たとえば愛になるとして

 昼下がり。教師による、眠気を加速させる古文の音読を右から左へと流すなか、熱心にノートをとる生徒が一人いた。

 いったい何を書くことがあるのか。
 浅羽(あさば)は目をこすり、そんな疑問を抱いて、斜め前に視線を移した。
 窓際の席で、わずかに差し込む陽光を受けながら、唯一真面目に授業を受けていた人物。
 葵綺月(あおいきづき)
 聞くだけで煌めいた名を持つ男だ。字面から受ける印象が加わると、もっと美しいものになると知ったのはつい先日のこと。

 後ろから二番目。内職してもバレない特等席から、葵を眺めること数秒。
 綺麗だな。浅羽はふと、そう思った。頬杖をつき、葵の横顔を眺める。

 顔の造形が整いすぎると、もはや性別など関係なくなってしまうんだな、とぼんやり考えながら、ツンと尖った鼻先や、薄い唇を順に見ていく。
 透き通る肌は繊細で、化粧をしているクラスの女子より何倍も綺麗だ、とつい思ってしまった。

 ふと、艶やかな黒髪を揺らして、葵がこちらを向いた。肩までよく伸びた髪が、円を描くような動きでなめらかに顔の前を切る。
 すぐに逸らせばよかったものを、人間は本当に焦ると身体が動かなくなるらしい。もちろん、視線もだ。

 葵綺月という人物は、どうやら視線だけで人を捕まえる力があるらしかった。
 ゆっくりと葵の双眸が浅羽を捉えた瞬間、浅羽は息の仕方を忘れていた。
 気がついたら、息が止まっていたのだ。


 そのまま葵の薄い唇が、綺麗な弧を描くように上がる。

「……っ、あ、」

 心を鷲掴みにされるという感覚を知った瞬間だった。まるで胸の内側にするりと入り込むように、葵はいとも簡単に、浅羽の世界に入り込んできた。はじめから、そこに入ることを許されていた人間かのように。

 ぐ、と浅羽は唇を噛み締め、ようやく自由になった視線を自らの足元に落とす。
 今までにないほど、心臓が速く鼓動している。

 浅羽は熱を帯びた顔に手を当て、静かに息を吐き出す。そんなことをしても脈が落ち着かないのは、とうにわかりきっていた。


(……やられた。)

 浅羽の恋のはじまりは、あまりにも一瞬の出来事だった。


 葵綺月は、有名だった。
 最大の要因は、まるでつくりものかと思うほど整った顔の持ち主だということ。

 入学当初「ありえないほどの美人がいる」という噂が駆け巡り、葵のいる一組に人だかりができていた。女子生徒よりも男子生徒人気が非常に高く、行きすぎた造形美は性別をも超越するのだなぁとぼんやり思った記憶がある。
 とはいえ大半のものは興味本意で、いわゆる【ガチ恋】のような男は一部だけにとどめられた。


 葵のいた一組は浅羽のいた四組とは階が違ったため、入学して一ヶ月は直接その姿を見ることはなかった。噂だけが一人歩きをし、浅羽の脳内の【葵綺月】はいつのまにか二次元キャラのような、ある意味人間離れした容姿へと変化していった。

 そしてその時は、突然訪れた。


 高校一年生五月の終わり、廊下で友人と駄弁っていたところを、ふいに一人の美人が通り過ぎた。さらさら動くそれが髪だと認識するのが遅くなったのは、その顔にしか目がいかなかったから。
「うお……」と言葉を洩らした浅羽は、視線を身体に落として絶句する。

 美人が着ていたのは浅羽と同じ、男性用の学ランだったからだ。

 となりで息を呑んでいた友人のユキヤが「葵綺月だよ」と耳打ちをしてはじめて、何度も聞いた名と造形美が結びついた。
 葵綺月は、浅羽が上げに上げたハードルをなんなく超えてゆく、それほどに整った顔をしている男だった。

 そんなわけで容姿については初めから好印象だったが、一年の時はとくに関わりがなかったので、言葉を交わすことも無意識のうちに目で追ってしまうこともなかった。
 問題は、二年にあがった今だ。
 古典の授業で一瞬にして葵に射抜かれてしまった浅羽の心は、毎日、毎秒、葵を想いながら鼓動を続けている。
 けれどそれは、伝えるべきではない想いで、しまっておくはずの恋心で。
 たとえば葵を想って授業を受け、その横顔をたまに盗み見て愛しさを感じたり、時折(ときおり)憂えた表情をしている葵を案じたり、そういう、ちっぽけで、ささやかで、おだやかな日々でよかった。
 浅羽の恋は、ひかえめでつつましく、一生気持ちが伝わらないまま、過ぎ去っていくものだと思っていた。
 葵に落ちてから、半年が過ぎた。こんなにも長く想っているのになんの進展もないのは、世間一般だと“小心者“だとか、‘チキン’と呼ばれてしまうかもしれない。けれど浅羽にとってはそれでよかった。それが、よかった。

 肌寒い夜道を歩いていた浅羽は、電柱の横でふと足を止めた。空を見上げると、月がよく見える。いつだったか、冬の空気は澄んでいるので天体が観測しやすいと物理教師が言っていた。
 見上げているとふいに、ぽとり、と天から水が落ちてくる。
 それが雨だと気づいたときには、すでに激しく降り始めていた。

「まじかよ……」

 申し訳程度に手で頭を覆った浅羽は、薄暗い道を駆ける。雨足は一気に強まり、気まぐれに散歩なんてしようとした自分自身に苛立ちを覚えた。
 普段通ることのない、民家の隙間にある抜け道。
 今日だけは許してくださいと誰に対してかも分からない謝罪を念じながら、道を通り抜けようと思った時だった。

「まって」

 ふいに声が耳朶を打ち、足が止まる。視線を上げた浅羽は、次の瞬間、また息の仕方を忘れていた。
 この感覚は、いつぶりだろうか。
 心臓が強く脈打ち、全身の血液が沸騰するように騒いでいる。

「雨宿り、していかない?」

 ベランダから顔を出していたのは、紛れもなく、あの葵綺月だった。葵の後ろで月が光っている。

ーー今まで見た中で、いちばん綺麗な月だった。

「ちょっと待って、迎えに行くよ」
「っは、」

 一方的に呟いて、あっというまにベランダから姿を消した葵。浅羽が呆然とベランダを見つめていると、急に目の前のドアが開き、眩しいほどの造形美が現れた。

「雨ひどいでしょ。ほら、はやく」

 ぐい、と腕を掴まれて、半ば強引に玄関に入れられる。引く時の力が思っていたよりも強かったことに、浅羽は素直に驚いた。

「……あの」

 知らない男を家にあげるなど、しない方がいい。この美青年は自分の顔立ちの麗しさを理解しているのだろうかと、浅羽は葵を見つめながら不安になる。

「こういうの、あんましない方が、いいっすよ」
「どうして? 僕はただ、人助けをしようと…」
「そういう厚意を都合よく勘違いするやつだって、いるんです」

 握られたままの手を振り解いて、浅羽は葵に背を向けた。
 葵の親切心は十分に伝わったが、見ず知らずの男を家に引き入れるなど、警戒心が足りなさすぎる。

 浅羽は知っている。周りの男たちが、「葵綺月なら抱けるわ」とまるでコンテンツのように彼を扱っていることを。いくらノリだったとしても、その言葉を聞くたびに腹の底からドス黒い感情が込み上げてくるのを何度も堪えた。

 葵綺月、という麗しい名が、一種のブランドの如くフルネームで呼ばれているのも知っている。そして浅羽自身もたまにフルネームで呼んでしまうことがある。それほどに葵の美しさは、人間を超えた、代え難いものなのだ。

「……知らないやつを家に入れんの、やめた方がいい、す」

 注意口調になれず語尾が小声になった浅羽の背中に「僕ときみは友達だよ」と声がかかる。

 こんなときにまで、存在を認識されていたんだ、と意味不明な思考回路に陥る自分が憎い。

「浅羽くん。浅羽雨月(うげつ)くん」

 うづき、と間違えられがちな名前を、正しく"うげつ"と覚えていてくれた。ドアノブに伸ばそうとしていた手が止まる。

「綺麗な名前だと思って覚えていたんだ。雨の月、今日の景色みたいだね」


 葵の声は、時に毒のように浅羽の心を蝕む。じわり、胸のなかで毒が広がる感覚がした。

「あの……さ、」

ーーそういうの、やめろよ。
 そう続けようとして、どくどくと鼓動が速まる。振り返った浅羽の目に飛び込んできたのは、目を伏せ、涙を流す葵の姿だった。思わず瞠目した浅羽の腕を、泣き濡れた葵の手が掴む。
 薄い唇が、震えながら、わずかに動いた。

「……ひとりに、しないで」

 ……それは、弱々しく、繊細で。
 あおい夜に溶けた月のように、孤独を放っていた。
ーーひとりに、しないで。

 そう言った葵の声とまなざしを思い出すたびに、浅羽の心には言いようもない感情が湧き上がる。
 あの日以来、浅羽は毎夜葵の家へと足を運ぶことになった。
 そして、分かったことがある。

 葵の家には、基本的に葵一人しかいない。どんなに夜遅く訊ねたとしてもだ。
 葵の「ひとりにしないで」という言葉は、ここから来ているのだと浅羽は何となく悟った。
 だから、日付がかわるギリギリまでこうして葵をひとりにしないようにしている。家を抜け出して深夜まで同級生の家で過ごすことが異常であることは、浅羽自身も理解していた。けれどあまりにも切な瞳で見られては、心を握られてしまっている浅羽にとって、葵の頼みを断るというのは不可能に等しいのだ。

「なぁ、葵」
「ん?」
「どうして、俺……」

ーー俺なんかを。
 その疑問が口をつく前に、葵が「雨月くん」と浅羽の名を呼ぶ。それだけでまるで魔法がかかったかのように動作が止まってしまう、身体。

「美味しいスープがあるんだ。飲む?」
「……いや」
「遠慮はいらないよ。ていうか、もう作っちゃったから飲んでほしいな」

 わかった、と浅羽がうなずくと、安堵したように息をついた葵がコップを持ってソファへと歩いてくる。肩が触れ合うほどの距離に座って、コップに口をつけた。
 あたたかい液体が喉から食道を通っていくのがわかる。となりに視線をむけると、「あつ」とつぶやいた葵がスープに息を吹きかけて冷まそうとしていた。その様子をぼんやり見つめていると、ふいにコップから顔をあげた葵がじっと浅羽の目を見つめた。
 どきりと跳ねた心臓をごまかすように、浅羽は視線を逸らす。

 不思議でならない。葵はなぜここまで自分に執着するのだろうか。浅羽は逸らした視線の先で考えてみたけれど、その答えはいっこうに思いつかなかった。
 言わば、葵は学校の有名人だ。中学生時代に可愛いと噂されていた女子生徒が霞んでしまうほどに。
 未だに、葵が男性だと信じられない人もいると聞いたことがある。無理もない。

 彼の容姿を一言で表すならば、人形、という形容がいちばんしっくりくると思う。
 濡羽色の瞳が、いつも寂しそうに世界を映していた。
 近寄りがたい独特な雰囲気をいつもまとっていて、表情がまったく変わらないこともあってか、クラスではかなり浮いていた。

 なんというか、触れたら壊れてしまう……みたいな。
 繊細な芸術作品にむやみに触れられないのと同じで、彼には自分の手で容易に触れてはいけないのだと、本能的に悟っていた。

 そんな彼が、どうして。
 小さな疑問が沸き上がるのは、至極当然のことだった。

「ねえ、雨月くん」

 コップを置いた葵が、浅羽に向き直る。
 ああ、始まるのだーーと浅羽はだんだんと襲ってくる睡魔の中、理解した。

「……おねがい」

 葵の声が揺れている。ふ、と息をつく。
 伸ばした腕が、葵の薄い腰を引き寄せ、細い体を閉じ込めた。

 浅羽の耳元で、葵が息をつく気配がする。ふいに雨音が窓を叩いた。
 毎夜、こうして顔を合わせては、好きな男を抱きしめている。抱擁だけにとどまるように、押し殺されている欲を、はたして葵は知っているのだろうか。

「雨月くん、ねえ、」

 肩にうずめられた顔から、くぐもった声が聞こえる。
 ああ、もう、どうして。
 ──こんな奴を、好きになってしまったのだろう。

「っ、呼んで、」
「──……綺月(きづき)

 浅羽の声で、葵は静かに脱力した。
 安堵したようにゆるりと下がる葵の口許にめまいがする。ゆっくりと眠りについた葵の唇に顔を近づけ、逡巡して、やめた。

 冬は、星がよく見える。窓越しに眺めた空で、いくつか輝きを放っていた。


ーー雨月くん、呼んで。


 毎日毎夜、こんなくだらない戯事を、繰り返している。
 何度も、何度も、繰り返している。
「なぁ、きいた?」

 年末を控えた冬のこと。顧問の事情による急な部活のオフに心を踊らせていた放課後、主語のない言葉をかけてきたユキヤが前席の机に腰掛けた。

「……なにが」

 嫌な予感がする。ニタニタと、勿体ぶるような含み笑いをする友人に浅羽は苛立ちを覚えつつ視線を預ける。
 一刻も早く帰ってしまいたくて、友人を見る目つきが鋭くなったのが自分でもわかった。


「長良センコーと葵綺月が寝たってウワサ」


──ナガラセンコートアオイキヅキがネタ?

──長良と葵綺月?



────寝た?

 一瞬で頭が真っ白になり、文字が脳内を駆け抜ける。何度も反芻してようやく、一つずつ漢字に変換されていく。

 バラバラに変換された文字が、ゆっくり繋がって、そこではじめて意味を理解した。


「……どっから」
「バド部の奴らが見たんだってよ。放課後の第二倉庫に小窓あんじゃん。ほら、あそこ内側から鍵かかるし」
「……デマだろ」

 まずはじめに思ったのは、信じられない、ということだった。浅羽の脳裏に葵の顔がよみがえる。
 葵は神聖で、硝子細工のように美しくて、だから、そんな。

ーーひとりに、しないで。

 葵の声が反芻する。何かにすがるような、声だった。
 まさか、本当に、何かに耐えられなくなって、寂しさを埋めるために、いや、葵に限って、そんなこと──。
 それとも、二人は、デキているのだろうか。教師と、生徒だというのに。

 そんな、ありえない。


「おーい雨月。おまえ、真っ青じゃん。どしたん」

 ユキヤにのぞき込まれ、大きくのけぞる。

「なんでもねえよ。……てか、それどんくらいが知ってんの」
「あの葵綺月だからな、広まるの早いだろ。少なくとも同学年はみんな知ってんじゃね」
「……」
「しかも相手は女子人気抜群の長良。いやぁ、お互いリスク高いのによくやんねえ。女子大泣き案件だろこれ」
「デマ、だろ。そんなん」

 乾いた笑いを漏らす浅羽を見つめたユキヤは、「ま、どーでもいいけど」とつぶやいて鞄を持った。

「じゃーね」

 あっさり帰っていく友人の挨拶に言葉を返そうとして、結局口が動かせないまま、浅羽は茫然と教室に立ちつくしていた。




「なんか、よそよそしくない?」

 その夜、いつも通りに、と何度も脳内で繰り返しながら顔を合わせた葵に、一目で気が付かれてしまった。鋭い指摘への動揺も隠し切れなかったのだろう、葵が眉を寄せたまま隣り合う距離を縮めてくる。ちらりと見えた窓の外には、依然として輝く月が浮かんでいる。

「なんでもねえよ」
「嘘。雨月くん、おかしいよ」

 ぐい、と近づいてきた造形美には未だに委縮してしまう。

――長良センコーと葵綺月が寝たってウワサ。

 ぐるぐると、浅羽の脳内が埋め尽くされていく。
 どうして、何も知らないみたいな、当事者ではないような目をするのだろう。穢れなんて一点もないような、純粋な瞳をしているのだろう、こいつは。
 その顔のしたには、いったいどんな素顔がある?
 今のお前は、本当の葵綺月は、どこにいるんだ?

 葵の繊細な指先が伸びてくる。それは、その指は、いったい誰に触れたんだ。
 浅羽は無意識に、その指を強く払っていた。

「――近えよ」
「うわ……っ」

 思っていたより強い力が出てしまったらしい。
 葵の細い体が押し返されて、ソファから体勢を崩すように滑り落ちていく。

 その身体を受け止めようと腕を伸ばしたのも、また、無意識だった。
 葵の背中が床につくギリギリで、浅羽の手が葵の頭をとらえる。

 鼻先が、触れ合うほどに、近かった。



 さいあくだ。また、そう思う。
 幾度となく、この造形美を眺めるたびに思ってきた。

 ――どうしてこんな奴を、好きになってしまったのだろう。
 ――どうしてこんなにも、つながってしまったのだろう。
 ――後戻りのできないところまで、きてしまったのだろう。



「長良とのこと……ほんと?」


 先ほどまで窓から見えていた月は、いつの間にか、黒い雲に覆い隠されていた。


「長良とのこと……ほんと?」


 葵の耳に、弱々しい声が飛び込んでくる。
 浅羽の目が真剣な光をたたえている。

 なにを、見たのだろう。
 なにを、聞いたのだろう。

 何も言えなくなる。じっと浅羽を見つめると、浅羽の目がふっと細くなり、それから抱き起こすように力を込められた。
 素直に抱き起こされてしまう体は、脱力しきって使い物にならないまま。


──長良とのこと。


 長良は、葵と浅羽の学校の物理教師だ。二十代後半の、落ち着いた大人と無邪気な子供が若干入り混じった特殊な性格をしており、女子生徒からの人気が高い。休み時間には何度も物理研究室に足を運ぶ女子を見ていたから、もしかすると自分も──と思ったのは事実だ。

「なんのこと?」

 首を傾げた葵に、浅羽がゆるくたじろいだ。

 確かに、葵は長良と会ったことがある。"長良とのこと"に思い当たる節があるとすれば、それくらいしかない。
 黙ったままぐっと見上げた浅羽の頬がほんのりピンク色に染まっていた。


「……寝たって」
「え?」
「長良と寝たって、ほんと?」

 ほんと?の部分はほとんど聞こえないほどに掠れていた。葵の口から「え」と拍子抜けした声が洩れる。
 これまでも、周囲で噂が広まり、有る事無い事言われることはあった。自分が人よりも優れた容姿をしているのはある程度自覚はあったし、仕方がないとも思っていた。
 けれど、これはあまりにも、だ。

「デマだろって思ったけど、その……俺、葵のこと、まだよく知らないから」
「それで僕が先生と寝たって信じちゃうの?」
「いや、信じるってか……」
「酷いね、浅羽くん」

 一瞬、浅羽の顔が歪む。ほとんど泣きそうな顔だった。

「僕、学校ではしない主義だから」
「……え」

 浅羽の目が見開かれる。反応がおもしろくて、つい、意地悪したくなる。
 男らしくて男子高校生を極めているような浅羽は、案外純粋な心を持っているらしい。

「ははっ、嘘だよ浅羽くん。経験ないから、安心して」


 分かりやすく安堵の表情を浮かべた浅羽は「ふざけんな……」と呟いて顔を伏せた。

「そのデマ情報、結構広まってる」
「浅羽くんだけがデマって知っててくれれば別にいいよ」
「なんだそれ」

 伸びてきた腕が、ぎゅっと葵の体を抱きしめる。それはいつもより強くて、けれど優しい力だった。

 長良に接近しようとしたのは、別に顔が好みだったとか、あの特殊な性格惹かれたとか、特段興味があったとか、そういうことではない。
 ただ、同じ(・・)だったからだ。


「失礼しまーす……」

 物理研究室で缶コーヒーを飲んでいた長良が、すっと顔をあげて物珍しそうな顔をする。

「あれ、キミ、噂の葵くん?」

 あおい、という響きにドキリと心臓が跳ねる。

「会いにきたの?」

 返事ができずに俯くと、その反応を肯定だと捉えた長良は「光栄だねぇ」と言ってコーヒーを机に置いた。

「葵……何くんだっけ」
「──綺月です」
「そうだそうだ。綺月くん、ね」

 よくここにくるオンナノコが話してるよ、キミのコト。
 軽やかに言い放った長良は「密会は倉庫って決めてるんだよね」と研究室の戸を開けた。目線だけの合図で、言葉を発する暇もなく倉庫へと移動する。
 葵が足を踏み入れた途端、ガチャ、と鍵をかけられた。


「──……で? キミは俺に何してほしいの」


 薄汚い棚に寄りかかった長良が、眼鏡の奥の細目で問いかけてくる。
 すらりとした上半身が白衣で隠されている。わずかに血管の浮き出た首から、提げられたそれに視線が動く。

「……なまえ。名前、呼んでほしい、です」

 葵のささやかな願いに、一瞬瞠目した長良は、深い息を吐いてもたれていた体を起こした。

「なんだ、そんなこと。わざわざここに移動したイミ、なかったね」
「……すみません」
「別にいいけど。綺月クン」

 ぴく、と葵の肩が動く。長良が近づいてきて、葵の顔を覗き込むように見上げた。

「──……綺月」

 じわ、とひろがっていく。胸の中の、奥の、深い部分が、じわじわ侵されていく。
 所詮、すべてがまがいものだというのに。
 いつまでも、心は過去に縋ったまま、情けなく生きていくしかないはずなのに。


 葵は、恍惚とした表情で長良を見つめる。
 きづき、という響きが、腰を砕いては使い物にならなくする。
 カーテンが揺れる。二人の影が、ゆっくりと重なり──かけたところだった。

 ガタッと扉の外から音がして、長良が苛立ったように舌打ちをした。普段は爽やかな笑顔ばかり浮かべていて胡散臭い教師だと思っていたが、この人も舌打ちするんだ、と葵はほんの少し、安堵に似た親近感をおぼえる。

「見られたな。くそ、今回はマジでなんもしてねぇのに」
「……今回は?」
「今回"も"だ」

 お前からも未遂だって言っとけよ、という忠告とともに解放される。
 じわじわ、じわじわ。ずっと広がって、しつこいほどに縛り付けられる。
 まるで──呪いだ。


───いい一年になりますように。

 ぎゅ、と目を閉じて手を合わせる。頬に吹き抜けた冷たい風は、マフラーに顔を埋めることで防いだ。

 本日、一月一日。新年を迎えた。

「雨月くん、寒い」

 浅羽の隣には、なぜか葵がいる。
 これが初夢なら──今年はきっといい一年になるのだろう。

「おーい、夢じゃないから戻ってきて」

 新年早々の造形美にドキりとする。葵から初詣に行かないか、と誘われたのはつい昨日のこと。
 自分にこんな行動力があったなんて、と浅羽は自分自身に驚いていた。


「おみくじ引こ、雨月くん」

 いつのまにか、呼び名が変わっている。葵は浅羽のことを「雨月くん」と呼ぶようになった。
 長良との関係をきいた時から、二人の仲は急激に縮まった。
 以前の関係を、夜に顔を合わせて抱擁を交わす関係、と表すならば、今は、朝ともに初詣に行く関係、と表すのが適切だろうか。
 つまるところ、友人になったのである。

 ちらちらと葵に視線が集まっているような気がするのは、浅羽の勘違いではないだろう。一般人であるため、マスクも何もせず、強すぎる顔面を周囲にさらしている。
 本人はそんな自覚などないようだが。

「見て、大吉だ」

 大吉を引き当てたらしい。葵が笑顔を浮かべておみくじを見せてくる。

「雨月くんは?」

 ぴと、と腕同士が引っ付く。浅羽のおみくじを覗き込んだ葵は「げ」とその美しい顔を見事に引き攣らせた。

「凶……ってほんとにあるんだ」
「あるらしいな。俺も初めてだけど」

 凶。元旦に見るには明らかにふさわしくない字である。

「よくないこと、起こんのか」
「……結ぼうか」

 フリーズする浅羽の隣で、葵がパンと手を叩く。葵に無理やり気持ちを切り替えられてしまった。

 たくさんのおみくじが結ばれている木へと、足を運ぶ。


「雨月くん、寒い」

 その瞬間、何かが手に触れる。え、と思って視線を落とすと、思いの外近くにいた葵に驚く。

 あれ、今これ、繋がれてる?どういうことだろうか。公衆の面前で?
 
 完全に密着した手。想像していたよりも細くて、頼りない。体の細さに合ってはいるけれど、これで男を名乗るのは少々、危険だと感じてしまう。もしこの手に抵抗されたとしても、なんなく押さえ込める自信が、ある。


「……葵」
「ほら、行こ」


 調子が狂う。浅羽が力を込めると、返事をするようにぎゅ、と握り返される。

 俺、期待してもいい?それ。
 本気出すけど、いい?

 浅羽の脳内が、一気に葵への言葉で埋め尽くされていく。
 自分より少しだけ低い位置にある美顔に目を向けると、まっすぐに目が合った。いちいち綺麗な顔をしている。

 まるで吸い込まれるように、気がつけば顔を近づけていた。葵のまつ毛が、ぴく、と揺れる。


「……いや、違う…よな」


 鼻先が触れ合うまで、あと数秒。
 違う。こんな関係じゃない。理性を蘇らせたのは、浅羽のほうだった。

「悪い、間違えた」
「間違えた、って……誰と?」
「誰とでもない。ほっとけ」

 ぶっきらぼうに言葉を落として前を見据える。

 そうだ。このおみくじを早く結んでしまわなければ、浅羽の運勢は凶のまま。一刻も早く凶などという最悪な運勢からは解放されたい。

 繋がれていた手をそっと離して、歩き出す。ぱたぱたと後ろをついてきた葵が、また隣に並ぶ。もう、手は繋がらない。

 まっすぐ前を見据えながら、歩いていたその時だった。









「────ちかげ?」



 ふいに、葵がいるほうとは逆のほうの腕を強く掴まれて、思わず浅羽の足が止まる。え、と声が洩れたきり、口の動かし方が分からなくなる。

 ゆっくり振り向いた浅羽の目がとらえたのは、見覚えのない男だった。年齢は浅羽や葵と同じくらいに見えるが、長い髪を後ろに流していて、年上のようにも思えた。
 どこかであっただろうか。浅羽は記憶を巡らせたが、やはり、見覚えがない。自分はどちらかというと人の顔を覚えるのが苦手なタイプだが、それでもこれほどインパクトが強い顔は一度会ったら忘れない。厳ついけれどもなかなかに整った顔をしている。葵のような美人とは違うが、美形であることは間違いない。

「……んな、わけない、か」

 男の手が離れる。その次に、男はゆっくりと視線を隣に移動させて、葵を見た。その男の目がたしかに見開かれたのを、浅羽は見逃さなかった。

「お前やっぱ葵だよな。……ふぅん、そゆこと」

 浅羽と葵の顔を交互にみてから、真顔のまま男が含みを持つ発言をする。
 浅羽の心臓が、一度、脈打つ。昔から、こういうよくない予感ばかり、当たるのだ。



「いつまで執着してんの、あいつに」



 放たれた鋭い言葉は、まっすぐに葵を狙っていた。


「……っ、ごめん」

 そう言葉を落とした葵が、喧騒の間を通り過ぎるように一気に駆け出していく。

「葵!」

 小さくなっていく背を追いかけようとして、一歩踏み出そうと体重を動かした途端、「あの」と男が声を出したことで体勢が崩れる。
 男はだるそうな表情で、「似てる」と呟いた。
 この男は、何者なのだろうか。似てる、とは、なんのことなのか。



──いつまで執着してんの、あいつに。


 去っていった葵の顔を思い出す。何かに怯えるような、悲しげな、弱々しい顔をしていた。瞳がぐらりと揺れたのを、浅羽は見逃さなかった。

 じっと男を見つめると、男もまた、浅羽を見つめ返した。



 強風が吹き、思わず目を閉じる。
 結べずにいるおみくじが、風にさらわれていった。


 男の乾いた声だけが、届く。
















「あんた、すげえ似てるよ。あいつが好きだった男に」













葵綺月side

❄︎


 好きな男がいた。
 自分のすべてを捧げたいと思えるほど、人生で、いちばん好きだった。

 運命だと思った。
 あの日、桜が咲いて、僕はそれを見つめていて、そうしたら同じように桜を見つめる男と出会った。

 真っ青な空から降り注ぐ光で曖昧に世界がぼやけていて、それなのに、彼にだけはひどくピントが合っていた。

 さぁっと風が吹いて、髪を揺らす。彼の薄茶色の髪がなびいて、それがすごく綺麗で。横顔がこちらを向いた時には、もう、好きだったのかもしれない。


「綺月」


 彼が呼ぶ名が、好きだった。声の温度が、すきだった。視線が、体温が、表情が、好きだった。


千景(ちかげ)


 彼の名前も、大好きだった。呼ぶたびに、心が満たされていくような気がした。名を呼び、彼が振り返るたびに、幸せだと思った。



「高校生になったら、おれが、君を抱くことを許してくれる?」


 付き合って半年が経ち、そんなたどたどしい言葉に、涙を浮かべながら頷いた。

 ハグと、キスだけの関係。僕たちは清くて、汚くて、きれいな恋愛をしていた。

 まだね、しないよ。いつかね。そうだね。変わらないといいな。気持ちが?変わるわけないよ。ずっと好きだよ。


 幸せだった。たしかに、幸せだったのだ。

 ──ずっと、こんな日々が続くと思っていた。





 僕と千景の物語が動いたのは、中学二年生の冬。

 その日の夜は雨が降りしきっていて、視界も悪く肌寒かった。
 それなのに、夜空に浮かぶ月が、ひどく綺麗だったのを覚えている。



 僕が心から愛した千景という男は、その日、僕の世界から消えた。



 交通事故だった。













 高校に入って浅羽と出会い、初めてその顔を見た時は、また、千景が戻ってきてくれたのかと思った。それほどに、二人は似ていたから。千景よりも浅羽の方が若干凛々しい顔立ちをしているけれど、その顔に同居する甘さと鋭さがとても似ていて、纏う雰囲気がそっくりだった。

 浅羽といる時は、まるで千景が隣にいるような、そんな安心感さえあった。


「綺月」


 名を呼ばれるたびに、千景ではないのに、身体中が痺れるような、心の奥底が疼くような感覚になった。ほとんど同じ顔をした男に出会えたことが、二度目の運命のように感じたのだ。



『あれ、キミ、噂の葵くん?』


 似ているなら、同じなら、千景のことを少しでも感じられる要素があるならば、なんだってよかった。

 物理教師だってそう。


 ネームプレートに視線を落とすと、間違いなく『長良千景』と書いてある。

 千景、ちかげ。チカゲ。


 この名前は、こんなたらし野郎には似合わない。反吐が出そうだった。
 けれど名前を呼ばれると、情けなく脱力してしまうのも事実だった。



──いつまで執着してんの、あいつに。





 執着、なのだろうこれは。死者との思い出には勝てない。生者との記憶でさえしばらく会わなくなれば薄れていって思い出補正がかかるのに、一生会えないとなれば重ねた日々が愛おしくなるのは止められなかった。
 当たり前のことだ。


 



 千景。会いたい、君に。




 歪んだ気持ちで、身勝手な執着で、僕は、僕のことを想う男を、傷つけている。




「葵」


 とても丁寧に、名前を紡ぐひとだと思った。名を呼ばれるたび、抱きしめられるたび、見つめられるたび、千景に抱いていた感情に似たものが生まれているのを感じた。はじめは打算的で、身勝手な己のエゴだった。彼の恋心を利用して、自分の欲を満たしていた。

 けれどいつからか、それは、変わった。

 浅羽は千景によく似ていた。けれど、千景ではなかった。長良も、当然だが千景とは別人だった。
 この世界のどこを探しても、千景はもう、いなかった。



──── 長良とのこと、ほんと?


 揺れる目が、きれいだと思った。すぐ赤くなる頬が、かわいらしいと思った。
 いつしか千景は死者になり、記憶が薄れ、浅羽との時間を大切にしたいと思った。
 手を、伸ばしたいと思った。


 この曖昧な感情が、たとえば愛になるとして。

 ずっと騙していた僕を、それでも君は、好きだと言ってくれるだろうか。




 雨の夜は、決まってこわくなる。大切なものが消えてしまうような気がして、寂しさに消えたくなる。


 ひとりに、しないで。君だけは、消えないでよ、雨月くん。



 もう何度思ったかわからないことを、繰り返す。見上げると、白く光を帯びた雪が、空から舞い降りてくる。

 僕の感情ごと、すべて包み隠してしまえばいいのに。乾いた手が冷たくて、寂しくて、求めてはいけないぬくもりを、つい求めてしまいそうになった。