午前0時を過ぎた頃、巡回の看護師さんを見送って、わたしは久しぶりにベッドを抜け出す。
どうしても優夜さんの名残を感じたくて、わたしは約束を破り、中庭へと足を進めた。
静かだと思っていた真夜中の病棟は、案外色んな音がする。子供たちの泣き声、心電図や機械の音、大人の話し声。
毎晩通っていた頃には聞こえなかった世界の音に、改めてわたしはたくさんの人たちの中で生きているのだと実感した。
やがて誰も居ない中庭に辿り着き、そのがらんどうの光景に胸が締め付けられながら、いつも彼が座っていたベンチに腰掛ける。
あの頃のマリーゴールドはもう咲いておらず、庭は秋の色に染まっていた。
こんなにも時間が経ってしまったのかと、現実の速さを実感して、あの一ヶ月が本当に夢だったように思えた。
今夜は美しい満月だ。こんな夜に、あの優しい声が聞きたい。
そんな感傷に浸っていた時だった。芝生を踏み締める音がして、次いで夜に溶けるような、恋い焦がれた声が聞こえた。
「……舞宵ちゃん?」
振り返ると、驚いたような顔をした優夜さんが、いつものように本を片手に立っていた。
わたしも驚いて、また夢でも見ているのかと呆然とする。
「優夜、さん……?」
「……もうここに来てはいけないよって、言ったのに……。あれ、今日は生身なんだね」
「へ……? っくしゅん!」
「おや……冷えてしまったのかな。まったく、こんなところに来るからだよ」
思わずくしゃみをして、改めて気付く。春先には問題なく居られたのに、秋になり始めたとはいえこの中庭はこんなにも肌寒かっただろうか。
入院着の上から腕を擦っていると、近付いてきた優夜さんがカーディガンを脱いで肩に掛けてくれた。
あの日涙を溶かした夜の色。その温もりに、じんわりと顔や身体が温まる。
「ありがとうございます、でも、優夜さんが冷えるんじゃ……」
「大丈夫だよ、幽霊だしね」
「幽霊って、こんなに温かい訳ないですよね……? それに、さっき言ってた生身って……?」
「あー……うん。もういいか。……そうだよ、僕は幽霊じゃない。嘘をついてごめんね」
「嘘……?」
混乱するわたしに、優夜さんは、申し訳なさそうに眉を下げて笑った。
わたしはいつものように隣に腰掛けた優夜さんに、恐る恐る触れてみる。あの時の指切りとは違う、確かな温もりが指先に感じられた。
そこに存在する、生きている彼を確かめて、わたしは今日一番の号泣をした。
「……っ、優夜さんが、生きてる……夢でも、幽霊でもない……」
「相変わらず健康ではないけれど、ちゃんと生きてるよ。……ああもう、泣かないで」
困ったように頭を撫でてくれる手のひらの感触は現実で、わたしはわんわんと子供のように泣きじゃくった。
優夜さんはそんなわたしを、繰り返し撫でて宥めてくれる。やっぱり彼は、どこまでも優しいままだった。
しばらくして落ち着いた頃に、優夜さんはぽつりぽつりと、あの夜の真実を話してくれた。
「……きみ、ずっと死にかけてたんだよ」
「えっ、あ、はい。なんか一ヶ月寝たきりだったって……でも変ですよね、わたし、その期間にここに通ってたはずなのに……」
「あはは、うん。来てた来てた」
わたしがこれまで抱えてきた疑問に、優夜さんは楽しそうに笑って頷く。
「生き霊というか、幽体離脱というか……ほら、よく『死の淵を彷徨う』とかいうけれど、そんな感じだったよ。夜を彷徨うみたいに、消えそうな身体でここに来てたんだ」
「えっ!? えっと……つまり、幽霊なのは優夜さんじゃなくて、わたしの方だった……?」
「そうだね。正確には幽霊未満だったけど……それで、あの夜はいよいよ危ない感じだったから……何とか身体に戻さないとって、お別れのための嘘をついたんだ。ごめんね」
わたしが死にかけてるなんて伝えたら、きっと混乱したり傷付くと思ったのだろう。だからお別れのために、わたしのために、彼は自分が幽霊だと嘘をついた。
嘘の中だとしても、一生懸命病気と戦う彼が自分を死んだことにするなんて、きっと辛いだろうに。
そんな優しい真夜中の嘘に、胸の奥がじんわりとする。
「そう、だったんですか……。よかった、優夜さんが生きてて……」
「……自分の危なかった状況より、僕のことを気にするんだ……?」
「もちろんです! だってわたし、本当に優夜さんが……」
「あ、そうだ。快気祝い……約束してたよね」
「え、はい……」
勢いのまま告白まがいの台詞を吐こうとしたところで、言葉が遮られる。突然のことに面食らいつつも、単純なわたしは優夜さんが約束を覚えていてくれたことに喜びが勝った。
彼はおもむろに持っていた本のページを捲り、挟まれていた栞をわたしに差し出す。
「これ、良かったら貰って」
「栞、ですか……?」
差し出されたのは、ラミネート加工されたお手製の栞のように見えた。受け取って良く見ると、月を象った美しい黄色が目に入る。
鮮やかで元気の出る、見覚えのある色だ。これは、あの日見たマリーゴールドの花弁に違いない。
いつだったか見ていると元気が出ると話した花を押し花にして、いつも二人の時間を照らしてくれていた月に見立てて作ったのだろうか。
二人の思い出を閉じ込めたようなこれ以上ない贈り物に、胸が温まる。
「嬉しい……ありがとうございます!」
「ふふ、喜んで貰えてよかった」
わたしが今夜ここに来ることは、優夜さんも知らなかったはずだ。だとするなら、彼はあの後も毎晩この庭で一人この栞を使いながら、わたしの健康を願ってくれていたのだろう。
離れていた間の彼を想って、ずっと言葉にしたかった想いが込み上げる。
「優夜さん、やっぱりわたし……あなたに言いたいことがあります」
「……うん。ちゃんと聞くって、約束したもんね。でも……先に僕から伝えてもいいかな」
「え……?」
月明かりの照らす中庭で紡がれる、お揃いの気持ちを込めた彼の言葉。
それは魔法の呪文みたいにわたしの中に温かく染み込んで、今度こそ嘘じゃないのだと実感した。
ようやく約束を果たしたわたしたちは、お互い照れたように微笑みあって、新しい約束を重ねる。
「あの、優夜さん……退院したら、セーラー服着てお見舞いに来てもいいですか?」
「もちろん。楽しみにしてるよ。……あ、でも……僕も今度の検査次第で退院の目処が立ちそうなんだ」
「そうなんですか!? おめでとうございます!」
「ふふ、ありがとう。……退院したら、これまで出来なかったたくさんのこと、きみとしていけたらいいな」
「やりましょう! もう何にも諦めないで……二人で、たくさん思い出作りましょうね!」
そうして交わした約束は、前回の指切りと違って温かい。
狭い世界の死にかけの夜を彷徨っていたわたしは、この温かな指先に導かれて、光に満ちた明るい世界に向かう。
いつまた、何が起きるかわからない。それでも、もう何も諦めないで済むように、もう悔しさに泣かずに済むように、もう悲しみに沈むことのないように。
静かな夜の片隅で、何度でも。月明かりに祈るように、わたしたちは希望を重ねた。