられる。
「楠木さんがどう思ってたかはわからないけど、誰かのために一生懸命頑張れる君のことがずっと気になってて。今年、同じクラスになった時はやったって思って、もっと近くで楠木さんのことを知りたいって、副委員長に立候補したりして」
「……幻滅しなかった?」
委員長とは名ばかりで、今年の私はずっと古橋君に頼りきりだった。それはきっと、古橋君が思い描いていた私の姿とは違ったはずだ。
「そんなことないよ。だから僕は孝太郎に文化祭では劇がしたいって持ち掛けたんだから」
「えっと、それって」
「多分楠木さんはヒロインを演じることになるだろうから、僕も主役をやれば少しは楠木さんが僕のこと意識してくれるんじゃないかって」
「それ、は……」
「でも、失敗だったかも」
ちょっと困ったような笑い声とともに古橋君は私の体を離す。今度はもう、一人で立つことができた。古橋君は苦笑いを浮かべながら小さく息をつく。
「本当はちょっとでも意識してくれたらいいやってくらいに思ってたけど。今日の楠木さんは本当にお姫様みたいで、我慢できなくなっちゃった。それにさ」
古橋君は表情を変えずに視線を私の後ろ側へと送る。そちらから聞こえてくるのは劇が終わったばかりだというのに、次の演劇部の劇の準備に慌ただしく駆け回る孝太郎の声。
「どれだけ頑張ってもここは僕の土俵じゃないってこと、思い知らされた」
これまで、孝太郎は演技の指導をすることはあっても孝太郎が本格的に演技をしてみせることはなかった。だからこそ、本番で間近で見た孝太郎の演技には圧倒された。それだけじゃなくて、危ないところを助けてもらって、それから――
舞台袖の出来事を思い出しそうになったところで、古橋君の軽い咳払いですっと意識が戻る。
「さっきの告白、もしOKしてくれるならこの後教室で待ってるから。情けないんだけどさ、今この場で返事を聞くのはちょっとだけ怖いんだ」
少しだけ早口で古橋君は言い切ると、そのまま足早に舞台袖から降りていった。
その背中が見えなくなるまで見送ってから振り返ると、孝太郎は相変わらず右に左に走り回っている。とてもじゃないけど声をかけられそうな雰囲気ではない。
その脇で同級生と話していた深田さんが舞台の真ん中で立ち尽くしたままの私に気づき、ぱっと笑顔を浮かべて手招きをする。
とにもかくにも、まずはメイクを落としてもらって着替えないと。それから。
その後は、教室まで古橋君と話しに行こう――
*
文化祭の翌日は振り替え休日で、その次の日はほとんど一日文化祭の片づけに充てられる。
私たちのクラスはもっぱら大道具とか衣装の片づけで、特に大道具類は閉まっておく場所もないから細かく分けて処分していくことになる。私たちの劇――真夜中の嘘――は基本的にお城の中が舞台ではあったけど、その分しっかりセットを作り込んでいて片付けはなかなか大変だった。それに、部活の方でも出し物をした人がいて、そういう人は部活の方の片づけに駆り出されているから人手もやや少なかった。
だから私もゴミ捨て場と教室をずっと往復してるような状態だった。次のゴミ袋を手に取ったところで、教室の隅からうわっという声が聞こえてくる。
「あー、やばっ……」
副委員長として片付け全体の式をとっていた古橋君が、教室の隅に置かれていた王冠を手に取って困り顔を浮かべた。
「どうしたの?」
「これ、演劇部から借りっぱなしだった。演劇部の劇でも使う予定でちょっと困ってたみたいだし、謝りに行かないと」
「あ、それなら、私が行ってくるよ」
クラス内を纏めて指揮するような役割は私には手が余って、古橋君がこの場にいてくれた方がいい。逆に演劇部への謝罪の方は、一応は委員長の私が行った方がいいだろうし。
古橋君はちょっと悩むような素振りを見せたけど、同じ考えに至ったようでごめんという言葉とともに王冠を私に渡す。
だけど、流石にゴミ袋を持ったまま謝りに行くわけにはいかない。教室を見渡すと、手が空いてそうな女子が二人で話していた。
「あの、ごめん。このゴミ、捨てに行ってもらえないかな?」
声をかけると女子二人は顔を見合わせる。口には出さなかったけど、その顔には面倒くさいという言葉がしっかりと浮かんでいた。その雰囲気に気圧されそうになるけど、ぎゅっと唇をかみしめる。
「ごめんね。でも、急いで演劇部の方に返しに行かなきゃいけなくて」
少し前までの私だったら、諦めて自分で捨てに行ってただろうけど、いつまでもそのままじゃ何も変われないから。
女子二人はもう一度顔を見合わせて、ごみ袋の方に手を伸ばして――だけど、その手が届くより先に誰かが私の手からゴミ袋を取り上げた。
「私が捨てに行くから」
私の手からゴミ袋をとったのは永渕さんだった。
少しムッとしたような表情で私を一瞥すると、それ以上は何も言わずにゴミ袋を持って教室の外へと歩いていく。
「あ、あの。永渕さん」
永渕さんは振り返らなかったけど、一度足を止めた。
「ありがとうっ」
永渕さんは振り返ることなく、再び歩き出していってしまった。そんな永渕さんと入れ違うように深田さんが教室に入ってくる。その手には演劇でつかった衣装が何着か抱えられていた。
「何か今、ブッチーが凄い複雑そうな顔で歩いていったんだけど、何かあった?」
「複雑そうな顔?」
「うん。ぱっと見仏頂面なんだけど、頑張って照れ隠ししてるみたいな」
深田さんの言葉にほっと胸の奥が温かくなる。今はまだ、言いたいことを全部伝えるのは難しいけど、永渕さんともいつかは隔たりなく話せるようになればいいなって思う。
「あ、そうだ。カスミン、悪いけどこれ、演劇部の部室まで持ってってくれない?」
深田さんが差し出してきたのは、一昨日私が着ていたお姫様の衣装だった。
「ちょうど演劇部に行くところだったからいいけど、この衣装を演劇部に?」
「うん。それ、会心の出来だからもうしばらくとっとこうかなーって」
確かに深田さんが作ったお姫様の衣装は格別で、着ただけでもまるで本当にお姫様になったような気分になる。それに、今回の文化祭では色々あったから、私がお姫様を演じた証である衣装をしばらくでも部室に残してもらえるのは何だか嬉しかった。
「わかった。じゃあ、持ってくね」
「よろしくー! 多分今くらいなら、部室には孝太郎がいると思うから」
何気ない深田さんの言葉で、ちょっと上がっていた気分が一気に重くなってしまった。
*
演劇部の部室をノックすると、返ってきたのは深田さんの言っていた通り孝太郎の声だった。
部室のドアを開けると、孝太郎は劇で使われていた備品を片付けているようだった。
「なんだ、香純か。どうしたんだ?」
「この王冠、古橋君が間違えて持ってってたみたいで」
「ほらみろ、やっぱりアイツが持ちっぱなしだったんじゃねえか」
孝太郎は渋い顔をしながら王冠を受けとると、部室の一角の棚に収めた。
「それで、そっちは?」
孝太郎が指さしたのは、もう片方の手に抱えていたお姫様の衣装。
「深田さんが、会心の出来だからしばらく部室に置いときたいって」
ふうんとよくわからない表情で孝太郎は衣装を手に取ると、ぱっと広げて眺め出した。衣装とはいえ、自分が着ていたものをそんな風に目の前で見られるのはなんだか気恥しくて。それに、それだけじゃなくて。
――お姫様姿、すげえ似合ってる。
劇の最中に孝太郎が発した言葉。たったそれだけの言葉が耳に焼き付いていて今も離れない。
「ね、孝太郎。その衣装、似合ってた?」
「似合ってた」
孝太郎の視線が衣装から私に向けられる。その瞳もその声もまるで迷いもためらいもない。
「ま、当然だろ。リオーネは香純に当てて書いたんだからさ。似合ってもらわないと、寧ろ困るっていうか――」
「それ、嘘だったんでしょ」
気がついたら、孝太郎の言葉を途中で遮っていた。孝太郎が怪訝そうな表情で私を伺う。
「深田さんから聞いたの。今回の脚本、一年前には既に書き上がってたって」
孝太郎は何も言わない。肯定はしないけど、否定もしてくれなかった。
「私が主役を降りたいって相談した夜に孝太郎が言ってくれたこと、嬉しかったんだ。孝太郎がどういう風に私を見てるかは孝太郎の自由で、孝太郎は私をリオーネみたいに見てくれてるんだって」
私が見ていた私の姿は周りの気配にビクビクとして、いい人でありたいなんて唱えながら本当は周囲から嫌われたりするのを怖がっていただけのちっぽけな人間だった。
だから、自分の意思を強く持ってキラキラと輝くリオーネのように私を見てくれていたということが嬉しかった。だから、私はあの日から頑張ることができて、少しだけ変わることができたと思う。
「あの夜、孝太郎がリオーネは私の為に書いたって言ってくれたこと、今でもありがとうって思ってる。だけど、嘘まではついてほしくなかったな……」
そんなこと言えた義理ではないのはわかってる。だけど、孝太郎の言葉に支えられて頑張ってきた分、その言葉が嘘だとわかった時にはショックだった。リオーネを演じることはできたけど、舞台の前半は心ここにあらずだったのかほとんど覚えていない。
「……当て書きしたっていうのは、確かに嘘だ」
絞り出すような孝太郎の微かな声。わかっていたはずのその言葉に、それでも傷ついてしまう。
でも、と必死そうな幸太郎の顔が私を見る。
「リオーネは確かに香澄なんだ。あの脚本は、ずっと頑張ってるのに損ばっかりしてる、そんな香純に幸せになってほしいって……そう思いながら書いたんだから」
幸太郎の言葉は全く予想してなくて。ただその言葉の意味が胸の奥に染み込んでくる。舞台の上で感じたものと同じ想いが溢れてくる。
「脚本の中で幸せにしたってしょうがねえってわかってたけど、それでも書かずにはいられなかった。でも、香純以外がリオーネを演じるイメージってなくてそのままお蔵入りしてて。だから、古橋が演劇の話を持ってきた時、アイツが何を考えてるかは察しがついたけど、チャンスだと思った」
孝太郎の顔がくしゃりと歪む。その言葉が徐々にかすれ声になっていく。
「俺の脚本、少しはお前の役に立てたか?」
その言葉の裏に含まれた意味はすぐにわかった。お前は幸せになれたか、という孝太郎からの問いかけ。その答えはとっくに決まってる。
「まだ」
だから、真っ直ぐに幸太郎の目を見て私ははっきりと告げる。
「まだ終わってない。劇の中の王子様みたいに、孝太郎が私のこと、幸せにしてよ」
私の言葉に孝太郎が大きく目を見開く。
「なっ。でも、お前、古橋からっ」
「古橋君の告白は断ったよ」
あの日、衣装を着替えて制服に戻った私は古橋君の待つ教室に向かった。でもそれは、古橋君の告白を受け入れるってことじゃなくて、これまで私のことを支えてくれた古橋君への私なりのケジメだった。
付き合えないと答えたとき、古橋君は傷ついた顔で笑っていた。わかってたって。劇の練習をすればするほど気づかされたと言って。
「孝太郎は私のことずっと傍で見てくれて、支えてくれて、守ろうとしてくれて。そんな当たり前のことに劇の最中に改めて気づかされた」
劇の途中で言えなかった「この男は嘘をついている」という台詞。それはきっと、あの夜の孝太郎の言葉が真実であってほしいという願いのせいで、最後まで声にすることができなかったんだと思う。
「だからね。孝太郎とずっと一緒にいたいなって、そう思ったの」
文化祭の劇の最後の言葉。それは目の前の王子様ではなく、盗賊としての役目を終えた孝太郎に向けて放った言葉だった。
「まさか、王子様からお姫様を奪うことになるなんてな。脚本を書いた時には考えてもなかった」
「嘘つきの孝太郎には盗賊役がお似合いだったのかもね」
「うるせえよ」
不服そうな声を出す孝太郎の顔は真っ赤だった。多分、私だって同じような表情になっている。孝太郎は真っ赤なままの顔をまっすぐに私に向ける。その澄み切った瞳に、私はまたドキリとする。
「俺も香純の傍にいたい。これは絶対、嘘じゃない」
教卓の前に立つ副委員長の古橋君が教室内を見渡す。高校二年生の文化祭、三年生になると受験前ということで出し物はしないから実質的に高校最後の文化祭だけど、みんなどこか気まずそうにしながら古橋君と視線が合わない様にそれとなく目を逸らす。
古橋君がしばらく待つ間、結局発言する人は誰もいなかった。
合図のように1つ息をついた古橋君が隣に立つ委員長である私に視線を送る。
――誰からも手が上がらなかったら、奥の手があるから。
文化祭の出し物決めを始める前、古橋君は私にそう耳打ちした。奥の手が何かは教えてくれなかったけど、この場でどうすることもできない私にはその合図に頷くことしかできない。
「特に誰もやりたいことないなら、僕から一つ提案だけど」
古橋君は問いかけるというよりは説きかけるようにもう一度教室を見渡して、それから教室の一番後ろの角の席に視線を投げかけた。その視線の先にいたのは演劇部の孝太郎だった。孝太郎は渋い顔をしながら立ち上がる。
「孝太郎に脚本を書いてもらって、演劇をやろうと思う。せっかくうちのクラスには我らが演劇部の名脚本家がいるんだしね」
古橋君の一言で途端に教室が騒めきだす。驚いたのは計画を事前に聞いていなかった私も同じだ。一方の孝太郎はどこか苦々しい表情。
「……マジで?」
そう声をあげたのは深田さんだった。明るい髪が目立つ女子で孝太郎と同じく演劇部。深田さんの反応からして、この話は古橋君と孝太郎の二人で進められていたらしい。
演劇を、うちのクラスで。古橋君には悪いけど、やる気も結束力も欠けるうちのクラスで演劇なんて、どれだけ孝太郎の脚本の出来がよくても大惨事になる予感しかしなかった。
「別に無理強いするつもりはないんだ。だから、演劇は嫌だって人がいたら遠慮なく言ってほしい」
古橋君は落ち着いた笑みを浮かべているけど、やっていることは実質脅迫に近い。だって、ここで反対すれば対案を求められるだろうし、クラスのまとめ役的な存在の古橋君の不興は誰だって買いたくない。
みんなが誰かに何か言ってほしそうな気配だけを漂わせながら時間が流れていく。
「……うん。反対はなさそうだし、演劇で決まりだね。孝太郎、ざっくり説明できる?」
水を向けられると孝太郎は面倒くさそうに頭をかいて一つため息をつく。
「定番かもしれないけど、テーマは『身分違いの恋』だ」
小学校時代から知っている孝太郎から「恋」という単語が放たれるとドキドキというかムズムズした。いつもはどこか気だるげな雰囲気を纏っている幼馴染とはあまり結びつかない言葉。
「王子様と町娘が結ばれるまでの話。なんで、メインはそのままその二人。ある程度土台はあるけど、脚本を作りこむためにその二人くらいは今日決めちゃって欲しい」
「その二人だとどっちがメインなの?」
「配役次第だけど、町娘の方が一番主役になる感じだな」
「じゃあ、町娘から決めちゃおう。女子の中で我こそはって人、いるかな?」
古橋君は爽やかな笑みを浮かべながら今日何度目かになる教室全体に視線を送る。もちろん、手を挙げる人などいなかった。古橋君と目が合わないようにみんな俯き加減になっていく。
その中で、パッと手が上がった。永渕さんというクラスのリーダー格の女子だ。よかった。溌溂として主役らしい雰囲気もあるし、永渕さんがやってくれるなら誰も何も言わないだろう――
「主役は委員長がいいと思いまーす」
「わ、私?」
ほっとしたのもつかの間、永渕さんの発言で急に矢面に立たされる。永渕さんは鋭いくらいの視線を容赦なく私にぶつける。
「委員長なら大丈夫でしょ。可愛いし、真面目だし、何より委員長だし」
その言葉に全然心がこもっていないのは直感で分かった。主役を押し付けても今後困らない相手として私が目をつけられただけだ。だけど、永渕さんが作った流れを後押しするかのように他の女子からも「委員長がいいと思う」、「委員長が適任だよね」なんて無責任な言葉が急に溢れだした。男子は我関せずという雰囲気を出して無言でその流れを後押ししている。
「いや、お前ら。委員長選びの時もそうやって香純に押し付けただろ」
孝太郎の声でそんな声が静まる。流れをせき止めた孝太郎に女子たちから非難の視線が向けられるけど、孝太郎は気にした様子もない。
「だいたい、香純はただでさえ委員長やってるんだから、文化祭まで主役なんて――」
「待って、孝太郎」
そんな孝太郎を止めたのは、古橋君だった。
「まだ楠木さんの意向を聞いてないでしょ。楠木さん的にはどうかな?」
さっき視線を向けられた時と違い、古橋君は今度は真正面から私を見る。クラス内外の女子から人気のある整った顔立ちから見つめられると、そんな場合じゃないのに少しドギマギしてしまう。その向こう側には永渕さんをはじめとした「わかってるでしょ?」と言いたげな表情もよく見えた。
わかってる。もしここで断ったら、後々面倒くさいことになるんだろうし、いつまでたってもこの場が収まることもないだろう。
自分に主役なんて到底できるとは思わないけど、今この空間をどうにかしたいという気持ちの方が上回ってしまう。
「……や、やる。私でよければ」
どうにか絞り出した声にパッと古橋君の顔に笑みが広がる。それと同時に教室に安堵の空気が広がったように見えた。
「よかった。ありがとう、楠木さん」
古橋君の言葉に黙ってうなずく。黙ってても整った顔に笑顔なんて浮かぶとなおさらドキドキしてしまうし、私がやるしかなかったじゃんという後ろ暗い思いもあった。
「じゃあ、次は王子役だけど、誰もいなければ僕がやらせてもらおうかな」
サラリと続けた古橋君の言葉。え、という声は私の口からも教室の誰かからも同時に複数溢れだしたようだった。
「委員長の楠木さんが主役やるんだし、男子側の主役は副委員長の僕がやっちゃった方がこの場もまとまっていいかなって」
男子からはホッとした気配を感じたけど、それ以外から少なくないジトっとした視線を感じる。笑顔がキラキラとした古橋君と近づきたいという女子はクラスの中でも少なくなくて、私が古橋君のヒロイン役を演じることを妬むような気配をあちこちから感じた。。
じゃあ貴方がヒロインに立候補してればよかったじゃん、とはとても口には出せないけど。
「それじゃ、細かい配役とか役割は明日からまた決めてくとして、文化祭目指して頑張ろう!」
意気込む古橋君の声に返ってきた「おー」という声はバラバラだった。
教室の隅で何か言いたそうな顔をしている孝太郎が見えたけど、すぐに面倒くさそうに頭をかいて席に座ってしまう。
これから文化祭まで、胃がギリギリとしそうな日々が続くということだけはよくわかった。
*
主役決めが終わるとその日はそのまま解散となり、教室の中にそこはかとない薄黒いしこりを残しつつもすぐに人気は無くなっていった。自然と残ったのは古橋君と孝太郎と私の三人になる。
「楽しみだね。文化祭」
「う、うん。そうだね……」
古橋君がふわりと笑う。古橋君は本当にワクワクした様子だったけど、私は漠然とした不安の方が大きくて素直に頷くことができなかった。古橋君はそんな私の反応にも気を悪くすることもなく孝太郎に向けてニッと口角をあげてみせる。
「というわけで、脚本楽しみにしてるよ。孝太郎センセー」
孝太郎は面倒くさそうな顔に半眼を浮かべて古橋君のことをじっと見るけど、やがて息をついてガシガシと頭をかいた。
「お前の手にだって余るようなの書いてやるよ」
その言葉が予想外だったのか古橋君が一瞬だけポカンとした顔になった。半年くらい委員長と副委員長でやってきたけど、そんな古橋君の表情を見るのは初めてだった。それから古橋君はくつくつと堪えるように笑い始める。
「そっか。一生懸命練習しないとだね」
古橋君と孝太郎が無言で視線を交わす。それは私にはわからない会話をしているようにも見えた。少しだけハラハラとしながらその様子を見守っていると、やがて古橋君が小さく息をついて私たちに背を向けた。
「っと、そろそろ僕も部活行かなきゃ。じゃあ、また明日。楠木さん、孝太郎」
そう言うと古橋君は陸上部らしい軽やかな足取りで教室を後にした。その背を見送った孝太郎が深々とため息をつく。呆れたような顔が私を見ていた。
「で、お前はどうなんだ。主役なんて引き受けてよかったのかよ」
最初からストレートに突き抜けてくる言葉に思わず呻きそうになる。孝太郎に言われなくたって、私が主役なんて柄じゃないってことは他でもなく私が一番よくわかってる。
「でも、私の他に主役を引き受けてくれそうな人なんて……」
「だからって、お前が引き受ける必要ないだろ。春に委員長だって押し付けられてるのに、このままじゃ永渕達にいいように使われちまうぞ」
小学校から高校までずっと同じ学校に通い続けている幼馴染は、人が気にしていることを手心なく突っ込んでくる。今日の文化祭の主役決めはまるで春のクラス替え直後の委員長決めをなぞるような展開だった。
永渕さんが唐突に私を推薦し、周りと取り巻きがそれを後押しして教室全体がそんな雰囲気になる。その流れに逆らえずに受け入れたところで、副委員長を古橋君が買って出てくれた。委員会だったりクラスの活動を率先して引っ張ってくれる古橋君が副委員長になってくれてとても助かったけど、同時に私は少なくない妬みも買ってしまったらしい。それからも永渕さん達による面倒ごとの押し付けに近い推薦は度々あった。
「嫌なことは嫌って言わねえと」
「……でも、孝太郎だって古橋君のムチャブリを引き受けたんでしょ」
孝太郎がうっと詰まる。今回の演劇の企画を孝太郎から古橋君に持ち込むとは考えにくかったし、古橋君から頼まれたとしてすぐに頷くとも思えなかった。それは間違ってなかったようで、孝太郎はバツの悪そうな顔で頭をガシガシと乱暴にかく。
「俺はいいんだよ。演劇がやれればなんでも」
「ふうん」
さっきまで言いたい放題言われていたお返しとばかりに頷いてみると、軽く睨まれた。
「いいか。稽古が始まったら香純がどんな考えで主役を引き受けてようが関係ないからな。ビシバシ行くぞ」
単に話題を変えたというだけでじゃなく、孝太郎のトーンは真剣だった。さっきは古橋君が冗談めかして「センセー」なんて呼んでたけど、実際に孝太郎が担当した脚本でうちの演劇部は賞だってとってるはずだ。文化祭とはいえ、孝太郎の正確なら手を抜くつもりはないんだろう。
「うん。頑張る……」
本当についていけるのか、正直自信はない。だけど、私が引き受けてればどうにか文化祭だって乗り切れるんだ。だから、やるしかない。
あと、ほんの少しだけど古橋君の王子様役を近くで見れるというのは役得だと思う。その代償が大きすぎるんだけど。
「そういえば。古橋君は何で演劇やろうと思ったのかな?」
何となく口から零れた疑問に孝太郎はすぐには答えなかった。不思議に思って孝太郎の方を見ると、さっき古橋君が出ていった教室のドアの辺りをじっと見ている。
「羨ましいよ。自分がやりたいことを周囲を巻き込んで、誘導しながらなしとげようとしちまうあいつが」
「え、どういうこと?」
ハッとしたような顔をした孝太郎がブンブンと首を振る。
「……いや、なんでもねえ。俺も部活行くから、またな」
孝太郎はどこか投げやりな様子で教室を出ていった。
*
その日は、夜遅くなってもなかなか寝ることができなかった。
――嫌なことは嫌って言わねえと。
孝太郎から言われた言葉が何度も頭の中で繰り返される。何ら特別な言葉ではないし、初めて言われた言葉でもない。それなのに、頭がズキズキとするくらいに焼き付いて離れていかない。
中学生くらいになった頃から、人が嫌がることや面倒なことを私が引き受ければいいと思うようになっていった。
勉強も運動もそんなにできなくて、その他の特技もない。だけど周りを見ればキラキラしていた。孝太郎だってその頃から演劇の活動を本格的にはじめて、どんどん活躍するようになっていた。
置いていかれる、と思った。何にもない私は、誰からも見てもらえなくなるんじゃないかと。そのことがすごい怖かった。
それで、なにもできないなら、せめていい人になろうと思った。
人が嫌がる損な役回りを進んで引き受けるようにした。みんなの為に役に立つ人になれば、みんなが私から離れていくこともないはずだから。周りの人たちが私に感謝してくれる度に、私がここにいることを認めてもらえる気がした。
それがどこか歪んでいることには気づいていたけど、その頃にはもう自分自身でも周囲の期待的な意味でもあり方を変えることは出来なくなっていた。
私はこれからもこうやって生きていくのだろうか。だけど、今更どう生きたいかと言われてもよくわからない。
ぐるぐると巡り続ける思考にため息をつくと、枕元に置いていたスマホからピロンという着信音。
【furuhashiからグループに招待されました】
メッセージアプリの通知を開くと、古橋君が作ったグループに私と孝太郎が招待されていた。だけど、私が入ってしばらくしても孝太郎はグループに参加してこない。何か他のことをしているのか、そもそもメッセージアプリなんて殆ど触れることがないのか。
『文化祭、頑張ろうね!』
古橋君からメッセージが届く。今年からおなじクラスになった古橋君は少し変わった人だった。部活をしながら委員会にも参加して、クラスのために忙しく働いている。だけど、私と違って好きでやっている感じだった。じゃあ、去年も委員会に入っていたのかと思ったらそうでもないらしい。
なんにしても、古橋君が副委員長になってくれたから私はどうにかやれている。
『演劇、私が主役でよかったのかな?』
演劇なんてこれまで孝太郎のを見たことがあるくらいで演者なんてやったことがない。私が引き受ければ丸く収まると思って受けてしまったけど、今になって本当に私にできるのか不安になっていた。
『楠木さんなら大丈夫だよ』
古橋君の返信は早かった。
『僕は楠木さんと演じれるの、楽しみにしてる』
楽しみにしてる。何気ない言葉だけど、文字としてみるとじんわりと浸み込んでくる。
嫌だからとか面倒くさいとかじゃなくて、私を私として見てくれる言葉。
『ありがとう。頑張ってみる』
『こちらこそ。っと、明日朝練だからそろそろ寝るね』
『うん。おやすみ』
スマホをぎゅっと握りしめる。少しだけ心が軽くなっていく感じがした。
古橋君の言葉を何度も読み返す。難しいことはいったん置いておいて、今はまず文化祭に集中しようと気持ちが前向きになっていく。
と、不意に握りしめていたスマホが軽やかな着信音とともにブブブと震えた。
『ざっくりだけど書き終わった』
ポップアップしたのは孝太郎からのメッセージだった。続けて「タイトル未定」と書かれたファイルが添付される。開いていると、それは演劇の脚本のあらすじのようなものだった。所々セリフや動作が書きこまれていて、あらすじよりもう少し詳しい流れがわかるようになっている。
教室で語っていた通り、町娘と王子の恋愛が軸のストーリー。
お城で下働きをしている町娘はある日倉庫で古びた鏡を見つける。その鏡は魔法の鏡で、町娘は夜の間だけお姫様の姿になることができるようになる。そして、お城で開かれた舞踏会で王子に出会う。
町娘に一目惚れをした王子に対し、町娘は王子が好きな自分が偽りの姿であることから距離を置く。しかし、魔法で姿を変えていない町娘の自分に対しても王子は気づかぬまま優しく接し、少しずつ王子に惹かれていく。
その後は、自分の娘を王子に嫁がせようとしている貴族や、魔法の鏡の秘密を知って町娘を脅す盗賊の妨害を跳ねのけながら、互いの想いを深めていきついに結ばれる。
読み終わると、深い息が溢れ出してきた。頭の中がグチャグチャとして思考がまとまらない。びっくりするくらいに町娘に感情移入をしてしまって、遂に王子と結ばれると自分の恋が叶ったみたいに嬉しかった。だけど、すぐにその町娘を演じるのは私だという現実に押しつぶされそうになる。
『私にできるかな?』
孝太郎が最後にコメントしてから1時間以上たっている。とっくに日付も変わっているし、もう寝てるかなと思ったけど、着信を示すサウンドがすぐに鳴り響いた。
『お前にしかできねえよ』
*
文化祭の演劇の役決めから一週間くらいたつと、孝太郎の脚本もおおむね仕上がって配役や役割もだいたい決まっていった。そうして、放課後の空き教室で少しずつ稽古が始まった。
「待ってくれ、姫! 君の名前は!」
古橋君が私に向かって手を伸ばす。魔法の鏡によってお姫様の姿になった町娘と舞踏会で知り合った王子が別れ際に名前を聞くシーン。この演劇の前半の一つのピークだった。
古橋君の表情には町娘に惹かれた王子が乗り移っていて、劇だとわかっていても胸のどこかがギュッと強く握りしめられたようになる。
「リオーネ」
私は笑みを浮かべると、古橋君にさっと背を向ける。もうすぐ魔法が解ける。その前にどこかに隠れなければいけない。もう少し王子と話していたいという焦れったさを胸に秘めて名前を教える。
「リオーネ、リオーネ。リオーネっ! 覚えたぞ! また会おう!」
「……ええ、きっと」
王子を振り返ることなく頷いて、そのまま舞台――といっても今日は教室だからドアから廊下の方にはけていく。教室の中では王子が町娘――リオーネへの想いを語る独白のシーンが続いている。演技であることを忘れるくらいの感情が古橋君の台詞にも仕草にも含まれていた。そんな古橋君の演技を聞いているとため息が溢れてくる。私は必然的に古橋君とのシーンが多くて、その度に演技力の差を見せつけられる。お互い演技は素人のはずなのに、どうしてこんなに違うんだろう。
「お疲れ、楠木さん。孝太郎センセーからの講評だって」
やがて演技を終えた古橋君に声をかけられて教室に戻る。稽古を見ていた孝太郎は難しい顔で口を開きかけては閉じるといったことを繰り返していた。その視線は確実に私を見ていて、言いたいことがあるということはよく分かった。
「リオーネは王子を騙してる罪悪感はあるんだけど、基本的には前向きな性格だからもう少し感情を乗せた方がいいと思う」
孝太郎からはものすごく言葉を選んでいる感じが伝わってくる。私は孝太郎の言葉に頷く。頷くのだけど、どうすれば上手くいくかがわからない。練習を始めてから言い方は変わりながらもずっと孝太郎から同じ趣旨の指摘を受けてきた。
「ね、孝太郎センセー。僕はなんかないの?」
いつもより二割ばかし明るい声で古橋君が孝太郎に尋ねる。
「お前は香純以外のときにも同じ熱量で演じろ」
「え、特に変えてるつもりないけど」
「なおさら問題だ。お前、今から他のシーンの特訓な」
「えーっ! 孝太郎センセー、スパルタ過ぎない?」
「演劇やりたいって言い出したのはお前だからな」
孝太郎は手早く別のシーンの稽古を指示する。それは王子がリオーネがどこの国の姫か調べるよう家臣に指示するシーンで、当然私の出番はない。どのあたりに注意しながら演じるかなどを伝えながら、孝太郎がちらっと私の方を見る。
「見るのも稽古ではあるんだけど、香純はちょっと休憩な」
孝太郎の言葉に頷く。本当は古橋君の演技だったりから勉強した方がいいんだろうけど、今は少しだけこの場所にいるのがしんどかった。別シーンの稽古が始まる前に教室を出ると行先もなく廊下を歩く。人気の少ない場所までたどり着くと、窓を開けて胸の奥の方から息を吐き出す。
校内は少しずつ文化祭に向けた色に染まり始めていた。それなのに、私はちっとも上達しない。このままだと間に合わないかもしれないという焦りで指先が小さく震える。
「イインチョー」
誰もいないと思っていたから、突然聞こえてきた声に慌てて窓の外から視線を戻す。明るい髪の女子――深田さんが険しい顔でこちらを見ていた。深田さんは演劇部での役割と同じく衣装を担当だけど、放課後の稽古の時には足りない役柄の代役を務めたりしている。
「さっきの演技。何あれ?」
深田さんの声は鋭い。
「経験ないのはわかるけど、稽古を始めてから全然変わってないじゃん。やる気あんの?」
わかってる。わかっているけど、自分で何となくわかっているのと実際言葉にして告げられるのはまた違う。深田さんの言葉は胸の奥底の方に突き刺さってくる。
「孝太郎はあれで優しいから抑えめに言ってるけど、主役がこんなんじゃ劇全体が死んじゃう」
遠慮のない言葉。だけど、多分それは孝太郎が言いたくてずっと抑えてきた言葉なのかもしれない。ただでさえ部活だ何だと理由をつけて稽古に来ない人も多いのに、主役まで実力不足なのだから。
「……ごめんなさい」
色々な思いは喉の奥でつかえてしまって、シンプルな言葉しか出てこなかった。そんな私の返事に深田さんの視線が鋭くなる。
「何より私が一番気にくわないのは」
深田さんがズカズカと私のすぐ手前まで近寄ってくる。その顔はもうすぐ目の前だった。
「イインチョーが時々被害者っぽい顔してること。押し付けられたって思ってんなら、今すぐ主役降りてよ。みんな知らないだろうけど、孝太郎の書く脚本って、こんなクラスで使うのが勿体ないくらいなのにっ!」
深田さんがギュッと唇をかみしめる。その顔はとても悔しそうで、思わず一歩後ずさる。
「……ごめん」
結局そんな言葉しか出てこなかったのは、深田さんの言ってることが図星だったからかもしれない。私の演技がダメだとしても、そんな私を主役に推したみんなが悪いんだって――そう思っていないと言ったら、多分嘘になる。
深田さんは色々言い足りなさそうな眼でじっと私を見てからふっと息を零して踵を返す。早足に教室の方に歩き出して、その途中で一度だけ振り返った。
「私は主役の代理もできるように準備してるってこと、忘れないで」
去っていく深田さんのことを追いかけることができなかった。
結局、その日はもう教室に戻って稽古の続きをすることは出来なかった。
*
夜、ベッドに転がりながらスマホを付ける。気の進まない思いのままSNSアプリを起動させる。
『明日の稽古はどのシーンやるの?』
『そろそろ中盤のシーンも始めたいな。自分の娘を王子とくっつけようとする貴族とか、盗賊が魔法の鏡の秘密を知るシーンとか』
『わかった。じゃあ、そのシーンの人たちに声かけとくよ』
古橋君が作った私たち3人のグループチャットは、そんな事務的な会話が交わされて終わっていた。最初の頃は古橋君を中心に稽古の感想とかを書き合っていたけど、最近はそんな会話はほとんどない。
それは多分、私に気をつかってるから。もしかしたら、演劇の中身の話は私に見えない様に二人で話してるのかも。
頭の中をぐるぐると巡るのは、深田さんから突きつけられた言葉。いつもどこかに、上手くできなくたって私がやりたかったわけじゃないから仕方ない、なんて思いがあったのかもしれない。演劇の話だけじゃなく委員長だって名ばかりで、実際は副委員長の古橋君が殆ど上手くやってくれているし、それだって向き不向きがあるから仕方ないなんて思っていたのかも。
「でも、どうしたらいいかわからないよ……」
真面目にはやってるつもりだった。孝太郎の脚本を読み込んで自分の台詞は全部覚えた。それだけじゃなくて、自分と関りがあるシーンは出番がなくても頭に入れている。でも、リオーネという町娘になりきることがどうしてもできなかった。
このままじゃみんなに迷惑がかかる。特に、古橋君と孝太郎には迷惑はかけたくなかった。思い出すのは放課後に投げかけられた深田さんの最後の言葉。今ならまだ間に合うかもしれない。
グループチャットから孝太郎のアイコンをタップして連絡先を呼び出す。どうしよう。時間は既に25時近くなってる。もう寝てるかもしれないし、そもそもこんな時間に電話なんて非常識だけど。
それでも、連絡先をタップする。これ以上先延ばしにしても、いいことなんて一つもない。コール音が響き、緊張で心臓が跳ねる。
「……香純? どうした?」
スマホから聞こえる孝太郎の声は少し眠そうだった。やっぱり起こしてしまったのかも。
「こんな時間にごめん。でも、どうしても相談したいことがあって」
「気にすんなよ。それで、相談って?」
孝太郎の声はいつもより穏やかで優しい。そのことが一層罪悪感を深くする。
「私っ」
声が震えた。
「私、主役を降りたい……」
その一言を発しただけで、涙が溢れそうになっていた。だから最初にそう言っただろとか、今更そんなこと言われても困るとか、何を言われても仕方ないと思う。でも、そんな言葉が孝太郎の口から放たれることを思い浮かべると、スマホを握る手も震えた。
しばらく孝太郎は無言だった。すっかり呆れてしまってるのかもしれない。孝太郎の言葉を待つ時間がとても長く感じる。
「……お前が本気で降りたいって言うなら、脚本を書き直すけど」
孝太郎の言葉は想像していたどの内容とも違っていた。
「脚本を? なんで?」
「物語の大筋は決まってたけど、細かいところは当て書き――実際にその役を演じる人に合わせて書いてんだよ。だから、今の脚本のリオーネを演じられるのは香純しかいない」
「嘘っ……」
思わずそんな言葉が零れていた。
リオーネを私に合わせて書いた。でも、演劇の中のリオーネは王子を魔法の力で騙している罪悪感に駆られながらも、明るくて前向きで。それに、魔法の鏡を見つけることができたのは彼女がどの町娘よりも真面目に働いていたから。その一つ一つがリオーネの魅力となっていて、その全てが私に欠けてるものだと思う。
「嘘だよ。私なんてただイイ人のフリを続けてるだけのツマラナイ人間だし。あんなにキラキラしてるはずないよっ……!」
「お前さあ」
孝太郎の声はさっきとは打って変わってムッとしていた。
「なんで勝手に決めつけるんだよ」
「なんでって」
「俺がお前をどんなふうに見てようが、そんなの俺の勝手だろ」
息が止まりそうになる。
孝太郎の言葉をそのまま受け止めれば、孝太郎から見た私はリオーネの様に眩しく輝いていることになる。でも、それってあり得ない。孝太郎がそういう風に私を見てくれる要素なんて私のどこにも存在しない。
「そうだとしても。私より深田さんの方がリオーネを上手く演じられると思う」
「確かに深田は演者としても中々だけど、このリオーネは香純にしか演じられない。俺はそういう風に書いたつもりだ」
孝太郎の言葉には少しも迷いがない。それに口調は相変わらずムッとしたままで、私を励まそうとか慰めようって気配は感じられなかった。だとしたら、本気で孝太郎は私に当ててリオーネという町娘を書いたってことになる。
心臓が変な風に跳ねる。緊張とかじゃなくて、喉が渇いて凄い変な感じ。
「まあ、『嫌なら嫌って言え』って言ったのは俺だしな。だから、本当に無理なら脚本くらいすぐに書き直すけど。どうする?」
「……私、下手くそだけどいいの?」
「そんなのやる前から知ってたし」
なにそれ。まだ心臓は変な風にドキドキしてたけど、思わず吹き出してしまう。
さっきまであんなに重く感じて捨て去ろうと思っていたリオーネという存在が、今はとても愛おしかった。それが私だけのリオーネというのなら、もっと大事にしてあげたい。私のせいでなかったことになんてしたくない。
「私、もっと頑張ってみたい」
「おう」
孝太郎のぶっきらぼうな声は、今日聞いたどんな言葉より優しかった。
*
――待ってくれ、姫! 君の名前は!
古橋君の演技を思い浮かべる。
「……リオーネっ!」
魔法の力で王子を騙している罪悪感を抱きつつ、リオーネは舞踏会で知り合った王子に惹かれ始めている。名前を答える時のリオーネはそんな二つの想いにザワザワとしながらもドキドキとしている。
――リオーネ、リオーネ。リオーネっ! 覚えたぞ! また会おう!
また会おう。王子のその言葉がその後のリオーネの行動に結びついていく。興味本位で魔法の鏡の力でお姫様の姿になったリオーネだったけど、その言葉がきっかけとなりリオーネはその後も夜になると魔法の力でお姫様の姿になることを続ける。
「……ええっ、きっと!」
これまで経験したことの無い様な胸の高まり。そんな想いを抱えながらリオーネは王子の前から立ち去る。二人のその後の可能性を感じさせながら物語の前半は幕を閉じる。それが、中盤に二人を取り巻く様々な障害を引き立てることにつながる。
思い浮かべたシーンを終えて息をつく。誰もいない教室は夕闇色が深くなり始めていた。
先週よりもリオーネの気持ちの理解が深まった気がするけど、まだ足りない。今のままではリオーネへの想いを前面に打ち出してくる古橋君の王子に見劣りしてしまう。
もう一度初めの方から練習して――
「……イインチョー?」
ガラリと教室のドアが開いた。廊下から姿を現したのは深田さんだった。驚いた顔で私を見た後、慌てたように教室の明かりをつける。
「な、何やってるの!? 暗いのに明かりもつけずに」
あの日、深田さんからはっきりとした言葉を突きつけられてから、深田さんのことを見るとドキリとしてしまう。
「みんなと一緒の稽古だけじゃ、追い付けないから」
孝太郎に頑張ると伝えた日から、みんなでの稽古を終えてからも教室に残って練習を続けていた。みんな部活や用事あるから稽古はそんなに長い時間行えないし、見ているだけの時間も少なくない。だから、孝太郎からアドバイスをもらいつつ足りない部分を自分で補うことにした。
そうやって自分の演技に一人で向き合うようになると、思ってたよりずっとわかっているつもりだったところが多いことに気づいた。
「深田さんの言う通り、私はどこかで甘えてたんだと思う」
深田さんの言葉が無ければ、私はまだ漫然と稽古していたかもしれない。
「私こそ、あの時は言いすぎてゴメン。イインチョーがイインチョーとか色々やってくれるから私は部活に集中できてきたはずなのにね」
深田さんは私の目の前までくるとガバリと頭を下げる。そんな風に謝られるのは予想してなくて、むしろ私の方が申し訳なくなってくる。言わなきゃいけないことを言うってことだって勇気がいることで、深田さんはそれをしてくれたんだと思ってる。
「気にしないで、顔上げてよ。深田さんが言ってたこと、何も間違ってないから」
顔を上げた深田さんはそれでも納得いっていない感じだった。
「そうだけど……あ、そうだ。イインチョー、一人で練習してたの?」
「うん。流石に稽古以上に他の人巻き込めないし……」
古橋君と孝太郎は文化祭だけじゃなく、それぞれ陸上部と演劇部としての活動もある。特に孝太郎は演劇部の文化祭の出し物もあるらしくて、最近はいつも忙しそうにしていた。
「じゃあさ、お詫びってわけじゃないけど」
深田さんは鞄から、まだタイトル未定のままの演劇の台本を取り出した。
「私が手伝おっか? 前も言ったけど、みんなの代役してたから誰の役でもできるよ」
一人での練習することの限界も感じていたから、深田さんの申し出は願ってもないことだった。
「いいの? でも、深田さんも演劇部忙しいんじゃ……」
「それがね、演劇部の方は皆制服で演じるから衣装って衣装もなくて。だから、今は結構時間あるの」
それから、と深田さんがはにかみながら台本をそっと胸に抱き寄せる。
「私、普段は衣装とかの担当やってるけどね。代役でもなんでも、孝太郎の脚本を演じるの好きなんだ」
*
文化祭まであと一週間。
「ほら、カスミン! 早く早く!」
「わ、わ、深田さん。ちょっと待って!」
稽古の途中で私と孝太郎は手を引かれるようにして、文化祭準備期間中演劇用のセットや備品を作ったり保管してる空き教室へと連れていかれていた。私の舞台衣装が完成したから見に来てほしいって話だった。
深田さんに演劇の練習に付き合ってもらううちに、「イインチョーは余所余所しいから」とカスミンと呼ばれるようになっていた。そういえば、そんな風に誰かから呼んでもらうのって小学生以来かもしれない。
「俺まで連れてく必要あんのか?」
「そりゃあ、主役の衣装なんだから監督に見てもらわないと!」
「深田が作った衣装なら心配してないんだけど」
「嬉しいこと言ってくれるけど、あの衣装着てるカスミンを見たらきっと孝太郎もイチコロだから! 楽しみにしてて!」
「別に。俺はそういうのは……」
孝太郎の声がブツブツと小さくなる。周囲に遠慮するようなタイプじゃない孝太郎が調子を狂わされてる姿は珍しくて、なんだかおかしい。それと同時に私の知らない幼馴染の姿に何故だか少し寂しくもなる。
大道具用の教室に近づくと、文化祭まで一週間というところで慌ただしそうなざわめきが聞こえてきた。
「なんで委員長が主役の劇の為にこんなことしなきゃいけないかなー」
中から聞こえてきたのは永渕さんの声だった。永渕さんとそのグループはほとんどが演劇自体には参加しない大道具などの役割についていた。だから、稽古の方には一度も顔を出したことがない。
「だいたい、委員長と古橋君じゃ全然釣り合ってないって。あーあ、古橋君が王子様役やるなら、主役やっとけばよかった」
永渕さんの声にこたえるように教室の中から聞こえてくる笑い声。そこには確かに人を馬鹿にするような嘲りの色が含まれていた。
次の瞬間、深田さんが教室のドアを乱暴に開く。中にいた人たちが呆気にとられた様子で深田さんの方を見ている。その中には怪訝な顔をした永渕さん達の姿もあった。
「アンタたちねえ、カスミンがどんな思いで……っ!」
肩を怒らせた深田さんの言葉は思いが溢れてきたように途中で途切れる。パッと振り返った深田さんの顔は今にも泣き出しそうだった。
そんな深田さんの代わりに孝太郎が前に出る。無言なのに後ろから見てもわかるくらい鋭い剣幕で、教室の中はヒリヒリとした緊張感に包まれていた。
「これ、ラストシーンのセットだよな?」
永渕さん達が色を塗っていたセットの前にしゃがみ込むと、孝太郎は不自然なくらいに穏やかな声で尋ねかける。永渕さんが怪訝な顔のまま頷くと、孝太郎は一つ息をついて立ち上がる。
「ちょっとラストシーンのイメージと違うんだよな。やっぱり脚本だけじゃイメージってわからないと思うからさ」
孝太郎の声が静まり返る教室に響く。その声には隠しきれない怒気が含まれている。それが向けられているわけではないのに、私の方までギュッと苦しくなるような思いがした。
「30分後、教室でラストシーンの稽古するから見に来てくれ」
孝太郎は一方的に言い放つとカツカツと歩いて教室を出た。突然の発言に困惑しつつ、深田さんと顔を見合わせてから慌てて孝太郎の後を追う。教室を出てからも孝太郎は何も言わずに早足のまま稽古に使っている教室に戻った。
「孝太郎、どうしたの?」
孝太郎のただならぬ様子に休憩中だった古橋君がすっと眉を寄せる。
「30分後にラストシーンの稽古だ。大道具とかそっちの連中にも見てもらう」
「……わかったけど、なんで突然?」
孝太郎はちらっと私の方を振り返って、だけど何も言わずに古橋君の方に向き直った。その顔にはギラギラとした笑みが浮かんでいる。
「古橋」
「うん?」
「細かいことは気にせず、全力でぶっ放せ」
古橋君は一瞬ポカンとした表情になってから、くつくつと震えるように笑いだす。
「いいね。よくわかんないけど、そういうのは嫌いじゃない」
*
「時間ないから、そんなに本格的なメイクはできないけど……」
孝太郎たちがラストシーンの準備をしている間、深田さんは私を教室の隅に連れていくと手慣れた様子で私にメイクを施していく。本番も深田さんからメイクをしてもらう予定だったけど、メイクした状態で稽古をするのは初めてだった。
「カスミンは愛されてるんだね」
真剣な表情でメイクをしていく深田さんがポツリとそんな言葉を零す。
「あ、愛?」
「古橋君も孝太郎も、カスミンの為に怒ったり頑張ったりしてる」
「そんなこと……」
ない、とは言えなかった。さっき孝太郎が怒ったのも、これまで古橋君が私を励まし続けてくれたのも、みんなに対して同じようにしてるわけじゃない。
「少し前の私だったら、『贔屓されてズルい』とか思ってたんだろうけど。でも、今なら何となくわかるよ。そうしたくなっちゃう理由」
角度を変えながら私の顔を見る深田さんがニッと笑う。
「カスミンが頑張ってる姿見てると、なんだか応援したくなっちゃうんだよね」
「……そう、なの?」
「そうなの。さ、できた」
深田さんから渡された手鏡を見てみると、自分が自分じゃないようだった。深田さんは簡単なメイクだと言っていたけど、私の顔は確かにお姫様に近づいたように感じる。古橋君の相手役が私なんかでいいのかなってずっと思ってたけど、少しだけ自信が沸いてきた。
「さ、古橋君のこと、ノックアウトしてきちゃいなよ!」
深田さんのそんな言葉に背を押されたところで、約束の30分が経過した。永渕さん達が約束通り教室に入ってきた。慌ただしかった教室に更にピリッとした緊張感が走る。自然とみんなの視線は孝太郎に集まった。
「じゃあ、始めるぞ」
孝太郎の視線は私に向けられて、私はしっかりと頷き返す。
*
突如始まったラストシーンの演技は順調に進んでいき、遂にクライマックスのシーンを迎える。
町娘姿のリオーネから盗賊の存在を聞かされた王子は、兵士を伴って魔法の鏡が収められた倉庫に踏み込むと、まさに魔法の鏡を盗み出そうとした盗賊を捕まえる。
「どうしてわざわざ鏡なんてものを盗み出そうとしたんだ」
魔法の鏡の存在を知らない王子が盗賊に詰め寄る。盗賊は王子の後ろで事の成り行きを見守るリオーネを見てニイっと笑う。魔法の鏡の秘密を知った盗賊は、その秘密を隠すことを条件にリオーネから城の情報を聞きだして盗みを働いていたが、リオーネが情報を流さなくなったことで魔法の鏡を盗み出すことに決めたのだった。
「お気楽な王子様だな。てめえが騙されてるってことも知らずによ」
「騙されている。僕が、誰に」
「てめえの後ろに控えている町娘からだよ」
驚いたように振り返る王子に私は黙って俯く。盗賊に情報を流すのを辞めて、王子に盗賊の存在を伝えた時点で、リオーネは全てが明るみになることを覚悟していた。
「てめえが月の舞踏会で出会って懸想してた姫がいるだろ。そんな姫、この世のどこにも存在しねえんだよ! そいつはそこの町娘がこの鏡で姿を変えた紛い物だ!」
開き直ったように高笑いする盗賊の胸ぐらを王子が荒々しく掴む。
「そんな戯言、僕が信じるとでも?」
「じゃあ、そこでうなだれている奴に聞いてみるんだな!」
「……っ! 連れていけっ!」
王子の言葉で兵士が盗賊を連れ出していく。そして、倉庫には王子とリオーネだけが残された。王子は信じられないといった顔で魔法の鏡をじっと見た後、うなだれたままのリオーネに向き直る。
「本当に、君はあのリオーネなのか?」
王子の問いかけに私はゆっくりと頷く。お姫様姿の時に本名を伝えてしまっていたリオーネは、町娘姿の時は王子の前で偽名を使っていた。
「まさか、そんな。信じられない……」
王子の言葉に私は魔法の鏡の前に歩み寄る。鏡をじっと見るとその姿がお姫様姿へと変わり――今日は練習だから服装は変わらないけど――王子へと向き直る。驚きの表情を浮かべる王子に、私はそっと笑いかける。とても痛くて、今にも泣き出しそうな笑み。
「あの盗賊が言っていた通り、月の舞踏会が開かれる夜が来るたびに私は貴方を騙してました」
「どうして、そんなっ」
「初めは舞踏会に出てみたいって思っただけでした。でも、王子様とお話して、もっとお話ししたいと思ったんです。そんなこと、町娘の私には許されないから……」
悪いことだとわかっていた。魔法の鏡の力で気づいた関係なんて、成就しないと気づいていた。それでもリオーネは舞踏会が開かれる夜の度にお姫様の姿になることをやめなかった。
「好き、だったんです。王子としての貴方じゃなくて、お姫様のリオーネの前で見せてくれたただ一人の人間としての貴方のことが」
思いが溢れだしてきて、声が震える。いつかバレることはわかっていた。それが別れを意味することも気づいていた。だけど、それがこんなに辛いことだとは知らなかった。
私はその場にしゃがみ込み、顔を手で覆う。気丈に振る舞おうとしていたリオーネだけど、限界だった。
「私は王子様を騙し続けてました。どんな罰だって受け入れます。もう……私のことはお忘れください」
「そんなことできるわけないっ!」
王子の剣幕に私はハッと顔を上げる。私の前まで駆け寄ってきた王子はそのまま膝をつくと、私をぎゅっと抱き寄せる。
「忘れるなんてできるはずない。僕はリオーネのことも、君のことも、とっくに好きになってしまったのだから」
「……っ! ですが、私はっ!」
「騙したなんて言わないでほしい。僕の世界はあの日、リオーネに会ってから確かに変わったんだ。そして、その世界の中で僕は君を見つけた」
王子の手に力が籠められる。
「リオーネ。僕はこれからも君に傍にいてほしい」
「でも、私はただの町娘です」
「関係ないよ。僕は王子ではなく一人の人間として君が好きなんだ。だから、君の答えを教えてほしい」
「私は……」
恐る恐る王子の背に手を回す。
「私も、ずっとあなたと一緒にいたい、です」
リオーネの想いをハッキリ告げる。その想いへの返事のように私の背に回された古橋君の手に微かに力が籠った。
本番ならここで語り手による王子のリオーネのその後とともに幕が閉じる。今日はそれが無いから様子を見ながらそっと古橋君の背中から腕を外すと、パチリと手を打つ音が聞こえてきた。
深田さんが潤んだ瞳でこちらを見ながら、茫然とした様子で手を叩いていた。パチ、パチ、パチと手を打つ音が重なって、やがてそれが大きな拍手になっていく。いつの間にかずっと緊張していたみたいでほっと息が溢れてきた。
「お疲れ、古橋君」
古橋君の方を見ると、しゃがんだ姿勢のままで目元を覆うように手のひらを顔に被せていた。
「ど、どうしたの?」
「いや、なんというか、ごめん」
古橋君が小さく手をずらすと、心なしか顔が赤い気がした。
「劇だってわかってるのに、なんかすごいグッときちゃって。今はちょっと僕の顔、見せられない」
古橋君の言葉の意味が遅れて頭に入ってくる。
え、うそ。演技を始める前に深田さんから言われた「ノックアウトしてきちゃいなよ!」という言葉を思い出す。景気付けだと思って全然本気にしてなかったけど。いや、劇。これはあくまで劇だから。
なんか急にドキドキしてしまって、古橋君から視線を逸らすように教室の方を見る。拍手はまだなり続けていて、その中で孝太郎だけが複雑そうな顔でじっと私たちを見つめていた。
*
――文化祭当日
楽屋代わりの教室で深田さんにメイクをしてもらう間も心臓がバクバク高鳴っていた。
「カスミンー、そんな緊張しなくても大丈夫だって」
深田さんにそう声をかけてもらうのも何度目になるだろう。その言葉に頷きながらも胃の辺りがキリキリする。こんな風になるなら、どれくらいお客さん来てるのかななんて体育館を覗かなきゃよかった。
「文化祭の劇なのに、なんであんなにお客さんが……」
体育館は劇が始まる1時間前だというのに、殆どの席が埋まっていた。色々な高校の制服だけじゃなく大人の姿もちらほらあって、その空間だけ文化祭とは違った熱気で満ち溢れていた。そのすごさに逃げ出してきたのがさっき。
「まあ、今日は孝太郎が書いた劇が二本ある感じだしねー」
孝太郎の脚本というのがどれだけの意味を持つものなのか改めて思い知らされる。孝太郎の書く脚本がクラスの出し物として使われることを「勿体ない」と言った深田さんの言葉の意味も今ならよくわかる。
その孝太郎は朝から忙しそうにバタバタと駆けまわっていた。
「そういえば、孝太郎大丈夫かな? 急に盗賊役までやることになったけど……」
盗賊役だった男の子が急に昨日から胃腸炎になって文化祭を欠席することとなった。盗賊役は物語の中盤から後半にかけて物語を動かしていく大事な役回りで、急遽代役をできるのは台詞を全部把握している深田さんか孝太郎くらいしかいなかった。だけど、深田さんは劇が始まってからも演者の衣装やメイクの調整があるから、盗賊役は孝太郎が演じることになった。
「ま、孝太郎なら大丈夫でしょ。この脚本、凄い思い入れがあるみたいだし……さ、できた」
深田さんのメイクが終わり、鏡を見る。先週も感じたことだけど、演劇用の衣装を身に纏っていることもあってそこに映っているのが自分ではないような気がした。今日のメイクは衣装にも馴染んでいて、今は町娘の格好だけど、きっとお姫様姿でもこのメイクは輝くだろう。
不思議とメイク後の自分の姿を見ていると緊張が遠くなっていく感じがした。それよりも早く演じたいという思いが強くなっていく。
「そんなに思い入れのある作品なんだね」
「ベース自体は去年の今頃に書き上げてたみたいだし。文化祭用に少しだけ手直しはしたみたいだけど」
深田さんの言葉に頷いてから、違和感を覚える。
高校に入学した頃に書き上げた脚本。別にそういうのがあってもおかしくないと思う。だけど、何かが引っかかる。
「えっ……!?」
そうだ。そんなことはあり得ない。だって、主役を降りたいと私が相談した夜、孝太郎が私に返した答えは。
さっきまでとは違う意味で心臓がバクバクする。じゃあ、なんであの時の孝太郎はあんなことを言ったんだろう。リオーネは一体何者なのか。
何気ない言葉に頭がショートしそうになる中、深田さんは鏡の前に置かれていた私の台本を手に取った。
「私の全力は尽くしたから、次はカスミンの全力を見せてね!」
そんな励ましとともに台本が手渡される。ずっと「タイトル未定」だった表紙に、今は「真夜中の嘘」という文字がしっかりと書き込まれている。
*
孝太郎の書いた脚本――「真夜中の嘘」が一年前には既に書かれていたという事実は良くも悪くも私から緊張を吹き飛ばした。
落ち着く間もないまま劇は始まって、それでも問題なく演じられる程度にはリオーネは私の中に馴染んでいた。劇が進むにつれて、頭の中は目の前のことに対して研ぎ澄まされていく。
「待ってくれ、姫! 君の名前は!」
古橋君の王子の声に私は振り返る。自分の名前を伝え良いのか悩みながら、意を決して口を開く。
「……リオーネっ!」
私の声に古橋君は小さく目を見開いて、ハッと息を呑んだように見えた。それから楽しげに笑う。稽古の時にはなかった古橋君の表情。けれど、それが一番王子の想いを表しているようだった。
「リオーネ……リオーネ。リオーネっ! 覚えたぞ! また会おう!」
古橋君とじっと目が合う。そっと目を閉じて、その視線を受け入れて、笑う。
答える前に古橋君に背を向けて、私は誓うように声をあげる。
「……ええっ、きっと!」
振り返りたいリオーネの想いを堪えるようにしながらそのまま舞台袖に駆けていく。
部隊では、姿を消したリオーネに対する古橋君の想いの込められた独白が続き、前半の幕が閉じた。
そして中盤、急遽代役となった孝太郎の盗賊が舞台に登場する。
心配する必要なんて全然なかった。今、観客席から舞台を見ている人は誰も盗賊役が昨日決まった代役だとは気づかないだろう。
それくらいに盗賊役の孝太郎は舞台の上で躍動し、真夜中に嘘をつくリオーネの苦悩を深く掘り下げていく。
そして、中盤の山場。
お姫様姿のリオーネに対して、盗賊が魔法の鏡の秘密をばらすと脅し、王城の宝物庫の在処を聞き出そうとするところに王子が現れる。
「何者だっ! リオーネから離れろ!」
「ちっ、邪魔が入りやがったか」
古橋君の鋭い声に対して、孝太郎が忌々しそうに返す。互いを憎悪するような二人の視線がバチバチと交錯する。まるで舞台の上であることを忘れそうになるほどに、迫真の演技。私の前にいるのが王子と盗賊なのか、古橋君と孝太郎なのかが曖昧になっていく。
リオーネに手を伸ばそうとする王子を、盗賊はナイフを取り出してリオーネの首に突きつけることで制し、少しずつ後ずさる。王子は足を止め、ギリっと奥歯を噛みしめた。
「リオーネに傷でもつけてみろ。僕はお前をただじゃおかない」
その視線を向けられていないはずの私まで竦んでしまいそうになる古橋君の剣幕に、だけど孝太郎は喉の奥で笑ってみせる。
「……くくっ」
「何がおかしい」
「おかしいに決まってるだろ。王子とやらでもその目は曇ってよく見えないらしい。ああ、それとも何も知らないのか」
嘲るような調子の盗賊の言葉に王子の顔が微かにひるむ。盗賊の言う通り、お姫様姿のリオーネのことを王子はよく知らない。それはリオーネが自分の正体を隠していたからで、リオーネは自分が王子を騙していることへの罪の意識を募らせていく。
「お前がリオーネの何を知ってるって言うんだ」
「よく知ってるさ。この女のことを、俺はよく知っている」
「リオーネ……この男の言ってることは本当なのか?」
王子の傷ついた表情が私に向けられる。
「私は……いえ、この男はっ――」
この男は嘘をついている。続く言葉は頭の中にあるはずなのに、声にならなかった。
台詞が飛んだわけじゃない。それなのに、声が続かない。
「リオーネ?」
心配そうな古橋君の声。本当ならリオーネが盗賊が嘘をついていると王子に訴えることで、不利を悟った盗賊がリオーネを人質に取りながらその場から逃げ出す場面へと変わっていく。
そのきっかけとなる言葉がどうしても喉の奥から出てこない。
「この、男は――」
嘘をついている、という台詞がどうしても言えなかった。
どうして。どうして。どうしよう。言うことを聞かない身体に焦りばかりが募っていく。
せっかくここまで順調だったのに、このままでは私のせいで舞台を壊してしまう。
助けてっ――思わず傍にいる孝太郎の方を見上げてしまう。ダメ。そんな動き脚本にはなかったはずなのに。
「そんな目で俺を見るんじゃねえよ」
孝太郎の声が舞台に響く。
それは脚本には書かれていなかった台詞。
「やめろ。そんな目で見るな。まるで俺が嘘でついているような目で……!」
脚本にはない孝太郎の台詞に、古橋君がハッと顔を上げる。腰に差した剣をサッと抜き放つ。
「やはりお前が嘘をついていたのか! リオーネ、今助けるぞ!」
「近づくな。それ以上近づいたらこの女の命はねえ」
私の台詞を飛ばして舞台は脚本の流れへと戻る。私は孝太郎の人質となる形でそのまま舞台袖に姿を消す。
客席から見えないところまで移動すると、急に足から力が抜けて、それからガクガクと震えてきた。こんなこと、稽古の時は一度もなかった。台詞が飛んだことはなかったし、ましては思い浮かべた台詞が声にならない事なんて。
いつの間にか手の平にじっとりと汗をかいていた。どうしよう。今は孝太郎が上手くフォローしてくれたけど、もしまた似たようなことになったら次も上手くいくとは限らない。そうなったら、ここまで皆で作り上げてきた劇を私が壊してしまう。
「心配すんな」
不意打ち気味にポンっと孝太郎の手が私の頭の上に置かれた。
「これ以上ヤバいことなんて起きないから、心配すんな。それに、もしまた似たようなことになっても俺が絶対にどうにかする」
盗賊の格好をした孝太郎が、まるでヒーローのようなことを言う。
その言葉に思わず目が熱くなって、慌ててそれを我慢する。深田さん会心のメイクをここで崩すわけにはいかない。深田さんが託してくれた全力をまだ私は出し切れてない。
「ありがと。孝太郎」
その代わりに孝太郎に精一杯笑いかける。心配しないでと伝えるために。
視線が重なって数秒、孝太郎は私の頭から手をどけるとパッと視線を逸らした。
「あのさ、香純。今更なんだけど」
「うん」
「お姫様姿、すげえ似合ってる」
頬をかく孝太郎は何だか照れくさそうに見えて。急にそんなこと言うなんてズルい。せっかく落ち着けたと思ったのに、急に息が苦しくなる。
「え、と。孝太郎」
だけど、孝太郎は私が声をかけようとしたのとほぼ同時に、次の出番の為に舞台に出て行ってしまった。
*
ラストシーンまで進んでも、まだどこか夢見心地の様にふわふわとしていた。結局、あの後は舞台の上以外では孝太郎と一緒になる機会は無くて、なんで突然あんなことを言い出したのかはわからないままだった。
「私は王子様を騙し続けてました。どんな罰だって受け入れます。もう……私のことはお忘れください」
それでもリオーネの役は体に馴染んでいて、考えるより先に私は両手を重ねて目を伏せる。これまでのどの稽古よりもお姫様としてのリオーネを演じられている気がする。それは深田さんのメイクのおかげなのか、それとも。
「そんなことできるわけないっ!」
駆け寄ってきた古橋君に抱き寄せられる。その力がいつもよりも強く感じた。
「忘れるなんてできるはずない。僕はリオーネのことも、君のことも、とっくに好きになってしまったのだから」
「……っ!」
稽古で何度も聞いた言葉のはずなのに、好きという言葉に反応してしまう。演技だとわかっているのにドキドキする。
「ですが、私はっ!」
「騙したなんて言わないでほしい。僕の世界はあの日、リオーネに会ってから確かに変わったんだ。そして、その世界の中で僕は君を見つけた」
リオーネ、と私を呼ぶ古橋君の声はいつもより何だか切実で。聞いてる私の方がぎゅっと息が苦しくなるような声。
「僕はこれからも、君に傍にいてほしい」
「ですが、私はただの町娘です」
「関係ない。僕は王子ではなく一人の人間として君が好きなんだ。だから、君の答えを教えてほしい」
「私は……」
私は。私の答えは。
「ずっと一緒にいたい、です」
想いをハッキリ告げる。はっと息を呑む声が耳元で聞こえた。それと同時に長かった舞台の幕が閉じる。
割れんばかりの拍手が自分に向けられるのは初めての経験だった。
終わった。文化祭の出し物が演劇に決まった時はどうなることかと思ったけど、孝太郎の脚本として恥ずかしくない劇になったんじゃないかと思う。
頭がフワフワとしている間も無意識のうちに緊張していたようで、どっと疲れが溢れだしてきた。しゃがみ込んだ姿勢のまま立ち上がることができない。
「お疲れ。楠木さん」
顔を上げると既に立ち上がった王子様姿の古橋君が私に手を差し出していた。その手を取って立ち上がると、まだ足に力が入ってなくて思わずよろけてしまう。とっさに支えてくれた古橋君にもたれかかるような姿勢になってしまう。
「あっ、ごめ――」
「あのさ、楠木さん」
耳元で囁くような古橋君の声。
「僕は君のことが好きだ」
一瞬、私はまだ劇の続きの世界にいるのかと思った。
だけど、私に囁きかけているのは王子様ではなく古橋君で。ポンっと古橋君の手が背中に当たれられる。
「楠木さんがどう思ってたかはわからないけど、誰かのために一生懸命頑張れる君のことがずっと気になってて。今年、同じクラスになった時はやったって思って、もっと近くで楠木さんのことを知りたいって、副委員長に立候補したりして」
「……幻滅しなかった?」
委員長とは名ばかりで、今年の私はずっと古橋君に頼りきりだった。それはきっと、古橋君が思い描いていた私の姿とは違ったはずだ。
「そんなことないよ。だから僕は孝太郎に文化祭では劇がしたいって持ち掛けたんだから」
「えっと、それって」
「多分楠木さんはヒロインを演じることになるだろうから、僕も主役をやれば少しは楠木さんが僕のこと意識してくれるんじゃないかって」
「それ、は……」
「でも、失敗だったかも」
ちょっと困ったような笑い声とともに古橋君は私の体を離す。今度はもう、一人で立つことができた。古橋君は苦笑いを浮かべながら小さく息をつく。
「本当はちょっとでも意識してくれたらいいやってくらいに思ってたけど。今日の楠木さんは本当にお姫様みたいで、我慢できなくなっちゃった。それにさ」
古橋君は表情を変えずに視線を私の後ろ側へと送る。そちらから聞こえてくるのは劇が終わったばかりだというのに、次の演劇部の劇の準備に慌ただしく駆け回る孝太郎の声。
「どれだけ頑張ってもここは僕の土俵じゃないってこと、思い知らされた」
これまで、孝太郎は演技の指導をすることはあっても孝太郎が本格的に演技をしてみせることはなかった。だからこそ、本番で間近で見た孝太郎の演技には圧倒された。それだけじゃなくて、危ないところを助けてもらって、それから――
舞台袖の出来事を思い出しそうになったところで、古橋君の軽い咳払いですっと意識が戻る。
「さっきの告白、もしOKしてくれるならこの後教室で待ってるから。情けないんだけどさ、今この場で返事を聞くのはちょっとだけ怖いんだ」
少しだけ早口で古橋君は言い切ると、そのまま足早に舞台袖から降りていった。
その背中が見えなくなるまで見送ってから振り返ると、孝太郎は相変わらず右に左に走り回っている。とてもじゃないけど声をかけられそうな雰囲気ではない。
その脇で同級生と話していた深田さんが舞台の真ん中で立ち尽くしたままの私に気づき、ぱっと笑顔を浮かべて手招きをする。
とにもかくにも、まずはメイクを落としてもらって着替えないと。それから。
その後は、教室まで古橋君と話しに行こう――
*
文化祭の翌日は振り替え休日で、その次の日はほとんど一日文化祭の片づけに充てられる。
私たちのクラスはもっぱら大道具とか衣装の片づけで、特に大道具類は閉まっておく場所もないから細かく分けて処分していくことになる。私たちの劇――真夜中の嘘――は基本的にお城の中が舞台ではあったけど、その分しっかりセットを作り込んでいて片付けはなかなか大変だった。それに、部活の方でも出し物をした人がいて、そういう人は部活の方の片づけに駆り出されているから人手もやや少なかった。
だから私もゴミ捨て場と教室をずっと往復してるような状態だった。次のゴミ袋を手に取ったところで、教室の隅からうわっという声が聞こえてくる。
「あー、やばっ……」
副委員長として片付け全体の式をとっていた古橋君が、教室の隅に置かれていた王冠を手に取って困り顔を浮かべた。
「どうしたの?」
「これ、演劇部から借りっぱなしだった。演劇部の劇でも使う予定でちょっと困ってたみたいだし、謝りに行かないと」
「あ、それなら、私が行ってくるよ」
クラス内を纏めて指揮するような役割は私には手が余って、古橋君がこの場にいてくれた方がいい。逆に演劇部への謝罪の方は、一応は委員長の私が行った方がいいだろうし。
古橋君はちょっと悩むような素振りを見せたけど、同じ考えに至ったようでごめんという言葉とともに王冠を私に渡す。
だけど、流石にゴミ袋を持ったまま謝りに行くわけにはいかない。教室を見渡すと、手が空いてそうな女子が二人で話していた。
「あの、ごめん。このゴミ、捨てに行ってもらえないかな?」
声をかけると女子二人は顔を見合わせる。口には出さなかったけど、その顔には面倒くさいという言葉がしっかりと浮かんでいた。その雰囲気に気圧されそうになるけど、ぎゅっと唇をかみしめる。
「ごめんね。でも、急いで演劇部の方に返しに行かなきゃいけなくて」
少し前までの私だったら、諦めて自分で捨てに行ってただろうけど、いつまでもそのままじゃ何も変われないから。
女子二人はもう一度顔を見合わせて、ごみ袋の方に手を伸ばして――だけど、その手が届くより先に誰かが私の手からゴミ袋を取り上げた。
「私が捨てに行くから」
私の手からゴミ袋をとったのは永渕さんだった。
少しムッとしたような表情で私を一瞥すると、それ以上は何も言わずにゴミ袋を持って教室の外へと歩いていく。
「あ、あの。永渕さん」
永渕さんは振り返らなかったけど、一度足を止めた。
「ありがとうっ」
永渕さんは振り返ることなく、再び歩き出していってしまった。そんな永渕さんと入れ違うように深田さんが教室に入ってくる。その手には演劇でつかった衣装が何着か抱えられていた。
「何か今、ブッチーが凄い複雑そうな顔で歩いていったんだけど、何かあった?」
「複雑そうな顔?」
「うん。ぱっと見仏頂面なんだけど、頑張って照れ隠ししてるみたいな」
深田さんの言葉にほっと胸の奥が温かくなる。今はまだ、言いたいことを全部伝えるのは難しいけど、永渕さんともいつかは隔たりなく話せるようになればいいなって思う。
「あ、そうだ。カスミン、悪いけどこれ、演劇部の部室まで持ってってくれない?」
深田さんが差し出してきたのは、一昨日私が着ていたお姫様の衣装だった。
「ちょうど演劇部に行くところだったからいいけど、この衣装を演劇部に?」
「うん。それ、会心の出来だからもうしばらくとっとこうかなーって」
確かに深田さんが作ったお姫様の衣装は格別で、着ただけでもまるで本当にお姫様になったような気分になる。それに、今回の文化祭では色々あったから、私がお姫様を演じた証である衣装をしばらくでも部室に残してもらえるのは何だか嬉しかった。
「わかった。じゃあ、持ってくね」
「よろしくー! 多分今くらいなら、部室には孝太郎がいると思うから」
何気ない深田さんの言葉で、ちょっと上がっていた気分が一気に重くなってしまった。
*
演劇部の部室をノックすると、返ってきたのは深田さんの言っていた通り孝太郎の声だった。
部室のドアを開けると、孝太郎は劇で使われていた備品を片付けているようだった。
「なんだ、香純か。どうしたんだ?」
「この王冠、古橋君が間違えて持ってってたみたいで」
「ほらみろ、やっぱりアイツが持ちっぱなしだったんじゃねえか」
孝太郎は渋い顔をしながら王冠を受けとると、部室の一角の棚に収めた。
「それで、そっちは?」
孝太郎が指さしたのは、もう片方の手に抱えていたお姫様の衣装。
「深田さんが、会心の出来だからしばらく部室に置いときたいって」
ふうんとよくわからない表情で孝太郎は衣装を手に取ると、ぱっと広げて眺め出した。衣装とはいえ、自分が着ていたものをそんな風に目の前で見られるのはなんだか気恥しくて。それに、それだけじゃなくて。
――お姫様姿、すげえ似合ってる。
劇の最中に孝太郎が発した言葉。たったそれだけの言葉が耳に焼き付いていて今も離れない。
「ね、孝太郎。その衣装、似合ってた?」
「似合ってた」
孝太郎の視線が衣装から私に向けられる。その瞳もその声もまるで迷いもためらいもない。
「ま、当然だろ。リオーネは香純に当てて書いたんだからさ。似合ってもらわないと、寧ろ困るっていうか――」
「それ、嘘だったんでしょ」
気がついたら、孝太郎の言葉を途中で遮っていた。孝太郎が怪訝そうな表情で私を伺う。
「深田さんから聞いたの。今回の脚本、一年前には既に書き上がってたって」
孝太郎は何も言わない。肯定はしないけど、否定もしてくれなかった。
「私が主役を降りたいって相談した夜に孝太郎が言ってくれたこと、嬉しかったんだ。孝太郎がどういう風に私を見てるかは孝太郎の自由で、孝太郎は私をリオーネみたいに見てくれてるんだって」
私が見ていた私の姿は周りの気配にビクビクとして、いい人でありたいなんて唱えながら本当は周囲から嫌われたりするのを怖がっていただけのちっぽけな人間だった。
だから、自分の意思を強く持ってキラキラと輝くリオーネのように私を見てくれていたということが嬉しかった。だから、私はあの日から頑張ることができて、少しだけ変わることができたと思う。
「あの夜、孝太郎がリオーネは私の為に書いたって言ってくれたこと、今でもありがとうって思ってる。だけど、嘘まではついてほしくなかったな……」
そんなこと言えた義理ではないのはわかってる。だけど、孝太郎の言葉に支えられて頑張ってきた分、その言葉が嘘だとわかった時にはショックだった。リオーネを演じることはできたけど、舞台の前半は心ここにあらずだったのかほとんど覚えていない。
「……当て書きしたっていうのは、確かに嘘だ」
絞り出すような孝太郎の微かな声。わかっていたはずのその言葉に、それでも傷ついてしまう。
でも、と必死そうな幸太郎の顔が私を見る。
「リオーネは確かに香澄なんだ。あの脚本は、ずっと頑張ってるのに損ばっかりしてる、そんな香純に幸せになってほしいって……そう思いながら書いたんだから」
幸太郎の言葉は全く予想してなくて。ただその言葉の意味が胸の奥に染み込んでくる。舞台の上で感じたものと同じ想いが溢れてくる。
「脚本の中で幸せにしたってしょうがねえってわかってたけど、それでも書かずにはいられなかった。でも、香純以外がリオーネを演じるイメージってなくてそのままお蔵入りしてて。だから、古橋が演劇の話を持ってきた時、アイツが何を考えてるかは察しがついたけど、チャンスだと思った」
孝太郎の顔がくしゃりと歪む。その言葉が徐々にかすれ声になっていく。
「俺の脚本、少しはお前の役に立てたか?」
その言葉の裏に含まれた意味はすぐにわかった。お前は幸せになれたか、という孝太郎からの問いかけ。その答えはとっくに決まってる。
「まだ」
だから、真っ直ぐに幸太郎の目を見て私ははっきりと告げる。
「まだ終わってない。劇の中の王子様みたいに、孝太郎が私のこと、幸せにしてよ」
私の言葉に孝太郎が大きく目を見開く。
「なっ。でも、お前、古橋からっ」
「古橋君の告白は断ったよ」
あの日、衣装を着替えて制服に戻った私は古橋君の待つ教室に向かった。でもそれは、古橋君の告白を受け入れるってことじゃなくて、これまで私のことを支えてくれた古橋君への私なりのケジメだった。
付き合えないと答えたとき、古橋君は傷ついた顔で笑っていた。わかってたって。劇の練習をすればするほど気づかされたと言って。
「孝太郎は私のことずっと傍で見てくれて、支えてくれて、守ろうとしてくれて。そんな当たり前のことに劇の最中に改めて気づかされた」
劇の途中で言えなかった「この男は嘘をついている」という台詞。それはきっと、あの夜の孝太郎の言葉が真実であってほしいという願いのせいで、最後まで声にすることができなかったんだと思う。
「だからね。孝太郎とずっと一緒にいたいなって、そう思ったの」
文化祭の劇の最後の言葉。それは目の前の王子様ではなく、盗賊としての役目を終えた孝太郎に向けて放った言葉だった。
「まさか、王子様からお姫様を奪うことになるなんてな。脚本を書いた時には考えてもなかった」
「嘘つきの孝太郎には盗賊役がお似合いだったのかもね」
「うるせえよ」
不服そうな声を出す孝太郎の顔は真っ赤だった。多分、私だって同じような表情になっている。孝太郎は真っ赤なままの顔をまっすぐに私に向ける。その澄み切った瞳に、私はまたドキリとする。
「俺も香純の傍にいたい。これは絶対、嘘じゃない」