規格外のバケモノがいる。
男たるもの、そんな噂が聞こえてくれば心が躍るものだ。
筋骨隆々の男たちがひしめきあう酒場では、様々な噂話が飛び交う。
各地からやってきた腕自慢たちで、王都近辺に出没する魔獣の駆除で生計を立てている者ばかりだ。
人間以外の種族すら珍しくない王都の酒場である。
近頃、食べたこともないような美味な料理を出すようになったと評判だ。
その片隅で保護者に連れられた男児がちょこんと座って食事をしている。獣人族なんかよりも、ずっと珍しい客だ。
年の頃は、六才か七才か。
身なりも整っているし、つやつやの黒髪にふにふにでバラ色のほっぺた。つまりは、ずいぶんと可愛らしい顔をしている。
服装から男児とわかるが、もしかしたら女の子だと間違われることもあるかもしれない。
男の子の足元では、これまたお行儀よく犬が丸まっている。
だが、常連たちの視線は冷たい。
たしかに場違いな食事客だが、幸いとても行儀のいい子どもだった。
ジョッキをぶつけ合う客たちが、彼の存在にクレームをふっかける隙がないのだ。
「知ってるか? 北の大魔導師が弟子をとったって」
「あの堅物が!? 才能なきものは去れ、とかいって王立学院主席のガキを追い返したやつだろ」
「で、なんでもその弟子ってのが十才にもならないガキらしい」
「ははは、冗談だろ?」
「で、王太子殿下にも気に入られてて」
「ますます眉唾だな」
「噂によればだが、精霊の加護をうけた特別な子どもで、しかも! あの伝説的な最強の戦士……グラナダスの隠し子だとか」
「設定盛るのもいい加減にしろよな、嘘つけタコ」
「本当なんだって! 珍しい黒髪で、犬っころをつれてるらしい」
「黒髪で、犬を……?」
たしか、そんな子どもをどこかで。
全員の視線が、騒がしい酒場の片隅に注がれる。
カウンターの隅で、見たこともない料理を食べている子どもがピタリと動きを止めた。
「……ぼくに、なにかごようですか?」
きょとん、としている子どもに酒場の男たちは一斉に毒気を抜かれたようになる。なんだ、思い過ごしか。
「いや、なんでもねぇよ。飯食ってるとこ邪魔して悪かったな」
「とんでもない。ぼくのほうが、おじゃましていますので」
「ははは、こりゃできたガキんちょだ。どっから来たんだ」
「えっと、やまおくから」
「へえ、一家で王都に出稼ぎかい。一杯おごってやろうか」
「おさけはのめませんっ」
どっと場が湧いて、客たちの意識は可愛らしい坊やから、色気をただよわせた酒場の娘たちに移ってしまった。
「……あぶなかったぁ」
ほっ、と黒髪の男児──噂の中心だった規格外のバケモノことユウキは、安堵の溜息をついた。
あぶない、あぶない。
王太子殿のお忍びでの裏路地飲み歩きについてきてみたけれど、なんだか大変なことになってしまっている。
「オトナになるのも楽じゃないな」
ユウキはぽつんと呟いた。
あー。こりゃ、死んだわ。
目の前に迫り来る通勤快速特急(新宿行)を振り返って、勇樹は思った。
神崎勇樹。誕生日を迎えたばかりの三十二才児である。
いいおっさんが児童を気取っているわけではない。もちろん、バブっているわけでもなければ、オギャっているわけでもない。
勇樹がガキんちょと呼ばれていたころには、スーツを着たサラリーマンたちはみんな立派なおっさん、もとい、オトナに見えた。
自分が同じ立場になって思い知る。
オトナってのは、中身はガキのままで肉体ばかりが年を取ってしまった悲しい生物なのである。
昨日まで有休消化のために(なかば無理矢理)連休を取得していたわけだけれど、連休明けの出勤というのは何故こんなにもツラいのか。
有意義な休暇だった。オンラインゲームの素材集めをしながら動画サイトで科学や生物、世界遺産とかの解説動画を見まくって、好奇心を満たした。
初心者をキャリーしてレア素材の回収を手伝うという人助けもした。
ガキの頃には、科学者とか冒険家、それにヒーローなんかにあこがれていた。例に漏れず、かっこよく人助けをする自分を妄想する日々だった。
実生活では、人並みの苦労なんかはしてきたと思う。
二つ下の双子の妹と弟が、それぞれ音楽とスポーツに才能豊かなやつらだった。母は早くに亡くなって顔もおぼろげにしか覚えていない。
親父は男手ひとつで子を育てているからといって、彼らの才能をつぶしたくないという思いが強かった。
勇樹はどこからどう見ても立派な凡人だという自覚があった。
だからこそ、家事を積極的に引き受けた。高校生になってからはバイト代を稼いでは、妹のレッスン代や弟の遠征費にあてていた。
もっとも金のかかる時期、生活費のためにと俺の名義で限界まで借りた奨学金は今も返済中だし、当然のことながら部活やらサークルやらの青春とは無縁だった。
別にそれは立派なことじゃないと、勇樹は思う。
バイトや家事の合間に、オンラインゲームを無課金でやりこめるだけやりこんだり、図書館であれこれ借りてきた図鑑や本を眺めたり、スマホでオンライン百科事典のリンクを片っ端からタップして「へー」とか「ほー」とか唸ったり……そういう楽しみがあった。妹も弟も、そういう時間をすべてレッスンや練習に割いていた。
身の丈を知る。
思い出すと、勇樹は当時からそんなかんじのガキだったのだ。
悪いことばかりじゃないし、勇樹にもやりとげたと胸をはれることがある。
パリの音楽院への留学が決まった妹は号泣しながら「お兄ちゃんのおかげだ」と俺にハグをしてきたし、サッカーのプロリーグでちょっとした活躍をみせている弟は、この間のインタビューで最も尊敬する人物に「兄貴」を挙げていた。
それだけでも十分すぎるほどの恩返しだし、我が妹と弟ながら俺なんかより立派なオトナだと思う。別にその程度の苦労をしたからといって、人格が老成することはないのだ。
勇樹は勇樹で、こうしていい年をして趣味に没頭しているのは……まあ、悪くはないと思っている。
三十二才児なりに、充実した日々。
科学者にも冒険家にも、ツーブロで日焼けしたベンチャー起業の社長にもなれなかったし、中身はまだまだガキだけれど、不満はない……はずだ。
ゲーム仲間とはチャットのみでのやりとりをしているから、相手の年齢も性別もわからない。だが、話の端々を聞くに勇樹のような「オトナ児童」は少なくないみたいだ。
オトナ児童のままで社会に出て、外では「オトナ」の顔をして働いている二重生活。なんだか少し周囲を騙しているような気持ちになる。
ガキの頃には、オトナになったら誰にも叱られずにゲーム三昧してやる……なんて想像していたけれど、本当にそういうオトナになってみると、心の隅にはちょこんと居座っている罪悪感がつぶらな瞳で勇樹を見つめてくる。
いや、三十二才児で何が悪い!
結局はそうやって開き直って夜遅くまでゲームにいそしんでいたわけだが、加齢ってのは残酷なものだ。
見事に寝坊をした。
微妙に寝ぐせの残る髪の毛をワックスで押さえつけて、ちょっと皺の寄ったスーツを着る。
目の下のクマは見なかったふりだ。これは連休中のゲームのせいというよりは、残業続きによる慢性的な寝不足の証である。
「ん……?」
そんなわけで走ってたどり着いた最寄り駅。今日から再開する労働のために、勇樹はいつもより一本遅い電車を待っていた。
駅のホームに立っている人のほとんどが、生気のない顔でスマホの画面をじっと眺めている。
オトナだ。
工場のラインから不動産営業まで色々と職を経験したが、どの職場のバックグラウンドも同じようなありさまで、死んだ顔で背中を丸めてスマホをいじっている人ばかりだ。
「あの、大丈夫ですか?」
その中で、様子のおかしい人がいた。
勇樹の斜め前に立っている、菫色のマフラーをした女性がぐらぐらと揺れ始めたのだ。
声をかけたが、返事がない。
危ないな、と思っていると、かくんと女性の足から力が抜けた。
「ああっ!」
思わず叫んだ。
このままでは線路に向かって、真っ逆さまだ。
ホームには通貨電車を知らせる自動アナウンスが流れている。
「あぶないっ!」
やばい、と思ったときには、すでに勇樹の身体は動いていた。
女性の腕を取って引っ張る。
ぐい、と力をこめた瞬間──今度は、俺が体勢を崩してしまう。
立て直そうとしても、足にうまく力が入らない。
ついに足首をぐねって、ホームに落下した。
右肩、強打。
ひと呼吸遅れて、誰かが悲鳴をあげる。
緊急停止ボタン、誰か押してくれ。
かすむ視界の中に、さっき助けた女性が見えた。
真っ青な顔でこちらを見ている。よかった、とりあえず無事みたいで。
──そのとき。
プワァァァー、マヌケで絶望的な音が近づいてきた。
「嘘だろ」
目の前に迫り来る通勤快速特急(新宿行)の車輪と、ホームの悲鳴。
勇樹は、俺は思った。
……あー。こりゃ、死んだわ。
◆
で、目が覚めたのは真っ白い空間だった。
目が覚めたというよりは、変に意識がハッキリしている夢という感じだ。
「……あれ、知らない天井?」
違う。天井すらない。
ただどこまでも、白い空間が勇樹の前に広がっている。
「なんだよ、ここ……?」
ところどころ、ちょっと夢カワっぽいパステルの霞がかかっている。
呆然とする勇樹の独り言には、ちょっとエコーがかかっている。
「ちっす、当選おめでとう!」
「へ? 誰?」
気がつくと、俺の目の前には金髪ショートカットの美少女が立っていた。
美少女といっても、けっこう小さい。十才くらいか。
ギリシャ神話の神様みたいな、白い布を肩から斜めがけにしている。頭には月桂冠っていうのだろうか、葉っぱが乗っかってるし。
これ、神様だ。
イメージとだいぶ違うけど。
「神……崎勇樹……カンザキ・ユウキ? これが名前か」
「は、はい」
「確認、ヨシ! なお、我の姿と声は、万能翻訳魔法によってカンザキ・ユウキの生存していた世界の一般常識をもとに、理解の範疇かつ好意的に受け取られやすいものに翻訳されているぞ」
「それ、本当の姿じゃないんだ……」
金髪ショートカットの勝ち気なロリ(ギリシャ神話の姿)が『一般常識を元に』生成された姿形なのか……どんな常識だよ。責任者、出てこい。
いや、キャラデザとしてはかなりいいけど。
ソシャゲに出てきたら、ガチャぶん回し待ったなしなかんじだ。
「我の本当の姿を直視したら、おまえさまアタマおかしくなっちゃうぞ」
「あ、そういうかんじ?」
っていうか、あれだ。
俺、やっぱり死んだんだ。
こうして神様にエンカウントしてるし。
勇樹は頭を抱えた。
「っていうか、当選って?」
「うむっ。人助けのために死んだ魂のなかから抽選で、別世界につよつよの存在として生まれ直す権利を進呈しているぞ」
「転生ってことか」
「お、話が早いな。おまえさま、本当に縁もゆかりもない人間を助けるために死んだから、けっこう高ポイント」
「つよつよって……?」
「いわゆる、おまえさまの世界でいうところの『チート』ってやつだな。欲しい能力があればくれてやる、戦闘特化も生産系特化もどんとこいだ!」
つまり、特別な能力や才能をこの場で貰って、異世界でやり直せるってわけだ。なんて、おいしい展開か。
しかし、勇樹はちょっと考え込んでしまう。
「うーん……才能って言っても、それを活かせるかどうかは別だよなぁ」
俺の自慢の弟と妹は、たしかに才能があった。
けれど、彼らがその才能を活かしていっぱしの者になれたのは、たゆまぬ努力があったからだ。それを勇樹は知っている。
実力と結果がものをいう世界に身を置いて、それでも努力を続けるのは並大抵のことじゃない。……自分には、とてもできない。
「ほれ、どんな力が欲しい?」
「……いや、いいです」
「へ?」
「丈夫な体だけいただければ十分なので」
「謙虚すぎるっ!」
金髪ロリはひくっと頬をひきつらせた。
とはいえ、意見を変えるつもりはない。アラフォーにもなれば、身の丈くらいはわかるもんだ。
「うーむ、じゃあ……本当にいいんだな?」
金髪ショートカットの勝ち気なロリ(ギリシャ神話の姿)もとい、女神様は最後に念押しをしてきた。
「こっちでもコントロールできないことはあるから、それはご了承のほどを!」
転生する場所、時間、家庭などは神様といえどもコントロールができないのだとか。
必ずしも母体から生まれるわけじゃないらしい。なんだそりゃ。
「大昔、桃の中とか竹の中とかに当選者を転生させちゃったバカ女神がいたから、物理的にヤバい場所に生まれ落ちることはないようにってガイドラインが変わったはずだ。そこは安心しておけ!」
「えええ……」
さすがに次に目が覚めたら植物の中に閉じ込められていた、とかは勘弁してくれ。っていうか、各種童話ってそういう話だったのか?
金髪ロリ女神が、虹色の光を放つ。
まばゆく美しい光に目が眩む。某ゾウさんが主人公のアニメ映画の某シーンが「まさにあんなかんじ」だと噂に聞く、よくないオクスリによる小宇宙旅行ってのは、こんな風なのだろうか。
「さらばだ、カンザキ・ユウキ! 達者でな!」
思わずぎゅっと目をつぶる。
「我のコントロールできない、前世の徳ポイントによる能力は生まれてみてのお楽しみである! 以上、転生面談……完!」
あ、そういうのもあるんすか。
勇樹がそうツッコミを入れようとした瞬間。
今まで存在してた、あらゆる五感がすべて消えた。
ぶつっと、唐突に。
さっぶ。
寒い、すっげぇ寒い。
勇樹が目覚めたときに感じたのは、とんでもない寒さだった。
おそるおそる目を開ける。
一面、真っ白な世界。
金髪ロリの女神様がいた空間の白さとは違う。これは……雪だ。
それも、地面を覆い尽くすような猛吹雪。
白、白、白だ。
地面も枯れ木も雪で真っ白に塗りつぶされて、空を被っているはずの分厚い雪雲すら見えない。
「……ほぎゃ」
ここ、どこ?
そう呟こうとしたら、口から赤ん坊みたいな声が出た。
いや。そうじゃない。
赤ん坊だ。「みたいな」ではなくて、赤ん坊なのだ。
周囲を確認する。
吹雪で煙っていてよく見えないが、雪がまとわりついて真っ白になった枯れ木がたくさん並んでいる。
(いやいやいや、生まれる場所とか時間を選べないって言ってたけど、これはさすがに死んじゃうって)
赤ん坊が吹雪の中に捨てられている状態だ。
普通こういうのって、召喚の儀式とかで呼ばれるんじゃないんだ?
これでも桃とか竹とかの中に生まれるよりはマシなのだろうか、どっちもどっちな気がするけれど。
(でも、不思議と凍えないで済んでるな?)
凍死待ったなしの状況だけれど、手足は動く。不思議だ。
……これが「丈夫な身体」ってことか?
あの金髪ロリ女神様の加護のようなものだろう、と受け取っておく。
とはいえ、めちゃくちゃに寒いし、手足の感覚がだんだんなくなってきていることには変わりない。
もぞもぞ。
手足を動かしてみるが……ご丁寧におくるみをされている。
(これじゃ動けないなぁ)
困った。
こんな山の中で、誰か親切な人が助けてくれるとも思えない。
もぞもぞと手足を動かしてみる。
「あばっ」
おくるみが解れた。
さ、さ、寒い!
服を脱いだんだから、それはそう。
手足はちいさくて、立ち上がるのもやっとだ。というか、近くで立ち枯れしていた木を使って掴まり立ちをしてみたが、まだ歩くのは無理そうだ。
ここに鏡はないけれど、頭でっかちな赤ん坊なのだろう。
しばらくすると、少しだけ吹雪の勢いが弱まった。
(こ、この隙に、雪を掘って……シェルターとか作れたら……いや、この小さいおててじゃ無理か)
とかなんとか考えていると、遠くから犬の遠吠えが聞こえた。
ウォーン、ワォーン、という鳴き声がどんどん近づいてくる。
やがて、妖しく光る赤い光が無数に浮かび上がる。
「ふぎゃーっ!」
狼だ。
しかも、デカい。
さらには、群れだ。
狼たちは小さめの熊くらいのサイズで、筋肉質なうえに牙を剥き出しにしている。奴らは「ご馳走発見!」とでも言わんばかりに、よだれを垂らしながらこっちにやってくる。
(おわった……)
我ながら、なんて運がないんだろうか。
生まれ変わって即、悲しく死ぬことになるなんて。
(せめて痛くありませんように!)
と、心から願った。
観念して目をつぶった俺に迫り来る、でっかい狼たち。
そのときだった。
「──失せろ」
乾いた声が聞こえた瞬間、地面が破裂した。
分厚く降り積もった雪が爆散する。
凶暴な狼たちが吹っ飛ばされて、もんどりうって倒れた。
「おぎゃあああっ!」
ユウキは泣いた。
狼の群れを一撃で吹っ飛ばす存在である、怖すぎる。
雪煙の向こうから姿を表したのは……人間だった。
拳を地面に突き立てている。
魔法か爆薬か、そういうものを使ったのだと思ったのだけれど、どうやら『地面をぶん殴った衝撃波で狼を撃退した』ようだ。バケモノすぎる。
いや。いやいやいや。
パワーって。この威力をパワーのみでお出ししてるって、怖い。
爆風になびく分厚いローブの隙間から、簡単な革製の籠手やボディアーマーがチラチラと見える。冬の雪山で狼に立ち向かうにしては、あまりに軽装だ。
(やばい世界に来てしまった!)
この世界の人、強すぎる。
出で立ちからして、たぶん猟師さんとかだろう。一般の猟師で「これ」っていう事実が、この世界の過酷さを勇樹に思い知らせる。
これくらいできないと、この世界では生きていけないんだ!
もうだめだ、おしまいだ!
(俺、この世界でやってけるのか!?)
バケモノ──もとい、この世界で出会った人間さん第一号がゆっくりと立ち上がる。
そして、勇樹のほうへ歩いてきた。
狼たちは圧倒的な暴力から逃走するべく、すでに姿を消している。
一体、どんな筋骨隆々の男なのか。
呆然とする勇樹の前に立ったバケモノは、ゆっくりと顔を隠すほど深く被っていたローブを脱いだ。
「……うそだろ、赤ん坊?」
姿を表したのは、妙齢の女性だった。
年齢は三十代後半くらいか、もうすこしだけ上に見える。
掠れたハスキーボイスだ。
「コオリウルフの群れ……魔王討伐時に取り逃がしたフェンリルの影響か?」
ぼそぼそと独り言をこぼす女のローブから覗いている頬には大きな十文字の傷。長い旅をしているのか、肌は少しほこりっぽい。
でも。それを補ってあまりあるほどに、オーラのある顔立ちだ。
年齢を重ねてもなお瑞々しさが残っている。
若い頃はさぞ美人だったのだろう。
「どうしよう、こんなところに、どうして……とうか、本当に人間だよな? 人間型の端末でエサを誘き寄せるタイプのモンスターなんてことは……」
眉をハの字に下げて、明らかに困っている。
勇樹をそっと抱きあげて、周囲をきょろきょろと見回している。
悪い人ではなさそう、どころか。
(この人、お人好しだ)
ちょっと勇樹と同族な感じがする。
雪山にいる不審な赤ちゃんこと勇樹を心配して、おろおろとしている。
俺をおくるみで包み直すと、寒くないようにローブの中にしまい込んだ。
女の人のいい匂いはしなくて、少しの汗とお線香のような香り、それと使い込まれた色々な道具の匂いがした。けれど、不快感はなくて……俺に頼れる親父がいたら、こんな匂いがしたのかもしれない。
「くそ……あいつに頼るのは気が引けるが、仕方ないか」
女の人は駆け出した。
(あったかい……)
極寒からの一肌のぬくさに、赤ん坊が逆らえるはずもない。
かくんと寝落ちしたけれど、がっしりと抱っこしてもらっていたので不安はなかった。
◆
次に目が覚めたときには、天国あるいは楽園にいた。
楽園っていうのはイメージの問題。
泉からは綺麗な水が湧き出ていて、若葉の茂る木や花々がたくさん生えている──勇樹のイメージする天国あるいは楽園そのものだ。
「あ、起きました。可愛いですねぇ」
勇樹を見下ろして微笑んでいるのは、青い髪の毛をなびかせた女だった。
優しげな表情にたわわなボディ、鈴の転がるような声。
「世話をかけるな、オリンピア」
ハスキーボイスが聞こえた。
少し離れたところに、勇樹を拾ってくれた女狩人が座っている。
明るいところで見ると、やっぱりかなりの「イケメン」だ。
「いいの。マリィが私を頼ってくれるなんて、とびきり嬉しいです」
「高位精霊なんだから、あちこちの人間がお前を頼るだろう?」
「そうでもない。というか、『魔の山』のとびきり奥地に引きこもっている精霊なんて、尋ねてくる人はいないですもの」
女狩人の名前は、マリィというらしい。
で、浮遊しているのはオリンピア……精霊、らしい。
(わーお、ごりごりのファンタジーじゃないか)
勇樹がやっていたオンラインゲームは、いわゆる西洋ファンタジー的な世界観だったので親しみがある存在だ。
マリィとオリンピアは、かなり親しげな様子だ。
昔なじみ、という雰囲気だ。
「あの山の中にいたのに平気な顔して……何か強い加護があるのかしら」
ぷにぷに、とオリンピアが勇樹のほっぺたをつつきながら言う。
赤ちゃんのほっぺたの感触に、オリンピアはにっこりと微笑んだ。
そして、不意に真顔になったかと思うと目を閉じる。
勇樹の身体から何かを感じ取っているようだ。
「さあ……たしかに、捨て子にしては不自然だが」
「ふむ、このとびきり不思議な魔力……あなた、この世界の子ではないのね」
「どういうことだ?」
「おそらく、彼方の世界からの旅人さん……たまにあなたみたいな人がやってくるって聞いてるわ」
「この世界の者ではないということか、どこからどう見ても、普通の赤ん坊にしか見えんが」
「精霊にはわかるのよ」
オリンピアは、勇樹を抱き上げる。
「あぶぅっ」
「よしよし、いいこですね」
豊かな胸に埋もれて、思わずジタバタと手足を動かす。
精霊とはいえ、ちゃんと体温があって柔らかい。さらに、なぜか花のようないい香りがした。
「安心してね。私たちがあなたを立派に育てますから!」
「私たち?」
「ええ、私たち」
「オリンピアと……誰だ」
「ルーシーと私で、この旅人さんを育てるの!」
「は、はぁ!?」
ルーシーが立ち上がって、オリンピアに詰め寄った。
「待て待て待て、たしかに男児ではミュゼオン教団の孤児院にも預けられないが……私たちが育てるって、冗談だろう!?」
「ほら、見て。とびきり可愛い」
「私はそういうつもりでお前を頼ったわけじゃないぞ! あくまでも、一時的な保護を──」
「一時的って、その先は? 考えてないんでしょ。ルーシーがそういうつもりじゃなくても、私はそういうつもりになったの!」
勇樹を抱えたままくるる、くるる、と空中で踊るように回っていたオリンピアがルーシーに向き直る。
「だって、よく考えて。この世界にはこの子の親はいないのよ?」
「……む」
「しかも、魔王が死に際に放った瘴気のせいで世界の秩序はとびっきりめちゃくちゃになったまま……この子、私たちが育てないと死んじゃうわ」
がんばれ、オリンピア。
勇樹は全力で精霊を応援した。
(さっきのルーシーさんのパワー……この世界ではあんなかんじじゃないと生き抜けないってんなら、捨てられたら即死だ!)
この場所は少なくとも、さっきの雪まみれの場所よりは安全そうだ。
どうにかして、ここで養ってもらいたい。
少なくとも、この世界で生きていく準備ができるまでは。
「そんな子を、ルーシーは見捨てるの?」
「うぐっ」
「それにほら! この子、こんなに可愛いです! 人間の赤ちゃんの手足ってこんなにちいちゃいのね……ふふ、たまりません」
「……わかった。そこまで言うなら、お前に任せる」
ルーシーが呟いた。
「任せる? 私だけじゃダメよ、ルーシーも一緒に子育てするの!」
「なっ」
ルーシーが何か言い返す前に、オリンピアは勇樹を抱えたままで楽園の隅にある小さな小屋に飛び込んだ。
オリンピアがぱちんと指を鳴らすと、窓の外から果物が飛び込んできて木でできた器の中ですりおろした状態になる。
(魔法だ!)
さすが精霊。こういうのもあるのか。
勇樹は「おお〜っ」と声を上げた。
人間も魔法を使えるのだろうか。ルーシーのように強いのがこの世界の「オトナ」ならば、この世界の仕組みをもっと知っておかないといけないだろう。
「さあ、ごはんよ。旅人さん」
すりおろした果物をスプーンで差し出された。
腹ペコだったのでありがたく頂戴する。
とても甘くて瑞々しい、爽やかな酸味が赤ちゃんのフレッシュな味覚を刺激する。思わず小さなおててで拍手をしてしまう。
「んん〜っ、んまっんまっ」
「上手に食べられましたね、とびっきりのいいこちゃん!」
褒められて、思わず頬が緩む。
ごはんを食べるだけで褒められるなんて、なんだか罪悪感すら覚えてしまう。……いや、万が一にも「おっぱいをどうぞ」なんて言われるよりはマシか。
勇樹──ユウキ・カンザキがこの世界にやってきてから、だいたい三年ほどが経過した。
この間にユウキは歩いて、走って、喋ることができるようになった。
自分の名前がユウキだと伝えるのに一年かかった。
オリンピアはその間ずっとユウキのことを「旅人さん」と呼び続けていた。
精霊というのは、ちょっと抜けているのだろうか。
ルーシーのほうは、赤ん坊という存在に慣れるのに同じくらいの時間を使っていた。未知の生命体に接するような、張り詰めた表情であった。
ユウキと出会ったあの日、大吹雪の中でなんのためらいもなくふにゃふにゃの赤子を抱き上げてオリンピアのところに連れてきてくれたのだから、ルーシーは高潔な人物なのだ。
精霊であるオリンピアはルーシーのそういう不器用でまっすぐな性根を好ましく思っており、ルーシーはオリンピアの純粋無垢
それと同時に、この世界のことについても少しわかってきた。
この世界は精霊の力によって成り立っている。
さまざまな自然の恵みが実ったり、人間が魔法を使ったり、精霊の力はこの世界にとって重要だ。
だが、魔王と人間が争う『魔王時代』と、魔王を討伐した際に放たれた瘴気によって精霊たちの力は弱まっているらしい。
この山もかつては精霊の力が満ちた地だったらしい。
けれど、魔王の瘴気が直撃したことで今は『魔の山』と呼ばれる、魔物がうじゃうじゃと湧き出る不毛の地になってしまった。
オリンピアの結界によって、この周辺だけがかつての面影を残しているらしい──ということは。
(つまり、世界中にあの狼みたいなやつがいる……ってことだ)
この世界にやってきた日に、自分を食おうとしていた狼の群れを思い出す。
狼と呼ぶにはでかすぎる、ちょっとした子牛みたいなサイズのモンスターだった。
各地に現れるようになった魔獣を討伐して回っている、狩人のルーシーが助けてくれなかったら、と思うと恐ろしい。
今頃ユウキは巨大な狼のうんことして、雪の中で凍り付いていただろう。
ユウキが赤ん坊の頃は、オリンピアとルーシーが揃ってユウキの世話をしてくれていたが、この頃ルーシーは何日かまとまって出かけることが多い。
遠方に強力な魔獣が出たとなればルーシーに招集がかかるらしい。
腕のいい狩人なのかもしれない。
というわけで、今はルーシーは不在である。
ルーシーの不在が長引くと、オリンピアは五秒に一回のペースで溜息をつく。
ファンタジックでミステリアスな存在のわりに人間くさいので、ユウキはたまにオリンピアが精霊だということを忘れてしまう。
パンと果物の朝ごはんを食べ終えて、ユウキは聖域に作られた小屋から飛び出す。
「いってきましゅ、かあさん!」
かあさん、というのはオリンピアのことだ。
ちなみに、ルーシーのことは「ははうえ」と呼んでいる。
庶民生まれ庶民育ちのユウキとしては小っ恥ずかしいけれど、一度だけルーシーを「ママ」と呼んだら苦虫を噛みつぶしたあとで渋柿スムージーを一気飲みしたような顔になっていたので、色々と考えた末に「ははうえ」で落ち着いた。それでもちょっと不満なようだけれど……中性的な喋り方をするルーシーだが、あまり女性らしく扱われることが得意ではないようだった。
彼女自身が親のことを母上と呼んでいたようなので、いったんそれでよしとしてくれたようだった。
オリンピアといえば、精霊には親子という概念がないようだった。おそらく人間の様子を見たものを真似をしているようで、たまにトンチンカンなことをやりはじめる。たとえば、息子であるユウキにドレスを着せようとしたり……とにかく、オリンピアは「かあさん」と呼ばれる状況を、おままごとみたいに楽しんでいるようだ。
というわけで、本日もご機嫌でキッチンに立っているオリンピアが、ユウキの「いってきます」に振り返る。
水色の髪が空気になびいて、とても神秘的だ。……エプロン姿でおたまを片手に立っていること以外は。
ちなみに、このエプロンとおたまはオリンピアがイメージする「おかあさん」のようだが、特に調理で活用されることはないコスプレだ。
オリンピアが作れるのは、丸ごと果実と果実のすりおろしだけ。結界内の樹木を操って「作って」くれる果実は、とんでもなく美味しいのだが……飽きていないといえば、嘘になる。
料理らしい料理については、ルーシーのほうが作ってくれるのだが、こちらにもちょっとした問題があった。
(といっても、ははうえの料理って大味というか野営食っぽいっていうか……)
ルーシーの料理は焼いた肉、干し肉、ごった煮のローテーションなのだ。
我ながら特に病気もなく育っているのは奇跡だとユウキは思っていた。
(そろそろ、俺が料理係になってもいいかも?)
というのが、三才児の意見だった。
「待ってください、ユウキさん!」
小屋の外に飛び出そうとしているユウキを抱き上げて、オリンピアがもちもちのほっぺたにちゅっとキスをした。
(うう……いつもながら照れるぞ、これ)
オリンピアのユウキへの溺愛っぷりはすさまじい。
ルーシーいわく「瘴気でいなくなってしまった生物に注ぐべき愛情が、ぜんぶユウキに注がれている」とのことだった。荷が重すぎる。
キスの嵐がおさまって、やっと地面に下ろしてもらう。
「いってらっしゃい、ユウキさん。どこで遊んでもいいけれど──」
「けっかいのおそとにはでない、でしょ」
ユウキが言うと、オリンピアは満足そうに頷いて、小さな包みを渡してくれる。
「おべんとう、ありがとうございましゅ」
オリンピアが持たせてくれるのは、フルーツだ。
お弁当というよりもおやつに近い。
昼食時には必ず小屋に戻ることになっているのでそれでも困らないのだが、結界の中に生えている果実は瑞々しくて喉の渇きを癒やすこともできるからありがたい。
「ええ。とびきり気をつけて遊ぶんですよ」
「はい、かあさんっ!」
「…………っ」
「かあさん?」
「ああ〜〜〜もうっ、とびきりとびきり可愛いですぅっ! ルーシーが構い過ぎるなって言うから我慢しているけれど……ユウキさんにはずっと私の視界にいてほしいですっ!」
「あわっ、く、くるしい……」
「すみません……とびきり寂しくて……」
「かあさん、まいにち……すごいな……」
「ふにふにのほっぺも、おてても、ユウキさんが可愛くて仕方がありませんっ」
オリンピアによるモチモチ攻撃を耐えて、やっと出かけられるようになった。外に駆け出すと、若草の匂いが鼻をくすぐる。
オリンピアの結界に守られたこの場所は、いつも青空だ。
ユウキがここで育てられている三年間で、雨が降ったことは一度もない。
正直、この状況はかなり幸運だ。
だからこそ、今の状況に感謝して、力を蓄えておかなくては。
ユウキはとことこと歩いて、結界の端のほうにやってくる。
「んっと、このへんならいいかな……?」
結界といっても、外側と内側がバリアのようなもので明確に分かれているわけではない。
とことこと歩いていると、少しずつ周囲の様子が変わってくる。
青々としている植物が、だんだん枯れていく。
空がどんよりと曇っていく。
ユウキの手足は三歳児の長さなので前世の体感はあてにならないけれど、だいたい半径三キロくらい歩くと、岩肌が剥き出しの崖がある。
ここがユウキの「遊び場」だ。
「……えいっ、ほっ」
三歳なんて、ちょっと歩けば転ける年頃だ。
しかし、どうやらこの世界では話が違うらしい。
三キロなんて歩けるはずがない距離を平気で歩けるし、岩肌をひょいひょいとジャンプで移動できる。
重力が違うのか、はたまた身体のつくりが違うのか。
とにかく、できてしまうのだ。
この世界にやってきてすぐに目にした、ルーシーの強さを思い出す。
あれくらいでなければ、この世界で生きていけない──そう仮定すると、今から少しでも鍛えておかなくてはいけない。
ユウキはこの崖を登ることで、少しでも力をつけながら成長しようともくろんでいた。
「よいしょ、った、はっ!」
崖から飛び出た岩に足をかけて、跳躍を繰り返す。
五歩、六歩……十歩、十一歩。だいたい、このくらいからいつも足元がぐらついてくる。三歳児の限界なのか。
十二歩、十三歩……今日は調子がいいようだ。
十四、十五、十六……十九、二十。
やった、と小さくガッツポーズをした瞬間。
「うわ……だめだっ」
よろめいた。
とっさに手近にある岩を掴む。
ぶらさがって体勢を整えてから、飛び降りる。
たすっ、と愛らしい音を立てて着地。
三歳児としては、驚異的な身体能力だ。
といっても、登ることができたのは大人の身長くらいまで。ユウキの立てた目標は、手を使わずにこの崖を登りきることだ。
ルーシーであれば、難なく同じことをするだろう。
「でも、しんきろくだ」
今までは、よくて十五歩が限界だった。
見上げるほどに高い崖。この世界で生きていくためには、これくらいはたやすく駆け上れるようにならないといけないだろう。
こう言ってはなんだが、ルーシーは若くはない。
精霊であるオリンピアの寿命はわからないが、ここまでよくしてくれた二人の手をわずらわせたくない。
この世界では魔法も使えた方がいいのかもしれないと、オリンピアに魔法の使い方を尋ねたところ、「あぶないので、ぜったいにだめですっ!」と拒否されてしまった。そういうものなのか。
駄々を捏ねて困らせたいわけではないし、何より心配をかけたくない。
とりあえず、自分でできる鍛錬を見つけて実践しているわけだ。
運動に秀でていた弟が「結局は基礎体力で差がつくし、足元を鍛えることが大切なんだ」と、プロのサッカー選手になった後も力説していたのをユウキは思い出す。何事にも通じる真理だろう。足元が何より大切だ。
もう一回チャレンジを、と立ち上がったところで背後から視線を感じて振り返る。
「ん?」
誰もいない。気のせいだろうか。
このあたりに魔獣が出たことはない。
とはいえ、今まで大丈夫だったことは、これからも大丈夫であることには繋がらない。
変だな、と思いながらもユウキが崖に向かって駆け出した。
一歩、二歩、三歩……崖を勢いよく駆け上がっていく。
とても調子がいい。
二十、二十一……目標にしていた、崖の中腹にある凹みまであと少し。
いつかは崖を登りきって頂上に楽々登れるようになるつもりだが、まずは
そのとき。
「何をしてる?」
「わっ!」
声をかけられて、驚いて体勢を崩す。
慌てて岩を掴もうと伸ばした手が、すかっと空を切った。
(や、やばい! もろに落ちる!)
衝撃に備えて身を固くする。
三歳児とは思えない脚力や体力……この世界にやってきてからの感覚に油断していた。この高さから落ちたら無事ではないだろう。
昨日まで大丈夫だったことが、今日もこれからも大丈夫である保証にはならないはずなのに。
けれど、痛みもショックもやってこなかった。
「……?」
恐る恐る、目を開ける。
「ユウキ……こんなところで何をしてるんだ」
「は、ははうえ!」
ルーシーだった。
たまたま今のタイミングで旅先から戻ってきたルーシーが、落下するユウキを受け止めてくれたのだ。
がっしりと抱き留めてくれている腕のたくましさと体感の強さに、改めて感心する。
「あ、ありがとございましゅ」
「オリンピアからは散歩をしていると聞いてたのだが……こんなところにお前がいるので、驚いて様子を見ていた」
なるほど、さっきの視線はルーシーだったのか。
気配には気がついたのに、まったくどこにいるのかわからなかった。
結界の力が薄まって、枯れかけた木が立ち並んでいるばかりの場所で身を隠す場所なんてなさそうなのに。
やっぱり、この世界のオトナはすごい。
「ふむ、ユウキ。お前が別の世界からやってきた旅人……オリンピアの言う通りだとすれば、お前の魂はその見た目とは違うのだろう」
ユウキをじっと見るルーシーの視線は、今までないほどにまっすぐだった。
そうか、とユウキは思う。
今までルーシーは、ユウキに対してどう接するべきか迷っていたのだ。
赤ん坊としてか、オトナとしてか。
「何を思ってこうなったのか聞かせてくれ」
「ひゃい」
言い逃れはできない。
ユウキはルーシーにすべてを説明した。
ルーシーは決めたようだから。
今日からはユウキを少しだけ、オトナ扱いすることに。
◆
「師匠だ」
ユウキが舌っ足らずな言葉ですべてを話し終えると、ルーシーは言った。
「ししょう……」
「うん、今日から私はお前のは、は、は、はっは……」
「ははうえ」
「うむ、それであり師匠になる」
どうしても自分を「母」とか「ママ」とか認めるのに抵抗があるらしい。
「お前は私と同じくらいに強くなりたいのだろう?」
こくん、と頷く。
この世界でオトナになるならば、強くならないといけないのだから。
「いいだろう」
にか、とルーシーが笑った。
この世界にやってきて初めて目にする笑顔だった。
「オリンピアにも私にも黙って無茶をしていたのはいただけないが、心意気を気に入った。自らの意志で物事を始めることは、このうえなく尊いことだ」
「あ、あい」
「他人の目も賞賛もなく、地道に続けることも……な」
ユウキが崖登りを自分で初めて、それをコツコツ続けていたことがルーシーにとっては好ましかったようだ。
「というか、あの身のこなし……一体、お前はどういう才能を……」
「うえ?」
「いや、なんでもない。ところで、どうしてこの崖を登ろうと思った?」
「……みたかったから」
ルーシーの質問に、ユウキは端的に答えた。
走り込みでもスクワットでもなく、崖登りを三歳児からはじめるトレーニングに選んだのは、ある程度は実践的だろうという考えもあったけれど、もうひとつ大きな理由があった。
精霊オリンピアの張った結界の向こう側の景色を見たかったのだ。
たった一度、命からがらルーシーに助けられたときに目にしただけの「外の世界」である。
自分が生きていく世界なのだから、きちんと見ておきたい。
「なるほど」
ルーシーは頷いて、ユウキをひょいっと抱き上げた。
幼児との触れあいに戸惑っていたルーシーといえど、もうユウキを拾って三年、オリンピアと共にユウキを育ててきた。抱っこには慣れたものだ。
「今日だけ、見せてやろう」
ふわっと重力が消えたような感覚に襲われると同時に、ユウキの視界がすさまじい勢いでブレた。ブレブレブレにブレまくった。
(は、ははうえ……じゃなくて、師匠! す、すごい身のこなしだ!)
足音すらもほとんど聞こえないほどの速さで、ルーシーが崖を駆け上っていたのだ。すさまじすぎる。
(やっぱり、このレベルじゃないとダメなのか……!?)
「子どもに無理はさせられんから、ゆっくり登るぞ」
「ほげええ!?」
これで、ゆっくり。
やっぱり、生半可な覚悟ではこの世界では生きていけないかもしれない。
数秒もしないうちに、崖のてっぺんにたどりつく。
ユウキが目にしたのは……一面の荒野だった。
白と灰色の世界。
山のてっぺんから見下ろす景色。なだらかな稜線には生命の片鱗が見受けられない。
ずっと遠くの地平線の付近にもっこりと、小さな森のようなものが見えるくらいだ。
「あ……」
ユウキの想像以上に荒れ果てていた。
この距離からでも目視できるほどに巨大な大型生物が歩いている。
あれはドラゴン的な何かだろうか。
畑らしきものも少ないし、食糧事情はどうなっているのか。
外の世界は、想像以上に厳しそうだ。
「この山はかつて聖峰アトスと呼ばれる精霊の力に満ちた土地だったんだ」
ぽつり、とルーシーは言った。
魔王時代と呼ばれる戦いの時代には魔王に対抗する精霊の力も盛んだった。
皮肉なことに魔王を倒した瞬間に、世界中に瘴気が放たれて多くの土地が死んでしまったのだという。
「ユウキ、かつて聖峰と呼ばれた……オリンピアの愛したこの山が、今はなんと呼ばれているか教えてやろう」
魔の山だ、とルーシーは言った。
「まの、やま」
「そうだ。まあ、コオリウルフの群れが走り回って、ガンセキベアがごろごろ生息している……瘴気の濃さといい、魔の山という名がふさわしいだろうさ」
「むかしは、ちがった?」
「自然の厳しさは変わらん。だが、鳥と小動物がすばしこく走り回り、鹿がゆうゆうと苔を食む……それをオリンピアが微笑んで見守っている。そういう土地だったんだ」
「……かあさんが」
ユウキは自分を育ててくれているオリンピアを思い出す。
オリンピアから注がれる特大の、ユウキがちょっと引いてしまうほどの愛情を思い出す。
本当は、こんなに広大な山すべてに注がれるべき愛情なのだ。
「ねえ、ししょう」
「なんだ」
「いちゅか、このやまがアトスってよばれてたときの、きれいなすがたをみてみたい」
ユウキは戸惑っていた。
この山が瘴気とかいうものに犯されているのを目にすると、胸が苦しかった。まるで、故郷が廃れたような切なさに唇を噛む。
ユウキの故郷はここではないのに。
いや。この山はすでにユウキのもうひとつの故郷になっていた。
「ああ、そうだな」
ぽん、と。ルーシーはユウキの頭を撫でてくれる。
「オリンピアはアトスが好きだったから」
「……いつか、もとにもどせる?」
「きっとな」
そうなったらいいな、とユウキは思う。
美しいこの山を。見てみたい。
「私もそう思っているが……生きているうちに成し遂げられるかどうか」
くしゃ、と笑うルーシーの顔は少しだけ幼く見える。
「おとなになったら、できる?」
「瘴気の発生元を少しずつなくしていくことしか、今のところ方法はないが……お前なら、成し遂げるかもな」
それがどれくらいに大変なことなのか、今のユウキにはわからない。
けれど、いつか。
将来の夢、なんて長いこと考えもしなかった。
(山をかつての美しい姿に……って、なんか環境保護活動みたいだわ)
まさか自分が、未成年環境活動家になるとは……とユウキはちょっと遠い目をした。北欧の裕福なご家庭の子女がやることだという偏見を持っていたけれど。
(俺にできるかはわからないけど……夢を持つのは悪くないか)
鍛錬の目標ができて。
身近な師匠ができた。
この世界で普通に生きていける以上の目標ができたのだった。
「これは……うまいな」
昼下がりの食卓で、ルーシーが唸った。
「ししょうのおくちにあって、よかった」
ユウキがルーシーに弟子入りしてから、一年と少しが経った。
最初はハードな修行のおかげで、家にいる間はずっと眠っていたが、体も少しだけ大きくなって余裕がでてきたわけだ。
オリンピアがままごとのように使っていた台所に火の精霊による力でコンロのようなものを設えてくれたので、スープを作ってみた。
結界内に湧いている泉の水は、そのままでも飲用に使うことができるほどに清涼で、料理に使ってもいける。
近頃、ルーシーに連れられて二日や三日がかりの狩りに出かけることもあるが、水筒に入れて持ち歩いても少しも腐らない。
小さい手足で料理を作るのは大変だったけれど、かなりの達成感がある。
「んん〜っ、これはっ! とびきり美味しい人間のお料理ですっ」
「私と同じ塩肉と豆を使ったスープなのに、うま味がすごい……」
「もうっ、天才ですっ!」
この世界にやってきて初めての料理にしては、わりと上出来だ。
ルーシーはもちろん、本来は食事をとることが必要ないオリンピアがユウキの料理を頬張っている。
今日の食材は久々に帰ってきたルーシーの狩ってきた魔獣の肉と保存食だ。
臭みを抑えて保存性を高めるためにきつめに塩をきかせた塩肉と、乾燥した豆を使ったスープだ。
(うん、うまい。師匠の料理は大量の水で塩を薄めてたんだな……)
きちんと塩抜きをしたうえで、乾燥した豆も水で戻して、それからスープを仕立てた。
ルーシーが同じような料理を作ってくれることも多かったが、どうやら下処理のようなものが足りなかったようだ。
塩肉の出汁と豆のうまみが滲み出たスープを乾いたパンに染みこませて、たいらげる。
「うむ、ユウキ……料理に関しては、すでに私を越えているな」
「ありがとうございます、ししょうっ」
「……おかわりはもらえるか?」
「うん。まだまだ、たくさんありますっ」
ユウキは、かつて弟と妹に食事を作ってあげたときを思い出す。
胃袋を掴めたようで、非常に満足。
「ユウキさん。私もこんなふうに、とびきり美味しいお料理を作れるようになりますかっ?」
「かあさん、こんどいっしょにつくろう」
「はいっ!」
ユウキはほっと胸をなで下ろした。
前世の味は、ここでも受け入れられたようだ。
今朝方、遠方で大型魔獣が出たということで、単身で狩りに出かけていたルーシーが久しぶりに帰ってきた。
それでルーシーの保存食をランチにしたわけだが。
「明日からは沿岸部の討伐隊に合流する」
「海? それってとびきり遠いですよ」
「ああ、海洋魔獣が出たそうだ」
なるほど、海にも魔獣が出現するのか。
当然といえば当然なのだが、山奥育ちのユウキにとってはピンとこない。
「ししょう、おれもいっていい?」
「駄目だ。シモフリリュウモドキを……そうだな、一晩で十匹ほど仕留められるようになっているなら考えてもいい」
「くぅ、さんびきがげんかい……かな」
シモフリリュウモドキは、雪に閉ざされた魔の山に住み着いている魔獣だ。
リュウ、つまりはドラゴンっぽい見た目をしているのだが、その正体は氷核を持つスライムの集合体だ。スライムとかいう、ゲームでいえば最弱の部類に属するモンスターのくせに素早く、強く、賢い。スペックでいえば完全にドラゴンそのものだ。
ただし、モドキというだけあって倒した後にはドロッとしたスライムだけが残される。ドラゴンの角や鱗みたいな戦利品は一切手に入らない。
死体からころんと排出される氷核を放置するとシモフリリュウモドキは何度でも復活してしまうので、唯一のドロップ品である氷核すらも破壊しなくてはいけないという理不尽加減だ。
逃げ足が速いうえにそれなりに手強く、今のユウキでは一晩中探し回って戦っても二匹か、よくて三匹程度倒せればいいほうだ。
ちなみに、師匠であるルーシーは一時間も経たずに十匹狩りきるだろう。
やはり、オトナへの道はまだまだ遠いようだ。
「なら、今回は留守番だ」
「はーい」
「正直、この山は魔獣の見本市みたいなものだ。焦ることはないさ。それに、コオリオオカミの群れがこの数年ずっと居着いているのも気になるし──」
「もうっ! ルーシー!」
「む、なんだ」
オリンピアが眉をつり上げて隣に座っているルーシーを小突いた。
「ユウキさんはこんなに小さいのよ、一晩中狩りをさせるなんてひどい!」
「いや、さっきのはモノのたとえで……」
「もう! 師匠だかなんだか知りませんけど、とびっきり悪いわよ」
「わ、悪かったって」
「いくらユウキさんが将来有望だからって、まだまだちっちゃいのですっ」
「わかってるっ!」
むぎゅむぎゅとルーシーの頬をつねっているオリンピアと、まんざらでもなさそうなルーシーをユウキは生暖かい目で見守った。
いかにルーシーが鋭い気配と乾いた魅力にあふれた女傑とて、下手をすると親子ほども年齢が離れて見える二人である。
精霊であるオリンピアがこんなにも心を開いているルーシーとは、一体何者なのだろうか。いまだに二人の関係は謎である。
夫婦でもないだろうし。
友達というには親密だし。
「それに……最近少し結界の調子が悪いのよ。瘴気が濃くなっているのか、誰かが結界を傷つけているのか……心配なのよ」
「ふむ、何か情報があれば伝えるよ」
「お願いね、ルーシー。とびきり頼りにしてます」
(とりあえず、料理は俺が作ってもいいっぽいな)
明日からまた出張するというルーシーに、あれこれと買い出しを頼もうとユウキは考えを巡らせた。
「と、ところでユウキよ……ひとついいか」
「ん? なんでしょうか、ししょう」
「このスープは……私にも作れるだろうか……」
こういう上手いものを旅先でも食べたいのだ、とモゴモゴと弟子にお願いをするルーシーなのだった。
本当ならカレールゥとか味噌とかダシの素とかがあれば、もっと簡単にうまいものが食べられるのだけれども──と密かに思うユウキなのだった。
とりあえず、味が薄いのに塩辛い料理とはおさらばできそうだ。
◆
「ていっ、よっ、はっ!」
今日も今日とて、結界のはずれにある崖を登る。
ルーシーの師匠としての腕はわからないが、ルーシーの真似をして、助言のとおりに訓練をすると不思議なくらいに身体が動いた。
今はもう崖のてっぺんまで登るのは、鍛錬のうちには入らない。
最近、ユウキが取り組んでいるルーシーからの課題は、結界の境目に現れる弱い魔獣を狩ることだ。
魔獣が持っている力……つまりは瘴気の強さによって、結界のどこまで入り込めるかが決まるらしい。
強い魔獣は結界の外側で弾かれ、弱い魔獣は内側まで入り込める……オリンピアの結界はそういう性質のものらしい。
いわく、そうしなければ人間も動物も内部には入り込めないようになっていまうらしい。
(人間も少しは瘴気をまとってる、ってことかぁ)
この世界の仕組みは、まだまだわからないことばかりだ。
崖のてっぺんまで楽に到達できるようになったものの、崖の上は結界の効果が弱いようで、手強い魔獣がいたり、足場が悪かったり──一つ目標を達成すると、次の課題が目の前に出てくる状態だった。
考え事をしながらユウキは山の中を駆け回る……と、そのとき。
「わわっ」
足元の雪が崩れた。
雪庇──風に吹かれた雪が固まって地面からせり出したものだったらしい。
ズボッと足をとられて、派手に転倒した。
転倒した先には、切り立った崖。
(や、っばい)
体勢を保つことができずに、あえなく崖から落下する。
ルーシーに指示してかなり鍛えてきたとはいえ、やっぱり幼児体型の限界というのはあるようだ……はやくオトナになりたいような、そうじゃないような。
あえなく落下したユウキだったが、以前とはすでに違う。
「よっと!」
流れるように受け身をとった。
ルーシーにキャッチしてもらえなければ二度目の事故死をとげていたであろう身としては、うっかり崖から落下したとはいえ危なげなく着地できたことに成長を感じるのだった。
けれど、無傷とはいかなかった。
「いてて」
落下する直前に、岩肌で足を擦りむいてしまった。
擦りむいたというレベルを超えてそれなりにぱっくりと切ってしまったような気がするが、ユウキには焦りはなかった。
というのも──。
「やっちゃったな。治るからいいけどさぁ」
足の傷はユウキがちょっと眉をしかめている間に塞がり、跡すら残さずに消えてしまった。完治である。
(不思議だよな、この世界ではすぐに傷が治るんだ)
傷のあったところを触ってみる。
痛みもないし、出血もない。つやつやの幼児の肌だ。
(「子どもってやつは、こんなに傷の治りが早いのか?」って師匠がびっくりしてたけど……まあ、そのへんは元の世界と同じだな)
ユウキは落ちてきた崖を見上げる。
「うー……はんたいがわに、おちちゃったな」
うっかり登った側とは反対の崖下に落下してしまった。
結界の中心地である泉から、かなり離れている。
ぞくぞく、と悪寒がはしる。
オリンピアの結界の力はここまでは及んでいないらしい。
まずいかもしれない、とユウキは思った。
落ちてきた崖をすぐに登って戻らないと。それくらいは訳のないことだ。
ひょいひょい、と崖を登っていくユウキだったが、そのとき妙なものが目に入った。
「あれって、コオリオオカミ?」
ユウキがこの世界にやってきたときに襲ってきた魔獣の群れだ。
オオカミというけれど、相変わらずデカい。子牛くらいある。
……いや。デカすぎる。
「なんか、カバくらいある」
オオカミの群れの中に、明らかに巨大なやつがいる。
ぞわっと鳥肌がたった。
初めての経験だ。似た感覚は……これが「本能でヤバいと感じた」というやつか。ユウキは震えた。こっち見られたら、ちょっと漏らすかも。
というか。
デカいボスに連れられたコオリオオカミの群れが結界の中心地……つまり、ユウキの住んでいる小屋のほうに進んでいるのだ。
「な、なんでっ」
群れの先頭を進むボスっぽいオオカミの周囲に目をこらす。
パキパキ、パキパキ、とボスの周囲の結界が凍りついて、砕け散っている。
数メートル進んだところで、ぶるぶるっと身震いしたボスが回れ右をした。群れのコオリオオカミたちも一緒に引いていく。
(今日はここまでってこと?)
ユウキはオリンピアの話していたことを思い出す。
『それに……最近少し結界の調子が悪いのよ』
犯人はこいつらだったということだ。
ユウキは周囲の気配を探る。
最近、視界に入っていない魔獣でも気配を感じ取れるようになった。
それなりに習得が早いらしいのは幸運である。
普段は山の中に散らばって生息しているシモフリリュウモドキがけっこうな数、そのへんにいるようだった。
(やっぱり、何か変だ……)
ルーシーが帰ってくるまで、どんなに長くても十日はかかるだろう。
少し考えこんでから、ユウキは走った。
幼児である。
ならば、やるべきことは一つ。
「かあさんに、おしえなきゃっ」
最近、忘れがちではあるがオリンピアは精霊だ。
ルーシーのようなパワーはないかもしれないが、どうにかしてくれるかも。
……結論としては、オリンピアはどうにかしてくれなかった。
というか、結界を維持しているだけでもかなりの力を使っている状態で、魔獣を撃退することはできないのだった。
少しずつ結界の内側に入り込んでくるコオリオオカミたちの群れ。
ユウキを抱っこすることで霊力が高まり結界の力が強くなるとかいうバグじみた状況がわかったために、ルーシーが帰ってくるのを待つ間、ユウキは抱き枕よろしくオリンピアに抱っこされ続けることになった。
そして、待つこと十日。
帰ってきたばかりのルーシーとユウキがコオリオオカミたちのボス──魔王の配下であった魔獣の中の魔獣フェンリルとの対決をむかえ、なんとルーシーも知らぬところでフェンリルを討伐……ではなく、なぜか手懐けることになったのは、ユウキの幼少期におけるハイライトになるのだった。
ユウキが六才になる頃。
ルーシーとの修行も順調で、オリンピアの結界も万全。
種類は少ないけれども、ハーブや調味料なんかを育てたり仕入れたりするようになって、毎日の食事もそれなりに美味しいものが食べられるようになった。
ルーシーを悩ませていたコオリオオカミたちの大量発生も、その親玉であるフェンリルを手懐けることで解決した。
そんな平穏なある日のこと。
泉で水を汲んでいるユウキのところに、神妙な顔をしたルーシーがやってきた。
「ユウキ。そろそろ、この家を出てもらおうと思う」
「えっ」
「ワンッ」
ユウキの足元でポチが鳴いた。
真っ白い毛並みの子犬──に見えるが、ユウキに懐いたフェンリルである。
色々あって、魔獣の王とも呼ばれたフェンリルを飼い犬にすることになったのだが……今は、それどころではない。
「でていくって……師匠? ぼく、まだ子どもなのでは?」
「我が一族は子の齢が六つになれば、親元を離れて生活をさせることになっている。私もそうだった」
「えええ……」
爆弾発言にもほどがある。
なんとかルーシーとの修行にはついていけるようになって、野山を駆ける身のこなしも、棒きれを使った剣術の稽古も、少しは自信がついてきたところなのに。けれど、まだルーシーには及ばない。
それなのにまさかの、ここで放牧。
この世界でいっちょまえのオトナとして生きていくには、まだまだ馬力が足りないのではないか。生きていけないのだろうか。
「師匠、それかあさんは知ってる?」
「オリンピアには……まだ話してない」
「ひぇっ」
これは荒れるぞ。
思わず足元のポチに視線をやると、ポチも困り顔で「くぅん」と唸っていた。これから訪れるであろう嵐は、さすがのポチも避けたいところなのだろう。
それにしても困った。
ユウキは頭を抱える。
「おれが……おうちをでていく……」
「一応、昔の仲間にお前を預けたいと思っている。近頃大きくなってきた新しい街だ」
「うぅ……ふあんだあ」
「問題ないだろう……むしろ、ここにいてお前に教えられることはもうないというか」
ルーシーはごにょごにょと付け足した。
なるほど、オトナになるタイミングがもとの世界とは違うだろうと思っていたが、ユウキが想像していたよりもずっと早かったようだ。
「十五か十六にもなれば独り立ちする者も多いが、私の家では六才になったら、一族以外の師匠を見つけたり、働き先を見つけたり、学問を究めたり、自らの成すべきことを探しはじめるんだ」
「わかりました……」
それならば、仕方ない。
ユウキは腹をくくった。
「くぅん」
「ポチはつれていっても、いいですか?」
「むっ」
ルーシーが一瞬、難色を示す。
ユウキはポチのことを「とても大人しいコオリオオカミの幼体」と説明していた。まさか、ルーシーが危険視していたフェンリルだとは言えない。とても言えない。
ポチの正体が知れてしまえば、某国民的アニメ映画よろしくポチを後ろに隠しながら「来ないで!」とするしかなくなってしまう。
とりあえず、ポチのビジュアルがキング・オブ・虫さんといった感じではないことだけが救いだ。
もふもふのしっぽに、温かくて丸いお腹。
背中からは、結界の中に降り注ぐお日様の匂いがする。
ルーシーはじっとポチを見つめている。
「そうだな、問題ないだろう……実際、魔獣を飼い慣らして使い魔とする、テイマーという職種もある。そいつはユウキ以外にはイマイチ懐かないようだし」
「よ、よかった」
「わんっ!」
事実、ポチはユウキにとても懐いている。
理由はいまひとつわからないのだけれど、人里に降りたからといって急に暴れ始めることもないだろう。
そういえば、あの金髪ロリ女神が「我のコントロールできない、前世の徳ポイントによる能力は生まれてみてのお楽しみである!」とか言っていた。
もしかしたら、あれが関係あるのかもしれない。
ポチの頭をぽんぽんと撫でて、ユウキは周囲を見回す。
(そうだよなぁ、いつまでもここにいるわけにもいかないし)
一度も雨が降ったことのない晴れ渡った空。
それなのに、いつでも瑞々しく青い葉を茂らせている植物たち。
オリンピアが望めばいつでも、甘くておいしい果実が実る木々。
清らかな水が渾々と湧き出る、結界の中心にある泉。
──外の世界には、たぶん存在しないものだ。
(思えば、恵まれてたよなぁ……)
ユウキはこれから体験するであろう苦労を想像して、くぅっと唇を噛む。
と、同時に。
なんだか心躍るような、ウズウズするような。
今すぐ走り出したいような、不思議な感覚に襲われる。
(俺、どれくらい通用するんだろう……?)
前世では、とにかく弟や妹のためにと遠慮して生きていた。
何かにチャレンジすることなく、安牌を切り続ける人生だった気がする──波風をたてず、身の丈を知る。そんな風に生きてきた。
だから、だろうか。
自分の実力を、これから広い世界で試せるのだと思うと、なんだかこそばゆいような気持ちになる。
「……オトナとおなじとはいかないだろうけど……ちょっと、たのしみかも」
とりあえず目の前にある問題は、ルーシーとオリンピアの大バトルだろう。
嵐が過ぎ去るまでは、ポチと一緒に小屋の外で待っていようと決意したユウキなのだった。
ユウキが行く街は、トワノライトというらしい。
まずはルーシーの知人の家に居候をすることになる。
ルーシーの知人であるピーターという男が営んでいる『手伝い屋』の手伝いをするように、とのことだった。
まずもって、冗談みたいにのんびりした商売だし、手伝い屋の手伝いって。
街に出て働くことが修行って……なんだか、某アニメの魔女っ子宅配事業者みたいなことになってしまった。
──ルーシーが言うには、「そんな子がいるなら、ぜひとも預かりたい」と前のめりだったそうだけれど。
こんな子どもを預かって、何か得があるのだろうか。
ルーシーの知人でなければ、それこそ人身売買とか人攫いとかを疑ってしまうところである。
まあ、そんなこと口が裂けても言えないけれど。
心配性のオリンピアが卒倒してしまう。
◆
「うぅ〜……ユウキさん、今からでも考え直さない?」
出発の日。
まだ東の空が白んできてすぐの早朝に、ユウキは結界の端──修行の場にしていた崖のところにやってきた。
しおしおに落ち込んで俯いているオリンピアが泣き言を漏らしている。
その横にはルーシーがげっそりとやつれた顔で腕を組んでいた。
ユウキを街に行かせる、とルーシーが
大人同士の話だから、ユウキは寝ていなさい──とルーシーが絞り出すようにユウキに言ってから数日の間、ルーシーとオリンピアの間では大論争が行われていた。
とかくオリンピアは心配性なのである。
最終的にオリンピアとルーシーによるちょっとしたバトル(物理)が繰り広げられ、一応の決着がついたようだ。
──精霊と素手でやりあうとは、やっぱりこの世界のオトナはすごい。いや、オリンピアがかなり手加減していたのか……というか、精霊だからといって強いかどうかすら、ユウキにはわからない。
「ユウキさん、何か持っていくものは……うう、ここから動けない自分がとびっきり憎いですぅ」
「かあさん、ぐるじい」
「わ、ごめんなさいっ」
感極まったオリンピアに抱きしめられて、ユウキはごほごほと咳き込んだ。
背嚢には、ルーシーが支度してくれた旅の必需品が詰め込まれている。干し肉やパンなど持ち歩きに優れた食物のほかに、オリンピアが「どうしても持っていって」という果物が入っている。
オレンジにそっくりの果物で、それなりに日持ちがしそうだ。
「紹介状は持ったな?」
「はいっ」
「地図はすぐに取り出せる位置か?」
「はいっ」
「地図も紹介状も、それから手持ちの金も、乗合馬車の中では絶対に他の人間に見せないこと。置き引きが狙っているぞ」
「はいっ」
「荷物は基本的に目を離さない……いや、手元から離さないように」
「はいっ」
「それから、これが一番大事なことだ」
「はい……?」
「襲われたとしても、絶対に本気で戦わないこと」
どういうことだ、とユウキは首を捻る。
子どもの自分が、オトナに襲われて……ああ、なるほど。
(戦おうとせずに、逃げろってことか)
ルーシーのように魔獣をバカスカ倒しまくるのがこの世界のオトナだとしたら、今のユウキが太刀打ちできるとは思えない。
「忘れ物はないですか、ユウキさん」
「はいっ」
ユウキは元気よく頷いた。
あまりオリンピアに心配をかけたくない。
「では、ユウキ……これは私からの餞別だ」
「師匠……?」
手渡されたのは、ルーシーが愛用している短刀だった。
よく修行中にくたくたなったユウキにオリンピアの持たせてくれた果実を剥いてくれた。ただし、直前にコオリオオカミの毛皮を剥いでいたのが同じ毛布ではないことを祈るばかりだったわけだが。
「私が家を出るときに、父の引き出しから拝借してきたものだ」
「はいしゃく」
「ああ。女にくれてやる剣は、父は持ち合わせていなかったらしいからな。勝手に拝借したんだ」
剣ではなくて、ナイフだけれど。
ルーシーにとって大切なものであることは、その一言で痛いほどにわかった。
「よいしょっ」
巨大な背嚢を背負って、ユウキは立ち上がる。
あれこれを詰め込んだため、ユウキを後ろから見ると背嚢が歩いているみたいに見える。
ユウキは結界の外へと一歩踏み出す。
「いってきます!」
「わうっ!」
立ち止まり、ルーシーとオリンピアに手を振る。
二人が手を振り返した。
ぽろぽろと涙を流しているオリンピアと、弟子を安心させるように大きく頷いて見せるルーシーに、ユウキは思う。
(不思議だな……寂しいや)
とてとて、と歩く。
魔の山と呼ばれている結界の外だけれど、この数年でユウキにとっては「狩り場」となった。
ルーシーと一緒という条件付きではあるけれど、枯れ木と雪にまみれた山の中で魔獣狩りをしていたのだ。それがユウキの修行だった。
いただいた命は無駄にならないように、ルーシーが色々と教えてくれた。
高く売れる毛皮や、薬になる肝など……きっと、これからの生活でも役に立ってくれるはずの知識ばかりだ。
ユウキの側を歩いていたポチが、くんくんと鼻をひくつかせた。
近くに何かがいる気配を察したのか。
「……シモフリリュウモドキ!」
しかも、複数。
本体はスライムのような不定形の魔獣だとわかってはいても、凍り付いたドラゴンの姿というのは迫力がある。実際の強さはさほどでもないことだけが救いだ。
擬態した生物の知能をあるていど模倣するらしく、ルーシーの不在を明らかにねらっているのだろう。
ほかにもシモフリリュウモドキが集まってきた。
ちょうど、十匹くらいだろうか。
だが、ユウキには構っている暇はないのだ。
「ばしゃのじかんにおくれちゃう」
山を下りて、半日歩いた先にある乗合馬車の駅に急がなくてはいけない。
三日に一本の馬車だから、これを逃したらいったん引き返してオリンピアの小屋で待たなくてはいけない。
先程の感動の別れをした手前、さすがに帰りにくいのだ。
普段の修行では木の棒を使って戦っていたけれど、今はそうもいかない。
ルーシーからもらったナイフを取り出す。
もふもふの犬の姿のままで、ポチが唸った──本当はヒグマくらい大きな狼の姿なのだから、本気を出してほしいとユウキは思う。
「どいてね!」
ユウキは、たんっと地面を蹴った。
すべて倒す必要はないだろう。何匹か倒して、氷核はいったん放置した。ルーシーがどうにかしてくれるだろう。
ビビったシモフリリュウモドキたちがドラゴンの姿を保てなくなったところで走った。
六歳児のダッシュだから限界はあるけれど、逃げ切るには十分だった。
◆
ユウキとポチが乗合馬車の駅につくと同時に、馬車がやってきた。
馬車とはいえ、荷台を引っ張っているのは馬とラクダを足して割らなかったような不思議な動物が引いている。
(唾飛ばしてきたりしないよな……?)
ラクダ馬にビビりながらも、ユウキは煙草をふかしている御者に話しかけてみる。
「あの、このばしゃは……トワノライトにいきますか?」
「あん?」
ユウキを見て、御者が怪訝な顔であごひげを撫でた。
「行くには行くが……坊主、一人かい?」
「はい」
「ふぅん……手荷物は背嚢と犬だけか」
「のれますか?」
もし満員で乗れない、なんてことになったら目も当てられない。
見たところ、客はほとんどいないようだ。
駅といっても馬の手入れをしつつ保存食を売っている、住み込みの駅員らしき人がいるだけだった。
「心配すんな。こんな僻地からの客なんて、ほとんどいねぇよ……グラナダス様のために走らせてる便だからな」
「ぐらなだす?」
「知らねえのかよ、魔王を倒した大英雄様だ。たまにこのあたりからの乗合馬車を使ってるつーんで、廃便にしちゃいけねぇって王国から圧力がかかってんだ」
おかげで赤字路線を運行し続けないといけない、と御者はぶつぶつと文句を零している。煙草の煙を漏らしながら愚痴っている姿は、いかにも労働者というかんじだった。
うーん、オトナだ。
ユウキは久々に感じるプロレタリアートな空気感に背筋を伸ばした。
「一騎当千の大英雄……たったひとりで魔獣の群れを蹴散らす強さ。誇張してあるんだろうが、話を聞くだけでおったまげるよ」
「つよいひとなんだ」
「ああ。仮面を被ってた謎の戦士ってのも、男心をくすぐるよな。どこからともなく現れて、仲間とともにあっというまに魔王時代を終わらせたんだ!」
「へええ!」
浮世から離れて育ったことを、ユウキはあらためて思い知る。
オリンピアはあの通りの天然系精霊だし、ルーシーも不在がちなうえに寡黙なマタギだ。世間の噂話などからはほど遠い。
「だがなぁ」
御者は短くなった紙巻き煙草をぽいっと投げ捨てた。
「魔王を倒してくれたってぇのはありがたいが、おかげでそこらじゅう瘴気まみれだ……グラナダス様のせいじゃねぇっつっても……」
瘴気。
かつて美しい山だったというオリンピアの住処が、魔獣がうじゃうじゃうろつく雪に閉ざされた山になってしまった原因も、瘴気による影響だという。
この御者はグラナダスという人に対して、複雑な感情を抱いているらしい。たぶん同じような感情を多くの人が抱いているのだろう。もしかしたら、本人すらも自分を「英雄」だなんて思っていないかもしれない。
ユウキは御者に乗合馬車の運賃を渡す。
事前にルーシーに運賃を教えてもらっていたから、困ることはなかった。
御者が眩しそうに空を見上げる。瘴気の影響なのかどんよりと曇っているが、太陽がちょうど南中したところだ。
「さて、乗りな」
「はいっ! おにいさん、よろしくおねがいします」
「腹にもねぇこというな、坊主。おまえからみたら、ジジイもいいところだろ」
自虐気味に肩をすくめる御者は口ひげを蓄えているぶん、ワイルドな印象ではあるけれど二十代半ばだろうか。ユウキにとっては、ジジイというほどでもないのだが。
馬車に乗り込む。客はユウキだけだった。
あとからやってくる客のことを考えて、一番奥に詰めておく。
御者の真後ろあたりに陣取って、腰を下ろした。
「ポチ、おいで」
「わふっ」
下ろした背嚢はしっかりと前に抱えたままにしておく。
なんということはない、満員電車に乗り込むときのスタイルである。
馬車は幌で日差しや雨を遮る構造になっているが、大雨には耐えられないような粗末なものだった。
「今日はデカい乗り継ぎ駅まで行って、そこの宿場に泊まってもらう。明日の馬車はもうちっとマシなやつなはずだぜ」
言い訳のように御者が言った。
「明日一番に出発したら、トワノライトまでは一昼夜走り通しだ」
「はい」
いきなり泊まりがけの移動である。
尻がそわそわして落ち着かないユウキに、ポチがぴったりと寄り添ってくれた。まさか凶悪な獣の王・フェンリルだとは思えないつぶらな瞳である。
乗り継ぎ駅に到着したのは日没後だった。
宿場ではものを食べないように、と言われたのを守って割り当てられたベッドのうえでパンを囓って眠ることにした。
毛布は薄くて使い物にならなかったけれど、ポチが寄り添ってくれたので寒くはなかった。コオリオオカミたちの親玉のように振る舞っていたフェンリルが、こんなにモフモフと温かい毛皮を持っているのは不思議なものだけれど、ちょっと獣臭いのすら安心感があった。
翌朝はやく、ユウキの向かうトワノライト行きの馬車は小さいものだった。
とにかく機動力を重視している、とのことだ。
馬とラクダを足したような動物は、魔獣の一種で「フタコブウマ」という名前だそうだ。
一昼夜走り通しという運行に耐えられる、タフな動物だとか。
手狭な荷台にはユウキの他には三人、大荷物を背負っている。
ひそひそと話をしているので、知り合い同士だろうか。
耳をそばだてると、「次の仕事が……」とか「そろそろ稼ぎがなんたら」とかいう言葉が聞こえる。
(たしか、トワノライトって鉱山がある街なんだもんね……出稼ぎか)
昨日と同じ御者が、他の客たちにに詰めさせてユウキのための場所を空けてくれた。ユウキと荷物、それからポチが座れるだけのスペースができた。
乗客は少ないが、いかんせん荷物が多い。乗客の手荷物だけではなく、トワノライトに搬入する荷物も混じっているようだ。
とはいえ、座れるだけ満員電車よりはマシだろう。
人相が悪かったり、なんだか胡散臭かったりする男たちがぎゅうぎゅうに詰め込まれた馬車の荷台で、ユウキは小さい身体をもっと小さくした。
「それじゃ、出発ぅ」
気のないかけ声とともに、馬車が動き出す。
ちょっとでも揺れると隣の客と肩がぶつかる。
ずっとユウキの様子を横目でうかがっていた隣の客が、出発からしばらく経って話しかけてきた。
「坊ちゃん、ひとり旅かい?」
「……はい」
「へぇ、小さいのに偉いねぇ。どっから来たんだ?」
どこ、と言われても地名すらない場所からやってきたのだ。まさか、魔の山からやってきたとも言えないだろうし。
「……山奥から」
「へえ、じゃあトワノライトに着いたらひっくりかえっちまうよ。すげぇ魔石が発掘されるようになってから、あっという間に一万人が集まる大都市だ」
「そうなんですか」
「おう。あっちで困ったことがあれば俺に言ってくれよ?」
男が親しげにユウキの頭をわしわしと撫でて、肩を組んできた。
ポチが男に対して、小さく唸るのをユウキは手で諫めた。
「デカい街には詐欺師にスリ師、人攫い! やべぇ奴らがたくさんいるからなぁ。坊ちゃんみたいな可愛い子は、特に心配だなぁ」
「……はぁ、どうも」
ユウキはそっと隣の客と距離をとる。
(心配なのは、この人っていうか、「この人たち」のほうなんだけど……)
隣の客……にこやかな顔を崩さないトンガリ帽子と、その向かいに座っている屈強なチョビ髭男とスキンヘッドの二人組。
この三人は、どうやら「お友達」同士のようだ。
◆
トンガリ帽子がずり下がってきて、乗合馬車に揺られている男……スティンキーは舌打ちをした。
ちらりと向かいに座っている仲間たちに視線を送ると、「何をグズグズしているんだ」とばかりに、睨み付けられる。
チョビ髭で人相を隠しているアベルとスキンヘッドと筋肉が自慢のマイティは、スティンキーが何かヘマをするたびに腕力にものをいわせてぶん殴ってくるのだ。
──そう、スティンキーたちはスリ集団である。
乗合馬車の客の中でぼんやりした人間に狙いを定めて、旅の荷物から貴重品をくすねるのだ。
今回の標的は、もちろん世間知らずのガキんちょだ。
楽勝の仕事のはずだった。
(なんだよ、このガキ……全然隙がねぇ)
標的にした子どもには、少しの隙もなかった。
過度に警戒している様子があるわけではない。むしろ、ぼんやりと窓の外を眺めて旅情を楽しんでいる様子だった。
スティンキーは愕然とする。
おのれの腕にはある程度の自信があった。
だが、目の前の子どもからは、荷物に手をかけるための一切の隙を感じられないのだ。
「いやあ、不思議だなぁ……あのクソ野郎どもが姿を見せやがらねぇ」
御者がぽつんと呟いた。
スティンキーには「クソ野郎」がなんのことかわかった。
ブラック・ウルフだ。
駅からトワノライトに向かうにあたって必ず通る草原には、ブラック・ウルフの群れが住み着いてしまっているのだ。
ブラック・ウルフは最大で五十匹程度の群れを形成して、集団で狩りを行うのである。体長はそのあたりの犬とかわらないが大型の獲物にも怯まない獰猛な性格で、自分たちよりもはるかに大きな獲物を仕留めるのだ。
つまり。
大型の三頭立ての馬車を追いかけてきて、横転させようとする。非常に危険な猛き魔獣なのだ。
トワノライト行きの乗合馬車がかなりの距離をノンストップで駆け抜けるという無理な運行にならざるをえないのは、ブラック・ウルフの群れのせいなのだ。
何度か駆除のために様々な組織が動いているらしいけれど、いくつもの群れが繁殖しているため根本的な解決にはならない。一時的に被害が減ったとしても、時間が経てばすぐにブラック・ウルフの群れは元通りになってしまう。
スティンキーはこの路線を何往復もしているが、ブラック・ウルフの群れに襲われなかったことはほとんどない。
しかも、以前のブラック・ウルフの駆除活動からはかなりの時間が経っているのだ。むしろ、もしもの時にしか使わないと厳しく言われている乗合馬車に備え付けの兵器を使用するかもしれない──という状態だ。
それなのに、ブラック・ウルフの影がひとつもない。
「……妙だな」
首を捻っている御者。
だが、スティンキーには薄らとわかっていた。
(この坊主、じゃないか……?)
昔から、勘のいい男だった。
だからこそ、相手のわずかな隙を見つけてつけいるスリ稼業で成功してきた。だからこそ、わかる。
(……やべぇ、具合悪くなってきた)
奇妙な子どもの隣に座っている犬すらも、不気味に思えてきた。
スティンキーは、スリ仲間たちの顔色を伺う。
二人はまだ、状況の異常さに気がついていないようだ。
どうしよう、とスティンキーは頭を抱えた。
◆
どうしよう、とユウキは思った。
隣に座っているとんがり帽子の男が、明らかにユウキの荷物を付け狙っているのだ。
(こ、こんなにバレバレなのって……何かの罠か!?)
こんな閉鎖空間だ。
強盗ではなくて、荷物だけを狙っているのだから……少しは腕に覚えがあるはずだろう。
素人同然の子どもに気配を悟られるなんて、大丈夫なのだろうか。
(それとも、何か独特の挨拶とか風習とか? たしかに、当たり前のマナーだったら師匠もわざわざ教えてくれないもんな……)
案外、生活に馴染んだことほど教えるのが難しいのだ。
たとえば、階段の上り方や深呼吸の仕方なんて、誰でも知っていて当然だと思ってしまうものだから。
「いやー、坊主たちはツイてるね」
御者がのんびりした様子で話しかけてきた。
気まずい思いをしていたところに、天の助けである。
「ついてるって、どういうことですか?」
「ブラック・ウルフどもがいねぇだろ。いつも馬車走らせると後ろを追いかけ回してくるんだ」
御者が言った。
ブラック・ウルフといえば、襲われたくない魔獣ランキング上位だとルーシーが言っていた。かなりやっかいな敵だったはずだ。
「追いかけられたら、こんなのんびり走っていられやしねぇからな。馬車酔いしてゲロ吐くだろうし、そこの犬っころなんて振り落とされちまうぜ」
「わあ」
聞けば、今まで何度も馬をやられたことがあったらしい。
そんな恐怖体験、できれば絶対にしたくない。
馬車の内部には、バレバレのスリ師。
馬車の外側には、よだれを垂らした獰猛な狼。
最悪だ。最悪すぎる。
「あの野郎どもがツラ見せねぇなんて、グラナダス様が馬車に乗っているときくらいだって聞くがなぁ」
また、グラナダスの名前だ。
たぶん、とんでもなく強い人なんだろう。
魔獣といえども、野性動物。自分よりも強い存在に対しては、するどい勘が働くのだ。うっかり襲ってきたりなんかしない。
(……ん? 自分よりも強い……)
ユウキは隣に座って大あくびをしているポチを、じっと見つめる。
いつでも笑っているみたいな表情のポチが、首をかしげた。
誇らしげにえへんと胸をはっている。
大きなモフモフの尻尾の先が、くるんとカールして……なるほど。
(さっき、出発する前に……車輪にマーキングしてたよな)
フェンリルとはいえ犬だから、散歩中にあちこちにおしっこをしたりマーキングをしたりする。
魔獣の王であるフェンリルは、狼型の魔獣を従える権能を持っていた──とルーシーから伝え聞いている。
もしかしたらポチの匂いが、ブラック・ウルフたちを遠ざけているのかもしれない。
「ポチのおかげかな。よくやった、えらいぞ」
「わんっ」
ユウキたちのやりとりを見ていた御者が大笑いした。
「ははは! 獣はより強い獣を避けるっていうが、まさかな!」
ユウキの隣で、とんがり帽子の男が「は、はは」と愛想笑いをした。
その途端に、向かいに座っていたつるつる頭が悪態をついた。
「おい、何を笑ってやがんだ。スティンキー」
「わ、悪かったって」
「……放っておけ、マイティ」
「だがよ、アベル……あいついつまでもグズグズと……」
「五月蠅い、黙ってろ」
つるつる頭の男をいさめる髭の小男は、じっとユウキのことを見つめている。品定めをするような、そんな眼差しだ。
(やばくなったら、本気で戦わない。つまり、逃げる)
師匠であるルーシーからの教えを、ブツブツと繰り返す。
幸いなことに、運賃は前払いだ。何か揉め事が起こった瞬間にダッシュで逃げたとしても、未払い金は発生しない。
◆
なんとなく気まずい車内の空気が変わらないまま、かなりの時間が経過した。地平線のむこうに見える山の麓に、街影が浮き上がってきた。
鉱山の街、トワノライト。
魔王時代が終わったのちに、石自体に精霊の力を宿した鉱石『エヴァニウム』──つまりは、貴重なエネルギー源を採掘できる鉱脈が発見されたことで一気に発展した町だ。鉱石の採掘には人手が必要なので、各地から多くの人が出稼ぎにやってくるらしい。
「うわ、ダイオウドラゴンですよ! ほら、上!」
「わあ、すごいっ」
御者の声に、馬車の後部から身を乗り出して空を見上げて、感嘆の声をあげる。空を悠々と飛ぶ、めちゃくちゃにデカいドラゴンの姿があった。
空飛ぶシロナガスクジラといった感じだ。
「すごい……あれも魔獣なんだよね」
「地上には降りてこないし、人を襲うことはほとんどないですよ、むしろ魔獣を食ってくれるとか」
「へえ……そういうのもいるんだ」
空を泳ぐダイオウドラゴンに興味津々のユウキとポチの背中を、乗合馬車の乗客がじっと見つめていた。
空に夢中で、馬車の後部から身を乗り出している。
つまりは、ずっと抱えていた背嚢から視線が離れたのだ。
そのとき。
スキンヘッドのマイティが、太い腕を伸ばす。
──マイティの魂胆はこうだった。
(はっ、こんなガキちょっと脅せば小便チビって黙るだろうが……御者だってそうだ、なあ?)
じろり、と腰抜けの同僚を睨み付ける。
マイティに言わせれば、スティンキーはこだわりが強すぎる。
ちょっとばかり手先が器用で気が回るからといって、スリ師であることに誇りを持ちすぎている。そういうところが、腕力自慢で他のことが少し苦手なマイティを馬鹿にしているようで腹が立つ。
奪えればいいのだ、奪えれば。
ぼんやりとしたガキめ、とマイティは口元を歪める。
馬車の後部から乗り出している身体を支えるように、小さな手で大荷物のベルトを握っているが、力尽くで引っ張れば簡単にむしり取ることができるだろう。
声をあげようとしたなら、口を塞いでやればいい。
御者が振り返ることはない。
マイティが何をしようとしているのか気がついたスティンキーが「やめとけ」とジェスチャーで制してくる。
ふざけるな、とマイティは当てつけのように背嚢を強く引っ張った。
「っ、……あ?」
背嚢を、強く、引っ張った。
強く、引っ張った。
……動かない。
一体どうして、とマイティは狼狽えながら手元を見た。
何も起きていない。
ただ、子どもの小さな手が背嚢を掴んでいるのだ。
「あの……おに、あっあっ。おじさん、なにかごようじですか」
「なっ」
狼狽えたマイティは、思わず背嚢から手を離す。
どうしてこんな子どもが握っているだけなのに、引き剥がして奪うことができないのか、わからなかった。
「なんでもねぇよ! 荷物から目を離すとあぶねえぞ、ガキ」
動揺のあまり、マイティは大声を出す。
「つーか、わざわざ『おじさん』って言い直すな!」
「ご、ごめんなさい」
「おい、馬鹿が。騒ぎを起こすな」
心底面倒くさそうな、しゃがれた声が響く。アベルだ。
場末で食い詰めていたスティンキーとマイティを拾ってくれた恩人だが、得体が知れなくて気持ちが悪い奴だとマイティは思っていた。
アベルはひょいと頭を下げる。
「自分のツレがすまなかった、えぇっと?」
「あっ、ユウキ……」
「ユウキ殿か。粗野で馬鹿な男なのだ、許してくれ」
「い、いえいえ!」
「その年齢で一人旅とは、何か事情があるのだろうが……何はなくとも、よき旅を」
にこり、と微笑んでみせたアベルに、チラチラと後ろを振り返っていた御者が、ほっとした様子で前に向き直った。
マイティはアベルの耳元で文句を言う。
「おい、邪魔するな」
「邪魔? 勝手な真似をするからだろう……トワノライトまではまだ一昼夜あるんだ。夜になればガキなんてすぐに寝るだろ。スティンキーに漁らせればいい」
また、スティンキーだ。
マイティは唇を噛むが、たしかにアベルの言うことはもっともだ。
寝ているときはどんなに訓練された兵士でも、隙があるものだ。
日が沈んでくると、御者が馬車のスピードを落として振り返る。
「お客さんがた、日が沈んだら幌を閉め切ってくださいよ。明かりが漏れると、ブラック・ウルフどもが狙ってくるかもしれねぇ」
古い毛布が荷台に投げ入れられた。
客は夜の間はそれにくるまって眠るのだ。
一昼夜の運行だから、トワノライトに到着するのは明け方だ。
結論としては、夜になれば荷物を狙う隙があるだろうという目論見は、あっけなくはずれた。
夜の暗闇。
ユウキがぐっすりと眠ったのを確認してスティンキーが荷物に手を伸ばすと、獰猛な唸り声があがった。
すわ、ブラック・ウルフかとスリ師三人組は身を固くしたが、そうではなかった。ユウキという子どもの連れている犬が、爛々と光る瞳で三人を睨み付けていたのだ。
怖い。怖すぎる。
スティンキーがまた頭を抱える。
ただの犬ではない、謎の迫力があった。
唸り声を聞くだけで、なんだか寒気がするようだった。
「おい、なんだあの犬……怖いぞ!」
「知らねぇよ……ガキのほうはぐっすり寝てるってのに……」
「スティンキー、お前……番犬に吠えられたことはないって言ってなかったか?」
「あのガキも犬も、何か変だよ……怖くなってきた……」
暗闇の中で、二つの眼が青く光っている。
「おい、お前ら。うるさい……今日はもう諦めて寝るぞ」
リーダー格のアベルが気だるげに吐き捨てて、さっさと毛布にくるまって眠ってしまった。
「マイティはなんともねぇのかよぉ……」
スティンキーが涙目で訴える。
結局、マイティもスティンキーも一睡もできないままで、夜明けをむかえたのだった。
鉱山都市トワノライトが見えてきた頃、東の空が白みはじめてきた。
ポチ──魔獣の王との異名をとったこともあるフェンリルは、大好きなご主人との二人旅に、大変はりきっていた。
ポチがまだ魔獣の王と呼ばれていた頃、ポチのご主人は魔王と呼ばれる人だった。とても意識が高く、彼が個人的な事情で憎んでいたニンゲンという種族をえこひいきする精霊たちを敵視していた。
当時のポチ──フェンリルに与えられた仕事は、人間たちを追いかけ回したり、あまり賢くない同族たちを従えて凶暴な人間たちに立ち向かったりすることだった。
それなりに誇りを持って取り組んでいたが、やたらと強い人間に虐められて、ほうほうのていで逃げだし傷を癒やしている間に、元ご主人である魔王は倒されてしまった。
それで、瘴気とかいうものがいたるところにばら撒かれた。
フェンリルにとっては悪いことではなかったが、瘴気というのは鼻が曲がるほどに臭いので気が滅入ってしまった。
怖い顔をして襲ってきたり、痛い思いをさせてくるやつらにフェンリルはうんざりしていた。うざかった。
せっかく主人の居ない野良フェンリルになったのだから、と野山を駆けまわるという夢を叶えることにした。
そして、長い時間が経ったのち。
フェンリルは今の主人、ユウキに出会ったのだ。
あの忌々しい凶暴な人間とそのツレの精霊が結界の奥でのうのうと暮らしていることに気づいたフェンリルは、ちょっと脅かしてやろうと眷属を連れて結界破りをしようとした。
当然、忌々しい凶暴な人間は怒ってフェンリルを追いかけてきた。
一撃を食らって、またフェンリルは手負いになった。
まただ。あの人間は、強すぎる。
あの人間のメスは、年齢を重ねても老いて衰えるどころか、より洗練された強さを手に入れていた。
まったく、忌々しい。
眷属のコオリオオカミたちも、散り散りになってしまった。
苛立ちながら、隠れていたところに……ユウキがやってきたのだ。
だが、このユウキという小さな人間は少し普通と違ったのだ。
フェンリルを殺そうとも、追い出そうともしなかった。
「……あのさ、おなかすいてるんじゃない? これたべる?」
凶暴な人間と別れて、ユウキはたった一人でやってきた。
はじめは、腹いせに食ってやろうかと思った。
だが、差し出してきた干し肉を食べて驚いた。
今まで食ったどの肉よりも美味かった。
どうしたことか、とフェンリルが戸惑っていると、
「なんか……おまえ、ほかのまじゅーとちがって、ちょっとはなしがつうじてるかんじがしてさ。むかしひろえなかった、いぬのこと、おもいだした」
と、昔話をはじめた。
小さい人間には、以前に生きた別の人生があるのだという。その頃に、とても賢そうな捨て犬を家庭の事情で拾えなかったことを今でも少し後悔しているのだという。
気がつくとフェンリルは、ぐるぐると唸るのをやめていた。
そして、フェンリルに向かって笑って、頭を撫でたのだ。
長い魔獣生で、人間に……いや、他の生き物に微笑みかけられたのは初めての経験だった。なんだか尻尾を振りたい気持ちになった。
なんだか、この小さな人間に名前を呼ばれたい気持ちになってしまった。
「ポチってなまえにしたかったんだよなぁ……犬を拾えたら」
ポチ。
フェンリルはその名前を、すっかり気に入ってしまった。
その名前を、自分のものにしたい。
ポチ──そう名乗るには、図体がデカすぎる。顔が怖すぎる。
名前にふさわしい体にならなくては!
「……え?」
「わふっ!」
気がつくと、フェンリルは──ポチは善良な子犬の姿になっていた。
主人であるユウキの足元を駆け回るのにふさわしい、ふさふさの犬に。
「な、なにこれ!?」
「わふわふっ」
こうしてフェンリルは、忠犬ポチとしてユウキの相棒となったのだ。
忌々しい凶暴な人間には、たまに牙を剥いてぐるぐる唸ったりもしたけれど、おおむね良好な関係を築いてきた。
だがポチは、忠犬としてもっとご主人の役に立ちたいと常々思っていたわけである。結界の中は退屈すぎた。
そういうわけで。
ポチはこの旅に出るにあたって、とても張り切っていたのである。
草原にかなりの数が繁殖しているブラック・ウルフの群れを魔獣たちの王としてのオーラで牽制し、弱いニンゲンのオスごときが大切なご主人に危害を加えないように(ごく穏便に)ちょっとだけ脅してやったわけだ。
仕事をやりきったポチは、とても清々しい気持ちで熟睡しているユウキを前足でゆさゆさと揺り起こした。
……このユウキに備わっている能力こそが金髪ロリ女神にも感知できない、前世の得により獲得した能力のひとつ「テイムEX」だとわかるのは、もっと後になってからである。
◆
というわけで、ユウキとポチはトワノライトに到着した。
街の外周が高い城壁に囲まれているのは、魔獣対策だそうだ。
なお、到着した瞬間にはユウキは爆睡していたので、外観はほとんどわからない。遠目で街の全貌を見ていれば、大まかな広さなどがわかったかもしれないのだけれど。
ぺろぺろと顔を舐めてポチが起こしてくれたときには、すでに他の客はいなくなっており客席を圧迫していた荷物も運び出されている。
どれだけ爆睡していたのか。
我ながら図太い神経である。夜行バスでもぐっすり眠れるタイプなのは、お子ちゃまになっても変わっていないようだった。いや、むしろさらによく眠れるというか。
「よっと」
一日ぶりに馬車から降りて、地面を踏みしめる。
ずっとガタガタ揺れていたからか、なんだか平衡感覚がおかしかった。
「坊ちゃん、乗り心地はどうだった?」
「ふわ……ずっとねちゃってたので、おもったよりだいじょうぶかも」
「そうかい。いつも悪さする野郎どもを完封とは、恐れ入ったなあ」
「……?」
「ブラック・ウルフどもとのチェイスもなかったし、毎日でも乗ってほしいくらいだぁ! これ、運賃ちょっとオマケしてやるよぉ」
御者がいやに上機嫌だった。
無事に目的地に到着した際に支払う到着報酬を受け取ってもらえず、ユウキは逆に怖くなってしまった。
(俺……別に何もしてないのに……?)
同じ馬車に乗っていた三人組は支払いを済ませるやいなや、挨拶もそこそこにそそくさと人混みに紛れていってしまった。
なんだか、ユウキに怯えていたみたいだけれど……?
「わんっ」
なぜか誇らしげにしているポチの頭を撫でてやった。
街に入る際には簡単な手荷物検査があった。
トワノライトで採掘される鉱石エヴァニウムが密輸されたりや盗難されたりすることを恐れているみたいだ。
ユウキはきょろきょろとあたりを見回す。
すごい人、見たことのない道具、食べ物の屋台。
着ている服からして、まるでファンタジー系のオンラインゲームの中に入り込んでしまったみたいだ。
「ここが……都会……っ!」
精霊や魔獣というある意味ファンタジー要素ではあるけれど、どちらかというと自然に囲まれて育ったユウキにとって、はじめての「街」だった。
明け方の街に、LEDや電気ではない明かりがちらほらと見える。
まだ日が昇りきっていないというのに、かなりの人出だ。
ユウキと同じく、トワノライトに到着したばかりの人たちが眠たげに歩いている。忙しなくどこかへ向かっていく人たちも多い。
身長の小さいユウキのことが視界に入らないらしく、何度かぶつかりそうになってしまう。
ユウキと同じ背格好の子どもは、まったく見当たらない。
正直、とても場違いだ。
(とりあえず、師匠にもらったメモを……ピーターさんとの待ち合わせ場所はどこだろう)
トワノライトではルーシーの知人の家に居候することになっている。
ピーターという人の営む『手伝い屋』の手伝いをするのが、この街でのユウキの仕事になるらしい。
仕事を得るのは、オトナとしての大きな一歩だ。
といっても、まだ六才なのだけれども。
(えぇっと……銅像前? いや、銅像ってそんなふんわりと……)
明け方の街を、手元のメモを見ながら歩く。
ルーシーが簡単な地図を書いてくれたが……まったくもって、意味がわからない。地図を書くのが下手なのか、もしかして、ルーシー自身が方向音痴なのか。目印となるランドマークがまったく描き込まれていないので、現在地がどこなのかもわからないし、目指すべき銅像がどこなのかもわからない。
「とりあえず、あるくか」
六歳児とはいえ、雑踏を歩くくらいのことはできるだろう。
毎日くたくたになりながら都心とベッドタウンを往復していた身である、雑踏を歩くのは苦手じゃない。いや、むしろ得意分野といってもいい。任せてくれ──と、思ったのだけれど。
「ひっく……ねえ、見て。鞄が歩いてる」
「やだ、飲み過ぎじゃないの?」
「ほんとだってば〜……ほら、あれ」
「本当に鞄が歩いてるじゃないの、かわいいっ!」
くすくす、という笑い声に振り返る。
歩く鞄、というのはどうやらユウキのことらしかった。
思わず振り返ると、胸元や太ももをハデに露出したお姉さんが二人、ユウキに向かって手を振っていた。
とろんとした表情。
あれは、明らかにオールで飲み過ぎた翌日というテンションである。
……というか、とんでもなく化粧が濃い。
夜の飲み屋の照明ではちょうどいい具合でも、朝日に照らされると部族同士の戦いに赴く戦士の戦化粧といった感じだ。
強そうにもほどがある。
顔面が屈強なお姉さんが、ひらひらと手招きをした。
「ねえ、鞄さん。よかったらお姉さんたちと一緒に寝ない?」
「ひ、ひぇっ」
ユウキは後ずさりをして、慌てて駆け出した。
子どもをからかっちゃいけません!
きょろきょろとあたりを見回しながら歩くが、「銅像」っぽいものは見当たらない。
かなり広い街だ。誰かに尋ねればいいのだろうが、さきほどのお姉さんたちの様子を見るに、あまり治安の良くない区域に迷い込んでしまったようなので誰かに声をかけるのも憚られる。
早足、といっても六才児なりの早足でトコトコ歩いていると。
どこからか、うめき声が聞こえた。
「……?」
耳を澄ます。
ユウキでは音がどこからするのかはわからなかった。
困った、というか、迷った。
聞かなかったフリをするべきか、それとも──。
「わうっ」
ユウキの迷いを察したらしいポチが、「俺についてこい!」とばかりに鳴いた。親切で可愛くて頼りになる魔獣の王フェンリル(ミニサイズ)である。
(ここ……?)
ポチが連れてきてくれたのは、明らかに怪しい路地裏だった。
そっと覗き込むと、見るからに怪しげな人影が。
やたらとガタイのいいスキンヘッドの男と、とんがり帽子のキョドキョドしている細身の男……見覚えが、ある。
「なあ、マイティ。やっぱりマズいって……この人、ミュゼオン教団の聖女さんだよ?」
「ちげぇよ、まだ聖女にもなってない見習いだろうが」
「でもよぉ……こんな女の子から身ぐるみ剥ぐなんて」
「だから、だろ。教団の見習いが奉仕活動中に襲われたなんて話、それこそ掃いて捨てるほどあるんだ……バレやしねぇよ」
「でもよぉ……アベルは女は狙うなって」
「あいつの言いなりなんて反吐が出るぜ!」
明らかに苛立っているマイティと、それを諫めようとしているスティンキーの足元に倒れている人影を見て、ユウキは息を呑んだ。
女の子だ。十二才くらいだろうか。
ぐったりとしていて、意識不明の重体。
もしかして、彼らに乱暴をされたのだろうか。
師匠であるルーシーの言いつけ──本気で戦ったりしてはいけない、というルールが頭によぎる。
(いや、ムリだわ)
師匠、ごめんなさい。
かあさん、怒らないでね。
ユウキは心の中で育てのママと母に謝罪しつつ、一歩を踏み出した。
明らかに困っている人を見捨てるなんて、できない。
「ねえ、おじさんたち何してるの?」
正義のヒーローみたいな決め台詞だと思って放った言葉は、六才の声帯のせいで体は子ども頭脳は大人なメガネの小学生探偵みたいな「あれれ〜?」感が出てしまった。
「げっ、馬車のガキ」
ユウキとポチは、倒れている少女に駆け寄った。
かろうじて息はあるようだ。
ユウキはほっと胸をなで下ろす。
だが、病院なんてあるのかもわからないし、スリ二人組に囲まれていることは変わらない。状況は悪いのだ。
「ち、違うんだ……俺は止めようと」
「ガキ相手にビビるやつがいるか、どけ!」
スティンキーをマイティが大きな手をユウキに伸ばしてくる。
「うわっ」
首根っこを掴まれて、ユウキの身体が宙に浮く。
ポチがぐるる、と唸った。
その目が妖しい青に光ったのを見て、ユウキは慌てて制止する。
もし今、ポチが本気を出してしまえば大騒ぎだ。
やたらとユウキに懐いていることでウヤムヤになっているが、ポチの正体はフェンリルである。絶対にこの場で、化けの皮が剥がれてはいけないのだ。
(ポチ、まて! まてっ!)
必死のアイコンタクトでポチを制止する。
とりあえず、ここから離れなくては。
路地裏の人目のない場所で、倒れている少女とチンピラ二人。
六才児には荷が重すぎる。場所を変えたい。
「その子のそばにいて、ポチ」
「わんっ」
ポチに少女を任せて、ユウキはぽてぽてと走り出す。
頭に血が上っているマイティは、血相を変えて追いかけてきた。
何度か追いつかせては、空振りさせる。
意外と動きが遅いのは、長旅で疲れているのだろうか。
よかった、六才で。若いって素晴らしい。
「やめろって、マイティ!」
スティンキーが慌てて追いかけてくる。
ユウキはひょいひょいと掴みかかってくるマイティの腕を避けながら、人目のある場所を目指す。
早朝の街だからだろうか、明らかなトラブルなのに道行く人々が立ち止まることはない。通勤ラッシュの駅のホームと同じだ。人が落ちても知らんぷり。
「お、おねーさんたち! たすけてっ」
とっさに助けを求めたのは、さっきユウキにメロメロになっていたケバいお姉さんたちだった。
「あら、さっきの子!」
「どうしたのー?」
「きゃっ、あの人……たまに来る、クソ客のハゲじゃない?」
「あ、マジじゃん」
マイティを指差してクスクスと笑う酒場で働いているらしきお姉さんたち。
いやいや、クソ客って口にでちゃってますけれど。
ユウキは苦笑いした。
なんというか、勤務時間外の女性というのは容赦がない。マイティにもそれが聞こえたのかショックを受けた表情をしていた。
「く、くそおぉお! 馬鹿にしやがって!」
「うわ、わっ! ぼくはかんけいないのではっ!」
結果として、八つ当たり先がユウキになったのは想定外だった。
「くっ、このガキ!」
ゆで蛸みたいになったマイティが吠えた、その時だった。
「何してる?」
ひょい、とユウキを抱き上げる手があった。急に足が地面から離れてびっくりしていると、目の前には口ひげが出現した。
「げっ、アベル!」
口ひげの小男──三人組のリーダー、アベルがマイティを睨み付けていた。
ぴたり、とマイティの動きが止まる。
「マイティ、スティンキー。勝手に何をしてる?」
迫力。
とても不機嫌そうなアベルの様子を一言で表すと、ド迫力だった。自分よりもずっと大柄なマイティを圧倒している。
けれど不思議なことに、アベルの迫力はユウキにとっては嫌な感じはしないのだ。
「坊主、悪かったな。乗合馬車に引き続き、うちの馬鹿どもが」
ぼそぼそと喋るアベルが、ユウキを地面に下ろしてくれる。
とんがり帽子をとって、スティンキーもユウキに向かってぺこりと頭を下げてくれた。乱暴者のマイティ以外は、実は良い人なのかもしれない。
「……あっ!」
とりあえず、うやむやのうちに場が収まったところで、ユウキは倒れていた少女のことを思い出す。
あの子のところに戻らなくては、と回れ右をした。
「待て、この状況はなんなんだ……その坊主と、どうしてまたつるんでる?」
「そ、それはマイティが……その、ミュゼオン教団の聖女見習いを……」
スティンキーがアベルにしどろもどろで説明をしている。
それを聞いていたアベルの表情が、一気に曇った。
「ミュゼオンの少女に手を出したのか?」
「ご、ごめん。俺は止めたんだ」
「……いや、もういい」
マイティは不機嫌を隠そうともしなかった。
(なんか、事情がよくわからないけど……もう行っていいのかな)
ユウキはそっとその場を離れようとする。
「待て、坊主」
「は、はいっ!?」
アベルに声をかけられて、飛び上がる。
「ミュゼオン教団の聖女見習いが倒れていたのなら、腹が減っているか魔力切れかのどちらかだ……これ持ってけ」
手渡されたのは、パンの入った紙袋だった。
まだほんのりと温かい。
「俺たちの朝飯用に買ったパンだが、まだ手はつけてない……ほら、とっとと行けよ」
「えっと、ありがとう……?」
ミュゼオン教団だとか、聖女見習いだとか、聞き慣れない単語ばかりだ。
ルーシーは身体を鍛える以外のことは最低限しか教えてくれなかったし、オリンピアに至っては精霊だ。人間のことは極めて疎い。
とりあえず、倒れていた子を助けにいかないと。
ポチがいるとはいえ、殺気の路地裏にまた悪い奴が寄ってきたら大変だ。
路地裏に戻ると、ポチがお行儀よく待っていた。
石畳に倒れ込んでいる少女にぴったりと寄り添って、モフモフの毛皮で温めてくれていたようだ。
「よくやった」
「わんっ!」
頭を撫でてやると、嬉しそうに尻尾を振る。
ユウキは床に倒れている少女を助け起こした。
白い修道服のようなものを着ている。
近くに落ちている木の枝みたいなものは、
「うぅ……」
「だ、だいじょぶ?」
うっすらと目を開けた少女の瞳は、綺麗な若草色だ。
結構な美形なんじゃないだろうか。
「ここは……?」
「えぇっと、トワノライトのろじうらで……」
ここはどこって、こっちが聞きたい。
「ろじうら……」
「また……魔力切れを……おぇっ」
「わっ!」
美少女が口からキラキラエフェクトを噴射しはじめた。
といっても、ほとんど何も食べていなかったようなので、吐くに吐けないみたいだ。けっこう辛い状態だろう。
(さっき、髭の人も『魔力切れか空腹』って言ってたな……?)
もらったパンは今のところは出番がなさそうだ。
といっても、魔力切れには何をしてあげたらいいんだろう?
「た、たてますか?」
とりあえず、他の人に助けを求めた方がよさそうだ。
もし立てなかったら……ポチの力を借りれば運べるかもしれない。
ユウキは女の子に手を差し伸べる。
真っ青な顔で、とても申し訳なさそうに手を取ってくれた。
「す、すみませんです……こんなゴミみたいな駄目人間を……たすけてくださって……」
「ご、ごみって」
「あなた様のような子どもにまで迷惑をかけるなんて、これでは聖女の人助けではなくて人の足引っ張り業、いえ、迷惑屋……屋号を名乗るなんて、あまりにも傲慢ですね。やはり、私はゴミです、ゴミ……うぅっ」
「きゅうに、よくしゃべる!」
自虐になった途端に、スイッチが入ったように喋りまくる人だった。
目も据わっているし。変な人だ、この子。
ユウキは少女を助け起こしながら、ちょっと引いた。
でも、こんなところで行き倒れになっているのは放ってはおけない。
「おねえさん、こっち」
「はい……って、あれ?」
少しでも元気になれ、と思いながら握った手が……なんだか、光っているような。
「な、魔力が……流れ込んで……?」
青白かった少女の顔色がよくなっている。
と、同時に独り言も加速した。
「う、嘘でしょう。他者に魔力を分け与える『治癒者』の技能をお持ちで……? ミュゼオン教団の秘儀ですよ、これ。私なんか入団してから習得まで半年もかかったんです……あ、いや、私などと比べるなんて失礼極まりないですが。体内に溜められる魔力の量がちょっと多いというだけで拾われたゴミクズですし。見たところあなたは男児……ですよね?」
「いちおう、そうです」
トイレとお風呂で毎日ちゃんと確認はしております。はい。
いつしか少女は、ユウキのことを尊敬の眼差しで見つめている。
「本当にありがとうございます。もう魔力は十分に分けて頂きました! これでも魔力量だけは市井の方の二倍か三倍はあると言われているのですが……その、こんなに魔力を分けて頂いて、あなた様は大丈夫なのですか?」
「もんだいないです」
実際、何も異変は感じない。
もしかして、普通の人よりも魔力が多いのかもしれない──とユウキは自分の手を見つめた。
転生してくるときに会った、金髪幼女な女神様を思い出す。
色々と特典を付けてくれるって言っていたけれど、やたらとポチに懐かれていることや魔力の量が多いらしいことも、その「特典」なのだろうか。
「なんと……そのようにお小さいのに、すでに大器を備えていらっしゃる! さぞや高名な一族のご出身なのでは……?」
「いや、ぜんぜん……やまおくからきたので」
「山奥?」
頭上にはてなマークを浮かべている少女を、なんとか表通りに連れ出した。
さっきの騒ぎは沈静化したようだ。
ユウキとポチは、少女に連れられて歩き出す。
なんと御礼をしたらいいか、とすっかり恐縮しきっている少女に道案内をお願いしてみたのだ。
「銅像といえば、おそらくはこの街の礎を築かれたピーター氏の銅像でしょうね。ご案内いたしますよ」
すっかり元気になった少女が、上機嫌に道案内をしてくれる。
「といっても、ここは街の東のはずれで……銅像は中央広場にあるのでかなり歩くのですが」
「ええ……」
それならば、結構時間がかかってしまいそうだ。
待ち合わせ相手が業を煮やして帰ってしまっていなければいいけれど。
「なるべく、ちかみちをおねがします。えっと……」
ここにきて、お互いの名前を知らないことを思い出した。
「申し遅れました……サクラでございます。恥ずかしながら家名を賜っている生まれでございまして、サクラ・ハルシオンと申します」
「ユウキです。ユウキ・カンザキ」
「なんと!」
サクラが目を見開いて、ユウキを見つめた。
そんなに驚くような名前なのだろうか。
一応、前世の名前を名乗っただけなのだが。
「カンザキ……様? 申し訳ございません、家名を存じ上げず……な、なんという失態! 帝国貴族の端くれとして、他の貴族の家名や家格を失念など……我ながら恥ずべき愚者っぷり……」
「いやいや、きぞくじゃないですっ!」
「……? 家名があるということは、貴族なのでは」
「えっ?」
「はい?」
家名があれば貴族。
なるほど、少なくともこの国ではそういうルールになっているらしい。
「ユウキカンザキまで、ぜんぶなまえ! です!」
「なんと! それでは愛称がユウキ様ですね」
こくこく、と頷くと、なんとか納得してもらえたようだった。
「ご年齢のわりに強大な魔力をお持ちですし、一人旅をされているし、俗世とは一線を画しているご様子ですし……てっきり、かなり深いご事情のある方かと思ってしまいました」
「す、すみません……やまおくから、きたので……」
どうにかなれ!
……という気持ちで、ユウキは隣を歩くサクラを見上げた。
「か、かわっ」
途端に、サクラの口元が緩む。
「……こほん。そ、そうですね。まだお小さいので、世の中のことをご存じなくても仕方ありません……失礼しました」
ぐぅううぅう、と切ない音が響く。
「おなか、すいたんですか?」
「うっ、申し訳ございません! お恥ずかしい、役立たずのくせに食欲があるなんて……っ!」
「だれでもおなかはすくよ」
はい、とユウキは紙袋を差し出す。
さきほど、アベルに押しつけられたパンの入った紙袋だ。
ユウキは保存食を持っているし、上手くすれば待ち合わせ相手と合流できる。サクラが食べるほうがいいだろう。
「うぅ、ありがとうございます……っ」
「たりなければ、くだものもあるからね」
オリンピアの持たせてくれた果物だ。あまり長持ちはしないだろうから、お裾分けしておいた。
自分と同じくらいに大きな背嚢を背負ったちびっこが、モフモフの犬をつれて年上の美少女に連れられているという図は、かなり注目を集めている。
とことこ歩いていると、やがて向こうに銅像が見えてきた。
「トワノライトで銅像といえば、あれです。この街を発展させ、魔王時代後にこの地方が発展する礎を築いた『鉱山王』ピーター卿の像です」
おや、とユウキは首をかしげた。
(ピーター……って、どこかで聞いた気がするな?)
「さあ、付きました。あれがピーター卿の銅像です」
サクラが指をさした銅像。
凜々しい顔つきの男性だ。年齢は四十代くらい。
立派な服に身を包み、右手にツルハシを持っていて、左手はよくわからないが斜め前方向を指差している。銅像にありがちなポーズだ。
意外と普通の顔立ちというか、言われなければそんな重要人物には見えない銅像だ。服装と顔つきとポーズと持ち物がすべてちぐはぐで、ちょっとオモシロになってしまっている。
「えっと、まちあわせ……」
ユウキたちがキョロキョロしていると、銅像の前に立っていた男性が片手をあげた。
「やあ、おはようございます」
「えっ」
ユウキは驚いて思わず声をあげた。
和やかに声をかけてくれた男は、銅像そっくりだったのだ。
男の方が少しばかり歳をくっているし服装がラフ……というか麦わら帽子に白シャツというラフさだが、眉毛から鼻から口から、顔のパーツが何もかもがそっくりだ。人懐こそうな、右の口端を持ち上げる笑い方まで完コピである。
もしかして、ファンの人かな?
「やはり君が、ユウキ殿かな?」
英雄完コピおじさんが、ユウキににっこりと微笑みかけてきた。
念のため、きょろきょろとあたりを見回すが、周囲にユウキと同じ背格好の人間はいない。
「やっぱりそうだ。はじめまして、僕はピーター。ルーシー殿から話は聞かせてもらっています、トワノライトへようこそ!」
大きな手を差し伸べられて、思わず握手をした。
片膝をついて、目線を背の低いユウキにあわせてくれている。
「ぴーたー……」
やっぱり、さっきサクラから聞いた名前だ。
このトワノライトを発展させた張本人で、貴重な鉱石であるエヴァニウムの鉱脈を見つけた偉人だという。
目の前の壮年の男は、とても人がよさそうな笑みを浮かべている。
麦わら帽子とか被ってるし。とても、偉い人には見えない。
サクラが、震える声で叫ぶ。
「な、な、待ち合わせをしている相手って、ピーター卿だったのですかっ!?」
「え、あ、たしかに、めもにピーターってかいてある……かも」
「な、なんと……っ!」
「おや、そっちのお嬢さんは……木製の素杖に白衣ってことはミュゼオンの見習いさんかな?」
「は、はい。サクラ・ハルシオンです」
「ユウキくんを助けてくださったのか、さすがは将来の聖女様だねぇ! こちらは少ないですが、喜捨でございます」
ピーターがポケットから取り出したコインを恭しくサクラに差し出した。
「わっ!?」
ぴき、とサクラは固まってしまった。
受け取ったコインを握りしめたまま、ふるふると震えている。
「サクラさん、だいじょうぶ?」
「だ、だ、大丈夫なわけありません……ピーター卿ですよぉぉっ!? ユウキ様、あなた一体何者なのですかっ!?」
何者と言われてもなぁ、とユウキは思わずポチと顔を見合わせた。
恐縮して赤くなったり青くなったりしているサクラに、ピーターが照れ笑いをする。
「いや、そんな大層な者じゃないんだよ」
「何をおっしゃるのですか、この街を作ったといっても過言ではないです……なんの役にも立たない歪んだ鍋のふたみたいな私が生きていられるのも、このトワノライトが豊かな街だからです……もはや、ピーター卿は私の恩人! ですっ!」
「そのピーター卿ってのやめておくれよ、照れるって……」
ピーターが、見た目に似合わずモジモジと身体をよじる。
熱弁モードに入ったサクラは止まらなかった。
「そもそもトワノライトは、もとは草木の生えない不毛の地と呼ばれていた場所……その原因究明に乗り出したのが、最強と名高いかの救国の英雄グラナダスの隊に属していたピーター卿です。当時は下働きとして隊を支え、魔王撃破後にグラナダス隊が解体となった後も、の瘴気放出によって衰えた国力復興のために尽力されたとか! そして、この場所に古代精霊の力を蓄えた貴重な鉱物エヴァライトが大量に埋まっていることを突き止めたのです!」
饒舌だ。もはやミュージカルのノリである。
いつの間にか近くに人だかりができている。
ピーターは麦わら帽子を目深に被って、
「こうして『鉱山卿』ピーターにより、トワノライトの街が大発展しただけではなく、人類の発展にも大きく貢献しています。精霊の力が大きく弱まってしまった瘴気放出以降の世界において、精霊石エヴァニウムの鉱脈が発見されなければ文明は衰退していたに違いありません──ピーター卿こそ、偉大なる伝説のひとりなのですっ!」
大演説が終わると、集まってきた聴衆から拍手が漏れた。
小さなコインがぽいぽいと投げ込まれる。
コインがこつんとおでこに当たったサクラが、我に返って顔を赤らめる。
「はっ! こ、これは見世物ではございません……」
「えっと、俺も……一応追加で渡しておくねぇ……」
ピーターも茹で蛸のように赤くなってしまっている。
コインを手渡されたサクラが、ぴたっと動きを止める。
「……ありがとうございます」
震える声で、サクラは頭を下げた。
なんだかそれがあまりに切実で、ユウキは首をかしげた。
ピーターが穏やかな声色で言った。
「見習いさんということは、教団への上納金なんかも大変でしょう」
「は、はい……私、恥ずかしいことなのですが、こんなにたくさんの喜捨をいただいたこと、なくて……ダメなゴミなので、ずっと実家から持ち出した色々な物を売って、司祭様にノルマを……」
そこまで言って、サクラはハッと口をつぐんだ。
「すみません、こちらの事情を……」
「いえ、聖女見習い様に精霊のご加護のあらんことを」
「……ありがとうございます、ピーター卿。ああ……それにしても、まさか、ピーター卿から喜捨をいただけるなんて……今も市井に紛れて暮らしていらっしゃるとは聞いていましたが……気取らないお人柄、偉ぶらないご人徳。想像を遙かに超える方でした」
くるり、とサクラはユウキに向き合った。
「それから、ユウキ様も。助けてくださって、ありがとうございます。その……ユウキ様のご身分は内密にいたしますので」
「みぶん?」
「その……やはり、高貴なお方とお見受けいたしましたのでっ」
何か勘違いがあるようだけれど……変に訂正すると、余計にそれらしく感じさせてしまうかもしれない。今は黙っておこう。
「ううん、こちらこそっ! あんないしてくれて、ありがとう」
「わうっ!」
とりあえず、ユウキはピースサインをしてみせる。
なんだか大変そうなので、「がんばれ」の気持ちと「いけるよ」の気持ちを込めて。サクラは不思議そうにユウキを見つめる。
「……? それは何かの呪いですか」
「のろいじゃないよ!?」
「そうでしたか、ハンドサインで呪術を行う流派もいると聞いたので」
「えっと、ぼくのこきょうの、げんきになる……おいのり? です」
「なるほど!」
サクラは、見よう見まねでピースしてみせた。
「こう、でしょうか」
はにかんだ微笑みが、とても可愛らしかった。
サクラを見送ると、ピーターがひょいっとユウキを抱き上げてくれた。
自分で歩けるとはいえ、昼近くになって行き交う人も多くなってきたので
「では、ユウキ殿。行きましょうか」
「はいっ」
ピーターに抱っこされて歩く。
ポチはすんすんと鼻を鳴らしながらピーターの足元をくるくると回ると尻尾を振ってピーターのあとをぴたりとついてきた。
ユウキ以外には懐かないポチが友好的な態度を示している。
もうひとつ、不思議なことに気がついた。
「だれも、ピーターさんのことをみない……?」
サクラの様子を見るに、ピーターはかなりの有名人のはずだ。
それが誰ひとりとして、ユウキを抱いて歩いているピーターに気がつかない……まるで、本当に「見えていない」ようだ。
(師匠が魔獣から姿を隠してるときみたいな……)
ルーシーが意図的に自分の気配を消しているときに、すぐ鼻先をあるいていた魔獣がルーシーに気がつかないという光景を見たことがある。
まさしく、あの時と同じ現象だ。
「あれ、ユウキ殿は気づいていらっしゃるのか。さすがは異世界からの旅人だな……昔から、悪目立ちしないのだけが取り柄でね。魔王を倒す英雄の旅に同行しただなんて言われているけど、粛々と買い出しやら宿の手配やらしてたのが俺なんだ」
英雄グラナダスと共に旅していた。
やはり、この世界のオトナというのはすさまじい。
ユウキは身を引き締めた。
◆
さて。
時間は少し巻き戻る。
口ひげの小男、アベルは背嚢が歩いているような後ろ姿を見送って、溜息をついた。
「あの坊主と犬……何者なんだ?」
彼の名はアベルという。
いや、正確には「彼女」だ。
どっかりと腰を下ろして、アベルは目深に被っていたフードを払う。
ぺりぺりと口ひげを剥がすと、上背の小さな口ひげの男の顔の下から疲れ果てた女の顔が現れる。
フードと前髪に隠れていた右目は、わずかに白濁している。
アベルの瞳は特別製だ。
人の能力を見極めることができる。
色々とあって、盗賊まがいのことを生業としている。
いま、つるんでいるスティンキーとマイティも、場末で埋もれていた彼らのスキルを見込んで仲間に引き入れた。富める者から、少しばかり分け前をもらって貧者に再分配する──それがアデルのやりかただ。
だが、マイティの乱暴には困ったものだ。
彼の腕力はたいしたものだが、やや虚栄心とプライドが高いのが玉に瑕だ。
スティンキーの「潜伏」や「手先」の才能と気弱ではあるが善良な性格のほうが、マイティの乱暴に潰されてしまわないだろうか……というのは、余計なお世話かもしれないが。
いや、今はあのユウキとかいう子どもと犬だ。
「ただの子どもにしては、めちゃくちゃな量の魔力を持っていた……それも、人間の魔力じゃないぞ、あれは」
アベルの白濁した瞳は、視力を失っているかわりに「見えないもの」を見ることができる。
たとえば、ユウキが連れている犬がただの犬ではなく──かなり強大な魔獣の類いであることとか。
そんな魔獣が小さい子どもに懐いているのは、見たことのない才能「テイム(特)」によるものだ。
「……面倒事にならないといいけどなぁ」
人の「才能」を見る、というのは特殊技能だ。
本来であれば、ミュゼオン教団や王国が所持する秘宝によって可能になるとか、ならないとか。
アベルはそんな「眼」を持っているがために、今までそれ相応の危険な眼にあってきた。人と違う力を持つことの面倒さを、わかっているつもりだ。
「力なんて、自分のために使うくらいでちょうどいいのにな」
自分がまだ年端も行かぬチビのくせに、見ず知らずの行き倒れを、当たり前のように助けようとしていたユウキを思い出して、アベルは小さく舌打ちをした。