勇樹──ユウキ・カンザキがこの世界にやってきてから、だいたい三年ほどが経過した。

 この間にユウキは歩いて、走って、喋ることができるようになった。

 自分の名前がユウキだと伝えるのに一年かかった。

 オリンピアはその間ずっとユウキのことを「旅人さん」と呼び続けていた。

 精霊というのは、ちょっと抜けているのだろうか。

 ルーシーのほうは、赤ん坊という存在に慣れるのに同じくらいの時間を使っていた。未知の生命体に接するような、張り詰めた表情であった。

 ユウキと出会ったあの日、大吹雪の中でなんのためらいもなくふにゃふにゃの赤子を抱き上げてオリンピアのところに連れてきてくれたのだから、ルーシーは高潔な人物なのだ。

 精霊であるオリンピアはルーシーのそういう不器用でまっすぐな性根を好ましく思っており、ルーシーはオリンピアの純粋無垢

 それと同時に、この世界のことについても少しわかってきた。

 この世界は精霊の力によって成り立っている。

 さまざまな自然の恵みが実ったり、人間が魔法を使ったり、精霊の力はこの世界にとって重要だ。

 だが、魔王と人間が争う『魔王時代』と、魔王を討伐した際に放たれた瘴気によって精霊たちの力は弱まっているらしい。

 この山もかつては精霊の力が満ちた地だったらしい。

 けれど、魔王の瘴気が直撃したことで今は『魔の山』と呼ばれる、魔物がうじゃうじゃと湧き出る不毛の地になってしまった。

 オリンピアの結界によって、この周辺だけがかつての面影を残しているらしい──ということは。

(つまり、世界中にあの狼みたいなやつがいる……ってことだ)

 この世界にやってきた日に、自分を食おうとしていた狼の群れを思い出す。

 狼と呼ぶにはでかすぎる、ちょっとした子牛みたいなサイズのモンスターだった。

 各地に現れるようになった魔獣(モンスター)を討伐して回っている、狩人のルーシーが助けてくれなかったら、と思うと恐ろしい。

 今頃ユウキは巨大な狼のうんことして、雪の中で凍り付いていただろう。

 ユウキが赤ん坊の頃は、オリンピアとルーシーが揃ってユウキの世話をしてくれていたが、この頃ルーシーは何日かまとまって出かけることが多い。

 遠方に強力な魔獣が出たとなればルーシーに招集がかかるらしい。

 腕のいい狩人なのかもしれない。

 というわけで、今はルーシーは不在である。

 ルーシーの不在が長引くと、オリンピアは五秒に一回のペースで溜息をつく。

 ファンタジックでミステリアスな存在のわりに人間くさいので、ユウキはたまにオリンピアが精霊だということを忘れてしまう。



 パンと果物の朝ごはんを食べ終えて、ユウキは聖域に作られた小屋から飛び出す。

「いってきましゅ、かあさん!」

 かあさん、というのはオリンピアのことだ。

 ちなみに、ルーシーのことは「ははうえ」と呼んでいる。

 庶民生まれ庶民育ちのユウキとしては小っ恥ずかしいけれど、一度だけルーシーを「ママ」と呼んだら苦虫を噛みつぶしたあとで渋柿スムージーを一気飲みしたような顔になっていたので、色々と考えた末に「ははうえ」で落ち着いた。それでもちょっと不満なようだけれど……中性的な喋り方をするルーシーだが、あまり女性らしく扱われることが得意ではないようだった。

 彼女自身が親のことを母上と呼んでいたようなので、いったんそれでよしとしてくれたようだった。

 オリンピアといえば、精霊には親子という概念がないようだった。おそらく人間の様子を見たものを真似をしているようで、たまにトンチンカンなことをやりはじめる。たとえば、息子であるユウキにドレスを着せようとしたり……とにかく、オリンピアは「かあさん」と呼ばれる状況を、おままごとみたいに楽しんでいるようだ。

 というわけで、本日もご機嫌でキッチンに立っているオリンピアが、ユウキの「いってきます」に振り返る。

 水色の髪が空気になびいて、とても神秘的だ。……エプロン姿でおたまを片手に立っていること以外は。

 ちなみに、このエプロンとおたまはオリンピアがイメージする「おかあさん」のようだが、特に調理で活用されることはないコスプレだ。

 オリンピアが作れるのは、丸ごと果実と果実のすりおろしだけ。結界内の樹木を操って「作って」くれる果実は、とんでもなく美味しいのだが……飽きていないといえば、嘘になる。

 料理らしい料理については、ルーシーのほうが作ってくれるのだが、こちらにもちょっとした問題があった。

(といっても、ははうえの料理って大味というか野営食っぽいっていうか……)

 ルーシーの料理は焼いた肉、干し肉、ごった煮のローテーションなのだ。

 我ながら特に病気もなく育っているのは奇跡だとユウキは思っていた。

(そろそろ、俺が料理係になってもいいかも?)

 というのが、三才児の意見だった。

「待ってください、ユウキさん!」

 小屋の外に飛び出そうとしているユウキを抱き上げて、オリンピアがもちもちのほっぺたにちゅっとキスをした。

(うう……いつもながら照れるぞ、これ)

 オリンピアのユウキへの溺愛っぷりはすさまじい。

 ルーシーいわく「瘴気でいなくなってしまった生物に注ぐべき愛情が、ぜんぶユウキに注がれている」とのことだった。荷が重すぎる。

 キスの嵐がおさまって、やっと地面に下ろしてもらう。

「いってらっしゃい、ユウキさん。どこで遊んでもいいけれど──」

「けっかいのおそとにはでない、でしょ」

 ユウキが言うと、オリンピアは満足そうに頷いて、小さな包みを渡してくれる。

「おべんとう、ありがとうございましゅ」

 オリンピアが持たせてくれるのは、フルーツだ。

 お弁当というよりもおやつに近い。

 昼食時には必ず小屋に戻ることになっているのでそれでも困らないのだが、結界の中に生えている果実は瑞々しくて喉の渇きを癒やすこともできるからありがたい。

「ええ。とびきり気をつけて遊ぶんですよ」

「はい、かあさんっ!」

「…………っ」

「かあさん?」

「ああ〜〜〜もうっ、とびきりとびきり可愛いですぅっ! ルーシーが構い過ぎるなって言うから我慢しているけれど……ユウキさんにはずっと私の視界にいてほしいですっ!」

「あわっ、く、くるしい……」

「すみません……とびきり寂しくて……」

「かあさん、まいにち……すごいな……」

「ふにふにのほっぺも、おてても、ユウキさんが可愛くて仕方がありませんっ」

 オリンピアによるモチモチ攻撃を耐えて、やっと出かけられるようになった。外に駆け出すと、若草の匂いが鼻をくすぐる。

 オリンピアの結界に守られたこの場所は、いつも青空だ。

 ユウキがここで育てられている三年間で、雨が降ったことは一度もない。

 正直、この状況はかなり幸運だ。

 だからこそ、今の状況に感謝して、力を蓄えておかなくては。

 ユウキはとことこと歩いて、結界の端のほうにやってくる。

「んっと、このへんならいいかな……?」

 結界といっても、外側と内側がバリアのようなもので明確に分かれているわけではない。

 とことこと歩いていると、少しずつ周囲の様子が変わってくる。

 青々としている植物が、だんだん枯れていく。

 空がどんよりと曇っていく。

 ユウキの手足は三歳児の長さなので前世の体感はあてにならないけれど、だいたい半径三キロくらい歩くと、岩肌が剥き出しの崖がある。

 ここがユウキの「遊び場」だ。

「……えいっ、ほっ」

 三歳なんて、ちょっと歩けば転ける年頃だ。

 しかし、どうやらこの世界では話が違うらしい。

 三キロなんて歩けるはずがない距離を平気で歩けるし、岩肌をひょいひょいとジャンプで移動できる。

 重力が違うのか、はたまた身体のつくりが違うのか。

 とにかく、できてしまうのだ。

 この世界にやってきてすぐに目にした、ルーシーの強さを思い出す。

 あれくらいでなければ、この世界で生きていけない──そう仮定すると、今から少しでも鍛えておかなくてはいけない。

 ユウキはこの崖を登ることで、少しでも力をつけながら成長しようともくろんでいた。

「よいしょ、った、はっ!」

 崖から飛び出た岩に足をかけて、跳躍を繰り返す。

 五歩、六歩……十歩、十一歩。だいたい、このくらいからいつも足元がぐらついてくる。三歳児の限界なのか。

 十二歩、十三歩……今日は調子がいいようだ。

 十四、十五、十六……十九、二十。

 やった、と小さくガッツポーズをした瞬間。

「うわ……だめだっ」

 よろめいた。

 とっさに手近にある岩を掴む。

 ぶらさがって体勢を整えてから、飛び降りる。

 たすっ、と愛らしい音を立てて着地。

 三歳児としては、驚異的な身体能力だ。

 といっても、登ることができたのは大人の身長くらいまで。ユウキの立てた目標は、手を使わずにこの崖を登りきることだ。

 ルーシーであれば、難なく同じことをするだろう。

「でも、しんきろくだ」

 今までは、よくて十五歩が限界だった。

 見上げるほどに高い崖。この世界で生きていくためには、これくらいはたやすく駆け上れるようにならないといけないだろう。

 こう言ってはなんだが、ルーシーは若くはない。

 精霊であるオリンピアの寿命はわからないが、ここまでよくしてくれた二人の手をわずらわせたくない。

 この世界では魔法も使えた方がいいのかもしれないと、オリンピアに魔法の使い方を尋ねたところ、「あぶないので、ぜったいにだめですっ!」と拒否されてしまった。そういうものなのか。

 駄々を捏ねて困らせたいわけではないし、何より心配をかけたくない。

 とりあえず、自分でできる鍛錬を見つけて実践しているわけだ。

 運動に秀でていた弟が「結局は基礎体力で差がつくし、足元を鍛えることが大切なんだ」と、プロのサッカー選手になった後も力説していたのをユウキは思い出す。何事にも通じる真理だろう。足元が何より大切だ。

 もう一回チャレンジを、と立ち上がったところで背後から視線を感じて振り返る。

「ん?」

 誰もいない。気のせいだろうか。

 このあたりに魔獣が出たことはない。

 とはいえ、今まで大丈夫だったことは、これからも大丈夫であることには繋がらない。

 変だな、と思いながらもユウキが崖に向かって駆け出した。

 一歩、二歩、三歩……崖を勢いよく駆け上がっていく。

 とても調子がいい。

 二十、二十一……目標にしていた、崖の中腹にある凹みまであと少し。

 いつかは崖を登りきって頂上に楽々登れるようになるつもりだが、まずは

 そのとき。

「何をしてる?」

「わっ!」

 声をかけられて、驚いて体勢を崩す。

 慌てて岩を掴もうと伸ばした手が、すかっと空を切った。

(や、やばい! もろに落ちる!)

 衝撃に備えて身を固くする。

 三歳児とは思えない脚力や体力……この世界にやってきてからの感覚に油断していた。この高さから落ちたら無事ではないだろう。

 昨日まで大丈夫だったことが、今日もこれからも大丈夫である保証にはならないはずなのに。

 けれど、痛みもショックもやってこなかった。

「……?」

 恐る恐る、目を開ける。

「ユウキ……こんなところで何をしてるんだ」

「は、ははうえ!」

 ルーシーだった。

 たまたま今のタイミングで旅先から戻ってきたルーシーが、落下するユウキを受け止めてくれたのだ。

 がっしりと抱き留めてくれている腕のたくましさと体感の強さに、改めて感心する。

「あ、ありがとございましゅ」

「オリンピアからは散歩をしていると聞いてたのだが……こんなところにお前がいるので、驚いて様子を見ていた」

 なるほど、さっきの視線はルーシーだったのか。

 気配には気がついたのに、まったくどこにいるのかわからなかった。

 結界の力が薄まって、枯れかけた木が立ち並んでいるばかりの場所で身を隠す場所なんてなさそうなのに。

 やっぱり、この世界のオトナはすごい。

「ふむ、ユウキ。お前が別の世界からやってきた旅人……オリンピアの言う通りだとすれば、お前の魂はその見た目とは違うのだろう」

 ユウキをじっと見るルーシーの視線は、今までないほどにまっすぐだった。

 そうか、とユウキは思う。

 今までルーシーは、ユウキに対してどう接するべきか迷っていたのだ。

 赤ん坊としてか、オトナとしてか。

「何を思ってこうなったのか聞かせてくれ」

「ひゃい」

 言い逃れはできない。

 ユウキはルーシーにすべてを説明した。

 ルーシーは決めたようだから。

 今日からはユウキを少しだけ、オトナ扱いすることに。



 ◆



「師匠だ」

 ユウキが舌っ足らずな言葉ですべてを話し終えると、ルーシーは言った。

「ししょう……」

「うん、今日から私はお前のは、は、は、はっは……」

「ははうえ」

「うむ、それであり師匠になる」

 どうしても自分を「母」とか「ママ」とか認めるのに抵抗があるらしい。

「お前は私と同じくらいに強くなりたいのだろう?」

 こくん、と頷く。

 この世界でオトナになるならば、強くならないといけないのだから。

「いいだろう」

 にか、とルーシーが笑った。

 この世界にやってきて初めて目にする笑顔だった。

「オリンピアにも私にも黙って無茶をしていたのはいただけないが、心意気を気に入った。自らの意志で物事を始めることは、このうえなく尊いことだ」

「あ、あい」

「他人の目も賞賛もなく、地道に続けることも……な」

 ユウキが崖登りを自分で初めて、それをコツコツ続けていたことがルーシーにとっては好ましかったようだ。

「というか、あの身のこなし……一体、お前はどういう才能を……」

「うえ?」

「いや、なんでもない。ところで、どうしてこの崖を登ろうと思った?」

「……みたかったから」

 ルーシーの質問に、ユウキは端的に答えた。

 走り込みでもスクワットでもなく、崖登りを三歳児からはじめるトレーニングに選んだのは、ある程度は実践的だろうという考えもあったけれど、もうひとつ大きな理由があった。

 精霊オリンピアの張った結界の向こう側の景色を見たかったのだ。

 たった一度、命からがらルーシーに助けられたときに目にしただけの「外の世界」である。

 自分が生きていく世界なのだから、きちんと見ておきたい。

「なるほど」

 ルーシーは頷いて、ユウキをひょいっと抱き上げた。

 幼児との触れあいに戸惑っていたルーシーといえど、もうユウキを拾って三年、オリンピアと共にユウキを育ててきた。抱っこには慣れたものだ。

「今日だけ、見せてやろう」

 ふわっと重力が消えたような感覚に襲われると同時に、ユウキの視界がすさまじい勢いでブレた。ブレブレブレにブレまくった。

(は、ははうえ……じゃなくて、師匠! す、すごい身のこなしだ!)

 足音すらもほとんど聞こえないほどの速さで、ルーシーが崖を駆け上っていたのだ。すさまじすぎる。

(やっぱり、このレベルじゃないとダメなのか……!?)

「子どもに無理はさせられんから、ゆっくり登るぞ」

「ほげええ!?」

 これで、ゆっくり。

 やっぱり、生半可な覚悟ではこの世界では生きていけないかもしれない。

 数秒もしないうちに、崖のてっぺんにたどりつく。

 ユウキが目にしたのは……一面の荒野だった。

 白と灰色の世界。

 山のてっぺんから見下ろす景色。なだらかな稜線には生命の片鱗が見受けられない。

 ずっと遠くの地平線の付近にもっこりと、小さな森のようなものが見えるくらいだ。

「あ……」

 ユウキの想像以上に荒れ果てていた。

 この距離からでも目視できるほどに巨大な大型生物が歩いている。

 あれはドラゴン的な何かだろうか。

 畑らしきものも少ないし、食糧事情はどうなっているのか。

 外の世界は、想像以上に厳しそうだ。

「この山はかつて聖峰アトスと呼ばれる精霊の力に満ちた土地だったんだ」

 ぽつり、とルーシーは言った。

 魔王時代と呼ばれる戦いの時代には魔王に対抗する精霊の力も盛んだった。

 皮肉なことに魔王を倒した瞬間に、世界中に瘴気が放たれて多くの土地が死んでしまったのだという。

「ユウキ、かつて聖峰と呼ばれた……オリンピアの愛したこの山が、今はなんと呼ばれているか教えてやろう」

 魔の山だ、とルーシーは言った。

「まの、やま」

「そうだ。まあ、コオリウルフの群れが走り回って、ガンセキベアがごろごろ生息している……瘴気の濃さといい、魔の山という名がふさわしいだろうさ」

「むかしは、ちがった?」

「自然の厳しさは変わらん。だが、鳥と小動物がすばしこく走り回り、鹿がゆうゆうと苔を食む……それをオリンピアが微笑んで見守っている。そういう土地だったんだ」

「……かあさんが」

 ユウキは自分を育ててくれているオリンピアを思い出す。

 オリンピアから注がれる特大の、ユウキがちょっと引いてしまうほどの愛情を思い出す。

 本当は、こんなに広大な山すべてに注がれるべき愛情なのだ。

「ねえ、ししょう」

「なんだ」

「いちゅか、このやまがアトスってよばれてたときの、きれいなすがたをみてみたい」

 ユウキは戸惑っていた。

 この山が瘴気とかいうものに犯されているのを目にすると、胸が苦しかった。まるで、故郷が廃れたような切なさに唇を噛む。

 ユウキの故郷はここではないのに。

 いや。この山はすでにユウキのもうひとつの故郷になっていた。

「ああ、そうだな」

 ぽん、と。ルーシーはユウキの頭を撫でてくれる。

「オリンピアはアトスが好きだったから」

「……いつか、もとにもどせる?」

「きっとな」

 そうなったらいいな、とユウキは思う。

 美しいこの山を。見てみたい。

「私もそう思っているが……生きているうちに成し遂げられるかどうか」

 くしゃ、と笑うルーシーの顔は少しだけ幼く見える。

「おとなになったら、できる?」

「瘴気の発生元を少しずつなくしていくことしか、今のところ方法はないが……お前なら、成し遂げるかもな」

 それがどれくらいに大変なことなのか、今のユウキにはわからない。

 けれど、いつか。

 将来の夢、なんて長いこと考えもしなかった。

(山をかつての美しい姿に……って、なんか環境保護活動みたいだわ)

 まさか自分が、未成年環境活動家になるとは……とユウキはちょっと遠い目をした。北欧の裕福なご家庭の子女がやることだという偏見を持っていたけれど。

(俺にできるかはわからないけど……夢を持つのは悪くないか)

 鍛錬の目標ができて。

 身近な師匠ができた。

 この世界で普通に生きていける以上の目標ができたのだった。