61年後の香調


 彼を取り残し、あの場所を離れた。後ろを振り向くことはなかった。
 私はただ一つの終わりを迎えるために、家路に着いた。

 久しぶりの我が家は、あの時のままになっていた。
 荒れ果てた室内から、私はある物……燐灯から預かっていたあの台本を探していた。
 それは容易に発見された。というのも、居鶴の仏壇に隠していたからだ。

 もしかしたら盗まれているかもと不安に想っていたが、それは杞憂に終わった。
 流石に仏壇の中までは手を付けなかったらしい。
 これと居鶴の遺灰さえあれば、もう充分だった。


 ……たとえ明らかに人の手によって荒らされた痕跡があり、置いてあった金目の物が無くなっていようとも。
 今後の私には必要のないものだから関係ない、必要な人が使えば良い、そう本気で思っていた。


 しかし盗人からすれば、瀕死と聞いていた家主が突然夜中に戻ってきたのだ。
 しかも帰って早々、他の物には目もくれず仏壇を開き、中から取り出した箱を心底大事そうに抱きしめている。
 きっと、それがこの家で一番高価な代物なんだろうと勘違いしたに違いない。
 これは頂く価値があると判断し、脅して奪おうとした。
 でもどれだけ声を荒げても、女は全く反応を示さない。
 さぞ気味悪く思ったことだろう。
 だって耳が聞こえないなんて事情、相手は知るわけない。


 私の方も背後からの強い衝撃で体勢を崩し、初めて第三者の存在を知った。
 盗人は一人の中年男性だった。
 私の手から離れた箱に手を伸ばし、中身を暴こうとした。
 他人から見れば、中身はただの紙の束だ。金目の価値は微塵もない。
 逆に言えば、それの価値を知らない相手に触れられるのは耐えられなかった。

 ――それだけは許せなかった。

 でも自由に身体を動かすことが出来なかった。
 後遺症の麻痺に加えて、先ほど背中を容赦なく殴られたからだ。
 むせ込んで呼吸も満足に出来ないし、口内は血の味がする。
 もはや声を出す気力も残っていなかった。
 私はただ見ている事しか出来ない自分を呪った。
 徐々に憎しみと怒り、そんなドス黒い感情に体内が汚染されていくのを感じた。


 やがて盗人は紙屑と対面して、落胆した様だった。そして標的を私に変えた。
 憂さを晴らしてやろうと思ったのか、目撃者を消したかったのか。
 私の上に跨り、首を締め上げ、全体重を乗せた。

 ……それは明確な殺意だった。