ここは牢獄だ。真っ白の部屋に、真っ白のベッド、鼻につく消毒の匂いに、カーテンで仕切られただけのテリトリー。
テレビ台を兼ねた棚と、長細いテーブルと小さな冷蔵庫。ほとんど開かない窓から見える青空と、眩しいくらいに差し込む光。
この何千人と人の居る建物の中で、この一区画だけが、わたしの世界だった。
わたしはもう長いこと、この牢獄に囚われている。どうやら生まれつき、この身体は心臓があまりよろしくないらしい。
「今日は調子いい、はずなのに……何もやる気しないなぁ」
入院患者の唯一の娯楽であろうテレビはつまらないし、本を読む気力もない。日課となった心臓に負担のない程度の簡単な運動と、毎朝の診察と定期的な検査くらいしかすることのない、毎日繰り返される退屈な時間。
学校にもほとんど行けてないからお見舞いに来てくれるような友達なんていないし、今頃何の時間かな、なんて想像することさえ難しい。
せっかく買って貰った憧れのセーラー服は、すでに家で埃を被っているかもしれない。
お母さんがこの間持ってきたお見舞いのプリンは期限が近くて今朝食事の代わりに食べてしまったし、気晴らしに院内の売店まで足を運んだところで、代わり映えしないラインナップに特に欲しいものも見つからなかった。
「早く夜にならないかな……」
わたしはおとなしくベッドに戻り、大きなあくびを漏らす。近頃夜更かししているせいか、どうにも昼間はいつも以上に眠たかった。
どうせあとは夕食まで何もないのだ、睡魔に身を任せて少しお昼寝してしまおう。そうすればきっと、早く夜がやってくる。
わたしにとって、いつまで続くのかわからない空虚な時間の唯一の楽しみは、皆が寝静まった真夜中にあった。
*******
午前0時を過ぎた頃、看護師さんの巡回を寝たふりしてやり過ごしたわたしは、お昼寝の甲斐もありぱっちり目覚め、そっとベッドから抜け出した。
目的地は、小さな花壇とベンチのある中庭だ。巡回を続ける看護師さんの目を盗んで病室を抜け出すわくわくも、静かな廊下を物音に気を付けて歩くどきどきも、楽しみのスパイスになる。
「あ……優夜さん!」
ようやく辿り着いた目的地にはすでに先客が居て、わたしは今日初めての笑顔を浮かべ彼の元へと近付く。
昼間は患者の憩いの場になる中庭が、今だけはふたりだけの秘密の空間になる。この真夜中の時間が、わたしは大好きだった。
「やあ、舞宵ちゃん。こんばんは。今日は来ないかと思った」
「こんばんは! えー、来るに決まってます。わたし、この時間を結構楽しみにしてるんだから」
「ふふ、それは光栄だな」
お揃いの入院着の上から夜を煮詰めたみたいな濃紺のカーディガンを羽織った彼は、白瀬優夜さん。わたしより少し年上の兄さんだ。
彼もまた、幼い頃から入退院を繰り返す、この狭い世界に生きる仲間だった。
一ヶ月程前、たまたま寝付けずに夜の病棟を徘徊している時、偶然この中庭に居る彼を見掛けたのが、そもそものきっかけ。
月明かりの下で静かに本を読む彼の真剣な眼差しと美しい横顔に一目惚れして以来、わたしは毎晩彼に会いにここに通うようになった。
突然押し掛ける形でやってきたわたしに驚いたようにした彼は、それでも迷惑がる素振りもなく、優しく受け入れてくれた。
冷たく退屈な世界で見付けた、唯一の温かな光。そんな彼にどんどん惹かれてしまうのは、当然の成り行きだった。
今夜もいつものようにベンチで本を読んでいた彼の隣にわたしが腰掛けると、彼は朗らかな笑みを浮かべてくれる。この時間が、わたしにとっての唯一の癒しだ。
「今日はどんな一日だった?」
「何にもない、いつも通りの退屈な一日でした。明日もおんなじなんだろうなぁ……」
「ふふ。そうかもしれないね。でも、明日が来ることは、当たり前じゃないから。奇跡のようなものだよ」
「……そう、ですね。わたし、最近調子いいから、ちょっと我が儘になってるのかも」
あくまでも穏やかな響きの優夜さんの言葉に、わたしはハッとする。
本気で体調が悪い時には一分一秒先の命すら危うく、呼吸が落ち着く度、痛みの波が和らぐ度に生きている現実に安堵したというのに。退屈なんて感じる時間が、大切なこともわかっていたはずなのに。
「我が儘ではないよ、それだけ舞宵ちゃんが元気になっている証拠なんだから。よく頑張ってるね」
「優夜さん……」
わたしの失言に嫌な顔ひとつせず微笑みかけてくれる様子に、安心すると同時に少し不安になった。
いつもこの月のように穏やかな彼は、この生活に対してどんな思いを抱えているのだろう。
「あの、優夜さん。退院したらやりたいことってありますか?」
「え……?」
「わたしは、学校に行きたいんです。せっかく可愛いセーラー服を買って貰ったのに、まだ何回かしか着れてなくて…卒業までには、せめてもう一度くらい着たいなって」
「セーラー服か。舞宵ちゃんの制服姿は、きっと可愛いんだろうな」
「えっ!? か、わいいかは、わかんないですけど……」
「ふふっ、今日の髪型も可愛いし、舞宵ちゃんはお洒落さんだからね。きっと素敵だよ」
「あ、ありがとうございます……」
優夜さんに会うからと三つ編みだのポニーテールだのと毎晩簡単なヘアアレンジをしてきた甲斐がある。
褒められた嬉しさに舞い上がって、結局その日は彼の望みについて聞くことが出来なかった。
*******
もうすぐ彼と出会ってちょうど一ヶ月になる。わたしたちは毎晩飽きることなく傍に居て、取り留めのないことを話しながら夜を過ごした。
「優夜さん、いつも夜に居ますけど、お昼って何してるんですか?」
「そうだなぁ、検査とかリハビリとか……多分他の患者さんたちとあまり変わらないよ」
「そうなんですね……じゃあ、もし病室を教えてくれたら遊びに行っちゃおうかなぁ、なんて……」
「うーん、男ばかりの部屋だから、来てもつまらないと思うよ」
「優夜さんが居るなら、そこ以上に楽しい空間はないです!」
「ふふっ……そういう舞宵ちゃんは、どこの病室なのかな」
「えっ、えっと……あはは」
自分から話題を振っておいて、問い返されて言葉に詰まってしまった。
わたしが小児科病棟に居ると知られるのは、なんとなく避けたかった。確かに小さい頃からずっとお世話になっているけれど、わたしはもうすぐ十五歳になるのだ。
病棟を告げれば彼から子供扱いされるような気がしたわたしは、笑って誤魔化す。子供じゃなく一人の女の子として見て欲しい乙女心だ。
日頃から、お互い病気のことは多く話さない。気が滅入るのもあるし、変に気を遣われたくなかった。
わたしたちの世界は、痛みや苦しみとは無縁の、この美しい月明かりの照らす夜の片隅の中庭だけでいい。
「……あ、そういえば、最近咲いたそこの花、可愛いですよね」
わたしは露骨に話題を変えて、オレンジや黄色に染まり始めた花壇を指差す。丸くて可愛らしい花が並んでいて、なんだか幼稚園児の整列みたいだ。あの頃はまだ、元気な日も多かったのに。
「ああ、マリーゴールドか……確か花言葉は『健康』とかだった気がするな」
「へえ、さすが優夜さん……博識ですね」
「ふふ。本ばかり読んでいるからね、知識は勝手に増えるんだ。……マリーゴールドを一番目立つ花壇にたくさん植えたのは、病院からの願いでもあるのかもね」
「みんなが健康でありますように、って?」
「うん。確かに、こんな風に生命力に溢れた花を見ていると、元気が貰える気がするな」
「本当ですね……」
わたしは優夜さんの笑顔を見ていると元気が貰えます。なんて、そんな台詞を飲み込んで、わたしはその日も彼との穏やかな夜を満喫した。