AM1:00。

見慣れた街はすっかり闇に沈み、わずかな街灯さえも鬱陶しい。それは時折何食わぬ顔で私を試し、最後にすっと笑って消えていく。
この不気味な光景に魅了された私は、数日前からこっそりと自宅を抜け出してマンションの屋上で過ごすようになった。
向かいには私の通う三次橋(みつぎばし)高校が日中の騒がしさが嘘みたいに静寂に包まれていた。

無の空間で、私は鉄柵に身を乗り出して伸びをする。鼓動が激しさを増し、小刻みに足が震えた。
少しでも気を抜けば吸い込まれそうになるこの時間、この空間が好きだった。

いっそこのまま楽になれたらいいのに。
最近になって、息を吸うように死ぬ理由を探すようになった。それが高校生特有の悩みなのか私が特殊なだけなのかはわからないけど、死ぬ理由は案外簡単に見つかるものだった。生きる理由を探すよりずっと。

「人間どうせいつかは死ぬんだよ、だから生きた方がいいよ」

なんだかフィクション作品に出てきそうなセリフだなと呑気なことを思った。
また、脳が勝手に会話をしている。そう思った。

「だからさ、生きてよ」

二度目が鮮明に聞こえてからは咄嗟に辺りを見回した。
考えるまでもない、私が考えようもないことだった。生きる理由を探す代わりに死ぬ理由を求めた私が今更な話だった。
けれど、屋上を走り回って遠くを探しても周りに人の気配はない。

「こっち!こっちだってば!」

動揺する私を遊ぶような声が飛んでくる。聞き馴染みのない透き通った声だった。

もう一度辺りを見回す。それでも一向に姿が見えず、幻聴だと両耳を塞いだ。
けれど、それでも鮮明に聞こえてくる。むしろそのはっきりとした声は徐々に近づいてくるように思えた。

「だからこっちだってば」

声のする方を向くと学校の屋上に制服を着た生徒の姿があった。
その子は長い髪を風になびかせながら、私にくるりと回って見せる。と同時にスカートが揺れて、その子は宙を舞った。辺りの街灯は操られて舞台照明を担うと、そこはまるでステージだった。

けれど、それはありえない光景だった。幻覚かと何度も目を擦った。
なんせ、屋上は半年前から立ち入りが厳しく禁じられていたからだ。
ちょうど半年前、生徒の飛び降りがあってからは。
幸運なのかどうなのか、その飛び降りは未遂には終わったけれど、以来誰も立ち入ることができなくなっていた。
誰が流し始めたのか、屋上に続く階段に行くだけでも呪われるなんて噂まで立っていた。
そんな場所に人がいるはずなかった。
というより深夜の学校に人がいるのが1番ありえない理由なんだけど。

考え事をして一瞬目を離した隙に、その子は私の視界から姿を消した。

と、同時に勢いよく風が私に吹き込んだ。
吹き飛ばされそうになって思わずしゃがみ込むと、同時に耳元で大きな声がした。

「ここだって」

声に恐る恐る振り返るとそこにはついさっきまで高校の屋上にいた子の姿があった。
近づいてみてわかったけど、多分年齢は同じくらい。規定制服も私と同じ高校のものだった。
それでも、見たことのない顔をしていたので私は恐る恐る距離をとった。

「なかなか気づいてくれないんだもん、面白くない」

不機嫌らしいその子はそっぽを向きながらたまに口角を上げた。

何が楽しいのかさっぱりわからない私は遊ばれているような心地がして不快だった。
それに、初対面であるというのに全く失礼だと思った。

「名前、聞いてもいい?」
「そうだよね、誰かわかんないよね、私は彩芽(あやめ)
「綺麗な名前……」
「そう、綺麗?」
「ごめん、思わず」

漏れ出ていた声にハッとした。
さっきまで失礼なんて思っていたのに、結局1番失礼なのは私自身だ。

「あっ、私も名乗らなきゃね、私は……」
宇井初香(うい はつか)でしょ?」

彼女は私より先に、それも食い気味で言った。
夜の不気味な雰囲気のせいか、ゾッと背筋が凍った。

「私、知ってるんだよね、初香ちゃんのこと」
「え?」
「あ、今ホラーだって思ったでしょ」

まるで読まれているみたいだった。
私の心を見透かしたように、彼女は続けた。

「ねぇ、死なないよね?」

「さぁ、どうだろうね」

突然踏み込まれて、咄嗟に少し遠回りな言い方をする。そうすれば厄介な人間から離れてくれると思ったからだ。

「私さ、人を幸せにする神様って言われてんの」

「へぇ」

そんなことあるものかと思いながら、どこか興味深い話だなと思った。
けれど、信じたわけじゃない。
ただ、私が人を幸せにする神様ならどれだけ良かっただろうなと考えてみただけだ。
なんせ私は正反対の人間だから。

「私は死神なんだよね」

「それ、本気で言ってる?」

「本気だよ、だから君は私から距離を置いた方がいいよ」

「君っていうか彩芽ね。名前呼んでよ」

人たらしというか、生きることにあまり苦戦したことがないのだろうなと思う。
良く言えば世渡り上手。悪く言えば面倒。
自己主張の強さが垣間見えて、私の苦手なタイプだなと思った。

「ごめん、眠たいや。もう帰るね」

会話にならない彼女を残して、私は逃げるように屋上を後にした。





「初香は悪くないよ、絶対に負けちゃだめだからね」

私の救いだった友人の佐山(さやま)純玲(すみれ)は、夏の夜、別れの言葉もなく儚く消えていった。
私のことを唯一肯定してくれた純玲はいつの間にか敗者になっていた。純玲が必死に差し伸べてくれた手を上手く掴めなかった私は彼女から人生を奪ってしまった。
その日から、私は生きた心地がしなかった。

AM1:00。

鉄柵に寄り掛かり、持っていた350mlのサイダーに口を付けた。
泡は弾けてあっという間に喉を通り過ぎる。

純玲を近くに感じるのは決まってこの時間だった。
誰にも邪魔されないし、むしろ夜が私を肯定してくれる。そんな気さえしていた。

今日は屋上に行くのをやめた。それは例の彼女に会ってペースを乱されたくなかったからで、高校と反対側にあるベランダでは彼女に会いようがなかったのだ。

サイダーを勢いよく流し込みながら、このまま時間が止まればいいのにと思った。


「なんで今日は屋上じゃないの?」

隣の家のベランダから、避けていた声が飛んできた。
必死になって探したあの透き通った声だった。
せっかくの1人の時間を邪魔された私は、サイダーが残っているうちは、まだこの場所を離れたくなかったので渋々話に付き合うことにした。

「なんでって、家を出るのが面倒だったから」
「よかった、私のこと避けてるわけじゃないんだ」
「うん。それに君はそういうの無縁そうだけど」
「あるよ、結構な頻度で。ていうか、やっぱり"君"呼びなんだ」
「だめなことでもある?名前で呼んで勘違いされても困るし」
「勘違いなんてしないよ。というかそんなに冷たい人間だっけ?」
「冷たいわけじゃないよ、ただ誤解されるのが嫌なんだ」

私の何を知っているんだと思った。まるで私はわかったかのような物が少し頭に引っかかった。

根拠のない噂が独り歩きして勝手に私が作り上げられているのだろうか。

「佐山純玲って知ってる?同じ学校なんだけど」

彼女の口から登場した純玲に、思わず口に含んでいたサイダーを吹き出しそうになった。
彼女も私のことを恨んで近づいてきたのだろうか。
急に寒気がした。
純玲のことを知らない手で話を進めることにした。
ここで逃げてしまったら、返って怪しまれるだけだと思った。

「ごめん、わかんないや」
「そうだよね」
「で、その純玲ちゃんって子がどうかしたの?」
「ちょっとね、元気してるかなって思って」
「その子なら多分元気だよ、誰かが言ってた」

咄嗟にどうしようもない嘘をついた。何を基準に元気と言えばいいのかわからないが、純玲が元気だというのは無理がある話だ。もうこの世には存在していないのだから。

「そっか、ならよかった」

彼女の口から漏れたのは穏やかな声だった。
私はサイダーに口を付けると、残りを一気に飲み干した。

「ねぇ、君の言ってた人殺しって何?」

また悪いタイミングで彼女は私に話しかけた。

「聞く意味ないよ、そのままだし」

「でも、それは初香ちゃんが自分で言ってるだけでしょ」

「そうだけど本当のことだから」

「それで後悔ないの?まだ生きてるわけだし」

「とにかく、もう決めたことだから。私が関わるとその人を不幸にしてしまうからね」

「その子のこと、わかったように言わないほうがいいよ」

随分と強い物言いだった。
それには身体が勝手に萎縮して言葉が喉につっかえた。
彼女にも私の気持ちは分かりやしないのに、真正面から向き合われるだけで感情が爆発しそうになる。

「別にそんなつもりじゃ……」

「そんなつもりでしょ。真実は本人にしかわからない。勝手に推測して全部背負い込んで、それで被害者ぶってるだけじゃん」

「でも……」

「その子の人生を奪ったのは初香ちゃんじゃない」

「そう思い込もうとしてもみんな言うんだよ、『初香だけのうのうと生きててどの面なんだって』。私と違ってたくさんの人に愛されてたから」

彼女は息を飲んだ。同時に私の目をまっすぐ見つめた。

「君のことを一度は恨んだかもしれないね」

それが真っ当な考えだと思った。
その言葉は私はそのまま受け入れて、私はドアノブに手をかけた。

「でも、憎んではないと思うよ」

去り際、彼女からその言葉が飛んできて、私は思わず振り返った。
何を言ってるのか、理解するのに時間がかかりそうだった。
そもそも何者かわからない彼女の意見に付き合うのもばかばかしい話だけど。

「それ、どういう意味?」

「とにかく君は生きた方がいい」

彼女は私の問いを聞き流してから、私が言える立場じゃないけど、と加えて笑った。

「人って未練があるとこの世界にとどまり続けるんだって」

「私も聞いたことがある」

「でね、死が身近にある人にだけに見えるんだって」

「それって死神じゃん」

「違うよ、生かすんだよ。みんながみんな巻き添えにしないよ」

「なんで?」

「初香ちゃんはどうしてそう思うの?」

「どうしてって、自分の人生は終わったんだよ。誰かを幸せにしても自分は苦しくなるだけだから」

「違う。だから君は"死神"なんだよ」

彼女の言っていることが正論だった。
自分で勝手に限界を決めて現実から目を背けていた。
その方がずっと楽で、苦しまずに済んだから。

「亡くなった友達のことを思うなら、その子の分もちゃんと生きるんだよ」

「そして、私のことも忘れないでね」

彼女はそう言い残して姿を消した。
彼女がいたベランダには、甘くて爽やかな香りだけが残っていた。