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~南部・ブリンガー伯爵家~

 一般的な家屋が幾つ入るんだろうという広大な土地。
 大きな門が正面に待ち構えられ、そこから何十メートルも先に建物の入り口がある。
 
 如何にもお金持ちが住んでいそうな立派な豪邸に、手入れされた綺麗な庭。色鮮やかな花が数え切れない程咲き誇っており、噴水の心地良い水の音も風情を感じさせる。

 リューティス王国の南部に位置するここは、ブリンガー伯爵の屋敷である。絨毯、壁、家具、扉、花を飾る花瓶1つをとっても全て値段が分からない程高価な物であろう。

 このまるで住む世界が違うブリンガー伯爵の屋敷の執務室に何故か、貧しくて小汚い格好をしている難民のエレン姿がそこにあった――。

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「昨日はビッグオークの討伐、ご苦労だったなアッシュ」

 そう唐突に話し始めたのはブリンガー伯爵。

 昨日のビッグオークの討伐から一夜明けたエレンは突如「伯爵の屋敷に来い」と一方的にアッシュに言われた為、今こうして場違いな世界におろおろしながら招かれていたのだった。

(何で僕はここにいるんだろう……。報酬はもう昨日ちゃんと全員貰った筈だし、そうじゃなかったとしてもどうして僕だけ……?)

 未だによく分からない状況に陥っているエレンであったが、彼女の疑問は徐々に氷解されていく。

「それで? 昨日の報告に出てきた“功績者”というのが彼、という事だね?」
「はい。昨日討伐した8体の内、7体は指定通りのDランクのビッグオークでしたが、奴らの群れのボスと思われる1体は間違いなく“Bランク”に匹敵する強さの魔物でした。

あの場にいた隊員の中でマナが使えるのは私1人。なんとか倒したと思いましたが私の留めが甘く、奴は再び立ち上がりました。
もしあそこで私がやられていたなら恐らく――いえ、確実に6、7番隊は全滅していたでしょう。

しかし、そのピンチを救った者こそがここにいるエレン・エルフェイムです」

 アッシュは力強い言葉でブリンガー伯爵にそう言った。
 横で聞いていたエレンは想像だにしていない展開に驚いている様子。

「成程ね。君から報告は受けたエレンという傭兵がまさかこんなに……私の想像とはかなり違う子だとは驚いた。ハハハ。まぁ実力と見た目など関係ないがな」

 ブリンガー伯爵も皆と同様にエレンの事を「女みたい」だと思っただろう。だが流石は領主を務めているだけはある人格者。野蛮な傭兵達のようにストレートに口に出す事はしなかった。

「エレン君、昨日の報告によると、君は短剣をビッグオークの眉間に突き刺して仕留めたそうだね。しかも傭兵は初めてだと聞いた。君は誰かに剣術でも習っていたのかい?」
「い、いえッ、剣術なんて大層なものは習っていません。あの時は兎も角必死で……。ただ、昔から“投擲”だけは何故だか得意でして……たまたまだと思いますが」

 緊張と謙遜で声に覇気がないエレン。だが彼女が言った事に一切の偽りもない。エレンは幼少期の頃から投擲だけは外した事がなかったのだ。

「ほう、実に興味深い話だね。もしかしてマナ使いか?」
「いや、マナも使えません。亡くなった祖父がマナ使いでしたが、僕は教えてもらっても結局出来ませんでした」
「そうなのか。だったらただ単に投擲の才能が凄いという事になるな。ハハハ、面白い少年だ」

 ブリンガー伯爵の笑いでエレンの緊張が少し解れる。そしてブリンガー伯爵は「ありがとう」と、昨日のビッグオークの討伐の功績を称え、エレンに個別に更に報酬を与えると言った。

 余りの嬉しい誤算にエレンの表情もパッと明るくなる。

(やった! 生きて帰って来た甲斐があった。これで少しの間の生活費は賄えそうだ)

 屋敷に呼ばれたのは理由がようやく分かったエレンはただただ喜んだ。本当は大声で自分を褒め称えたいぐらいの勢いであったが、流石の場の空気を読んだエレンは溢れんばかりの喜びをグッと堪えているのだった。

 しかし、これで話が終わりかと思ったエレンだが、次にブリンガー伯爵が取った行動はもっと予想外の事であった。

「エレン君、君は東部出身と書かれているが、もしかすると難民で中々仕事が見つからない状況とかかな?」
「あ、はい。まさしくその通りです。全然仕事が見つからなくて……」

 エレンがそう言うと、徐に立ち上がったブリンガー伯爵は執務室にあった机の引き出しから何かを取り出した。そしてそれをエレンへと渡す。

「これは王都の騎士団への“推薦状”だよ」
「騎士団の推薦状……!? な、何で僕なんかが……!」

 突然の事にエレンは戸惑う。

「仕事に困っているんだろう? それに騎士団員であるアッシュも認める実力者だ。それだけの力を持っているならば、騎士団への入団を考えてみてはどうかね? もし入団出来ればもう仕事には困らないぞ。
寧ろ働かされ過ぎて嫌になるかもしれない。ハハハハ!」

 ブリンガー伯爵のこの上ない計らい。
 普通ならば王都の騎士団など、一般人では入団試験すら受ける事が出来ない高き門。あり得ない申し出に嬉しさも感じたエレンであったが、彼女の場合は問題が“そこ”ではない――。

「いやッ、ブリンガー伯爵! これはとても嬉しい話ですが、推薦状を貰ったとしても僕なんかの実力では騎士団なんて到底無理ですよ……!(ってその前に女だし! 流石にバレる!)」

 やんわりと断るエレンだが、事情を知らないブリンガー伯爵は好意を全面に出してくれている。

「大丈夫だよ。他ならないアッシュが認めているのだからね。心配いらないよ!」

 今回の傭兵の募集と同じく、騎士団は言わずもがな男のみの世界。
 もし自分が男だったら嬉しいな~と思いながら、エレンはその後もなんとか断ろうと「投擲しか出来ません」「伯爵の面子を潰してしまう」「入団してもすぐ死ぬ」など、様々な角度からのアプローチを試みたが結果は惨敗に終わった。

 そして。

 エレンはブリンガー伯爵の次の言葉で一気に心が動いた。

「エレン君、争いが好きじゃないという君の本心はよく分かった。だがね、このような現状で、果たして君に沢山選ぶ程の選択肢があるかね?」

 穏やかな表情ながら、心臓をギュっと握られたかのような核心を突く一言。

「例えやりたくない事であったしても、生きていく上ではどうしても避けては通れない道もある。確かにこの推薦を受けるかどうかも勝手だ。しかし、君は明日の仕事があるのかい? その先を生き抜く術を持っているのかい?」
「……」

 気が付くと、エレンは何も言えなくなってしまっていた。
 ブリンガー伯爵の言う事は確かに正論であった。

 ただ。

(難民でもない貴方がそれを言うんですか、ブリンガー伯爵……)

 自分とは住む世界の違う伯爵の言葉を受け、エレンはこれでもかと現実を突きつけられた気分になった。

 エレンは今日を生き抜くのでやっと――。

 結局お金も力も名誉も地位もない1人の難民の少女など無力。
 何もない人間は所詮自分の生きる道すら決める事が出来ない。
 それが世界の在り方だ。

「……贅沢な事ばかり言ってすみませんでした」

 そう言ったエレンは付き物が落ちた表情を浮かべている。

 まるで開き直ったと言わんばかりに。

「やっぱり僕、やります。有り難くその推薦受けさせていただきます!」

 エレンは拳をギュっと握った。

(ここまできたらもうやってやる……。やるしかない。とことん男に扮してやる。僕みたいな人間は必死に世界に抗わなければ今日という日を生き抜けないのだから――)

 エレンの信念が静かに熱く燃え滾る。

 ない物はない。

 ならばある物で懸命に生き抜くしかない。

 覚悟を決めたエレンは揺るぎない瞳で伯爵を見つめているのだった――。