いつの間にか、俺は暗闇の中にいた。
真っ暗で何も見えず、耳にはザワザワという水音が聞こえるのみ。
頬にあたる風に冷気を感じてもいいはずなのに、冷たくも寒くもない。
それどころか、体が宙に浮くような浮遊感が、なぜか心地よかった。
ここはどこだろう。
神々がおわすという天上界なのか、それとも死者が徘徊するという黄泉の国なのか。
生まれてこの方、毎日欠かさず神に祈りを捧げてきたからには、天上界へ行くものと信じたい。
しかし──

『ハク様』

ん?
聞き覚えのある声に呼ばれ、思考が止まった。
それは、戸惑いを含んだ稲早の声。
たった数時間前に出会ったばかりだが、彼女が今、当惑しているのは俺にも伝わってきた。

「大丈夫だ、安心しろ」

俺自身、何の根拠があるわけでもないが、反射的に言葉が出た。

***

暗闇だと思っていた空間も、時間が経つにつれて目が慣れ、周囲が見えてきた。
どうやら俺と稲早は、神迎えの浜にいる。
それも、海の上の空中に浮遊しているらしい。
暑さも寒さも、重力さえも感じなかったのは、体が宙に浮かんでいたからだった。

「通りで水音が聞こえるはずだ」

聞こえていたのは、砂浜に打ち付ける波の音。
規則的に、それでいて絶えることなく繰り返す波音は、時折生き物の息づかいのように聞こえ、不気味にさえ感じた。

「私は今、空を飛んでおりますか?」
「ああ、そう……かもしれんな」

もちろん俺も、空中を浮遊した経験はないし、そんな能力を持っているなんて想像したこともなかった。
しかし、こうして目の当たりにすれば、受け入れるしかない。

「あ、結界が」
不意に、稲早の口からこぼれた言葉。

言われてみれば、俺たちの周囲には結界が張られている。
暗闇の中、月明かりのためはっきりとは見えないが、大きな球状の空間が宙に浮く俺たちを包み込んでいる。

「これは、ハク様のお力ですか?」

当然、稲早もこの状況に戸惑っているのだろう。
真っすぐに向けられた眼差しには、恐れが見えている。
しかし、それは俺も同じだ。

「多少の霊力を持っていることは否定しないが、人を宙に浮かせたり、時空や空間を移動させるほどの力はない。稲早、君こそ神に仕える巫女ならば、いくらかの霊力があるのではないか?」
「それは……」

どれだけ強い霊力があろうとも、人を宙に浮かせたり、空間を移動させるほどの力は見たことがない。
当然、稲早も否定するものと確認のために聞いたのだが、彼女の反応は少し意外だった。

「もしかして、心当たりがあるのか?」
「心当たりというほどのことではありませんが……」
「いいから、聞かせてくれ」

困ったようにうつむいた稲早に、俺はできるだけ冷静に先を促した。

***

「子供の頃から、時々声が降ってくるのです」
「声が、降る?」
「ええ。明日の天気を心配していると『明日は雨だ』とか、出かける準備をしている時に『今日は家にいなさい』と聞こえて外出を中止すると、祖母が体調を崩したり」
「なるほど、神の声が聞こえるのだな?」
「それが神様の声なのかはわかりませんが、時々聞こえてくるのです」

神のお告げに関しては、つい先日俺自身も聞いたから、信じるしかない。

「他には?」
「本当に時々ですが、死期の近い人を見ると命の期限がわかるときがあります」
「嫌な能力だな」
「ええ」

稲早は、自らの外見だけでなく、その能力でも苦労してきたのだと、この時になって気が付いた。
周囲とは違う存在であることによる複雑な感情は、俺にも理解できた。
しかし、その能力と俺たちが今置かれている状況は、関係ない。

***

「どちらにしても、空中浮遊や空間移動の能力はないのだな?」
「ええ」

話を聞く限り、稲早も俺と同様に、多少の霊力は持っているらしい。
しかし、それは何かを動かせるような強力なエネルギーを伴うものではない。
であるならば、今のこの状況をどう説明するのか。

「これも神の導きでしょうか?」

表情を曇らせた稲早の不安が伝わってきて、俺はそっと自らの手を重ねた。
その時、稲早と俺は温かな光に包まれた。
何色とも表現できないような、陽だまりのような光。
その輝きは、重ねられた腕を中心に広く結界を満たした。
同時に、浜辺へと打ち付けていた波はおさまり、水面は静まり返った。
今、ドクン、ドクンと大きく伝わってくる鼓動は間違いなく自らのものだが、いつもとは何かが違う。
自分の体が自分のものではないような感覚の中で、俺と稲早の鼓動が共鳴し、力が増強しているのだと気が付いた。

***

「世の中には、まだまだ未知なるものがあるのだな」

それは感嘆と共にこぼれた言葉。
驚きを感じながらも、この時の俺は不思議とワクワクしていた。
それは好奇心とか興味本位ではなく、それまで漠然としていた未知の世界に一歩近づいた気がしたからだった。
その力が善であれ悪であれ、見届けなければ先には進めない。
それを確かめるために、俺はここへ来たのだ。

「あなたの力は王家のものではない。もっと深い運命にある」

つい先ほどまで困惑の表情を浮かべていた稲早から突然出た言葉に、俺は振り返った。
真っすぐに空を見つめる稲早は、つい先ほどまでの怯えた彼女とはまったく違う顔をしていた。

「稲早?」

声をかけたものの、返事があるとは思っていない。
おそらくこれが、彼女の言う『神の声が降ってきた』ということなのだろうと理解できた。
考えてみれば、代々わが家の直系男子のみに受け継がれる力は神の声を聞きそれを制御する能力。
俺自身、神に仕えるものとして常人よりも強い霊力を受け継いで入るものの、自らが何かを行える力を持っているわけではない。
しかし、今俺は稲早と共鳴することで結界を貼り、空間に浮いている。
これはある意味神の力だ。

***

真っ暗な世界に結界を貼った光の輪が浮かびあがりその中に佇む俺と稲早は、しばらく放心状態のまま、宙に浮かんでいた。
その時背中から風が当たり、体が押される感覚があった。

・・・ウンメイヲウケイレルナラ、トビラハヒラカレル。シンデンニムカエ

それは幻聴ではなく、頭の中に直接響いた声。
俺ははっきりと神の声を聞いた。
そして、それは稲早も同じだったようだ。
先程も出放心状態で空を見つめていた稲早が驚いた顔をして、重ねた腕は小さく震えていた。

「神殿に参りましょう」
「ああ」

お互いに細かい説明はしなくとも、思いは通じた。
それが共鳴のためなのはわからないが、俺も稲早にも迷いはなかった。