居鶴の死だ。

 彼はずっと悪い病に犯されており、それを栞恩に伝えなかった。
 彼女の前ではずっと「優しく娘思いの父」として振る舞っていた。
 それが彼の強い望みでもあったからだ。


 その日は突然やってきた。
 事切れる気配を感じた深夜、ワタシは栞恩の側を離れて居鶴の部屋を訪れた。
 
彼は深い呼吸を繰り返しながら、虚な瞳をこちらの方へ向けた。

「……その面、そうか君が。ようやく会えた。よければ最期に少し、話を聞いてくれないかい?」
 彼は死の瀬戸際になって、ワタシを視認出来るようになった。

「……栞恩を、呼んできましょうか」
「いや、僕は臆病だからね。あの子の泣き顔を見ながら逝くのは耐えられない」
「分かった。ワタシが側にいよう」
 初めて自分から彼に近寄り、至近距離で眺めたその顔には、いつもより苦痛が明確に現れていた。それでも居鶴本来の穏やかさは失われていなかった。

「ありがとう……一つ、頼まれてくれないか?」
「ワタシで務まるなら」
「ありがとう。察しの通り、栞恩のことだ。あの子には不思議な力がある。それは僕の姉さん……栞恩の母親も同様でね。若い頃もたくさん苦労をしていた。それを娘のあの子は継いでしまったのかな」
「そうですね、あの子は特別だ。だからワタシみたいなのがいる」
「君が何者なのかは問題じゃない。今まであの子を守ってくれた君だからこそ、頼りたい。お願いだ……これからも栞恩を守って欲しい。何か対価が必要なら、今の僕に出来ること、なんでもしよう」
「栞恩は大切な主人だ、約束しよう。その代わり……」
「遠慮ぜずに言って」

「ワタシに……名をつけてくれないか」
「名前を、僕がつけて構わないんだね? そうか……嬉しいな。実はこっそり呼んでいた名前があるんだ」
「是非、教えて欲しい」
「――露命(ろめい)(つゆ)(いのち)と書いて、露命。どうかな?」
「……あぁ、気に入ったよ。今日から露命と名乗ろう」
「それは良かったよ。露命……もうそろそろ、限界みたいだ」
「承知した。居鶴……貴方は立派だったよ、ずっと見ていたから知っている」
「そうでもないさ。結局あの子を置いて行ってしまう。でも露命がいるから安心してるよ。最後に話せて本当によかっ……た」

 そう呟き、居鶴は残りの力を振り絞ってワタシに手を伸ばした。
 骨張り、ひんやりとし始めた手をそっと包み込み、最期の言葉を聞き届けた。
「……ろめい、後のことは、頼んだよ」