儚く響くピアノの高音は、僕の耳にいつまでも余韻を残し続ける。

 まばゆいスポットライトの下、彼女の白く細い指先が鍵盤に触れた時、僕は息をのんだ。
 どうか彼女が最後まで、この光の下で大切な音を奏でられますように。
 きみという月の光が、僕の歩く道を照らしてくれたように。
 まっすぐに、きみを夢の彼方まで連れて行ってくれますように——……。



***



 夜の底は、いつも私の足をすくって、そのまま誰もいない世界へと引きずり込んでいきそうなくらい、深い濃紺色をしている。
 午後8時、夏場でも日が完全に落ちた頃に目が覚めるのが、私の毎日の日課だ。
 目が覚めると私は部屋のカーテンと窓を明け、月の形を確認する。今日は満月。まんまるのおせんべいみたいな月が、今日目覚めたばかりの私に「おはよう」と言う。私も「おはよう」と返す。夜なのに、おはよう。変だと思われるかもしれないが、私の中では大切な儀式だ。
「よいしょっと」
 ベッドから足を下ろすと、ひんやりとしたフローリングの冷たさに、もう秋が近づいて来たのだと分かる。夜の闇の中では夏も秋も、あまり変わり映えはしない。気温は変わるけれど、風景は同じだった。
 支度をした後、いつものトートバックを手にし、両親がいる一階のリビングへと向かう。
光莉(ひかり)、おはよう」
 夕飯の準備をしていた母が私の姿を認めてにっこりと笑う。父はリビングでテレビを見てくつろいでいた。仕事終わりで疲れているのだろう。
「ご飯食べる?」
「うん」
 私は、夕飯を食べる両親と一緒に、“朝ごはん”を食べた。
 これも日々繰り返されていること。両親が夕飯を食べる横で、食パンとハムサラダを咀嚼する私は、一人だけ違う時間軸を生きている。
 「ありがとう。ごちそうさま」
 一足早くごはんを食べ終わった私は、両手を合わせて脇に置いておいたトートバックを手にした。
「今日も練習、行くの?」
「うん。だから遅くなる」
「分かった。ちゃんと鍵は持って行きなさいよ」
「はーい」
 私が帰ってくるのはいつも大体夜中の1時とか2時とかそれくらいになるので、両親は深い眠りについている時間帯だ。鍵を忘れたら閉め出されて大変なことになる。
 ポケットにある鍵の感触を確かめながら、私は「行ってきます」と玄関の扉を開けた。今日は満月だから、心なしかいつもより夜道が明るく感じられる。
 こんな夜は、あの曲をたくさん弾きたくなる。
 光を失った私が、唯一希望を感じることのできる、大好きな曲を——。
 *

 私は1年と少し前、高校1年生の時に世界でも症例の少ない『夜行症』という珍しい病気を発症した。ちょうど、6月の運動会の真っ最中のことだ。梅雨だというのに天気の神様が味方をしたのか、快晴で気温が30度を超える日だった。運動会を楽しみにしていた生徒たちはみな一様に喜び、たくさん練習したダンスも、何度も転んで擦り傷をつくったリレーも、ここ一番の盛り上がりを見せていた。
 運動会のすべての競技が終わり、あとは閉会式を待つのみ、という時に、私は頭がぼうっとし、吐き気を覚えていた。応援席で生徒全員が席についていた。
 息が苦しい……。
 頭が痛い……。
 気持ちの良い汗を流して、満足した様子のみんなとは正反対の心地で一番前の席に座っていた私は、気づいた時には目の前が真っ暗になっていた。
成瀬(なるせ)さん!?」
 隣に座っていたクラスメイトが、頓狂な声を上げたのを聞いたのが、その日の最後の記憶である。
 目が覚めた時には病院のベッドで寝かされていて、しかも部屋は全体的に薄暗く、一瞬自分は死んでしまったのではないかと錯覚した。
「成瀬光莉さん、目が覚めましたか」
 私の顔を覗き込む白衣の医者の姿を見て、霞んでいた視界がようやくクリアになる。
「病院……私は、どうしてここに?」
「あなたは学校の運動会の最中に倒れてしまったんです。おそらく『夜行症』かと思われます」
「やこうしょう……?」
 聞き慣れない病名に、私は首を傾げた。そもそも、突然病院で目が覚めて病気だと言われたことに、頭が追いついていなかった。
「はい。聞いたことはないと思います。とても珍しい病気で、世界でもまだ症例が少ないんです」
「はあ」
 医者は、訝しげな視線を向けてくる私に、「夜行症」について訥々と話し出した。
 脳の、睡眠を調整する機能がうまく働かなくなり、昼間起きていられなくなること。
 太陽の光や、室内でも強い光を浴びると、身体がひどく疲れて起き上がれなくなってしまうこと。
 光を浴びると、翌日には発熱や倦怠感などの症状が現れてしまうこと。
 光を浴びすぎると、寿命が縮まってしまうこと。
 発症する原因は不明であること。
 今の所治療法は確立されておらず、一度発症すると、もう二度と日の光を浴びられなくなること——。
 どれも、およそ現実味がない話で、私はおとぎ話の世界にでも迷い込んでしまったかのような心地になった。胸の奥がずっとざわついていて、医者の口から紡がれる言葉の一つ一つに、息苦しさを覚えた。
「だから……部屋も、薄暗いんですか」
 心はまったく受け入れられていないのに、頭では医者の話が真実であると理解しようと努めていた。
「はい。そうです。現にいま、夜の8時です。あなたの身体は、夏場でも日が完全に落ちている8時ごろに目が覚めるようになります。日が昇る前に眠りについて、昼間はずっと眠ることになります」
「……」
 信じられない事実ばかり突きつけられて、心はとっくに壊れそうだった。
 それから、私は医者と話していた記憶があまりない。
 私の症状について、少なくとも彼は私に同情しているし、薄暗い中で説明をしなくてはならないことに、後ろめたさを感じているようだった。

 その日の夜、私はまったく寝付くことができなかった。
 それが単に昼間ずっと眠っていたからなのか、病気のせいなのか、判断がつかない。でも、次の日も、その次の日も、私は夜にぱっちりと目が冴えてしまって、昼間はうとうとと眠りについた。完全に医者が言っていた「夜行症」の症状だった。太陽が沈み、夜8時に目が覚めると、毎晩のように声を上げて泣いた。退院して家に帰ると、心配そうな両親の顔が、余計胸にずっしりと重しのようにのしかかってきて、二人のいないところで泣いた。
 泣いて泣いて、流す涙もなくなってきて、それでも刻一刻と時は進んでいて。定時制の高校へはもちろん通えなくなり、通信制の高校に切り替えた。でも、勉強をするやる気は起きなくて、毎晩月の光をぼうっと眺めているのが日課になった。

 そんな生活を3ヶ月ほど続けていたが、少しだけ、現実を受け入れられるようになった私は、ある夜家を飛び出して外出をすることにした。
 外の世界は、街へ行けば思ったよりも明るくて、太陽の光がなくても、私はまだ生きていられると思った。でも、ひとたび自宅の近くへと戻ると、やっぱり真っ暗だ。街灯と月明かりだけが、私を照らしていた。それぐらいの光ならば、浴びても大丈夫なのだと医者は言った。
 無心で夜の住宅街を散歩していると、無意識のうちに以前通っていて定時制の高校にたどり着いていた。夜の高校は昼間とは違っていて、怪物でも棲んでいるかのようなおどろおどろしさがある。
「あれ、開いてる……?」
 校門の横に、自転車が通れるぐらいの小さな扉があるのだが、その扉が少しだけ開いているのに気がついた。
 試しに扉を押してみると、普通に開けることができた。
 私は、扉の向こうへと一歩足を踏み入れる。
 夜の学校に入るのはもちろん初めてだった。たぶんバレたら不法侵入になる。
 だけど、そんなことはどうでもよかった。病気を発症して以来、私はちょっとやそっとのことなら怖くないと思い始めていた。
 校内は当たり前だが閑散としており、廊下の向こうは暗く沈んでいた。長い廊下の先は、入り口からだと見えない。
 たん、たん、と静かな足音を響かせて暗闇の中を進む。階段を登り、4階までたどり着いた。廊下の窓から見える月が綺麗な三日月で、私は感嘆の声を漏らした。

 やってきたのは音楽室だった。
 4歳の頃からピアノを習っていた私は、いつも学校から家に帰ると真っ先にピアノの練習をしていた。でも、「夜行症」を発症してからというもの、夜にピアノを弾くのは近所迷惑だと思って、ずっと触れることさえできていなかった。
 本当はひっそりと、ピアニストになりたいと思っていたくらい、ピアノが好きだ。私の音楽で、誰かを感動させてみたいと思っていた。だけどその夢はもうきっと叶わない。それでも私の心が、自然とピアノを求めていた。
 立て付けの悪い音楽室の扉は、ギイと鈍い音を立てて開いた。校舎自体古いので、鍵をかけるには南京錠をつけるしかないのだが、特別教室で南京錠をつけてある教室はほとんどなかった。吹奏楽部が使う楽器が収納してある音楽準備室だけは、鍵がかけられていた。
 ピアノは音楽室の黒板の隣に鎮座していた。
 年季の入ったグランドピアノで、黒い布が被せられている。久しぶりに入った高校の音楽室で、薄闇の中目にしたピアノは、異世界に捨て置かれたかのような異質さを放っていた。
 布を捲り、鍵盤の蓋を開ける。椅子の高さを調整して座り、鍵盤に指で触れた。
 標準の高さのドの音を抑えると、耳に心地よい音が静寂の中響き渡った。古いピアノだが、きちんと調律がされていて、周波数に狂いはない。私はそのまま、両手をしかるべき鍵盤の位置に乗せ、ペダルを足にかけた。
 3ヶ月間、まったく弾いていなかったけれど、ブランクなどなかったかのように、自然とピアノの前で息を吸うことができた。
 両手で和音を響かせて、弾き始めたのはドビュッシーの『月の光』だ。
 囁くような高音のメロディーが、音楽室の空気を繊細に揺るがす。私は、『月の光』のこの最初のメロディーが大好きだ。「ねえ、聞いて」と大切な人が耳元で囁いているかのように聞こえる。
 元々、ドビュッシーはポール・ヴェルレーヌが編んだ詩集『艶なる宴(Fêtes Galantes)』にある一遍の詩を参考にこの曲をつくったらしい。そしてこの詩もまた、ジャン=アントワーヌ・ヴァトーの絵画に触発されたものであるという。
 『月の光』は、音楽と詩、絵画という芸術をすべて集めてつくられた、まさに芸術的な音楽だ。
 最初の美しいメロディーが終わると、波のような連符による演奏が始まる。
 私はこの部分も好きだ。流れるようにポロポロと鳴る音に、これから何かが起きるのだと予感させられる。身体をのせ、想いをのせ、曲の一番盛り上がるところまで進めていく。
 ふと、視線が窓の外へと向かった。
 綺麗な形の三日月が、私の演奏を聴いて微笑んでくれているみたいだった。
 だから私は、これまでにも増して、思い切り感情を込めて穏やかなクライマックスを迎えた。決して派手ではない、このクライマックスが、月の光の優しさを映し出しているようで、耳に心地よい。
 ピアノのメロディーを奏でている間、私は自分が奇怪な病気にかかってしまったことなど、すっかり忘れていた。自宅でピアノを弾いている感覚で、鍵盤の上で指を走らせた。いつもと違うのは、窓の外に月が見えることだけ。なんて美しく、儚いんだろう。月の光は、下を向いていた私をほんのりと明るく照らしてくれる。やがて曲が終わり、私はペダルから足を離した。息をすることも忘れて弾いていたから、最後の音の余韻が消えた音楽室で、私はどっと息を吸い込んだ。
「楽しかった」
 再び静寂に包まれた音楽室で、私はこれまでにない高揚感を覚えていた。
 夜にしか生きられない自分にとって、今日この場でピアノを弾いたことは、何にも代え難い喜びとなった。

 それから私は、来る日も来る日も夜の学校でピアノを弾いていた。校門の横にある扉がいつも開いていたからだ。よく見ると、鍵の部分が壊れているのだと分かった。
 まんまるの月、ちょっとだけ欠けた月、三日月、新月。
 いろんな月を見ながら学校へと向かう道は、私の生活で一つの楽しみだ。

「光莉、いつもどこに出かけてるの?」
 夜の学校に行くようになってから二週間ほど経った頃、いつものように夜8時過ぎに目覚めて外に出ようとしていた私に、母は声をかけてきた。
 私は一瞬、母に本当のことを伝えるべきかどうか悩んだ。言わない方がいいと思いながらも、母にはこれまで散々心配をかけてきたので、私は毎晩以前通っていた高校の音楽室でピアノを弾いているのだと言った。
「まあ、そんなことしてたの? 勝手に学校入っちゃダメじゃない」
「そうなんだけど、家じゃ夜にピアノ弾けないから」
「……」
 私が反論すると、母は何か考え込むような顔をした。
 母にとって、塞ぎ込んでいた私が外へ出るようになったことが嬉しかったのだろう。だから、ピアノを弾きたいという私の想いを、簡単に踏み躙るようなことができないのだ。
「それなら、ちょっと先生に掛け合ってみるわ」
「え?」
「夜に学校に入ってもいいって、許可を取るの」
 母が言うことは、およそ現実的ではなかった。でも、そこまでして私にピアノを弾かせてあげたいという母の想いはしっかりと伝わってきた。

 翌日、母は早速学校に連絡をしてくれた。なんと、校長が直接話がしたいということで、母は昼間学校に向かった。名目上は、「校門の隣の扉の鍵が壊れているのを娘が見つけたんです」と教えてあげるためだったが、私のことも一から伝えてくれたようだ。
 校長先生はもともと、私が病気で学校を辞めざるを得なくなったことに、心苦しさを覚えていたようだ。私のために何かできることがあるならしてあげたいと言ってくれたという。なんて素敵な校長先生なんだろう。
 扉の鍵が壊れているのを発見してくれたお礼だといい、鍵が直ったあと、校長は母に扉の鍵を渡してくれた。
 こうして私はいつでも、好きな時にあの小さな扉から夜の学校へと忍び込むことができるようになった。鍵をもらったことで、後ろめたさは完全に消え、母のしてくれたことに私は感謝するのだった。
 *

 あれから1年の月日が流れたが、私は今も夜の学校に忍び込み、ピアノを弾いている。月の光を見れば、私の人生はいくらかマシだと思えるようになった。
 でも、いつも胸を巣食っているのは、日の光の下で歩くことができなくなった自分の惨めな未来だ。いくら夜の時間を満喫しても、私は昼間、友達と遊びに行くことができない。もし好きな人ができても、昼間デートにも行けない。そもそも、こんな私を好きになってくれる人なんていないだろう。
 感傷に浸りながら、いつものように学校で「月の光」を弾いたあと、私はピアノの蓋を閉めて、音楽室から出ようとした。時刻は夜中、12時を回っていた。
「わっ」
 教室から一歩踏み出した時、私は誰かの驚く声を聞いて、心臓が飛び跳ねた。
 暗闇の中、扉の向こうに立っている少年を目にして、幽霊でも見てしまったのかという錯覚に陥る。
「え、あの、誰……?」
 はっきりと顔が見えない。見えたとしても、去年この学校からフェードアウトした私に、彼の正体が分かるとは思えなかった。
 少年は一歩、二歩、と後退り、気まずそうに「えっと」と口籠る。
 良かった……少なくとも幽霊ではないみたいだ。幽霊だったら、喋るなんてできないもんね。
「こ、こんばんは」
 だんだんと目が暗闇に慣れてきて、相手の顔がさっきよりもはっきりと見えるようになった。切れ長の瞳に、マッシュルーム頭をしたその人は、私服姿で飄々と佇んでいる。うーん、見たことないなぁ。去年同じクラスだった人ではなさそうだ。同じ学年かどうかも分からない。そもそも、この学校の生徒なのかさえも。
「こんばんは。あの、ここで何をしてるんですか?」
 相手からすれば、私の方こそ何をしているのかと問いたいだろうけれど、私は今まで夜の学校で人に出会したことがなかったので、少年にそう聞いた。
「ああ、僕は、今日久しぶりに学校に来たら、宿題を忘れてしまって。取りに戻ったら校門の横の扉が開いてて、中に入れたんです。それで、教室で宿題のノートを回収したあと、音楽室からピアノの音が聞こえてきたので、気になって」
「なるほど……?」
 そういえば今日、私は扉の鍵をかけ忘れていたことに気がついた。たまにこういうことがある。鍵を開けっぱなしにしていて、不審者が侵入してきたら私はもう夜の学校を使わせてもらえなくなるかもしれない。今後は気をつけよう。
 それにしても、いくら宿題を忘れたからと言って、こんな夜中に学校に宿題を取りにくるなんて、彼はとても真面目な人なのだろうか。
 と、一人考え込んでいると、少年が「あの」と顔を覗き込んできた。
「さっきの曲、『月の光』ですよね。めちゃくちゃ綺麗でした。僕も、好きなんです」
 どうしてだろう。
 少年の顔は、暗い夜の学校だというのに、明るい笑顔が輝いて見えた。
「そうなんですか!? 私、この曲がいちばん好きで、いつもここで弾いてるんです」
 『月の光』が好きだと言う人に、私は初めて出会った。同世代の友達はみな、流行りのJ-POPやK-POPばかり聞いていて、クラシックを好む人間はほとんど皆無と言っても過言ではない。それなのに目の前にいるこの人は、『月の光』が好きだと笑っている。
「はい。あの、星が降るようなメロディーが好きで。きらっと光るのが、目に浮かぶというか」
 星が降る。
 なんて素敵な表現なんだろう。
 私は未だかつて『月の光』について語り合えた友達がいないので、心臓の鼓動は自然と速くなっていた。
「分かります。私は、波の音だと思っていました。星が降るって、素敵ですね」
 この、年上なのか同級生なのか、年下なのかも分からない少年と、私は一気に打ち解けたような気がして、心が弾んでいた。
 それから私たちはひとしきり『月の光』について語ったあと、「忘れてた」とどちらからともなく吐息を漏らした。