結局、綺麗事で溢れた世界_
これは、数年前の話。
小学3年の頃、とある女子がいじめに遇っていました。
掃除の時、彼女の机だけ運ばなかったり、彼女の私物を勝手に奪ったり。
幼稚で馬鹿馬鹿しいいじめが彼女の学校生活を暗く覆い尽くしていました。
私も同じクラスで、いじめの存在は知っていました。
先生も、薄々は気づいていたかもしれません。
さぁ問題です。私はどのような行動をしたでしょうか?
1:いじめを止めた
2:いじめに関わらなかった
3:先生にいじめの存在を伝えた
......答えは2です。
そう、私は自ら傍観者を選びました。
「いじめは見たら止めてあげるものだよ」
大人も、子供も口を揃えて言います。
いまこの文章を追っている貴方も、この行動をとった私を軽蔑しているかもしれません。
一年の道徳の授業で、必ず一回はいじめについて話し合います。
そこでもまた皆、示し合わせたように、
「いじめは止めるべき!!」
と言います。
そんな皆を見て、先生は満足げに頷くのです。
そんな光景を見たら、私は怒鳴ってやりたい。
そんなの綺麗事だ。
確かに、本当に助けてあげる人がいるかもしれない。
でも、あの時あのクラスに、助ける行動をとった人は誰一人いませんでした。
彼女と親しかった人も、学級委員も、先生も。
.....そして、私も。
いじめは存在が不鮮明で、形も確かじゃない。
クラスメイトじゃないとみえない、力関係があります。
それを無責任に止めろと言ってくる他人に、胸が苦しくなります。
でも、いじめを野放しにしてはいけませんよね。
私のクラスで起きたいじめは、彼女自身が解決しました。
彼女の母が積極的に動いてくれたそうです。
先生は「傍観者は一番いけない」と、怒ったように私たちに言いましたが、結局それも綺麗事。
先生は何を知っているの?自分から被害者になりに行けって言っているような物だと、心のどこかで毒つく私がいました。
そんな私に変化が訪れたのは、つい最近です。
中学になり、数年ぶりに同じクラスになった彼女とは、普通に話す仲になりました。
彼女は時々いじめの事を話してきて、私はその度に自分の醜さと向き合わなければなくて、ちょっと辛いですが、
彼女の言葉はただ真っ直ぐでした。
「前向きな言葉は前を向かせる道標だよ」
とっさにその場で、私は聞き返してしまいました。
"たとえ、綺麗事だとしても?"と。
今思えばなんと失礼な質問なんだと思いますが、彼女はいつも通りの顔でいいました。
「それをどう受けとるかは、自分次第だよ」
真っ暗闇はいつか光に満ちるとか、
小さな芽は必ず大輪の花を咲かせるとか、
この世の中にはそんな綺麗事が溢れています。
永遠に光が消えてしまうかもしれないのに、
その芽が動物に食べられてしまうかもしれないのに、
そんな確証も保証もない言葉なんて、言われた方の何にもならないと思っていました。
でも、今ならこんな考えもできます。
もしかしたらその言葉は、不確定な未来に希望を持ってもらう為の、優しさに溢れた言葉なのかもしれない、と。
今日も、これからも、綺麗事で埋め尽くされた世界を私達は生きます。
結局、綺麗事で溢れた世界?違います。
誰かが誰かを想って発した綺麗事で溢れた世界、です。