では帰るか、と言うときになって、水の辺りに生い茂る木々の中に、見知ったものとよく似た木があることに凍華は気がついた。

「あの木、桑の木に似ています」
「桑?」
「はい。蚕が食べ糸を作るのです。見に行ってもいいでしょうか」
「もちろん。凍華の気が済むまで見れば良い」

 珀弧に礼を言い、桑の木もどきに近寄れば、幹や枝に針のような棘があるところまで一緒だった。強いて言えば、その棘が現し世より長く鋭い。

「隠り世にも蚕はいるのですか?」
「似たようなものはいる。しかし、妖は人ほど器用ではないので糸は紡がぬ」
「では、着物はどこで手に入れるのですか?」
「人間の里だ。人が知らないだけで、俺達は人間の里と妖の里を頻繁に行き来している」
「そんなことをして妖狩りに捕まらないのですか?」

 突然襲ってきた軍人達を思い出し、背筋がゾッとする。彼らに見つかったら命が危ないのではないだろうか。

「むろん掴まるヤツはおり、俺の手が届く範囲で助けてはいる。しかし、妖とて無防備で人間の里にはいかぬ。その木の葉には妙な力があって、その葉を煎じて飲めば、短い時間の間だが妖力を隠すことができるのだ。ただ、不味いがな」

 普通の人間に、妖かどうかを見抜くことは不可能。
 気を付けなくてはいけないのは、妖狩りだけだ。
 妖を見抜く先天的な能力と、厳しい訓練に耐えた者だけが妖狩りとなれる。とはいえ、妖狩りの中にも能力の差はあり、煎じたものを飲んでも手練れを誤魔化すのは難しい。
 
「問題は、正臣ほどの手練れとなると、どんな妖でも見抜かれてしまうことだ」
「では、現し世にいる妖は、常に危険と隣り合わせということですか」
「そこまで深刻な話ではない。そもそも、妖狩りは三十人ほど。出会うほうが稀だ」
(それでも危険には変わりない。何か私にできることはないかしら)

 はっとした表情で凍華はもう一度桑の木もどきを見る。

(……ある! 私にできることを見つけた!)

「珀弧様! お願いがございます」
「……なんだ、言ってみろ」

 珀弧の唇が優しく弧を描く。
 凍華自身は必死で気がついていないが、それは十年ぶりに彼女自身が何かを望んだ瞬間だった。



 四日後。
 凍華は、ロンとコウが珀弧に命じられ持ってきた木箱の中身を見て、かたりと固まってしまった。

(これはいったい何?)

 凍華が思いついたのは糸を紡ぐこと。養蚕を営んでいた叔父のもとで育ち、生糸の作り方は知っていた。だから、蚕と箱を用意してもらったのだが、何かが違う。

 凍華の知っている蚕より数倍大きなそれは、両の手のひらからはみ出すほどだ。口からは鋭い牙が生えているようだが、見なかったことにしたい。
 それでいて目はまんまるでつぶらなのだから、可愛いのか恐ろしいのか分からない。

「……これ」
「珀弧様、用意した」
「珀弧様、凍華に甘い」

 二人がかりで持つその箱は、高さこそないけれど、正方形で一辺は三尺ほど。ちょうど、ロンとコウの背丈と同じぐらいだ。
 でも、その中にいる蚕もどきが六寸以上あるので、決して大きすぎることはない。
 蚕もどきの本来の名前は珀弧から教えてもらったが、長すぎて覚えるのは諦めた。
 そんな蚕もどきが十五匹も箱の中で蠢いている。

 凍華が寝ている部屋の隣に、襖続きとなる部屋がもうひとつあり、そこに木箱は置かれた。
 家具ひとつない部屋の真ん中にある木箱の周りをロン、コウ、凍華が囲む。

 間近で見るのは初めてだというロンが、庭から木の枝を持って来てつん、と突けば蚕が牙をむいた。凍華の喉から「ひっ」と声が出る。

「ロン、そんなことしたら可哀想よ」
「こいつ噛みつこうとした」
「こっちは火を吹いた」
「えっ」

 コウの持つ枝の先が少し焦げている。

(……珀弧様は一体何を用意してくださったのかしら)

 この隣の部屋で寝るのかと思えば、養蚕工場を営む叔父のもとで暮らしていた凍華でさえ少々気持ちが悪い。

 ワタワタ騒ぐロンとコウを宥めていると、凛子が桑の葉もどきを抱えてやってきた。どうやら裏山まで取りにいっていたようで、少し息をきらし額には汗を掻いている。

「ロン、コウ、退きなさい」
「「はい!」」

 ピシッと右手と左手を挙げてさっと道を開ける二人。
 凍華の前ではふざけることも多いが、凛子のことは怖いのか、お行儀よく正座までしている。
 そんな二人に構うことなく、凛子はばさりと葉を入れる。木箱の真ん中にもりっと葉が積み重なった。

「よし、これでいいわ」

 腰に手を当てる凛子に苦笑いをし、凍華はロンから枝を受け取る。

「これでは蚕もどきが埋もれてしまいます。平らにならしたほうがきっと食べやすいと思います」
「そうですか。あっ、気を付けてください。小さい割にコレ、獰猛ですよ」
「……はい」

 凍華の顔が強張る。襖はきちんと閉めて眠ろうと思った。
 怖くても、枝で蚕もどきを傷つけないよう、丁寧に葉を平らにしていく。その作業をしているはしから蚕もどきが頭を葉に突っ込みもしゃもしゃと食べ始めた。この様子なら葉に埋もれても自力でなんとかしそうだ。


「あの、これ、箱から逃げませんか?」
「羽がないから大丈夫ですよ。でも心配でしたら、もう少し箱を高くしましょうか?」

 そう言うとともに、箱の縁がどんどん上に伸びていく。それぐらいで充分、と思う所で伸びは止まり、初めの高さの倍ほどになった。

「これでいいかしら」
「はい、ありがとうございます。……あれ、もう繭を作ろうとしている?」

 驚く凍華の先で、蚕もどきがもう繭玉を作り始めた。
 この調子なら、今夜にでも糸を紡げそうだが、凍華の知っている蚕とはやはり似て非なるものだ。

(繭から糸を作る糸軸は午後に珀弧様が持ってきてくれるそうだから、明日には蚕の糸を使って組紐をつくれるわ)

 桑の葉もどきに妖の力を隠す作用があるというのなら、それを食べた蚕もどきから出た糸にも同じ力があるのではと考え、それで組紐を作ることを思いついた。
 もし効果がなくても、組紐ならなにかと使いようもあるだろう。

 何もせずにお世話になるだけなのは、ずっと働いていた凍華にとって居心地の良いものではなかった。何度も料理や洗濯をしたいと申し出ても、やんわりと断られてしまう。
 それが、凍華を思う優しさから来るのを分かっているので、強くいうこともできず悶々としていたところだった。

(よし、頑張ろう)

 楠の家では感じることができなかった力が腹のそこから湧き上がってくる。
 いきいきとした目で蚕もどきをみる凍華を、凛子は嬉しそうに見守った。