買っただけで使ったことの無かったラメ入りで濃いブルーのアイシャドウを瞼にたっぷり乗せたはいいが、それに似合うような服を持っていなくて、クローゼットの前で途方にくれる。この間、役目を終えたばかりの制服がこちらを見ていて、私はそれを一番端に寄せた。

まぁいいか。誰かに見せたいわけじゃないんだし。

悩んだ末にどうでもよくなって、いつもの灰色のスカートと母親に似合わないと言われてからしまいこんでいたヒヨコみたいな淡い黄色のセーターをひっぱり出して着て薄手のコートを羽織り、とりあえず何も考えずに家を出た。靴なんかそこにあった学校のローファーだが、それもどうでもよかった。
五階から一階まで降りるエレベーターが、ひどくゆっくりに感じる。いつも、こんな速度だっただろうか。エントランスを出ると、マンションの前に目付きの悪い野良猫が座っていた。猫はこちらをじろりを見ると、急に立ち上がり、弾かれたように猛スピードで走り出して路地の角を曲がっていった。
住宅街も、その先に広がる商店街も、ここ数日ずっと見ていたインターネットの中と同じで、なんだか色彩が薄かった。
3月が終わる。
高校生活に特別な未練はないけど、新しい場所へ行く前のどことない不安はあった。それは煙のように、私の体の周りにまとわりついている気がした。
寒いのにいい加減飽きたからか、歩いている人たちはどことなく笑っているように見える。楽しそうな声やスピーカーから聞こえる放送が、いまは全部耳の周りを素通りしていく。もやもやとした何かがまた、肺に溜まっていくのを感じる。それを振り払うように、気になっていたけど入ったことのなかった古い喫茶店の扉を、一息で押し開けた。
カランカラン、と軽い音がして、しん、と店が静まり返る。
カウンターの中にいたエプロンをつけた年配の女性と、彼女と談笑していたらしいカウンター席の中年男性がこちらを振り返り、私を上から下までじろりと見た。やっぱり帰ろうかなと思っていると、どうぞ、とそっけなく言われてしまった。仕方なくうなずいて、なるべく奥の席に身を隠すように座った。メニューの一番上にあったブレンドを頼んで、壁にかかっている木彫りの時計を眺めていると、久しぶり、と声を掛けられた。緑は私の前の席に勝手に座って、首をかしげた。短いボブの赤っぽく染まった髪が彼女の白い頬にかかる。

「瞼が珍しい色してんね」
「うん。急につけたくなって」
「おー、そうなんだ。あんま服と合ってない感じするけど」

いひひ、と笑っている緑を、じろりと睨む。

「知ってるよ。てかこれ、あんたとノリで買ったやつだから。半分はあんたのせいだし」
「そうかぁ? まぁ、そういうことにしといてもいいけど」

面白そうに笑っている緑は、見たことのないコートを羽織っている。ふわふわした雲のような白い生地が、喫茶店の薄暗い照明の下でも不思議にきらきらと光っていた。

「それ、新しいやつ?」
「あ、そうそう。新作だって。あっちだと物価めちゃ安くてさ。働いてる人たちの手伝いしたらおこずかい貰えるんだけど、それですぐ買えた」

似合うっしょ、と歯を見せて笑う。緑はおしゃれだし、基本なんでも似合う。フェミニンであんまり見たことのない格好だけど、それでもしっくりきていた。

「手伝いとかしてるんだ。偉いね」

緑はそこではじめて顔を曇らせて、小さなテーブルの上に肘をついた。

「まぁ正直、暇なんだよね。平和すぎて。刺激が足りないっていうか」
「そんだけ平和なら、いいところなんじゃないの」
「いやぁ、やることないのも退屈だよ。だいたい、こっちのこと眺めてるしかできないしさ。こんな退屈なら、あんたは当分こなくていいと思うわ」

でも最後に会ったときより、彼女の頬は痩けてないし、生き生きして見える。なによりこんなにぺらぺらと話せるだけの元気があるなら、そこは良いところなんだろうと思えた。

「いいところじゃん」
もう一度、改めてそう言った私の顔をじっと見て、緑は、あ! と声をあげた。
「あった!一つだけ最悪なことある!」
「え、何」

見たことのない怪物がいるとか、やっぱり争いがあるとか、そういうことを想像した私に緑は顔を近づけて、ささやくように言った。

「靴が無いんだよ」
「……は?」

あ、と思ってテーブル越しに下を覗くと、彼女には足が無かった。確かに、これなら靴は必要ないだろう。

「みんなそうなの?」
「そうだよ!かなり最悪じゃない? このコートならあのヒールがいいかな~とか、トータルコーディネートで考えるのが楽しいのにさぁ」

彼女は本気で嘆いて、肩を落としている。
そこは平和で、退屈で、なんでもあるのに、靴はないんだ。
私はなんだか無性に可笑しくなってきて、堪えきれなくなって笑いだした。

「笑うけどさぁ。本気で残念でしょコレ」
「あんたならそう言うのわかるけど、わかるけどさ。あはは……靴って」

笑いすぎて、じわっと涙が出てくる。笑うのも泣くのも久しぶりすぎて、自分で自分に驚いてしまう。緑とはいつもこうして、くだらないことでゲラゲラ笑いあっていた。彼女が入院したあとだって、私はしょっちゅう遊びに行って、他愛のない会話をした。
それしか、出来なかったから。もっと、話すことがあったかもしれないのに。

「ちょっと、笑いすぎだって」

緑は怒った口調で、でもなんだか優しく笑うと、腕を伸ばして私の肩を叩こうとした。それから、何かに気づいたようにはっとして、手を引っ込めた。

「あー、今度、オプションつけてくるわ。ちょっと高いけど。せっかく来るなら、やっぱ買っとけば良かったなー」
「オプション?」
「うん。でも今日は、ちょっと急いで来たから。仕方ないね」

私はごしごしと目を擦って、緑に手を伸ばした。ふわふわとした白い雲みたいなコートの生地。きらきらした光みたいなそれは、手に触れる寸前に、煙のように指と手のひらを素通りしていく。

「それ、触ってみたかったのに」
「あたしも、あんたに」

そこまで言って黙ると、緑は私が見たことのない顔で笑った。そんな顔しないで欲しい。私の知っている緑のままでいて欲しくて、思わず目をテーブルの上に落とした。

「ねぇ、緑」

そっと顔をあげると、目の前には誰もいない。
どうぞ、と声をかけられる。カウンターの中にいた女性がいつの間にか私の横に立っていて、小さいテーブルにコーヒーを置いた。
燻したような濃くて優しい香りに、なんだか目が覚めたような気がした。壁の木彫りの時計は、5分しか進んでいない。
会釈すると、女性は無言でカウンターに戻っていく。それからすぐにまた私のところへ歩いてくると、箱のティッシュをコーヒーの向こう側にそっと置いてくれた。私はティッシュを手にして、思い切り鼻をかんだ。

薄暗い赤っぽい照明の下で、コーヒーの黒い水面が白い湯気の向こうできらきら光っていた。朝日を透かした雲のような、彼女のコートの光に似ている。
私は顔をあげた。夕陽のさしこむ店の中は、赤く鮮やかな光に包まれている。そっと、自分の足元に目をやる。見慣れすぎた、ローファーを履いた足がそこにあった。

そうだ。明日は靴を買いにいこう。

そう考えたら、少しだけ、肺の中のもやもやが薄くなった気がした。私は思い切って息を吸うと、カウンターの女性に向かって声をかけた。

「すみません。あの、ミルクください」