この先は神域だ。
普段ならば、用もないのに近づこうとは思わない。
しかしあの晩は何かが違った。
たとえ何十年、時が流れようと、当時のことは脳内で鮮明に再生される。
まるで呼ばれたかのように。
あの日、あの場所へ導かれた。
1954年、季節が春になろうとしていた、静かな夜。
「トオツグ。追加の酒、蔵から持って来てくれる?」
そんなお使いをヨミトから頼まれていた。
しかし気づけば見知らぬ小道を歩いており、足元には不思議と季節外れの椿の花だけが、道標のように落ちていた。
美しくも、不気味な光景。
だからあれと結びついたのだろう。
「生首みたいだ」
そう一度認識しすると、花の形状をしていたそれは、紅い水たまりになった。
辿れば辿るほど、数は増えて避けきれなくなる。
充満する匂いに、目眩すら覚える。もしかしたら、深追いするべきではないのかもしれない。
それでも……足を赤黒く染めながら、手入れされていない山道を歩き続けると、視界の開けた場所に出た。
ただ一本の立派な木が聳え立つ空間。御神木と呼ばれるものだろう。
その麓に人影を見た。二人の……恐らく男女が寄り添う影を。
淡い月明かりに照らされて、ようやく輪郭を視認出来たが、何とも朧げに感じた。
すでに……この世の者ではないかのようで。
それを無性に悲しく感じたのは何故か?
二人の間を流れる「決して部外者を立ち入れさせない」、そんな雰囲気に圧倒されていると……女の方と目が合った。
一瞬驚いたような表情を見せ、口から何か、言葉を紡いだ。
あまりに遠く、小さなそれを聞き取ることは出来ない……はずなのに。
『 り ん ど う 』
そう聞こえた気がした。
その声も、姿も、表情も、知らない女のものだ。
なのに――今度も手は届かなかったと、何故か無性にそう思った。
すると世界は暗転した。
意識が遠のき、体に衝撃が走った。頬には土の温もりを感じる。
どういうわけか、倒れ込んでいるらしかった。
――ザク、ザク、ザク。
何かが近づく音がして、自身のすぐ近くで止まった。
どうにかして気配のする方へ首だけ動かすと、背格好からして先ほどの人影、その片方の男だった。
狐面で表情を隠した彼は、僕の遥か頭上から冷め切った声色で尋ねた。
「なんの嫌がらせだ、……その顔は」
そう言い捨て通り過ぎ、夜に溶けていった。
訳が分からず、ゆっくり頬に触れてみる。
……これのことを言っていたのだろうか。
静寂が訪れていた。この空間に取り残されたのは自分だけなんだろう。
頬を濡らすこの涙の意味も、すでに知る術はなかった。