二章

 祖父母でのお泊まりを終え、屋敷に帰ってきた柚子を待っていたのは玲夜だ。
 普段ならばまだ仕事の時間だというのに、帰ってくる柚子を迎えるため、早めに仕事を切り上げてきたらしい。
 そのしわ寄せがどこへ行くのか気になるところだ。
 案の定というか、予想通りというか、仕事は桜河に押しつけきたと聞いて、柚子は静かに心の中で合掌した。
 玲夜の表情を見ても悪いと思っている様子はなく、なおさら桜河へ憐れみの気持ちが浮かぶ。
「玲夜、いつか桜河さんがストライキ起こすよ」
「安心しろ。桜河にそんな気概はない」
「気概がなきゃいいという問題じゃないと思うんだけど……」
 もう少し優しくしてあげてもいいと思うのだが、柚子がなにを言っても『大丈夫』、『問題ない』の一点張り。
 鬼山家は代々鬼龍院当主の側近を務めている。
 桜河の父親もまた、玲夜の父親である千夜の右腕として仕えている。
 なので、鬼山家の次の家長となる桜河を信頼しているからこそ、厳しい扱いをするのかもしれないと、いいように受け取ることにした。
 肩に乗った子鬼が柚子の耳のそばで、「違うよ」とか「使いやすいからだよ」とか言っているが、聞かなかったことにする。
 すると、玲夜から紙袋を渡された。
「土産だ」
「わあ、ありがとう」
 柚子は中身を確認して目を丸くする。
 最近テレビなどでも紹介され、すぐに売り切れてしまうために入手困難とされているスイーツが入っており、否が応でも表情がほころんだ。
「どうしたの、これ?」
「桜河が持ってきた。俺への退院祝いらしいが、柚子へ渡した方が喜ぶだろうと言ってな」
「確かに嬉しいけど、なおさら申しわけなくなるんだけど……」
 柚子は複雑な顔になる。
 桜河は高道とは違うところで、なにかと気が利く。
 見た目や話し方は真面目とは言い難いが、その性格は気遣いの塊のように生真面目で、それゆえになにかと玲夜に面倒事を押しつけられている苦労性である。
 スイーツは嬉しいが、桜河にこそ、スイーツのように甘いご褒美が必要な気がした。
「玲夜、ちゃんと桜河さんに休日あげてね」
「最近は労働環境にうるさいからな。ギリギリ法律は守ってる」
「ギリギリなんだ……」
 それでも、ちゃんと守っているなら問題ないだろうといいように取ることにした。
 玲夜ならば無言の圧を与えて、サービス残業を普通にさせていそうだったので、少し安堵する柚子だった。

 そのままふたりは早めの夕食をする。
 向かい合って座る柚子と玲夜。
 柚子の横にはまろとみるくがちょこんと礼儀正しく座り、柚子の卓に乗っている焼き鮭に目が釘付けだ。
 まろが欲しいと催促するように柚子の膝をちょんちょんと優しく前足でタッチする。
「だーめ。猫に塩っけがあるものは厳禁なんだから」
 と、言いながら柚子は、二匹が霊獣であることを思い出す。
 見た目も行動も猫そのものなので忘れがちだが、龍と同じ霊獣であり、普通の生き物ではないのだ。
 そもそも初代鬼の花嫁だったサクとつながりがあるようなので、相当な年月を生きていると予想された。
「えっと……駄目だよね、玲夜?」
 柚子は自分では判断できなくなり玲夜に問うが、玲夜も難しい顔をした。
「さあな。そもそも霊獣は普通の猫ではないだろう。食べ物ぐらいで体調を崩すような弱い生き物ではない。そこらのあやかしより強いんだからな」
「神様も眷属だとか言ってた」
 神の眷属がどういう存在か知識の乏しい柚子には分からなかったが、少なくとも塩をまぶしてある焼き鮭を食べてどうにかなるとは思えない。
 なにせ、龍がまだ一龍斎に囚われていた頃に、あやかし最強と次点の霊力を持つ千夜と玲夜の攻撃を跳ね返すほどの力を見せていた。
 そんな龍と同じ霊獣であると考えると、下手をすると鬼より強い可能性があるのだから。
「うーん」
 柚子は悩みつつ、いまだにちょんちょんと手を差し伸べるまろを見つめた。
 すると、トコトコと子鬼がやって来る。
「大丈夫だってー」
「龍もたくさんご飯食べてるから」
「それもそっか」
 ご飯どころかお酒を瓶でラッパ飲みしているぐらいだ。
 飲酒するよりはまだましと思えるのだから、ずいぶんと人間の常識からかけ離れた生活を暮らしているなと柚子は遠い目になった。
「じゃあ、ちょっとだけね」
「アオーン」
「にゃんにゃん!」
 みるくが自分もと主張するように鳴く。
 まろにあげようと、、少しだけ箸で切り分けて手のひらに乗せた焼き鮭をみるくが横から奪い去った。
 がーんとショックを受けるまろに、柚子は慌ててまろの分を再度手のひらに乗せて与えると、嬉しそうに食らいついている。
「本当に大丈夫かなぁ」
「大丈夫ー」
「普通のにゃんこは駄目だけど、まろとみるくだから問題ないよー」
「子鬼ちゃんたちがそう言うなら……」
 恐らく龍以外で誰よりまろとみるくという存在を知っているのは子鬼だと柚子は思っていた。
 なので、子鬼たちの言葉への信頼は大きい。
「柚子、そんなことをしていたら自分のがなくなるぞ」
 なんとも美味しそうに食べているまろとみるくを見るのに夢中になっていた柚子に、玲夜が呆れたように声をかけてくる。
 はっとした柚子は、三分の二ほどになった焼き鮭を慌てて食べ始めた。
 このままでは二匹に食べ尽くされてしまう。
 一生懸命口を動かす柚子を、玲夜は愛おしげな眼差しで見ていた。
 それは本能をなくす前と変わらぬ優しい目。
 柚子はそんな玲夜の様子に静かに安堵するのだった。
 玲夜は変わっていない。
 本能がなくとも心はつながっているのだと感じられ、柚子には自然と小さな笑みが浮かぶ。
「玲夜はしばらく忙しそう?」
「そうだな。まあ、いつも通りだ」
 それはつまり忙しいと言っているようなものだ。
 大会社のトップに立つ玲夜が暇なはずがない。
 それでも柚子といられる時間を少しでも長く作ろうと努力してくれている。
 それは高道や桜河といった周りの協力もあってこそだ。
 柚子と出会う前は仕事第一の生活だったというのだから、柚子には信じられない。
 柚子の知る玲夜は仕事嫌いで、休めるものなら休みたいと言わんばかりに面倒臭そうな空気を発しているのだから。
 いや、実際に言葉にして仕事に行きたくないと言っていることも多々ある。
 柚子という唯一無二の存在ができたからこそ生まれた気持ち。
 今の玲夜は仕事などより柚子との時間の方が、ずっと大事なのだ。
「柚子も来週から学校か」
「うん!」
 楽しみだと明るく返事をする柚子に対し、玲夜の表情は険しい。
 行かせたくないと言いたいのだろうが必死に我慢しているようだ。
 しかし、口よりも雄弁に語るその眼差しに、柚子も苦笑する。
「一年だけだからね。あ、もう夏休み終わるからあと三分の二ぐらいかな」
 何度口にしたか分からない言葉。
「分かってる……」
 そう言いつつも、納得はしていないという顔だ。
「かくりよ学園ではできなかった友達もできたの。それだけでもあの学校に通えて嬉しい」
 入学してすぐ話しかけてくれて仲良くなった片桐澪。
 そして、最初は険悪な空気でにらまれ続けていたが、のちに仲良くなれた鳴海芽衣。
 芽衣に関しては少々ツンデレなところがあるようで、素直に友達と言うのには恥ずかしそうだ。
 けれど、鬼龍院の花嫁と知ってなお普通に接してくれるふたりに出会えたのは、奇跡のような巡り合わせだったのではないかと柚子は思っている。
 それだけでも、あの学校に通ってよかったと感じる。
「柚子が幸せだと感じるなら、俺はそれでいい」
 やれやれという、どこかあきらめたようにも思える玲夜の笑みに、柚子も笑い返した。
「うん。幸せ!」
 自分ほど恵まれた人間はいないのではないかとすら思うほど、柚子は今の環境に満足していた。

 そして日は経ち、学校が始まる。
 一年で卒業の料理学校は、もう数カ月となっている。
 それまでに可能な限りの知識を身につけなければと、柚子もやる気に満ちあふれていた。
「よし、今日からまた頑張るぞ」
『作ったものは我が食べてしんぜよう』
 カッカッカッと笑う龍のなんと恩着せがましいことか。
 しかし、実習でたくさん料理を作るのは避けようがない。
 食べて味を見るのは当然の流れだが、全部食べていると正直太る。
 柚子も料理学校に通い始めてから少々体重が気になり始めていた。
 そんな話を玲夜にしたところで重く受け止めてくれないと確信できるのは、喜ぶべきことなのか悲しむべきことなのか分からない。
 けれど、このままではヤバいと思っている学生は少なくなく、柚子が味見を終えたものを龍に食べさせているのを見た芽衣が、そっと近づいてきて龍にコソコソと話しかけてから食べさせているのを柚子は見ないふりをしていた。
 いったいこの小さな体のどこに消えていくのか不思議でならないが、学校へ行く際に、龍の存在は必要不可欠となっていた。
 芽衣からも必ず連れてこいという圧がかけられているので仕方ない。
 芽衣からだけでなく、他にも何人からか残り物をもらっているようなので、龍を連れていかないとがっかりする者は結構いそうだ。
 ただ、柚子に対して悪意を持っている、あるいは持っていた者に対しては龍も冷たく、どんなに美味しそうな料理を持ってこられても子鬼とともに追い返しているようだ。
 別に柚子は気にしていないのだが、龍としては柚子に悪意を持った時点で敵認定しているようで、芽衣に対しても少々素っ気ないところがある。
 ただ、柚子が仲よくしたがっているので表向き友好的に接しているだけという感じがしていた。
 コックコートに着替えた柚子が教室へ入り席へ着くと、すぐに芽衣が寄ってくる。
 澪はまだ来ていない。
 澪は芽衣と相性が悪いようで、お互い顔を合わせるとバチバチと見えない火花を散らすので、まだ登校していないのは助かった。
「あのさ、ちょっといい?」
「うん、いいけど?」
「なんていうか、すごく言いづらいんだけど……」
 その顔はどこか気まずそうで、表情が優れない。
「どうかした? まさか、鎌崎がまたなにかーー」
「ち、違う違う! あいつはあれから来てないわ」
 芽衣を花嫁だと言って付きまとっていたかまいたちのあやかしの鎌崎。
 彼は執拗に芽衣を狙い、手に入れるために手段を選ばず嫌がらせを繰り返していたが、穂香によって神器で刺されて以降、花嫁への執着心を本能とともに失い、芽衣への興味をなくしていた。
 芽衣の気の強さが表れた雰囲気が消えていたのでてっきりなにか起きたのかと思った柚子だっが、早とちりだったようでほっとする。
「それならいいけど、なにかあったの?」
「うん……」
 芽衣は視線をさまよわせて、なかなか話し始めない。
 余程のことかと身構える柚子は根気よく待った。
 そして、ようやく芽衣が口を開く。
「鬼龍院さんなんだけどさ、あんた浮気されたりしてない?」
「…………え?」
 たっぷり時間を終えて柚子から出たのは、素っ頓狂な声だった。