私は白スーツに銀髪の20代男性。一人称が「私」だから間違えられやすいが、どうか理解してやってくれ。
 研究室からの帰り道、私は普通の人とは違う遠回りルートを通っていた。
 ――特別な理由などは特にない。ただ、いつもの道を通るとまた嫌な光景を見てしまうのではないかと思ったからである。

 
 嫌な光景、私にとって一番許せなかったのは、学歴社会の闇、ましてそれによる差別、偏見。ついた職業に対するそれも含めたものだ。
 私の仕事場の周りには特にそれが多い。謙遜ながらも割とレベルの高い仕事についているからである。
 実力社会、それは古来からずっと受け継がれてきたものだった。古代中国では「王侯将相いづくんぞ種あらんや」という言葉があった。
 武芸の”実力とカリスマ力”がものをいう社会。その歴史により人々は、平等の大切さを痛いほど感じたはずだ。なのになぜまたこうなった。

 
 私はこんな社会は良くないと思っているのだが…
「正義のヒーロー!今日も理想高いですねー!」などと揶揄してくる連中は、少なからずいるものだ。
 世界はきっと醜い。だからこそ私が抱く理想の社会というものは世界を支配でもしない限り、現実に押し潰されるだけだ。


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「初部先輩!帰りましょ!」

 
 可愛らしい後輩が別ルートを行く私を見つけて、いつものように帰りに誘ってくる。彼女の存在は、私にとって唯一の癒しであった。
 なにせ、数少ない友達だったからだ。一人称が男なのに私を使う自分は、常に堅いイメージを持たれて、友達が少なかった。

 
「ああ、是非とも。ところで今日は妙に元気だな。何かいいことでもあったのか?」
「うーん、そうですね。ない!気分!」
「気分って、はあ、君のご機嫌さにはいつも励まされるよ、全く。」

 
 私は来月、院を出る。仕事のオファーはいくつか来ていたが、どれにするかは未だ決めきれていない。

 
「来月になったら、初部さんとも会えなくなっちゃうんですかね…」

 
 この後輩とは、友達というより、いわば「両思い」に近しいものだったのかもしれない。でも私は、裏切られることが人生で一番嫌いな事だったからだろう、先輩後輩の枠を出ることはなかったのだ。

 
「君は、将来のプランは決めているのか?」
「うーんそうですね…私は、初部さんがいる仕事がいい!」
「ふん、そんな簡単な理由で将来を決めるのは危ないぞ。それに、私もまだどこに行くか決めかねているところなのだ。」
「でも、それでも初部さんといると、楽しいんです!」
「そうか?私は自身を楽しい人間だとは思ったことがないのだが。」
「私の話に、落ち着いてついてきてくれる人なんて、初部さんくらいですよ?なんだかんだで話を聞いてくれるじゃないですか!」

 
 褒め上手だな。と私は笑いながら彼女を振り返る。最高に嬉しい言葉を言ってくれる彼女は、私にとってかけがえのない存在だ。
 この世界が憎くても、彼女がいる限り世界は、多少は美しさを持っていると、そう感じさせてくれる。

 
 しばらく彼女と歩いていると、少し前方に、見慣れぬ姿をした男が姿を現した。
 ――……なんだあいつ。少しばかり、危険な匂いがするな。
 その男は私を見るとしばし立ち止まり、じっとこちらを眺めてくる。

 
「まずいな、このまま前へ進むと、少し面倒そうなやつと遭遇しそうだ。」

 
 私はそういって軽く後輩の手を握りながら遠回りのルートを選んで早歩きすると、その男は少しずつ私達に近づいてくる。その顔は、不気味にも口が裂けているかの如く口角を上げて、目はまさに「狂人」そのもの。

 
「どうしたんですか?初部さん。急に手を握られるとびっくりしちゃいます!」
「悪いが少しばかり嫌な予感がしたものでね。早くあそこにいる彼と距離をとった方がいい。」

 
 ――まずい、まずい、まずい、怖い!
 焦燥感が体を襲い、滲む汗が容赦なく体温を奪っていく。後輩は少し戸惑いながらも、私を見つめてただついてきてくれている。
 飛んだハプニングの最中、私はこの上なく幸福感を感じていた。
 ――ブレてはいけない、ブレてはいけない。今はあの男から離れることだけ考えろ、それに来月になれば…来月になってしまったら…
 その奥底に潜む不安は日に日に増すばかりだった。私は、彼女が好きだから!
 走りながらも、私は常に後ろを気にしていた。止まったら私はヤツに捕まってしまうかもしれない……

 
「初部さんッ!」

 
 後ろから鋭い声がした。後輩の声だ。
 俺は恐る恐る後ろを振り返る。
 そこにいたのは、後輩ではなかった。そこにいたのは「その男」だったのだ。

 
 次の瞬間、背中に鈍痛が走る。何か硬いもので思いっきり殴られたような。背骨にはヒビが入り、痛みは全身を駆け巡るのを感じる。今日ばかりは激しすぎる脈打ちが彼には目で見えるかの如く感じられた。
 その瞬間から意識は徐々に遠のいていた。でもこの時、頭がジリジリと電気を食らっているような感覚を覚え、頭には謎の囁きが響き渡る。

 
 ――ああ!憎い憎い憎い憎い憎い!憎ィイ!ああ、だから世界が嫌いなんだ!壊れてしまえ、壊れ尽くしてしまエ!

 
 世界を憎んだ男の声。世界を嘲笑しながら、涙を流しているような、狂人の呻き声。これ……は……私の声じゃない。
 ――なぜそんなに憎んでいるんだ。世界はきっと、美しいというのに。

 
 きっと、彼女さえいれば……でも、もしもこの世界からいなくなってしまったら……私は何を望むだろう?

 
 ――もしもいなくなってしまえば、お前はこの世界の何に期待しているというのだ!彼女によって仮面を被ったこの世界に。

 
 頭の中を覗いてくるように狂人の声は再び響く。こいつの目的はなんだ、と私は確かにそう聞こうとしたはずだ。でも肝心な質問をしようとすると、狂人の命令下に体が動いているかの如く動けなくなる。

 
 ――じゃあな、初部未来。”向こうの世界”で再び目覚めるがいい。
 ――ちょ、ちょっと待って!

 その問答はそこで途切れ、初部未来の意識は次第に遠のく――
 死を目の前にすると人はこうして、意識が遠のいていくのだろうか?
 ああ、眠たい。少し、だけ……

 その時、初部の意識は途絶えた。