月を覆い隠す曇り空。そんないつもより薄暗い夜を選んだ。

 私は此処を去るために、思い通りにいかない体を引きずり病室を抜け出した。
 誰もが寝静まった時間の、病棟と病院を繋ぐ渡り廊下。
 そこはまるで、あの世とこの世の境が曖昧になっているような暗闇が広がっており、かなり視界が悪い。

 ――だから気づけなかった。

 視界の下で急に現れた人影を認識した時には、足が何かに躓き、体を地面へ打ちつけていた。
 この時小さな声でも漏れてしまったのだろう。
 目前の誰かに脱走者(わたし)の存在を知らせてしまったらしい。
 病院関係者なら、きっと病室へ連れ戻されてしまうだろう。
 そうなれば暫く自由に行動が出来なくなってしまう。
 その恐怖で体が硬直してしまった。
 今の私には相手が誰なのか、直接見ることでしか判別が出来ないというのに。

 しかし……存在を確かめるように私の背中に触れる優しい手の温もりを、私はよく知っていた。
 間違えるはずなかった。

 意を決して頭を上げると、そこにはまだ包帯で顔を覆われている燐灯の姿があった。
 何故か彼はこの通路に腰を下ろし、何も見えないはずの空を見上げていた。
 そんな彼が伸ばしていた長い脚に躓いたらしかった。

 泣く資格なんてないのに、止めどなく目から涙がこぼれ落ちた。
 出来るだけ声を押し殺したのは……せめてもの、意地だった。
 燐灯には私が栞恩だと確信させたくなかった。
 やがて辿々(たどたど)しく私に触れていた手が、髪から頭部へたどり着き、ゆっくりと撫でる動作を繰り返した。

 ――彼には私の頭をグリグリと回す癖があった。

 褒める時、慰めてくれる時、茶化す時。
 それは最後まで互いの気持ちを伝え合わなかった私達の、暗黙の愛情表現とも呼べる行為だった。


 私は体を起こし、初めて自分から燐灯を抱きしめ、耳元で言葉を紡いだ。
 果たして伝わっていたのか、もう知る術はない。
 きちんと声になったかも自信はない。
 
「ずっと燐灯を想ってる……だから二度と会いたくない。私を嫌いになって」