「石野のとは一回だけ話したことあるんだよ。でもその後にあの事件が起こって何もしてやれなかった」

桐生くんが言うあの事件というのは、きっと佳奈がピアノの下敷きになってしまった日。

「俺、その時石野に間違ったこと言ったんだ」
「なんて言ったの?」
「…嫌なら嫌って言えよって泣きたいなら泣けって、そう言った。けど石野には…多分届いてなかったな」

彼の言葉を聞くと、それはきっと良心で言ったことだったのだろうと思った。でも佳奈にとってはそれさえも辛かったのかもしれない。

いじめなんて、大抵は理不尽な理由で始まる。
それなのに嫌だなんて言葉にしても辛いだけだと分かってしまうから。

泣いて叫んでも、やめてと伝えても、現状が変わらないならやらない方がよっぽど自分を守れるから。

「間違ってなんかないよ。桐生くんは優しいんだね」

「はあ…?」
私の言葉に納得がいかないように顔を歪めている。

「佳奈はきっと桐生くんを憎んでる訳でもないよ。
ただその言葉を口に出せない自分の事が嫌いだったんじゃないかな」

自分と佳奈を無意識に照らし合わせる。
どうせ言っても無駄だから、とかそうやって逃げることなんて山程あった。

自分の気持ちを誰かに伝えるのは怖いから。
逃げていくそんな自分が、嫌いだったから。

「…そうだといいけどな」

桐生くんは遠い昔を見ているようなそんな表情を浮かべていた。