ーーひとりに、しないで。

 そう言った葵の声とまなざしを思い出すたびに、浅羽の心には言いようもない感情が湧き上がる。
 あの日以来、浅羽は毎夜葵の家へと足を運ぶことになった。
 そして、分かったことがある。

 葵の家には、基本的に葵一人しかいない。どんなに夜遅く訊ねたとしてもだ。
 葵の「ひとりにしないで」という言葉は、ここから来ているのだと浅羽は何となく悟った。
 だから、日付がかわるギリギリまでこうして葵をひとりにしないようにしている。家を抜け出して深夜まで同級生の家で過ごすことが異常であることは、浅羽自身も理解していた。けれどあまりにも切な瞳で見られては、心を握られてしまっている浅羽にとって、葵の頼みを断るというのは不可能に等しいのだ。

「なぁ、葵」
「ん?」
「どうして、俺……」

ーー俺なんかを。
 その疑問が口をつく前に、葵が「雨月くん」と浅羽の名を呼ぶ。それだけでまるで魔法がかかったかのように動作が止まってしまう、身体。

「美味しいスープがあるんだ。飲む?」
「……いや」
「遠慮はいらないよ。ていうか、もう作っちゃったから飲んでほしいな」

 わかった、と浅羽がうなずくと、安堵したように息をついた葵がコップを持ってソファへと歩いてくる。肩が触れ合うほどの距離に座って、コップに口をつけた。
 あたたかい液体が喉から食道を通っていくのがわかる。となりに視線をむけると、「あつ」とつぶやいた葵がスープに息を吹きかけて冷まそうとしていた。その様子をぼんやり見つめていると、ふいにコップから顔をあげた葵がじっと浅羽の目を見つめた。
 どきりと跳ねた心臓をごまかすように、浅羽は視線を逸らす。

 不思議でならない。葵はなぜここまで自分に執着するのだろうか。浅羽は逸らした視線の先で考えてみたけれど、その答えはいっこうに思いつかなかった。
 言わば、葵は学校の有名人だ。中学生時代に可愛いと噂されていた女子生徒が霞んでしまうほどに。
 未だに、葵が男性だと信じられない人もいると聞いたことがある。無理もない。

 彼の容姿を一言で表すならば、人形、という形容がいちばんしっくりくると思う。
 濡羽色の瞳が、いつも寂しそうに世界を映していた。
 近寄りがたい独特な雰囲気をいつもまとっていて、表情がまったく変わらないこともあってか、クラスではかなり浮いていた。

 なんというか、触れたら壊れてしまう……みたいな。
 繊細な芸術作品にむやみに触れられないのと同じで、彼には自分の手で容易に触れてはいけないのだと、本能的に悟っていた。

 そんな彼が、どうして。
 小さな疑問が沸き上がるのは、至極当然のことだった。

「ねえ、雨月くん」

 コップを置いた葵が、浅羽に向き直る。
 ああ、始まるのだーーと浅羽はだんだんと襲ってくる睡魔の中、理解した。

「……おねがい」

 葵の声が揺れている。ふ、と息をつく。
 伸ばした腕が、葵の薄い腰を引き寄せ、細い体を閉じ込めた。

 浅羽の耳元で、葵が息をつく気配がする。ふいに雨音が窓を叩いた。
 毎夜、こうして顔を合わせては、好きな男を抱きしめている。抱擁だけにとどまるように、押し殺されている欲を、はたして葵は知っているのだろうか。

「雨月くん、ねえ、」

 肩にうずめられた顔から、くぐもった声が聞こえる。
 ああ、もう、どうして。
 ──こんな奴を、好きになってしまったのだろう。

「っ、呼んで、」
「──……綺月(きづき)

 浅羽の声で、葵は静かに脱力した。
 安堵したようにゆるりと下がる葵の口許にめまいがする。ゆっくりと眠りについた葵の唇に顔を近づけ、逡巡して、やめた。

 冬は、星がよく見える。窓越しに眺めた空で、いくつか輝きを放っていた。


ーー雨月くん、呼んで。


 毎日毎夜、こんなくだらない戯事を、繰り返している。
 何度も、何度も、繰り返している。