どうせ死ぬなら邪魔が入らない場所がいい。
 なんで今まで思いつかなかったんだろう。死んでしまえば、自分勝手な母親や、私に関する荒唐無稽な噂話や、他人からの不躾な視線から解放されるんだってこと。

 私は、この世界から逃げ出すため夜の街を彷徨った。春の夜はまだ少し肌寒い。私は制服のブラウス姿まま家を飛び出して来たことを少し後悔した。
 ぽつりぽつりと等間隔に街灯が立ち並ぶ住宅街を抜けると、細い裏道が入り組んだエリアに出る。普段の私の行動範囲を超えた場所だ。
 半分の自暴自棄と、もう半分の深夜に外にいることの興奮で辺りを見回しながらゆっくりと足を進めた。
 
 夜という時間は、なんだか他人行儀な感じがする。
 世の中にはバイトや習いごとで帰りが遅くなる高校生なんてざらに居るんだろうけど、人と会うのが嫌いな私は習い事も何もしていないから、これまでそんな経験がなかった。
 すれ違ったサラリーマンが私の横顔にチラリと視線をよこした。私が露骨な視線に晒されるのはいつものことだ。だけど、今日は制服姿の高校生が夜に一人でふらついているのを見咎められているような気がして、人の目のない方、より暗がりの方を選んで足を進めていく。

 しばらくそうやってあてもなく歩いていたけれど、ある場所で私はふと足を止めた。
「何ここ、なんか不気味……」
 ひときわ暗いエリアの奥、見上げた先にあったのは、大きな病院……のような建物だった。
 違和感の正体は、その看板にあった。五階建てくらいの無機質な建屋の入り口に「真白病院」とやけに真新しい看板がかけられている。だけど年季の入った建物と、新しい看板がどうにもチグハグな感じがして、それが言いようのない違和感に繋がっている。
 ここ、本当に病院なのかな?
 目を凝らすと、病棟の中は電気がついている部屋と真っ暗になっている部屋がある。
「こんなところに病院なんてあったっけ?」
 好奇心と怖さの狭間で建物を見上げた時だった。私の目にとんでもない光景が飛び込んで来た。
 私と同じ年くらいの女の子が、二階の窓から身を乗り出して飛び降りようとしていたのだ。その上半身がグラリ、と揺れるのを見た瞬間、私は思わず敷地内へ駆け出して精一杯叫んでいた。
「危ないよ! 何してるの?!」
「えっ? わ、わあっ!」
 私の声に驚いたその子は顔を上げた反動でバランスを崩して窓から転落し、私は必死に彼女に手を伸ばす。ギリギリ滑り込んだ――と思ったら、その子は花壇の植え込みを盛大に押し潰しながら私の上に着地した。
「痛っ……」女の子は顔を顰めて立ち上がった。「急に大きな声出すのやめてよ、びっくりするじゃない」
「それはこっちのセリフだよ! 馬鹿じゃないの、二階から落ちて打ちどころ悪かったら死ぬよ! 死にたいわけ?」
「いや、別にそんなんじゃないの。ただ『生きたい』って気持ちを知りたくて……」
「なにそれ、意味がわかんないんだけど」
「うーん、何と言えばいいのか」
 困ったように視線を逸らした彼女の顔を改めて見たとき、その美しさに私は思わずハッとしてしまった。華やかな美人っていうわけじゃないけど、上品で静謐な、儚さを感じる美しさ。
 夜はまだ冷える季節なのに、彼女は真っ白な薄手のワンピースを着ていて、真っ直ぐ伸びた黒髪が月明かりを優しく反射している。
「綺麗な人……」
「え?」
「あ、いや独り言。そんなことより、死ぬなんて絶対だめだよ!」ついさっきまで他でもない自分が死のうとしていたのに、私は何を言っているんだろう。でも、彼女のことを放って置けない気持ちは本当だった。何か力になれないかなって思ってしまうくらいには。
「悩みでもある感じ? あ、病院から出てきたってことは……病気なの?」
「えっと……まあ、そんな感じ……かな」
「……難しい病気なの?」
「余命半年くらいって話」
「半年?!」
「ねえ……そんな状況でも、生きる希望を失わないことって可能なのかしら。貴方はどう思う?」
 私は答えに窮して、彼女の落ちてきた病室を見上げた。この子、ずっとここに入院していたのかな。
 治る見込みのない病気を抱えて、無機質な病室に閉じこもっていたら、もしかしたら生きる希望さえ失ってしまうものなのかもしれない。
 影さえ華奢な彼女を見ているとこのまま放っておいたらそのまま消えてしまいそうな気がして、私は彼女の手をぎゅっと握った。
「分かった、一緒に考えよう。そうだ、璃子でいいよ。私、佐伯璃子。あなたは?」
「あなた璃子っていうの? ……ちょっと似てるね」
「え?」
「いや、なんでもないわ。私は……アカリ」
「アカリね。それで、えっと、生きる希望を持つ方法か」
 そんなの、正直に言えば私の方が知りたい。難しすぎる。
 でも「そんなの知らない」って言って、私よりずっと過酷な状況にあるアカリを見捨てることはもっと難しい。
 
 だから、私は咄嗟に嘘をついた。
 
「じゃあさ、このまま抜け出してパーっと遊んでみるのはどう? アイドルファンの友達が、よく『次のライブまで死ねないわー』とか言ってるし、楽しいことを見つけたら生きるモチベーションになるかも。案内は任せて。夜の街なんて私の庭みたいなもんだからさ!」
「えっ」アカリは一瞬迷ったように視線を漂わせたが、意を決したように恐る恐る頷いた。
「そうと決まれば行こう! 何かやりたいことはある?」
「えっと……」
 アカリが何か言おうといた時、近くでグゥゥゥっと間の抜けた音がした。
「……お腹空いた、かも」「みたいだね」
 私たちは暗がりの中、顔を見合わせて笑った。

 ファミレスなら深夜まで開いているだろう。それに、きっと色んな人が利用する場所だからその中に私たちが紛れていてもそれほど目立たないはず。
 夜遊びなんてした事のない私が必死に考えて絞り出したアイディアだった。
 だけど、想定外だったのは、知らない場所でそう都合良くファミレスなんて見つからないってこと。
 というか、私が知り合いには会いたくないからって、家や学校からできるだけ離れたところで探そうとしたのが間違いだったのかもしれない。
 どれだけ歩いても、見慣れたファミレスの看板が現れる気配はなかった。
「ねえ璃子、私は別にファミレスにこだわらなくても良いんだけど」
 必死な私とは対照的に、アカリはなんだか楽しそう。
 きょろきょろと辺りを見回したかと思うと、ある場所に向かってピッと指差した。
「ほら! あそことか、いいんじゃない?」
 アカリの指した先には、『ラーメン』と大きな筆文字で書かれた赤い提灯が揺れていた。
「私、ラーメン、久しぶりに食べたいなあ」
 アカリは無邪気に笑う。
 そうか、ずっと入院してたならラーメンも簡単には食べられないよね。
 私は「分かった」と頷いて、赤い提灯目指して方向転換した。

 随分と古びたラーメン屋だった。黒ずんだ引き戸は力を込めるとやたら大きな音を立てたし、壁に貼られたメニューの紙は紫外線で焼けて黄色く変色していた。だけど、店に入った瞬間からすごく美味しそうなラーメンの匂いが私たちを出迎えてくれて、それだけでこの店が愛情をかけられた場所なんだって分かった。
 今は私たちの他に客はいない。
 お店の主人は、私たちが扉を開けた音に反応して「いらっしゃい!」と軽快な挨拶を寄越したが、私の顔を見た瞬間、ん? と怪訝な表情を見せた。
 いつものことだ。だけど、私の心にはさっと影が差す。
 できるだけ顔を伏せて、アカリに二人分のラーメンを注文してもらった辺りで、アカリも何か気がついたようだ。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
「いや、そう言うんじゃないけど……」
 どうしてだろう。アカリになら、打ち明けてもいいような気がする。私が生まれ持った業について。
 夜の空気がそうさせるのか、それか偶然知り合っただけの私たちの距離感が上手く働いているのか、理由はわからないけど。
 そう言えば、アカリはここまで一度も私の『見た目』に言及しなかった。だから、大丈夫かもしれない。
 私は、ゆっくりと自分の顔を指差した。
「私、目立つでしょ。気にならなかった?」
 私の見た目――地毛で金髪、青い目、白い肌。私の外見はほとんど『外国人』だ。この辺りは外国から来る人なんてほとんどいないので、誰もが興味深々で私を凝視しながら通り過ぎていく。
 私はそれが昔からずっと嫌だった。
 この外見は「傷」だから。
「ああ、そう言われてみれば……でも気にはならないかな。私、見慣れてるからかも」
 なのに、アカリはあっけらかんとそう言ったきり私のことに構わず、大将が運んできたラーメンに「きゃー! 一億年ぶりのラーメン!」なんて歓声をあげている。
「……みんなが、そんな風に受け入れてくれたら良いのにな」
「ん? ふぁんふぁ言った?」
 私の呟きは、アカリが箸で持ち上げたラーメンの湯気と一緒に巻き上がり、宙にかき消えた。
 そして、ラーメンは期待した通りにとてもおいしかった。


 
 お腹がいっぱいになったからか、アカリはすっかり元気になった。ついさっき病室から飛び降りようとしていたのが嘘みたいに。
 駅からだいぶ離れたから街灯もまばらだ。寂れた住宅街を、私たちはあてもなく歩いていた。
「ねえ、次はどこ行く?! 璃子のおすすめスポットはないの?」
「え、えーっと……」
「パーっと遊ぶって言うと……クラブとか?」
「この閑静な住宅街代表みたいな場所にクラブがあると思う?」
「探せばあるんじゃない? 広いダンスホールがあるところでピカピカのレーザービーム浴びながら踊るの。それで人気者になってさ、『一夜の幻』みたいにいつまでも噂されるような伝説になったりして」
 アカリの妄想が熱を帯びるほど、私の気持ちは萎れていった。
「無理だよ……」
 泣き声ではなかったと思う。だけど、私の声を聞いたアカリは何かを察したのか私の顔をぐいと覗き込んだ。
「……どうしたのよ?」
「私、目立ちたくないんだ」
「え?」
 私が自分の見た目を忌み嫌うのには、理由がある。
「私、こんな外見でしょ? だから昔からどこに行っても目立っちゃうんだ。それで知らない人にもいっぱい話しかけられて」
「それは、悪意を向けられたってこと?」
「ううん、違うの。みんな褒めてくれる。だけど……」
 私は足を止めた。歩き過ぎてローファーの中で靴ズレを起こして痛い。でも、それだけじゃない。
 一歩分遅れてアカリも立ち止まり、私の言葉の続きをじっと待っている。
「私ね、お父さんがいないの。私が生まれてすぐに離婚したから。……私のせいで」
「え?」
 もう、ここまできたら全て言ってしまうしかない。ずっと隠してきたことなのに、いざ話そうと決意した途端に抱えていた重りを手放すような解放感があった。
「お父さんは、すごく普通の人だったんだって。イケメンじゃないけど真面目で、すごく優しい普通の人。なのに私のお母さんはそんなお父さんを……裏切った。海外旅行に行った先で知り合った人と浮気して、その結果生まれて来たのが私。私の存在が、お母さんの裏切りの証拠になって、二人は離婚したの。綺麗だねって言われても、羨ましいって言われても、それはお父さんとお母さんの間に亀裂を入れた楔なの。もし、またお母さんが『普通』の人と再婚したら、また私のせいで関係を壊してしまう。私の存在が罪の証明になってしまう……そんなの、嫌だよ……私はこれ以上目立ちたくない。罪を全身に貼り付けて生きたくないの……」
 いつのまにか、私の頬には涙が流れていた。
 アカリはそんな私の話を遮る事なくじっと聞いて、私の手を静かに取った。そして、聖母のように優しい声で私に語りかけた。
「璃子は優しいね。目立ちたがりの私とは正反対」
 私は足元に向けていた視線を上げた。アカリの優しい眼差しが、私を受け止める。
 アカリはにっこりと笑って、私を励ますように頷いた。
「アカリは、目立つのが好きなの?」
「そうよ。どうやったら目立てるかだけを毎日考えてるもん」
「はは、そりゃ正反対だね」
「でもね、璃子。私の考えではね、人間は見た目からの印象なんて後からいくらでも覆せると思う。璃子の容姿が目立つものだとしても、肌が宇宙人みたいに銀ピカだったとしても、体がカカシみたいに藁と木でできていても、私は璃子のこと『優しい子だな』って思ったと思う。私を受け止めてくれたし、連れ出してくれたしね。人が人と関わるのに、見た目なんてちっぽけな要素だと思う。さっきのラーメン屋さんだって、見た目はそこまでお洒落じゃなかったけど、ラーメンはめちゃくちゃ美味しかったでしょ? そういう感じでさ。……璃子がこれまで受けてきた苦痛をなかった事にするつもりはないんだけど」
「うん、大丈夫。言いたいことわかるよ」
「璃子は、周りの目を気にする必要なんかないよ。自分の思う自分でいるだけでいいと思う」
 アカリはまっすぐな目でそう言うと、ふと何かに気がついたような顔をした。
「生きるって、自分らしい自分を見つけることなのかもしれないね……私も、病気に挫けないための力が何なのか分かった気がする」
 よし! いける! 頑張れる! とぴょんぴょん跳ねるアカリを見ているととても病人には見えなくて笑ってしまう。

 不思議だな。
 現実から逃げ出したはずの私が、生きる理由に出会うなんて。
 なんだか肩の荷が下りたような気分で、私は夜空を見上げた。
 月と星が絡まり合って夜を美しく装飾している。

 すると突然、背後から男の人の声がした。
「ちょっと君たち、こんな夜中に何してるの?」
「わぁっ!」
 振り返ると、いつの間にか私たちのすぐ後ろにパトカーが停まっていて、助手席からお巡りさんが降りてきたところだった。
「もしかして、高校生? おうちの人は? 君たちだけで出歩いてるの?」
「えっと、いや、その……」
「こんな夜中に危ないよ。ほら学生証見せて。おうちに連絡するから連絡先も」
 有無も言わせず迫ってくるお巡りさんに、私もアカリも言い逃れる術がない。でも、警察から連絡が入るなんてことになったら、私は良くても、アカリはきっと困るだろう。
 なんとかここを脱出する方法を考えなくちゃ。
 私は苦し紛れにてきとうな嘘をついた。
「いや、親と一緒なんで大丈夫です……」
「親? どこにいるの」
「えっと、その、あっちのへん……とか……あれっ?」
 当てずっぽうに指差した先に信じられないものが目に飛び込んできた気がして、私は暗がりにじっと目を凝らした。気のせいかと思ったけど、それはこちらに近づくとともにどんどんくっきりと実体を持ったシルエットになり、声も届くようになってきた。
「璃子ちゃーん!」
 そう私を呼ぶのは。
「……蒲田さん?」
 見間違いではなかった。見間違えるはずがなかった。
 つい数時間前にお母さんの隣で照れ笑いをしていた蒲田さんが「やっと見つけた!」と必死な形相でこちらに向かって走ってくる。私たちのところまで来た頃には両膝に手を当ててぜいぜいと肩で息をしていた。
「や、やっと、見つけた。心配したよ! 由美ちゃんも家で心配してる」
「お母さんが……ていうか、蒲田さんがどうしてここに?」
「探してたからに決まってるよ! あんな状況になって急に飛び出して行ったから、何か危険な目に遭うんじゃないかと思って探し回ったんだよ!」
「……ごめんなさい」
「僕も、急に家まで押しかけるのは配慮に欠けてた。申し訳ない。普通の女の子はそりゃびっくりしちゃうよね」
「……普通の女の子? 私のこと?」
 あ、そうか。
 なんだか拍子抜けした。
 この人には、私は『浮気の証拠』とか『異端児』とかには見えていないんだ。
 そう振る舞ってるだけかもしれないけど、少なくとも私がそうして欲しいんだろうと慮ってくれたんだ。
 そんな人も居るんだ。
 不躾な視線や噂話に晒され過ぎて、他人からの優しさが見えなくなっていた。蒲田さんの普通な見た目で判断しちゃってた。
 アカリの言う通り、見た目でわかることなんてちっぽけなのに。私なんかのために、こんなに一生懸命走ってくれる人だったのに。
 お母さんが蒲田さんを「優しい人」って言っていたのは、こういう所なのだろう。
 私も、相手の事を知る前にたくさんのことを決めつけていたのかもしれない……
 ぼんやりする私を気にするでもなく、蒲田さんはてきぱきとその場を整理していく。
「あ、警察の人には僕から説明しておくから、璃子ちゃんはお母さんに連絡取ってあげて。由美ちゃん、何かあったらどうしようって顔面蒼白だったんだから」
 そう言って、怪訝な顔をしたお巡りさんの方へ駆けていった。

「大人も色々……ってことだよね」
 お互い頭を下げ合いながらやりとりをしているお巡りさんと蒲田さんを横目に、私はそう呟いて振り返った。しかし、そこに居るはずの人物の姿はない。
 きょろきょろと辺りを見回しても、どこにもアカリの気配はなかった。
「どこに行ったの……?」 
 消えてしまった? 幻みたいに?
 狐に化かされたみたいな、夢でも見ていたみたいな気分だ。
 でも、さっき食べたラーメンや、ローファーの靴ズレは間違いなく現実のもの。
「どういうこと……?」

 柔らかな月明かりが、私たちを仄かに照らしている。 
 そうして、私の真夜中の逃避行は幕を閉じた。