そんな幸せな日々を過ごしてきた、ある満月の夜のこと。
いつものように中庭に訪れたわたしを一目見た優夜さんが、驚いたような顔をする。
服はいつもと変わりない入院着。だとしたら、顔に何かついているかとか、拘りの髪型が変だったかと不安になってしまうけれど、優夜さんはやがて困ったように笑って読みかけの本を閉じた。
「舞宵ちゃん。今日は話があるんだ、聞いてくれる?」
「えっ? は、はい……」
ベンチの隣に腰かけて、その改まった様子に心臓が高鳴る。もしかすると、告白でもされてしまうのではないか。
そんな想像をして、しかし心の準備をする前に、彼は躊躇いがちに口を開いた。
「……実は、僕は幽霊なんだ」
「……、……へ?」
予想外の言葉に、わたしは面食らう。冗談を言うなんて珍しい。けれど優夜さんは、とても真面目な様子で言葉を続けた。
「初めて会ったあの夜、きみを驚かせまいと入院患者だと言って……そのまま言い出す機会を失ってしまったんだ」
「え、やだなぁ、何言って……」
現実味のない言葉に、思わず呆然とした。そしてついわたしが笑って流してしまいそうになるのに、優夜さんの顔はいつまでも真剣なままだった。
「……うそ、ですよね?」
「今まで、騙していてごめんね」
気温の下がる深夜の中庭で過ごす彼に、違和感を覚えなかったと言えば嘘になる。
一ヶ月前。出会いは四月の終わり。考えてみれば、まだ花も咲ききらない中庭に出るには夜はまだ肌寒かったはずだ。だからこそ、そんな場所で読書をする彼が印象に残ったのだ。
入退院を繰り返す程身体の弱い彼が、わたしが来る前にはいつも先に居て、わたしが帰るまで、下手すればその後も中庭に居るのだ。毎晩欠かさず長時間外に居るなんて、本来あってはいけない。
そもそも0時から3時の看護師さんの巡回の合間を狙って来ているわたしと違い、それより長く居る彼は、巡回の目を気にしていないようにも見えた。
いつだったか昼間会おうとして病室を聞いてはぐらかされたことも、退院してやりたいことを聞いても答えてくれなかったことも、それなら説明がつく。
「本当に、幽霊……?」
「……このままだと、きみを連れていってしまうかもしれない。だから、もうここに来るのはやめるんだ」
いつも優しく微笑んでくれる彼が、寂しそうに目を伏せて首を振る。三日月の淡い月明かりに照らされた優夜さんが今にも消えてしまいそうで、わたしは思わず彼の手を握った。
その手はすり抜けることなく触れられたけれど、氷のように冷たい。
「そんな……幽霊でもいいです! わたし、あなたとこうして、ずっと……」
「ダメだよ。セーラー服、着たいって言ってたじゃないか。ちゃんと元気になって、退院しないと」
「でも、わたし……」
セーラー服を着て得られるであろう普通の学校生活と、目の前にある束の間の愛しい時間。
その二つを天秤にかけて、答えは明白なのに、優しい彼を困らせたくなくて言葉に詰まる。
幽霊だと聞かされてもなお、そこにあるのは恐怖ではなく変わらない彼への想いだけだった。
「わたしは……」
「……僕はね、勉強も、部活も、文化祭や修学旅行も、青春らしいことは何も出来なかったから……舞宵ちゃんには、後悔して欲しくないんだ」
言葉を重ねるように答えを遮られて、触れた手も握り返されることはない。
彼はずっと後悔しているのだろう。その後悔を、わたしには味わって欲しくないと言う。どこまでも優しい人だ。
「優夜さん……」
彼は、手を伸ばしても無駄だと諦めて、叶わない願いを燻らせたまま隠して笑っていたのだろうか。それとも願い続けた先で、絶望の中ひとり死んでしまったのだろうか。
いつ消えてしまうとも知れない真夜中の住人である彼の孤独を想像して、わたしは涙が止まらなかった。
「ああ、泣かないで……ごめんね、舞宵ちゃん。もう、病室に戻ろう」
「嫌です、わたし……あなたの傍に……」
「いい子だから、僕の言うことを聞いて欲しい。……きみには、幸せに生きて欲しいんだ」
夜空の色をしたカーディガンの袖で優しく涙を拭われて、染み込んだ涙の雫はすぐに見えなくなる。この愛しい夜の終わりを悟ったわたしは、小さく頷くしか出来なかった。
「……もうここに来てはいけないよ。きみには、帰る場所があるんだから」
「あの、優夜さん。わたしたち、また会えますか……?」
「……ああ、もちろん。そうだなぁ……いつか、きみが僕に連れていかれないくらい元気になれたら、快気祝いでもしようか。……なんて、幽霊らしくないかな」
幽霊の彼に、元気になったらまた会えるなんて、なんとも不思議な約束だ。
このまま死んでしまって、彼と同じ存在になる方が簡単かもしれない。この夜を失うくらいなら、その方が幸せなのかもしれない。
それでも、優しい彼の願いは違うのだ。
「いえ……快気祝い、約束ですからね! ……次にまた会えた時には、わたし、あなたに言いたいことがあるんです」
「うん……わかった。その時はちゃんと聞くよ。約束」
その約束は、彼の優しい嘘かもしれない。もう二度と、会えないのかもしれない。
それでも、わたしはその約束と共に冷たい小指と指切りを交わし、夜の庭を後にした。
*******
その後、どうやって病室に帰ったのかは覚えてない。気付くとベッドに寝ていて、わたしの身体は身に覚えのない色んな管に繋がれていた。
「舞宵ちゃん!? 先生、舞宵ちゃんの意識が……!」
目を覚ましたわたしに、ちょうど点滴を変えていた看護師さんが驚いたようにして、ナースコールではなく近くに居るのであろう先生を直接呼びに行った。
「黒宮さん、聞こえますか? 私のことはわかりますか?」
「え、はい……先生……」
「舞宵ちゃん、今お母さんに来て貰うからね……!」
「お母さん……? そんな、いいです、わざわざ……」
この慌てぶり、もしかすると、病室に帰る途中で発作でも起こして倒れたんだろうか。
看護師さんはわたしの言葉を無視してお母さんに連絡しに行ってしまうし、先生も心配した顔をしてわたしの状態を確かめていた。
状況が整理できない中、そんなに深刻な状態だったのかと周りの人の様子に理解しながらも、ぼんやりとした頭で中庭で交わした約束を思い出し、わたしの目には涙が滲んだ。
「こんなんじゃ、約束、果たせないじゃん……」
早く回復しなくては。元気になれたら、また彼に会える。だって約束してくれた。
そんな自己暗示にも似た願いを強く思っていた時だった。戻ってきた看護師さんに改めて声を掛けられ、我に返る。
「舞宵ちゃん、本当によかった。もう一ヶ月以上意識がなかったのよ」
「え……?」
予想外の言葉に涙が引っ込んでしまった。てっきりあの約束は昨夜のものだと思っていたのに、そんなにも寝ていたなんて。もしかすると本当に、わたしは優夜さんに連れていかれる寸前だったのだろうか。
「というか、待って、一ヶ月以上……? すみません、今何月ですか?」
「六月になったばかりよ。舞宵ちゃん、もうすぐお誕生日ね」
「……」
わたしが認識していたのも、現実と変わらない時間だった。
彼に最後に会いに行った別れの夜が、五月の終わり。彼に出会ってちょうど一ヶ月だと考えていたから、間違いない。それなら寝ていたのは精々二、三日だ。
それなのに一ヶ月以上も寝ていたなんていうのは、さすがにおかしい。
何度もカレンダーを確認して、わたしはその時間のずれに戸惑うしか出来なかった。
いっそ一年経ってしまったのか、それとも優夜さんとの会瀬は、すべて昏睡状態で見た夢だったのだろうか。
結局、彼の正体が幽霊なのか夢なのかはわからない。それでも、彼と会えない日々が始まるのだというのは、死にかけた身体を持て余しながら、なんとなく理解した。
それからしばらくは、検査とリハビリの日々だった。寝たきりだった身体は重たくて、改めて生きているのだと実感する。
あんなにも気になっていた中庭にもこんな身体では物理的に行けなくて、いっそこれで良かったのだと、夢か現実かもわからない夜に交わした約束を何度も反芻した。
月明かりの下の彼の姿を忘れられないまま、やがて誕生日を迎えて、わたしは十五歳になった。
生まれた時から病弱で、この年まで生きられるなんて思ってもいなかった。
倒れてから使っている個室の病室で家族とささやかなお祝いをして、看護師さんや主治医の先生もやって来ては「おめでとう」と言ってくれた。
小児科病棟では悲しいお別れが多いから、おめでたいことは本当に嬉しいのだと、わたし以上に喜んでくれた。
「みんな……ありがとう」
涙混じりに呟いたのは、お祝いへの感謝もあるけれど、わたしをここまで生かしてくれた感謝でもあった。
わたし一人では、もうとっくに死んでいただろう。そもそも牢獄のようだと感じていた退屈な日々の中、生きることを投げ出していた気がする。
それなのにわたしが生きることを喜び、わたしの幸せを願ってくれる人がこんなにも居る。その事実に、涙が止まらなかった。
何をしても退屈だったはずのわたしの時間は、優夜さんの言うように奇跡のように思えた。
夜になったら眠り、朝になったら目を覚ます。そんな当たり前の日々を少しずつ重ねて、わたしは回復していった。
以前にも増して健康に気を遣って生活して、今まで副作用が心配で試せなかった薬や新しい治療も積極的に取り入れた。
新しい治療はわたしに合っていて、体調は良好。何より気持ちは常に前向きだった。この分だと、近い内に退院出来るかもしれない。
退院したら、セーラー服を着よう。優夜さんが褒めてくれたように毎日お洒落に髪型を変えて、優夜さんが願ってくれたように学校に通って、彼の分まで青春を謳歌しよう。
そうしたら、そんなわたしの姿を見に、彼がまた現れるかもしれない。
そんな幸せな想像をして、なのに夜になると涙が止まらなかった。やっぱり彼の居ない一人の夜は、寂しくてしかたない。
彼に会いたい。調子が良くなってくると、つい我が儘になってしまう。それを元気になってきた証拠だと褒めてくれるあの人は、もう居ないのだ。