『大丈夫、きっとずっと傍にいるから』
真冬の真夜中、彼が優しく囁いた声が、まだ耳に残っている。
いじめ。わたしにとって、それほど恐るべき響きは他に存在しなかった。
学友のはずなのに、友とは言えないような同級生たちからの苛烈な嫌がらせがわたしを一歩一歩追い込む。
時に持ち物を隠され。
時に足を引っかけられ。
時に皆の前で嘲笑され。
時にあだ名をつけられ。
例に挙げきれないような嫌がらせの数々、それら一つ一つは大したことがなくても、積み重なって、いつまで続くかわからなくて、恐怖と不安で追い詰められた。
辛くて辛くて、一日学校を休んだ。
次の日学校に行ってもなにも変わらなくて、でも休んでも解決しないってわかってて、しばらく学校に行った。
だけどずっと行き続けるのはやっぱり辛くて、また一日休んだ。
次第に学校を休む間隔は短くなり、二日連続、三日連続と学校を休む期間も長くなる。
いつしかわたしは、家から出るのを拒んで、カーテンを常に閉め切った薄暗い部屋の中に籠るようになってしまった。
母は、そんなわたしを心配して、でも焦らなくていいって言ってくれる。
父も、特になにを言うでもなく、たまにわたしに文庫本を買い与えてくれる。
しかし、わたしは両親の優しさに応えられないわたし自身の弱さが憎くなって、部屋から出る頻度も下がっていく。部屋から出られないわたしはやっぱりわたし自身のことが嫌いで、また活動範囲が狭まって――
気づけばわたしは、どうやっても抜け出せない悪循環に陥っていた。
変わりたい。でも変われない。
日が経つごとに悪くなっていく現状が怖い。
なにもできないわたしが、まだ世界と接しているのが怖い。
自殺を考えたこともあった。でも家の中で死ぬことはできなくて、家から出ることもできなくて、八方塞がりだった。
わたしは、自殺すら満足にできない。
わたしは考えうるすべての手段を検討して、わたしの人生は終わりだという結論を出していた。
きっとなにも変わらずに年が経つだけ。年齢だけ上がっていって、皆が人生を謳歌している間、わたしはきっとずっとこの部屋の中。
不安と恐怖は、大きすぎる諦観によって塗り替えられ、わたしの心は、その諦観と時たまわたしを襲う焦燥だけで支配されている。
ただ、諦観と焦燥の中で、一つだけ。
「……嫌だ」
わたしが予見して、変えることを諦めた未来が、そのまま現実になってしまうのが、嫌だった。
嫌だといっても、さんざん考えたうえで結論が出た。だからきっと変えられない。
そんな諦観と、嫌がる気持ちとが時にぶつかりあう。
そして自然と涙が零れる。
未来はないんだ。嫌だと思いながら結局なにも変わらず日々は過ぎていくんだ。
髪が乱れるのも気にせず、顔を布団に擦り付ける。辛い。苦しい。
なにやってるんだろ、と身体を転がし仰向けになる。
視界の端に、人がいるような気がした。
ばっと勢いよくそちらを向く。
「やっと気づいた」
そこには、わたしとちょうど同年代くらいの少年が立っていた。
ここはわたしたち家族の家のはずなのに、どうして。こんな人知らない。
驚きで、なにも言葉が出ない。
少年は悲しそうな表情をして、なにも言えないわたしを横目に見る。
「あ、あなたは……」
ようやく小さく掠れた声が出る。両親に助けを求めるでもなく、ただその少年に尋ねる。
「僕は――そうだね、幽霊っていうのが一番正確なんだと思う」
本人が言うにはあまりに曖昧なその答えに苛立つ。
なにも知らないのに、そんな悲しげな表情をするな。せめて、自分の立場くらいははっきりしてくれ。
でも、人間を敵に回し続けてしまったわたしは、もうそんな言葉は一つも発せない。
「幽、霊」
小さな声で、少年の言葉を噛み締めるように反芻する。別に、少年の正体に興味はないのだけれど。
「霊くんとでも呼んでほしい」
本名は言わないのかと思ったけど、人を避け続けてきたわたしに人の本名を呼ぶなんてことはできなさそうで、ちょうどいいかと思い直す。
「君は、かなり思い悩んでるみたいだ。気分転換に、外にでも出てみない?」
霊くんは、優しい口調のわりに無神経な性格をしているみたいだった。
外に出てみないかなんて誘い、わたしにとっては禁句に近いものだ。
霊くんに言われて改めて外を想像してみても、いいイメージは一つもなく、ただただ恐ろしい場所ということだけ、心の奥底に刻まれていた。
だから、霊くんに怒りをぶつけるのも、仕方のないことだと思う。
「……る、さい……」
「え? ごめん、聞こえなかった」
この期に及んでデリカシーのない言葉。わたしは堪忍袋の緒が切れた。
「さっきから、うるさい……。わたしの辛さも苦しみも、なにもわからないくせに……!」
これほどまでにはっきりとした怒りを抱いたのは、人生で初めてかもしれない。いじめられていると気づいた時でも、怒りは抱かなかったというのに。
「僕は、君の辛さも苦しみも、少しくらいわかってるつもりなんだけどなあ」
霊くんはどうしても無遠慮で、わたしは怒りを抑えきれない。
「わかるわけない! わたしがどんな目に遭ってきたか! 今、どれだけ辛くて苦しいのか!」
憎悪と怒りと悲しみと後悔と――数えきれない感情を、全部その叫びに乗せてぶつける。
結果として、これまでとは対照的に声は大きくなってしまう。叫んでから、母に聞こえているかもと思ったが、母は今家にいないということを思い出し、胸を撫で下ろしかける。
いや、違う。今目の前にいる、無神経で無遠慮でデリカシーに欠けるこの男が、腹立たしくて仕方ない。
彼は、目を閉じていた。
しかし、わたしが彼の方を向いたのに気づくと、彼は目を開いた。その表情からは、さすがに反省の色が伺える。
「ごめん。確かに、君の辛さも苦しみも、君にしかわからない」
言い負かされたとかそんな空気は感じられず、ただ、自分の思う通りに言っただけのようだった。
思い返してみれば、わたしに外に出ないかと言った時もわたしの辛さや苦しみがわかると言ったときも、悪意は欠片もなかった。霊くんは、天然なのだろう。
だが霊くんが呆気なく自分の誤りを認めたから、わたしが意地を張っただけみたいになってしまって、少し癪だ。
「君、名前は?」
「わたし、は……」
しばらく一人で過ごしていたから、名前を思い出すのにも少し時間がかかる。
「白井広海」
自分の名前を、他人に告げる。
一つだけ、自分を取り戻したみたいだ。
「広海。いい名前だね」
どうしてこの男は、いきなり名前呼びをするんだ。
だが、不思議と抵抗はなかった。
わたしにとって、他人と距離を詰めるということはなにより恐ろしいことだったはずなのに。
「って待って、幽霊なの?」
今まで平然と会話していたけど、わたしは幽霊を信じていない。
「そうだよ。僕は確かに死んだはずなのに確かにここにいるから、幽霊だ」
「え、どうやって入ってきたの?」
「普通に、すり抜けて」
にわかには信じがたいことだ。幽霊はいないものだと思って生きてきたし、当然人間は壁をすり抜けられない。
「実際に見てみる?」
わたしの反応を待たず、霊くんは壁に身を沈めた。
それはまさしく、壁に身を沈めていた。
身体がちょっと透けてる。
「納得はできないけど、理解はできた……」
わたしは、現状を理解するのに疲れる。
「じゃあ、僕はそろそろどこかに行くね。また来てもいい?」
もう来ないでほしいと思う気持ちが先ほどまであったのに、その気持ちは気づけば無くなっていた。
「連絡取れるの?」
「僕はスマホ持ってないよ。幽霊だから」
「じゃあ、時間決めよう。無断で部屋に入ってきてほしくないから」
霊くんは、また来てもいいという意味だと受け取ったのだろう、悲しそうな表情が想像も出来ないほど嬉しそうに笑った。
霊くんが来る時間になる。霊くんと会うのは決まって深夜で、真っ暗な部屋に霊くんがやってくる一瞬先に霊くんの気配がやってきて、すぐに霊くんが姿を現した。
「少し待たせちゃったかな」
「いや、そんなことはないけど」
「それじゃあ、今日はなんの話をしようか?」
霊くんに尋ねられて初めて、わたしは自分が他人と話すための話題をなにも持っていないことに気づく。
正確にはいじめられた話とかをしてもいいのだけれど、そんな話を聞いててもつまらないだろう。
「広海ちゃんの話ならなんでも聞きたい」
霊くんは、わたしの心でも読んだかのようなことを言った。
「でも、本当ににつまらないし暗い話だよ」
わたしが話せるのは、もし自分が霊くんの立場だったら聞きたくないような話ばかりだ。
「それでもいいから。聞かせてよ」
霊くんはいったい何者で、どうしてわたしのことをこんなに知ろうとしているのか。心の中に湧き出た疑問はしかし、口に出されることはなかった。
ただ、一言。
「じゃあ」
霊くんはわたしの話に耳を傾けた。
「きっかけはほんの些細なことだったと思う。わたしがテストでたまたま大成功して嫉妬された、だったかな」
「うんうん」
霊くんはわたしの話に真面目な顔をして相槌を打つ。まるで心から面白いと思っているみたいだ。
「それで、きっかけがきっかけだから、最初は大したことをされなかったんだけど、わたしの反応を見たのかどんどんエスカレートしたんだよね」
「そっか」
淡白な反応でも、心から気を遣ってくれていることが感じられて、霊くんはわたしを遠巻きに嗤った同級生たちとは全然違う人なんだと認識する。人というか幽霊なんだけど。
「それで、広海ちゃんはどんなことをされたの? 思い出すのが辛ければ無理に答える必要はないんだけど……」
初めて会った時は無遠慮な奴だと思ったのに、今はその欠片も感じられない。
「最初のうちは無視されたり陰口を言われたりするだけだったのに、最近では殴られたり蹴られたりは当たり前になって、時には物が隠されることもあって、影ではあだ名もつけられてたみたいで」
語っているうちに、実際の情景が思い出されて、どうしても感情が籠って早口になってしまう。
「広海ちゃん、大丈夫?」
霊くんと初対面の時に、わたしが辛くて苦しいなんて醜い姿を見せてしまったからだろうか、霊くんはわたしを心配しているみたいだった。
「ちょっと辛いけど、そんなに心配するようなことじゃないよ」
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
「泣いてなんて――」
つーっと、頬を生温い液体が伝った。
手でそれを拭い、発生源を辿っていくと、目尻にたどり着く。
それは、紛れもなく涙だった。
「大丈夫、大丈夫だから」
本当は大丈夫じゃない。
霊くんと出会って、少しは良くなったように思ったけど、全然違う。
不安も恐怖も焦燥も、なにもかも消えることはなく、霊くんと話すごとに膨らんでいく。どうして霊くんはこんなに優しいのに、わたしは変われないんだろう。
それでも嘘をついてしまう。自分の深いところを見せるのは、たとえ霊くんにでも抵抗がある。
「……」
霊くんはなにも言わない。やっぱり、信用されてないってわかって、不快になったのだろうか。
「……霊くん?」
「広海ちゃん。辛いことは辛いって言うべきだし、苦しいことは苦しいって言うべきだと思う」
「……ごめん」
どれだけ霊くんがそう言っても、わたしはどうしても心を完全には開けない。
――ああ、人間不信に陥ってしまったわたしはきっと、社会に不要な存在なんだ。
「駄目、かな……」
「……ごめん」
曖昧で明確な拒絶。
霊くんは酷く傷ついたような顔をした。
でも、すぐそれを覆い隠す。
「霊くんだって」
わたしは、無意識に言っていた。
「霊くんだって、隠してるじゃん」
霊くんは、なにも答えない。
「わたし、霊くんの本音は一回も聞いたことない」
「そんなこと」
「ある。霊くん、全然感情を見せてくれない」
いつだって霊くんはわたしの感情を優先してくれて、初対面の時以外、いつだって霊くんはわたしが求めることばかり言った。そこには霊くんの感情はない。
「実のところ、僕は感情が無いんだ」
感情が無いなんて言い出して、もしかして中二病なのかと思ったけど、そういうわけではなさそうだった。
「感情が無いというより、感情が見つからないっていうのかな。希薄なんだ」
今度はわたしが、ただ話を聞く側だった。
「僕が死んでしまった原因の一つでもあるんだけど。どうしても、感情がわからない」
わたしはてっきり霊くんが感情を隠しているのだと思っていたけれど、まさかそもそも感情が無いとは。
「ごめん、言いづらいことを訊いちゃったね」
「いや、大丈夫。特になにも思ってないから」
一通りやり取りを終えてから、疑問に思う。初対面の時の霊くんは、一体どんな顔をしていたか。
彼は、悲しそうな顔をしていた。それに対してわたしが理不尽に怒ったことが強く印象に残っている。そこに違和感を感じたが、大したことではないか、と受け流す。
「ああ、でも一つだけ」
「なに?」
無神経なことを言ってしまった自覚はあるから、霊くんが言おうとすることを聞かざるを得ない。
「広海ちゃんと、外に出たい。希薄な感情の中で、その望みだけが強く脈を打ってる」
詩的な表現によって紡がれた言葉に、わたしはむっとした。
「いや、ごめん。忘れて」
霊くん本人に敵意を抱くことはなかったが、しかし外に出ようなんて言葉はわたしにとっては未だ禁句だ。少し、心が揺らいだ。
その様子を見た霊くんは、すぐにわたしに謝った。
「わたしも、そろそろ変わらないといけないよね……」
渋々ではあった。だけど、ずっと心にあった変わりたいという願いと、霊くんの、わたしと一緒に外に出たいという願いが合わさって、わたしを外に出ようという気にさせた。
「明日、一緒に外に行こう」
霊くんは、目を見開いた。
わたしも、明日外に出ることを考えると、不安と恐怖と緊張から、心臓が速く脈打つ。目眩がする。視界が狭くなる。吐き気がする。
「広海ちゃん、落ち着いて」
倒れかけたわたしの身体を優しく支えたのは、霊くんだ。
わたしに優しく言葉をかけて、落ち着かせてくれる。
呼吸の仕方を思い出す。
「無理をする必要は無いから。明日外に出るのは、やめようか?」
「いや、でも」
「変わりたいと思いならチャンスを与えるのは重要なことだとは思うけど、それで体調とか心の調子を崩すっていうのは良くない」
霊くんは無神経でも無遠慮でもなく、わたしに最大限気を遣っていた。
「心配しないで。真夜中なら、大丈夫だと思うから」
「広海ちゃんが外に出るのを怖がるのは、人が怖いから?」
「そうなの。深夜は人が少ないだろうから、大丈夫だよ」
「広海ちゃんがそう言うなら様子見で明日、外に出てみようか。でも、無理はしないでね。広海ちゃんが無理をしてるように僕から見えたら、すぐに帰るから」
「それで、いいよ」
決定するのは怖かった。だけど、今ここで進めないと、これから先もきっと進めない。だから、明日、外に出てみよう。
明日外に出ると約束をして、しばらくわたしと喋ると、普段通り霊くんは姿を消し、霊くんの気配も消えた。
明日、外に出る。
何年ぶりだろうか。
いじめられて不登校になったのが高校一年生のときで、今は十七歳だから――およそ一年ぶり。それほどまでに期間が空いてしまえば、外の世界はもはや未知の世界となる。
わたしは、とても不安だ。
明日、外に出るのはどうしようもなく怖い。
今日はもう寝ようと思い部屋を暗くして、布団に被さってベッドの上で仰向けになるが、なかなか眠気を感じない。
いつもだったらなんだかんだすぐに眠れているのに、今日は余計なことが頭中を回り続ける。
もし明日外に出て、怖い人に絡まれたら。もし明日外に出て、車に轢かれたら。もし明日外に出て、道に迷ったら。
――もし明日外に出て、わたしをいじめた同級生に出会ったら。
ぞっとするような想像が頭をよぎり、もっともっと明日が怖くなる。
大丈夫。そんなことはそうそう起きないだろうし、霊くんも一緒に来てくれるから。
そう自分に言い聞かせても、憂いは消えない。
「広海ちゃん、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
言いながらも、全身が震える。
霊くんが来てくれるから大丈夫なんて言ったけど、霊くんと出会ってからまだまだ日は浅いし、完全に心を許せているわけじゃない。
それに、霊くんがいたからといっても、もしかしたら役に立たないかも……。
そこまで考えて、霊くんに失礼だと考えて思考を中断し、自分を奮い立たせようとする。
「手、掴んでみる?」
幽霊の手はすり抜けるんじゃないかと思う。
「透けてるところは結構すり抜けるけど、今ははっきり輪郭つけてるしすり抜けないと思うよ」
じゃあ心配ないか、と促されたままに霊くんの手を取る。
霊くんの言う通り、その手がすり抜けることはなく、幽霊なのにやけにリアルな質感と、男の子の頼りがいがある大きな手の感触が伝わり、少しだけ安心感を感じる。
「幽霊、結構便利だね」
「ん、まあそうだね。生前の記憶は曖昧なところがあるから、それが気になるくらいかも」
「どのくらい覚えてないの?」
「強く印象に残ってることを、十にも届かないだけ覚えてるくらい。僕の名前すら覚えてない」
初対面の時に本名を名乗らなかったのは、名乗らなかったのではなく名乗れなかったということみたいだった。
「強く印象に残ってることって?」
「他人の感情がよくわからなくて、強い言葉を浴びせられたこととか」
わたしの想像よりも壮絶な過去に、わたしは唖然とした。
無神経だ無遠慮だと霊くんに対して騒ぎ立てておきながら、実のところ一番無神経で無遠慮だったのはわたしだった。
「……ごめん」
「なんで広海ちゃんが謝るの?」
「わたし、霊くんに酷いこといっぱい言った」
「大丈夫だよ。ほら、僕は感情があんまり無いし。それに、広海ちゃんがどれだけ辛くて苦しいかはわからないけど、でも広海ちゃんが厳しい状況にあるってことは理解してるから」
霊くんは、どこまでも寛容で、気遣いをしてくれた。
「許して、くれる……?」
少し傲慢か、とわが身を省みながら尋ねる。
「もちろん」
やはり霊くんは寛容で、だからこそわたしのデリカシーの無さが光る。
「それじゃあ、外、出られる?」
霊くんはわたしに尋ねた。
「うん、大丈夫」
霊くんと話すうちに、先ほどまでの恐怖や不安は薄まっていて、まだまだ完全にゼロというわけではないけれど、今なら外に出られそうだった。
「じゃあ、出ようか」
時間は深夜。わたしは冬の夜の寒さに備えて厚着をし、母が与えてくれた使い道のないお小遣いがいくらか入った財布と家の鍵だけ持って、玄関へ移動した。
いざ外に出ようとすると、見慣れたはずの玄関がわたしを敵視しているように思えて、少し躊躇ってしまう。
ふと隣を見ると、そこには変わらず真剣な表情の霊くんがいて、わたしはやっと勇気をもらって、扉の鍵に手をかける。
がちゃり。
さほど大きくはないけど、深夜の家の中にやけに響く音が鳴って、わたしは心臓をどきりと揺らした。
ゆっくりと、扉が開く。
外は、街灯やまだ明かりのついている家の光で溢れ、家の中より何倍も明るかった。でも周りを見渡すと人は一人もいなくて、わたしは安心して外に出て、おもむろに扉を閉め、ポケットから家の鍵を取り出して鍵を閉める。
鍵を閉め終わり、家の扉を背にして街を見ると、ほっと息を吐く。なんだか、一仕事終えたみたいな気分で、清々しくなる。
久しぶりに感じた冬の夜の空気はわたしの想像より幾許か冷たく、厚着をすり抜けて体の芯からわたしを冷やしているみたいだ。
そこで気になって隣を見てみると、平然とした顔の霊くんが立っていて、わたしが霊くんを見ているのに気づくと、不思議そうにこちらを見る。
「幽霊って、寒さとか感じないの?」
思い返してみれば、霊くんは初対面の時からずっと、白いパーカーに黒のズボンを履いていて、暖かそうとは思えない格好をしていた。
「死んだときの服装が反映されてるのかわからないけど、ずっとこれなんだよね。寒さも暑さも全く感じないから、不便してはいないんだけど」
少し不満そうに言った霊くんは、それでもパーカーとズボンがよく似合う。
「それで、どこ行こうか、霊くん」
「あれ、特には考えてなかったの?」
「外に出るってことでいっぱいいっぱいだったから」
わたしにとっては、外に出ることが出来たというだけで、負のスパイラルから抜け出すことが出来たのだから、大きな進歩だ。
霊くんもそれを察してくれたらしい。
「じゃあ、次はあまり疲れないことしようか。ちょっと河川敷を歩いてみる?」
この近くには河川敷があり、昼間は子供から大人まで多くの人で溢れるので避けたい場所だった。
しかし、深夜という視点で考えると、夜の川というのも一興だと思うし、人もあまりいないと考えられる。
「いいね、それ」
わたしは少し考えて、河川敷を歩いてみることにした。
少し歩くと運動不足の解消にも貢献してくれるだろうし、運動をするとちょっと心が豊かになるみたいな話を聞いたことがある。
いざ河川敷に行ってみると、わたしたちの予想通りそこには人っ子一人おらず、ただ静かな川がそこにあった。
「霊くん、明日も来る?」
「うん。まだまだ広海ちゃんのこと、心配だし」
外にいるからだろうか、彼の何気ない言葉がわたしの心臓の鼓動を速める。
わたしのこと、心配してくれてるんだ。
でも素直に言葉にするのは気恥ずかしくて、あえてそう言わない。
「わたしに会いたいってわけじゃないんだね」
「広海ちゃんには会いたい。僕は感情が希薄だけど、広海ちゃんといると感情豊かになれて、心地良い」
少し意地悪をしたつもりが、霊くんが想像以上に真っすぐな答えを返したので、わたしはたじろぐ。
「えっ、と……」
「広海ちゃん、可愛いね」
ふふっと優しく笑いながら言った彼の言葉に、わたしは自分の顔がこれまでにないほど熱くなるのを感じる。
冬の夜風が、熱くなった顔を冷やすのにちょうどいい。
「広海ちゃんは、なにか夢とか目標とか、ないの?」
少し考える。
遠い昔、例えば小学校時代とか、そのくらいの頃はわたしにもなにか夢があったような気がするけど、今は特に思い浮かばない。
「……ない」
求められていない答えだと自覚しながらも、他に答えが見つから中たのでそうやって答え、霊くんの顔色を窺う。
霊くんは少し考え込むような表情をする。
「じゃあ、他の方向性を探ってみるのもいいかもしれない。上を目指すんじゃなく、下を避けるみたいな」
霊くんは空を見上げながら続ける。
「今の広海ちゃんも、そんな感じだよね。僕はずっと手伝ってあげたいけど、そういうわけにもいかない。だから、いつかは一人でできるようにならないと」
何気ない霊くんの言葉に、それでも確かにいつか訪れる別れを感じ取る。
まだ出会ってから日も浅く、心を許しているわけでもないはずなのに、胸が締め付けられるような思いを感じる。
「霊くんは、いつかいなくなるの?」
あまりにも幼く、答えが明白な問い。
「そういうわけじゃない」
霊くんはそこで一度言葉を区切る。
「大丈夫、きっとずっと傍にいるから」
霊くんは、優しく囁く。
でも、霊くんがずっと傍にいるとは思えなくて、それはたぶん優しい嘘なんだと、そう思う。
「いつか広海ちゃんに干渉することはなくなるだろうけど、広海ちゃんの傍を去るわけじゃない」
甘く優しい言葉を、たとえそれが嘘だとしても、わたしは信じたいと思った。
夜が明けて、目が覚めた。学校が始まるまで、まだまだ時間があることを確認する。
クローゼットでは、前よりも少し小さくなってしまった制服が埃を被っている。
そろそろ、行こうか。
でも、これまでの記憶がそれを邪魔する。
殴られ、蹴られ、公衆の面前で嗤われ――考えるだけで胃が痛んで、胃液が逆流する。わたしはパジャマのままベッドに倒れ込む。
「霊くんと一緒ならなあ」
呟いてみても、霊くんは姿を現さない。
わたしは諦めて、ベッドに潜り込む。
今日の夜も、また霊くんはやってくるはずだから、その時に今日は学校に行こうとしたけど、結局行けなかったって話をしよう。そうしたら、霊くんはきっと、無理はしなくていいって慰めてくれて、行こうとして偉いって褒めてくれる。
頼んでみたら、もしかしたら昼間にも姿を現して、一緒に学校に行ってくれるかもしれない。その時、霊くんは他の人たちからも見えるんだろうか。
あ、でも、学校には行けなかったけど、今日は家族と食卓を囲むくらいは挑戦してみようかな。
わたしは重くなる身体を引きずりながら、喜ぶ両親の顔と、わたしのことを褒めてくれる霊くんを想像して自室のドアを開いた。
母は台所にいて、母と父とわたし、三人分の朝食を用意してくれていた。
普段はこんなに母に苦労をさせているのに一緒に食卓を囲めなかったことで再び自責するが、今日こそ一緒に食べるんだと、勇気を引き絞る。
わたしが台所へ足を運ぶと、母は少し驚いたような目でわたしを見て、次に涙を流した。
「広海……。大丈夫? 無理してない?」
「うん、大丈夫だよ」
わたしの前では泣き崩れまいと母は嗚咽を堪える。
わたしは、母の背に手を添えた。
母は料理も放り出して、ぼろぼろと大粒の涙を流す。
「ありがとう、ありがとう。もしかして、一緒に食べてくれるの?」
「うん。これまでずっと、顔を合わせないで、ごめん」
「いいのよ、広海は広海のやりたいようにやっていいの……」
言ってから、母はまた涙を流す。
わたしはなにを言えばいいからわからなくて、ただその場に立ち竦む。
母はしばらく泣き続けて、泣き止んだころには母が作ろうとしていた目玉焼きは真っ黒に焦げている。
「お母さん、卵焦げてるよ」
そう言ってから、感じ悪かっただろうか、と思う。
「ごめんね、今作り直すから、ちょっと待ってね……」
母は泣き止んでこそいたが、いつも通りとまではいかず、少し自分を落ち着ける時間が必要みたいだった。
わたしが母を見守っていると、父も起きてきたのか、足音がする。
父は台所を覗き込む。
「広海?」
信じられないような声のトーンで言った。
「広海、顔を出してくれたのか」
「うん。ごめん、これまで顔も合わせなくて」
「いや、いいんだ。父さんは、広海が顔を見せてくれただけで嬉しいから」
父は母のように泣き崩れはしなかったが、目尻に涙を光らせていた。
家から出られないわたしでも、部屋から出られないわたしでも、二人は愛してくれてるんだと実感して、わたし自身も涙が溢れる。
わたしに泣く資格は無いのに。泣く資格があるのは、父と母だけだ。
父は、わたしの顔を見て頷く。
わたしは堰を切ったように泣き出した。
わたしは、これまでにないほど充実した夜を迎えた。
学校に行こうとしたこと。父と母に顔を見せたら二人ともわたしを愛してくれているってわかったこと。二人と一緒にご飯を食べたこと。
全部、霊くんに話そう。
そう思っていたのに、霊くんはその夜、姿を現さなかった。
その夜だけではなかった。次の夜も、その次の夜になっても、霊くんは姿を現すことはなかった。
ずっと傍にいてくれるって言ったじゃん、と理不尽に霊くんを責め立てる言葉が思い浮かび、わたしはすぐにそれを掻き消す。
霊くんはきっと、今もわたしの傍にいるんだ。わたしに干渉することなくなっても、霊くんはずっとわたしの傍にいるから。
わたしはそう信じて、次の朝は、早く目覚める。
今日こそ、学校に行こう。
またクローゼットを開けて、埃を被った制服を睨む。
この間のように嫌な記憶が脳裏に蘇るが、霊くんとの記憶や霊くんの言葉でそれを上書きする。
霊くんはわたしの傍にいてわたしを見ているのだから、霊くんに見せても恥ずかしくないように生きようって、決めた。
わたしは意を決して制服に手を伸ばす。
ぴりっ、と手に痛みが走る。
周りの空気がやけに冷たく感じられる。
わたしは、手を引っ込める。
でも、隣に霊くんの気配がする。
「霊、くん……」
霊くんが、背中を押してくれるような気がする。
わたしは、再び手を伸ばす。
わたしが制服を着てリビングに姿を現すと、父はわたしたちと朝ご飯を食べてからすぐに仕事に出かけたようで、母が朝食の片づけをしていた。
彼女は制服姿のわたしを認める。
「広海、もしかして学校……?」
「うん」
母が、複雑な感情が入り混じりながらも優しげな笑みをたたえる。
「無理は、しなくていいのよ」
「ううん、大丈夫」
「私は、広海が少しずつ成長していって、嬉しい」
わたしは、母がわたしのことを愛してくれていて、大切に育ててくれるのが嬉しい。
それに、わたしが学校に行こうと思えるようになったのは、母と父が優しく見守って手伝ってくれたから。
わたしは時計を確認して、玄関へ向かう。
改めて学校に行こうと思うと、胃が痛くなるようだ。でも決意した以上は後戻りしないし、母もこんなに喜んでくれてる。
「それじゃあ、行ってきます」
精一杯の強がり。わたしは無理やり笑う。
「行ってらっしゃい」
ゆっくり噛み締めるような母の言葉が、感動的だ。
わたしが最後に外に出たのは、霊くんと一緒に外に出たあの日の夜だった。
朝見る我が家は、真夜中に見た我が家とはまた違った佇まいのように見える。
なにより、隣を見ても、あの時は隣にいた霊くんの姿はない。
「いや、違うよね……。ずっと、傍にいるんだよね……」
霊くんと最後に会ったあの真夜中、霊くんはそう言っていた。いつか干渉できなくなるけど、きっとずっとわたしの傍にいてくれるって。
だからきっと今も、見えていないだけで霊くんはわたしのすぐ傍にいて、わたしを見守ってくれてる。
そう思うと、わたしの気持ちは奮い立つ。
大丈夫、クラス替えでわたしをいじめた人たちとは離れたクラスになったし、先生はわたしに親切だった。
それに、一歩踏み出せただけで大きな収穫だから、明日から行かなくたって構わないんだ。
不安が消えることはなかったが、少し和らぐ。のろのろと引きずるように歩いていた足が速くなる。
わたしの学校は家からさほど遠くなく、考え事をしながら歩いているとどんどん学校へ近づく。
学校へ近づくにつれてわたしと同じ制服を着た生徒たちの数も増えていって、その中にわたしをいじめた人たちの姿も探してしまう。
ひゅっ、と喉が掠れた声を出した。
わたしをいじめた、主犯格の一人がいた。目が合う。
だが目が合ったのは一瞬で、彼女は興味なさげにわたしから目を逸らした。わたしは彼女から目を逸らすことができず、立ち止まったまま、歩いて行く彼女を見送る。
はっと気づいたころには長い時間が経っていて、遅れてしまうかもしれないとわたしは足を先ほどよりも速める。
その日、わたしは無事に学校に間に合い、新しい級友と顔を合わせた。
級友たちがわたしを見る目はおおよそ好印象のもので、休み時間に彼ら彼女らが話しかけてきた時には少し怖かったけど、それから特にいじめられるということはなく。
それからおよそ半年が経過して三年生に進級し、学年うちの数名からは友達として認識されたらしく、わたしは”普通”に高校生活に復帰することができた。
「白井さん、恋人とか作らないの?」
「わたしは、恋人を作るつもりはないなあ」
「白井さん可愛いのに、勿体ない~」
「わたし、好きな人がいるから」
記憶の中の、憎めない顔をした彼を思い出す。
「じゃあその人と付き合うってこと?」
「いや、彼は――」
霊くんと付き合うというわけじゃない。彼は、わたしの傍にこそいれど、姿を現すことはないだろうから。
――本当に、霊くんは今でもわたしの傍にいるのだろうか。
それを考慮すれば、答えは一択だった。
「彼は、嘘つきだから」
「嘘つき? もしかして白井さん、ちょい悪い系の人が好きなの?」
クラスメイトは誤解をしているようだけれど、訂正するのも手間なので、曖昧に頷く。
その一方でわたしは、彼との記憶を思い出す。
『大丈夫、きっとずっと傍にいるから』
真冬の真夜中、彼が優しく囁いた嘘が、まだ耳に残っている。
「嘘っていうのも、悪いことばっかりじゃないから」
わたしが”普通”の高校生活を送れるようになったのは、間違いなく、薄暗い部屋に閉じ籠っていたわたしを霊くんが連れ出してくれたからだった。
霊くんの嘘が、わたしを変えた。
「あれね、優しい嘘ってやつ!」
クラスメイトはきっと誤解していると思うけど――
「そうだね、優しい嘘」
こればっかりは、的確な言葉だ。
真冬の真夜中、彼が優しく囁いた声が、まだ耳に残っている。
いじめ。わたしにとって、それほど恐るべき響きは他に存在しなかった。
学友のはずなのに、友とは言えないような同級生たちからの苛烈な嫌がらせがわたしを一歩一歩追い込む。
時に持ち物を隠され。
時に足を引っかけられ。
時に皆の前で嘲笑され。
時にあだ名をつけられ。
例に挙げきれないような嫌がらせの数々、それら一つ一つは大したことがなくても、積み重なって、いつまで続くかわからなくて、恐怖と不安で追い詰められた。
辛くて辛くて、一日学校を休んだ。
次の日学校に行ってもなにも変わらなくて、でも休んでも解決しないってわかってて、しばらく学校に行った。
だけどずっと行き続けるのはやっぱり辛くて、また一日休んだ。
次第に学校を休む間隔は短くなり、二日連続、三日連続と学校を休む期間も長くなる。
いつしかわたしは、家から出るのを拒んで、カーテンを常に閉め切った薄暗い部屋の中に籠るようになってしまった。
母は、そんなわたしを心配して、でも焦らなくていいって言ってくれる。
父も、特になにを言うでもなく、たまにわたしに文庫本を買い与えてくれる。
しかし、わたしは両親の優しさに応えられないわたし自身の弱さが憎くなって、部屋から出る頻度も下がっていく。部屋から出られないわたしはやっぱりわたし自身のことが嫌いで、また活動範囲が狭まって――
気づけばわたしは、どうやっても抜け出せない悪循環に陥っていた。
変わりたい。でも変われない。
日が経つごとに悪くなっていく現状が怖い。
なにもできないわたしが、まだ世界と接しているのが怖い。
自殺を考えたこともあった。でも家の中で死ぬことはできなくて、家から出ることもできなくて、八方塞がりだった。
わたしは、自殺すら満足にできない。
わたしは考えうるすべての手段を検討して、わたしの人生は終わりだという結論を出していた。
きっとなにも変わらずに年が経つだけ。年齢だけ上がっていって、皆が人生を謳歌している間、わたしはきっとずっとこの部屋の中。
不安と恐怖は、大きすぎる諦観によって塗り替えられ、わたしの心は、その諦観と時たまわたしを襲う焦燥だけで支配されている。
ただ、諦観と焦燥の中で、一つだけ。
「……嫌だ」
わたしが予見して、変えることを諦めた未来が、そのまま現実になってしまうのが、嫌だった。
嫌だといっても、さんざん考えたうえで結論が出た。だからきっと変えられない。
そんな諦観と、嫌がる気持ちとが時にぶつかりあう。
そして自然と涙が零れる。
未来はないんだ。嫌だと思いながら結局なにも変わらず日々は過ぎていくんだ。
髪が乱れるのも気にせず、顔を布団に擦り付ける。辛い。苦しい。
なにやってるんだろ、と身体を転がし仰向けになる。
視界の端に、人がいるような気がした。
ばっと勢いよくそちらを向く。
「やっと気づいた」
そこには、わたしとちょうど同年代くらいの少年が立っていた。
ここはわたしたち家族の家のはずなのに、どうして。こんな人知らない。
驚きで、なにも言葉が出ない。
少年は悲しそうな表情をして、なにも言えないわたしを横目に見る。
「あ、あなたは……」
ようやく小さく掠れた声が出る。両親に助けを求めるでもなく、ただその少年に尋ねる。
「僕は――そうだね、幽霊っていうのが一番正確なんだと思う」
本人が言うにはあまりに曖昧なその答えに苛立つ。
なにも知らないのに、そんな悲しげな表情をするな。せめて、自分の立場くらいははっきりしてくれ。
でも、人間を敵に回し続けてしまったわたしは、もうそんな言葉は一つも発せない。
「幽、霊」
小さな声で、少年の言葉を噛み締めるように反芻する。別に、少年の正体に興味はないのだけれど。
「霊くんとでも呼んでほしい」
本名は言わないのかと思ったけど、人を避け続けてきたわたしに人の本名を呼ぶなんてことはできなさそうで、ちょうどいいかと思い直す。
「君は、かなり思い悩んでるみたいだ。気分転換に、外にでも出てみない?」
霊くんは、優しい口調のわりに無神経な性格をしているみたいだった。
外に出てみないかなんて誘い、わたしにとっては禁句に近いものだ。
霊くんに言われて改めて外を想像してみても、いいイメージは一つもなく、ただただ恐ろしい場所ということだけ、心の奥底に刻まれていた。
だから、霊くんに怒りをぶつけるのも、仕方のないことだと思う。
「……る、さい……」
「え? ごめん、聞こえなかった」
この期に及んでデリカシーのない言葉。わたしは堪忍袋の緒が切れた。
「さっきから、うるさい……。わたしの辛さも苦しみも、なにもわからないくせに……!」
これほどまでにはっきりとした怒りを抱いたのは、人生で初めてかもしれない。いじめられていると気づいた時でも、怒りは抱かなかったというのに。
「僕は、君の辛さも苦しみも、少しくらいわかってるつもりなんだけどなあ」
霊くんはどうしても無遠慮で、わたしは怒りを抑えきれない。
「わかるわけない! わたしがどんな目に遭ってきたか! 今、どれだけ辛くて苦しいのか!」
憎悪と怒りと悲しみと後悔と――数えきれない感情を、全部その叫びに乗せてぶつける。
結果として、これまでとは対照的に声は大きくなってしまう。叫んでから、母に聞こえているかもと思ったが、母は今家にいないということを思い出し、胸を撫で下ろしかける。
いや、違う。今目の前にいる、無神経で無遠慮でデリカシーに欠けるこの男が、腹立たしくて仕方ない。
彼は、目を閉じていた。
しかし、わたしが彼の方を向いたのに気づくと、彼は目を開いた。その表情からは、さすがに反省の色が伺える。
「ごめん。確かに、君の辛さも苦しみも、君にしかわからない」
言い負かされたとかそんな空気は感じられず、ただ、自分の思う通りに言っただけのようだった。
思い返してみれば、わたしに外に出ないかと言った時もわたしの辛さや苦しみがわかると言ったときも、悪意は欠片もなかった。霊くんは、天然なのだろう。
だが霊くんが呆気なく自分の誤りを認めたから、わたしが意地を張っただけみたいになってしまって、少し癪だ。
「君、名前は?」
「わたし、は……」
しばらく一人で過ごしていたから、名前を思い出すのにも少し時間がかかる。
「白井広海」
自分の名前を、他人に告げる。
一つだけ、自分を取り戻したみたいだ。
「広海。いい名前だね」
どうしてこの男は、いきなり名前呼びをするんだ。
だが、不思議と抵抗はなかった。
わたしにとって、他人と距離を詰めるということはなにより恐ろしいことだったはずなのに。
「って待って、幽霊なの?」
今まで平然と会話していたけど、わたしは幽霊を信じていない。
「そうだよ。僕は確かに死んだはずなのに確かにここにいるから、幽霊だ」
「え、どうやって入ってきたの?」
「普通に、すり抜けて」
にわかには信じがたいことだ。幽霊はいないものだと思って生きてきたし、当然人間は壁をすり抜けられない。
「実際に見てみる?」
わたしの反応を待たず、霊くんは壁に身を沈めた。
それはまさしく、壁に身を沈めていた。
身体がちょっと透けてる。
「納得はできないけど、理解はできた……」
わたしは、現状を理解するのに疲れる。
「じゃあ、僕はそろそろどこかに行くね。また来てもいい?」
もう来ないでほしいと思う気持ちが先ほどまであったのに、その気持ちは気づけば無くなっていた。
「連絡取れるの?」
「僕はスマホ持ってないよ。幽霊だから」
「じゃあ、時間決めよう。無断で部屋に入ってきてほしくないから」
霊くんは、また来てもいいという意味だと受け取ったのだろう、悲しそうな表情が想像も出来ないほど嬉しそうに笑った。
霊くんが来る時間になる。霊くんと会うのは決まって深夜で、真っ暗な部屋に霊くんがやってくる一瞬先に霊くんの気配がやってきて、すぐに霊くんが姿を現した。
「少し待たせちゃったかな」
「いや、そんなことはないけど」
「それじゃあ、今日はなんの話をしようか?」
霊くんに尋ねられて初めて、わたしは自分が他人と話すための話題をなにも持っていないことに気づく。
正確にはいじめられた話とかをしてもいいのだけれど、そんな話を聞いててもつまらないだろう。
「広海ちゃんの話ならなんでも聞きたい」
霊くんは、わたしの心でも読んだかのようなことを言った。
「でも、本当ににつまらないし暗い話だよ」
わたしが話せるのは、もし自分が霊くんの立場だったら聞きたくないような話ばかりだ。
「それでもいいから。聞かせてよ」
霊くんはいったい何者で、どうしてわたしのことをこんなに知ろうとしているのか。心の中に湧き出た疑問はしかし、口に出されることはなかった。
ただ、一言。
「じゃあ」
霊くんはわたしの話に耳を傾けた。
「きっかけはほんの些細なことだったと思う。わたしがテストでたまたま大成功して嫉妬された、だったかな」
「うんうん」
霊くんはわたしの話に真面目な顔をして相槌を打つ。まるで心から面白いと思っているみたいだ。
「それで、きっかけがきっかけだから、最初は大したことをされなかったんだけど、わたしの反応を見たのかどんどんエスカレートしたんだよね」
「そっか」
淡白な反応でも、心から気を遣ってくれていることが感じられて、霊くんはわたしを遠巻きに嗤った同級生たちとは全然違う人なんだと認識する。人というか幽霊なんだけど。
「それで、広海ちゃんはどんなことをされたの? 思い出すのが辛ければ無理に答える必要はないんだけど……」
初めて会った時は無遠慮な奴だと思ったのに、今はその欠片も感じられない。
「最初のうちは無視されたり陰口を言われたりするだけだったのに、最近では殴られたり蹴られたりは当たり前になって、時には物が隠されることもあって、影ではあだ名もつけられてたみたいで」
語っているうちに、実際の情景が思い出されて、どうしても感情が籠って早口になってしまう。
「広海ちゃん、大丈夫?」
霊くんと初対面の時に、わたしが辛くて苦しいなんて醜い姿を見せてしまったからだろうか、霊くんはわたしを心配しているみたいだった。
「ちょっと辛いけど、そんなに心配するようなことじゃないよ」
「じゃあ、どうして泣いてるの?」
「泣いてなんて――」
つーっと、頬を生温い液体が伝った。
手でそれを拭い、発生源を辿っていくと、目尻にたどり着く。
それは、紛れもなく涙だった。
「大丈夫、大丈夫だから」
本当は大丈夫じゃない。
霊くんと出会って、少しは良くなったように思ったけど、全然違う。
不安も恐怖も焦燥も、なにもかも消えることはなく、霊くんと話すごとに膨らんでいく。どうして霊くんはこんなに優しいのに、わたしは変われないんだろう。
それでも嘘をついてしまう。自分の深いところを見せるのは、たとえ霊くんにでも抵抗がある。
「……」
霊くんはなにも言わない。やっぱり、信用されてないってわかって、不快になったのだろうか。
「……霊くん?」
「広海ちゃん。辛いことは辛いって言うべきだし、苦しいことは苦しいって言うべきだと思う」
「……ごめん」
どれだけ霊くんがそう言っても、わたしはどうしても心を完全には開けない。
――ああ、人間不信に陥ってしまったわたしはきっと、社会に不要な存在なんだ。
「駄目、かな……」
「……ごめん」
曖昧で明確な拒絶。
霊くんは酷く傷ついたような顔をした。
でも、すぐそれを覆い隠す。
「霊くんだって」
わたしは、無意識に言っていた。
「霊くんだって、隠してるじゃん」
霊くんは、なにも答えない。
「わたし、霊くんの本音は一回も聞いたことない」
「そんなこと」
「ある。霊くん、全然感情を見せてくれない」
いつだって霊くんはわたしの感情を優先してくれて、初対面の時以外、いつだって霊くんはわたしが求めることばかり言った。そこには霊くんの感情はない。
「実のところ、僕は感情が無いんだ」
感情が無いなんて言い出して、もしかして中二病なのかと思ったけど、そういうわけではなさそうだった。
「感情が無いというより、感情が見つからないっていうのかな。希薄なんだ」
今度はわたしが、ただ話を聞く側だった。
「僕が死んでしまった原因の一つでもあるんだけど。どうしても、感情がわからない」
わたしはてっきり霊くんが感情を隠しているのだと思っていたけれど、まさかそもそも感情が無いとは。
「ごめん、言いづらいことを訊いちゃったね」
「いや、大丈夫。特になにも思ってないから」
一通りやり取りを終えてから、疑問に思う。初対面の時の霊くんは、一体どんな顔をしていたか。
彼は、悲しそうな顔をしていた。それに対してわたしが理不尽に怒ったことが強く印象に残っている。そこに違和感を感じたが、大したことではないか、と受け流す。
「ああ、でも一つだけ」
「なに?」
無神経なことを言ってしまった自覚はあるから、霊くんが言おうとすることを聞かざるを得ない。
「広海ちゃんと、外に出たい。希薄な感情の中で、その望みだけが強く脈を打ってる」
詩的な表現によって紡がれた言葉に、わたしはむっとした。
「いや、ごめん。忘れて」
霊くん本人に敵意を抱くことはなかったが、しかし外に出ようなんて言葉はわたしにとっては未だ禁句だ。少し、心が揺らいだ。
その様子を見た霊くんは、すぐにわたしに謝った。
「わたしも、そろそろ変わらないといけないよね……」
渋々ではあった。だけど、ずっと心にあった変わりたいという願いと、霊くんの、わたしと一緒に外に出たいという願いが合わさって、わたしを外に出ようという気にさせた。
「明日、一緒に外に行こう」
霊くんは、目を見開いた。
わたしも、明日外に出ることを考えると、不安と恐怖と緊張から、心臓が速く脈打つ。目眩がする。視界が狭くなる。吐き気がする。
「広海ちゃん、落ち着いて」
倒れかけたわたしの身体を優しく支えたのは、霊くんだ。
わたしに優しく言葉をかけて、落ち着かせてくれる。
呼吸の仕方を思い出す。
「無理をする必要は無いから。明日外に出るのは、やめようか?」
「いや、でも」
「変わりたいと思いならチャンスを与えるのは重要なことだとは思うけど、それで体調とか心の調子を崩すっていうのは良くない」
霊くんは無神経でも無遠慮でもなく、わたしに最大限気を遣っていた。
「心配しないで。真夜中なら、大丈夫だと思うから」
「広海ちゃんが外に出るのを怖がるのは、人が怖いから?」
「そうなの。深夜は人が少ないだろうから、大丈夫だよ」
「広海ちゃんがそう言うなら様子見で明日、外に出てみようか。でも、無理はしないでね。広海ちゃんが無理をしてるように僕から見えたら、すぐに帰るから」
「それで、いいよ」
決定するのは怖かった。だけど、今ここで進めないと、これから先もきっと進めない。だから、明日、外に出てみよう。
明日外に出ると約束をして、しばらくわたしと喋ると、普段通り霊くんは姿を消し、霊くんの気配も消えた。
明日、外に出る。
何年ぶりだろうか。
いじめられて不登校になったのが高校一年生のときで、今は十七歳だから――およそ一年ぶり。それほどまでに期間が空いてしまえば、外の世界はもはや未知の世界となる。
わたしは、とても不安だ。
明日、外に出るのはどうしようもなく怖い。
今日はもう寝ようと思い部屋を暗くして、布団に被さってベッドの上で仰向けになるが、なかなか眠気を感じない。
いつもだったらなんだかんだすぐに眠れているのに、今日は余計なことが頭中を回り続ける。
もし明日外に出て、怖い人に絡まれたら。もし明日外に出て、車に轢かれたら。もし明日外に出て、道に迷ったら。
――もし明日外に出て、わたしをいじめた同級生に出会ったら。
ぞっとするような想像が頭をよぎり、もっともっと明日が怖くなる。
大丈夫。そんなことはそうそう起きないだろうし、霊くんも一緒に来てくれるから。
そう自分に言い聞かせても、憂いは消えない。
「広海ちゃん、本当に大丈夫?」
「大丈夫」
言いながらも、全身が震える。
霊くんが来てくれるから大丈夫なんて言ったけど、霊くんと出会ってからまだまだ日は浅いし、完全に心を許せているわけじゃない。
それに、霊くんがいたからといっても、もしかしたら役に立たないかも……。
そこまで考えて、霊くんに失礼だと考えて思考を中断し、自分を奮い立たせようとする。
「手、掴んでみる?」
幽霊の手はすり抜けるんじゃないかと思う。
「透けてるところは結構すり抜けるけど、今ははっきり輪郭つけてるしすり抜けないと思うよ」
じゃあ心配ないか、と促されたままに霊くんの手を取る。
霊くんの言う通り、その手がすり抜けることはなく、幽霊なのにやけにリアルな質感と、男の子の頼りがいがある大きな手の感触が伝わり、少しだけ安心感を感じる。
「幽霊、結構便利だね」
「ん、まあそうだね。生前の記憶は曖昧なところがあるから、それが気になるくらいかも」
「どのくらい覚えてないの?」
「強く印象に残ってることを、十にも届かないだけ覚えてるくらい。僕の名前すら覚えてない」
初対面の時に本名を名乗らなかったのは、名乗らなかったのではなく名乗れなかったということみたいだった。
「強く印象に残ってることって?」
「他人の感情がよくわからなくて、強い言葉を浴びせられたこととか」
わたしの想像よりも壮絶な過去に、わたしは唖然とした。
無神経だ無遠慮だと霊くんに対して騒ぎ立てておきながら、実のところ一番無神経で無遠慮だったのはわたしだった。
「……ごめん」
「なんで広海ちゃんが謝るの?」
「わたし、霊くんに酷いこといっぱい言った」
「大丈夫だよ。ほら、僕は感情があんまり無いし。それに、広海ちゃんがどれだけ辛くて苦しいかはわからないけど、でも広海ちゃんが厳しい状況にあるってことは理解してるから」
霊くんは、どこまでも寛容で、気遣いをしてくれた。
「許して、くれる……?」
少し傲慢か、とわが身を省みながら尋ねる。
「もちろん」
やはり霊くんは寛容で、だからこそわたしのデリカシーの無さが光る。
「それじゃあ、外、出られる?」
霊くんはわたしに尋ねた。
「うん、大丈夫」
霊くんと話すうちに、先ほどまでの恐怖や不安は薄まっていて、まだまだ完全にゼロというわけではないけれど、今なら外に出られそうだった。
「じゃあ、出ようか」
時間は深夜。わたしは冬の夜の寒さに備えて厚着をし、母が与えてくれた使い道のないお小遣いがいくらか入った財布と家の鍵だけ持って、玄関へ移動した。
いざ外に出ようとすると、見慣れたはずの玄関がわたしを敵視しているように思えて、少し躊躇ってしまう。
ふと隣を見ると、そこには変わらず真剣な表情の霊くんがいて、わたしはやっと勇気をもらって、扉の鍵に手をかける。
がちゃり。
さほど大きくはないけど、深夜の家の中にやけに響く音が鳴って、わたしは心臓をどきりと揺らした。
ゆっくりと、扉が開く。
外は、街灯やまだ明かりのついている家の光で溢れ、家の中より何倍も明るかった。でも周りを見渡すと人は一人もいなくて、わたしは安心して外に出て、おもむろに扉を閉め、ポケットから家の鍵を取り出して鍵を閉める。
鍵を閉め終わり、家の扉を背にして街を見ると、ほっと息を吐く。なんだか、一仕事終えたみたいな気分で、清々しくなる。
久しぶりに感じた冬の夜の空気はわたしの想像より幾許か冷たく、厚着をすり抜けて体の芯からわたしを冷やしているみたいだ。
そこで気になって隣を見てみると、平然とした顔の霊くんが立っていて、わたしが霊くんを見ているのに気づくと、不思議そうにこちらを見る。
「幽霊って、寒さとか感じないの?」
思い返してみれば、霊くんは初対面の時からずっと、白いパーカーに黒のズボンを履いていて、暖かそうとは思えない格好をしていた。
「死んだときの服装が反映されてるのかわからないけど、ずっとこれなんだよね。寒さも暑さも全く感じないから、不便してはいないんだけど」
少し不満そうに言った霊くんは、それでもパーカーとズボンがよく似合う。
「それで、どこ行こうか、霊くん」
「あれ、特には考えてなかったの?」
「外に出るってことでいっぱいいっぱいだったから」
わたしにとっては、外に出ることが出来たというだけで、負のスパイラルから抜け出すことが出来たのだから、大きな進歩だ。
霊くんもそれを察してくれたらしい。
「じゃあ、次はあまり疲れないことしようか。ちょっと河川敷を歩いてみる?」
この近くには河川敷があり、昼間は子供から大人まで多くの人で溢れるので避けたい場所だった。
しかし、深夜という視点で考えると、夜の川というのも一興だと思うし、人もあまりいないと考えられる。
「いいね、それ」
わたしは少し考えて、河川敷を歩いてみることにした。
少し歩くと運動不足の解消にも貢献してくれるだろうし、運動をするとちょっと心が豊かになるみたいな話を聞いたことがある。
いざ河川敷に行ってみると、わたしたちの予想通りそこには人っ子一人おらず、ただ静かな川がそこにあった。
「霊くん、明日も来る?」
「うん。まだまだ広海ちゃんのこと、心配だし」
外にいるからだろうか、彼の何気ない言葉がわたしの心臓の鼓動を速める。
わたしのこと、心配してくれてるんだ。
でも素直に言葉にするのは気恥ずかしくて、あえてそう言わない。
「わたしに会いたいってわけじゃないんだね」
「広海ちゃんには会いたい。僕は感情が希薄だけど、広海ちゃんといると感情豊かになれて、心地良い」
少し意地悪をしたつもりが、霊くんが想像以上に真っすぐな答えを返したので、わたしはたじろぐ。
「えっ、と……」
「広海ちゃん、可愛いね」
ふふっと優しく笑いながら言った彼の言葉に、わたしは自分の顔がこれまでにないほど熱くなるのを感じる。
冬の夜風が、熱くなった顔を冷やすのにちょうどいい。
「広海ちゃんは、なにか夢とか目標とか、ないの?」
少し考える。
遠い昔、例えば小学校時代とか、そのくらいの頃はわたしにもなにか夢があったような気がするけど、今は特に思い浮かばない。
「……ない」
求められていない答えだと自覚しながらも、他に答えが見つから中たのでそうやって答え、霊くんの顔色を窺う。
霊くんは少し考え込むような表情をする。
「じゃあ、他の方向性を探ってみるのもいいかもしれない。上を目指すんじゃなく、下を避けるみたいな」
霊くんは空を見上げながら続ける。
「今の広海ちゃんも、そんな感じだよね。僕はずっと手伝ってあげたいけど、そういうわけにもいかない。だから、いつかは一人でできるようにならないと」
何気ない霊くんの言葉に、それでも確かにいつか訪れる別れを感じ取る。
まだ出会ってから日も浅く、心を許しているわけでもないはずなのに、胸が締め付けられるような思いを感じる。
「霊くんは、いつかいなくなるの?」
あまりにも幼く、答えが明白な問い。
「そういうわけじゃない」
霊くんはそこで一度言葉を区切る。
「大丈夫、きっとずっと傍にいるから」
霊くんは、優しく囁く。
でも、霊くんがずっと傍にいるとは思えなくて、それはたぶん優しい嘘なんだと、そう思う。
「いつか広海ちゃんに干渉することはなくなるだろうけど、広海ちゃんの傍を去るわけじゃない」
甘く優しい言葉を、たとえそれが嘘だとしても、わたしは信じたいと思った。
夜が明けて、目が覚めた。学校が始まるまで、まだまだ時間があることを確認する。
クローゼットでは、前よりも少し小さくなってしまった制服が埃を被っている。
そろそろ、行こうか。
でも、これまでの記憶がそれを邪魔する。
殴られ、蹴られ、公衆の面前で嗤われ――考えるだけで胃が痛んで、胃液が逆流する。わたしはパジャマのままベッドに倒れ込む。
「霊くんと一緒ならなあ」
呟いてみても、霊くんは姿を現さない。
わたしは諦めて、ベッドに潜り込む。
今日の夜も、また霊くんはやってくるはずだから、その時に今日は学校に行こうとしたけど、結局行けなかったって話をしよう。そうしたら、霊くんはきっと、無理はしなくていいって慰めてくれて、行こうとして偉いって褒めてくれる。
頼んでみたら、もしかしたら昼間にも姿を現して、一緒に学校に行ってくれるかもしれない。その時、霊くんは他の人たちからも見えるんだろうか。
あ、でも、学校には行けなかったけど、今日は家族と食卓を囲むくらいは挑戦してみようかな。
わたしは重くなる身体を引きずりながら、喜ぶ両親の顔と、わたしのことを褒めてくれる霊くんを想像して自室のドアを開いた。
母は台所にいて、母と父とわたし、三人分の朝食を用意してくれていた。
普段はこんなに母に苦労をさせているのに一緒に食卓を囲めなかったことで再び自責するが、今日こそ一緒に食べるんだと、勇気を引き絞る。
わたしが台所へ足を運ぶと、母は少し驚いたような目でわたしを見て、次に涙を流した。
「広海……。大丈夫? 無理してない?」
「うん、大丈夫だよ」
わたしの前では泣き崩れまいと母は嗚咽を堪える。
わたしは、母の背に手を添えた。
母は料理も放り出して、ぼろぼろと大粒の涙を流す。
「ありがとう、ありがとう。もしかして、一緒に食べてくれるの?」
「うん。これまでずっと、顔を合わせないで、ごめん」
「いいのよ、広海は広海のやりたいようにやっていいの……」
言ってから、母はまた涙を流す。
わたしはなにを言えばいいからわからなくて、ただその場に立ち竦む。
母はしばらく泣き続けて、泣き止んだころには母が作ろうとしていた目玉焼きは真っ黒に焦げている。
「お母さん、卵焦げてるよ」
そう言ってから、感じ悪かっただろうか、と思う。
「ごめんね、今作り直すから、ちょっと待ってね……」
母は泣き止んでこそいたが、いつも通りとまではいかず、少し自分を落ち着ける時間が必要みたいだった。
わたしが母を見守っていると、父も起きてきたのか、足音がする。
父は台所を覗き込む。
「広海?」
信じられないような声のトーンで言った。
「広海、顔を出してくれたのか」
「うん。ごめん、これまで顔も合わせなくて」
「いや、いいんだ。父さんは、広海が顔を見せてくれただけで嬉しいから」
父は母のように泣き崩れはしなかったが、目尻に涙を光らせていた。
家から出られないわたしでも、部屋から出られないわたしでも、二人は愛してくれてるんだと実感して、わたし自身も涙が溢れる。
わたしに泣く資格は無いのに。泣く資格があるのは、父と母だけだ。
父は、わたしの顔を見て頷く。
わたしは堰を切ったように泣き出した。
わたしは、これまでにないほど充実した夜を迎えた。
学校に行こうとしたこと。父と母に顔を見せたら二人ともわたしを愛してくれているってわかったこと。二人と一緒にご飯を食べたこと。
全部、霊くんに話そう。
そう思っていたのに、霊くんはその夜、姿を現さなかった。
その夜だけではなかった。次の夜も、その次の夜になっても、霊くんは姿を現すことはなかった。
ずっと傍にいてくれるって言ったじゃん、と理不尽に霊くんを責め立てる言葉が思い浮かび、わたしはすぐにそれを掻き消す。
霊くんはきっと、今もわたしの傍にいるんだ。わたしに干渉することなくなっても、霊くんはずっとわたしの傍にいるから。
わたしはそう信じて、次の朝は、早く目覚める。
今日こそ、学校に行こう。
またクローゼットを開けて、埃を被った制服を睨む。
この間のように嫌な記憶が脳裏に蘇るが、霊くんとの記憶や霊くんの言葉でそれを上書きする。
霊くんはわたしの傍にいてわたしを見ているのだから、霊くんに見せても恥ずかしくないように生きようって、決めた。
わたしは意を決して制服に手を伸ばす。
ぴりっ、と手に痛みが走る。
周りの空気がやけに冷たく感じられる。
わたしは、手を引っ込める。
でも、隣に霊くんの気配がする。
「霊、くん……」
霊くんが、背中を押してくれるような気がする。
わたしは、再び手を伸ばす。
わたしが制服を着てリビングに姿を現すと、父はわたしたちと朝ご飯を食べてからすぐに仕事に出かけたようで、母が朝食の片づけをしていた。
彼女は制服姿のわたしを認める。
「広海、もしかして学校……?」
「うん」
母が、複雑な感情が入り混じりながらも優しげな笑みをたたえる。
「無理は、しなくていいのよ」
「ううん、大丈夫」
「私は、広海が少しずつ成長していって、嬉しい」
わたしは、母がわたしのことを愛してくれていて、大切に育ててくれるのが嬉しい。
それに、わたしが学校に行こうと思えるようになったのは、母と父が優しく見守って手伝ってくれたから。
わたしは時計を確認して、玄関へ向かう。
改めて学校に行こうと思うと、胃が痛くなるようだ。でも決意した以上は後戻りしないし、母もこんなに喜んでくれてる。
「それじゃあ、行ってきます」
精一杯の強がり。わたしは無理やり笑う。
「行ってらっしゃい」
ゆっくり噛み締めるような母の言葉が、感動的だ。
わたしが最後に外に出たのは、霊くんと一緒に外に出たあの日の夜だった。
朝見る我が家は、真夜中に見た我が家とはまた違った佇まいのように見える。
なにより、隣を見ても、あの時は隣にいた霊くんの姿はない。
「いや、違うよね……。ずっと、傍にいるんだよね……」
霊くんと最後に会ったあの真夜中、霊くんはそう言っていた。いつか干渉できなくなるけど、きっとずっとわたしの傍にいてくれるって。
だからきっと今も、見えていないだけで霊くんはわたしのすぐ傍にいて、わたしを見守ってくれてる。
そう思うと、わたしの気持ちは奮い立つ。
大丈夫、クラス替えでわたしをいじめた人たちとは離れたクラスになったし、先生はわたしに親切だった。
それに、一歩踏み出せただけで大きな収穫だから、明日から行かなくたって構わないんだ。
不安が消えることはなかったが、少し和らぐ。のろのろと引きずるように歩いていた足が速くなる。
わたしの学校は家からさほど遠くなく、考え事をしながら歩いているとどんどん学校へ近づく。
学校へ近づくにつれてわたしと同じ制服を着た生徒たちの数も増えていって、その中にわたしをいじめた人たちの姿も探してしまう。
ひゅっ、と喉が掠れた声を出した。
わたしをいじめた、主犯格の一人がいた。目が合う。
だが目が合ったのは一瞬で、彼女は興味なさげにわたしから目を逸らした。わたしは彼女から目を逸らすことができず、立ち止まったまま、歩いて行く彼女を見送る。
はっと気づいたころには長い時間が経っていて、遅れてしまうかもしれないとわたしは足を先ほどよりも速める。
その日、わたしは無事に学校に間に合い、新しい級友と顔を合わせた。
級友たちがわたしを見る目はおおよそ好印象のもので、休み時間に彼ら彼女らが話しかけてきた時には少し怖かったけど、それから特にいじめられるということはなく。
それからおよそ半年が経過して三年生に進級し、学年うちの数名からは友達として認識されたらしく、わたしは”普通”に高校生活に復帰することができた。
「白井さん、恋人とか作らないの?」
「わたしは、恋人を作るつもりはないなあ」
「白井さん可愛いのに、勿体ない~」
「わたし、好きな人がいるから」
記憶の中の、憎めない顔をした彼を思い出す。
「じゃあその人と付き合うってこと?」
「いや、彼は――」
霊くんと付き合うというわけじゃない。彼は、わたしの傍にこそいれど、姿を現すことはないだろうから。
――本当に、霊くんは今でもわたしの傍にいるのだろうか。
それを考慮すれば、答えは一択だった。
「彼は、嘘つきだから」
「嘘つき? もしかして白井さん、ちょい悪い系の人が好きなの?」
クラスメイトは誤解をしているようだけれど、訂正するのも手間なので、曖昧に頷く。
その一方でわたしは、彼との記憶を思い出す。
『大丈夫、きっとずっと傍にいるから』
真冬の真夜中、彼が優しく囁いた嘘が、まだ耳に残っている。
「嘘っていうのも、悪いことばっかりじゃないから」
わたしが”普通”の高校生活を送れるようになったのは、間違いなく、薄暗い部屋に閉じ籠っていたわたしを霊くんが連れ出してくれたからだった。
霊くんの嘘が、わたしを変えた。
「あれね、優しい嘘ってやつ!」
クラスメイトはきっと誤解していると思うけど――
「そうだね、優しい嘘」
こればっかりは、的確な言葉だ。