エルフの姓、竜の名。~男に扮した金色の傭兵少女は運命に抗う~

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~古代都市イェルメス~

 今から666年前に怒った『終焉の大火災』の震源地と言われる古代都市イェルメス。

 雲を突き抜ける程、空高く聳える世界樹の麓。
 広大な樹海の中心に存在するイェルメスは勿論の事ながら、この深い樹海にはリューティス王国とユナダス王国の明確な国境線は存在しない。

 グレーゾーンというものである――。

 その為ここイェルメスは世界の歴史上、主に過去の戦争においても度々重要な存在となっていた。

 グレーゾーンであるこの樹海はリューティス王国にとってもユナダス王国にとっても突破口の起点となりやすく、誰もが最初に手を付けやすい場所であった為、過去には壮絶な戦場と化した事もあったそうだ。

 だが、このイェルメスが戦場となる事に異議を唱える者達がいた。

 それが考古学者、魔導師。
 いわゆる“歴史”を重んじて調査や研究をする関係者達が口を揃えて長年抗議してきたのだ。

 古代都市イェルメスは666年前より以前の事を知る事が出来る、世界で唯一の場所。それ程までに貴重で重要な場所が戦争なんかによって葬られたらお終いである。

 だからこそ、ここイェルメスはリューティス王国やユナダス王国といった敵味方関係なく、多くの関係者達が互いに手を組み、暗黙の了解で長きに渡り守り続けてきた。

 その結果666年経った現在でも、当時とほぼ変わらない状態のままイェルメスという都市が存在し、形を保っている――。

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「ってローゼン総帥が言うから、普段は人が寄りつかない神聖な場所かなと思ってたけど……」

 古代都市イェルメスに着いたエレン達。

 馬車から降りたエレンはまじまじと辺りを見渡した。

 辺りは人の気配が全くなく、手入れもされていない廃墟ばかり。
 建物は無造作に伸びた草木に覆われて苔が生え、大火災によって辛うじて原形を留めた痕跡が僅かながらに残っている。

 ……と、そんな感じのイメージをしていたエレンであったが、彼女の視界に飛び込んできたのはそのイメージとはまるで逆。

 目の前のイェルメスには普通に多くの人が存在している挙句、都市の入り口から飲食、宿、武器屋から土産屋までズラっと商店が建ち並んでいるではないか。

「なんだこれ……!」

 王都やエレンの住んでいた東部の街と比べると、確かに質素ではある。
 だがイェルメスの街並みは、エレンの想像の遥か上をいく賑わいをみせていた。

「何を驚いているのよ」
「いや、なんていうか……思っていた感じと全然違うなと思いまして」
「ああ。もっと暗くて殺風景な場所をイメージしてたのね。ここはまだイェルメスの入り口だから一般の人も多いけど、重要な中心部は規制が設けられているから、恐らく貴方のイメージに近い風景が待っているわよ」

 ローゼン総帥はそう言うと、商店などに全く見向きもせずどんどんと奥へ歩いて行く。

「ここって国境線がないグレーゾーンだよね? って事はユナダスの人も紛れてるのかな?」
「いても可笑しくねぇな。イェルメスはどっちの領土でもないし、出入りの規制もない」
「だよね……。でもユナダスの人がいたりして争いにならないのかな?」

 休戦中とは言え、両国は戦争中。
 仮に今ここで自国と敵国の人間が混同していたとしても、この光景はとても争いをしている関係とは思えなかった。

「互いに暗黙の了解を弁えているのよ。無暗に互いの領土に近付かないようにね。それに、多くの人間は思っているわ。争いなどしても何も生まれないとね――」
「そうですよね……」

 多くの者が平和を望んでいる。
 皆が当たり前の事を思っているのに、一部の者達のせいで苦難を強いられてしまう。こんな生活は誰も望んでいないのだ。

「まぁそれでも、ここは互いの領土に属さないグレーゾーン。皆が皆平和的な考えでない事もまた事実ね。実際、イェルメスの中心部では魔導師によるいざこざが何度かあったみたいだから」

 会話をしながら賑やかな通りを抜け、更に奥へと歩みを進めるエレン達。奥に進めば進む程、徐々に人の数が減っていく。

 次第に辺りは静かになり、エレンが最初にイメージしていた古代都市イェルメスの雰囲気に近い光景がそこには広がっていた。

 何百年前という歴史を感じさせながらも、どこか近未来な雰囲気も漂うイェルメス。

 エレンはその不思議な街並みを見ながら、ふとある事を思い出した。

「大昔はここにエルフ族や竜族が存在していたんですよね……? 多種族が共存しながら平和に」

 人間、エルフ族、竜族、そして動物から魔物まで。
 一昔前はこの全ての種族が共存していたという。

 現代のエレンからは想像も出来ない世界。

「ええ、そうよ。だから本当なら出来るの。今の私達にもね」

 ローゼン総帥の言葉にハッとさせられるエレン。

 リューティス王国やユナダス王国など関係ない。
 敵だろうが味方だろうが皆同じ人間。それぞれの命があり、それぞれの人生を生きている。

 家族と過ごし、友と笑い、大切な人と時を過ごす。
 無益な争いなど必要ない。

 ただ当たり前という平和に感謝しながら生きていきたいだけ。

(僕だけじゃない……。きっと多くの人が同じように思っているんだよね……)

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~古代都市イェルメス・中心部~

「ここよ――」
 
 イェルメスの中心部に辿り着き、ローゼン総帥が1度足を止めた。

 入り口の賑わいが嘘かのように静寂に包まれるイェルメス。
 周囲は石のような特殊な素材で造られた複数の建物が存在しているが、どれも一部が崩れていたり、半壊しているものが殆どである。

 ここにエルフ族や竜族が住んでいた――。
 エレンは不意にそう感じ取った。

「それにしても高いなぁ……」

 そう言葉を零しながら、エレン達は上を見上げる。

 建物は今にも崩れそうながら、優に40~50mはあるであろう近未来な建造物が何棟も建てられており、それを見るエレン達の心音はいつの間にか早まっていた。

 貴族の屋敷や王都の城よりも遥かに高い。

「どうやって造ったんだろうコレ……」

 見た事のない建造物に目を奪われながら再び奥へと歩み始めたエレン達。

 ローゼン総帥が慣れた様子で進み続けると、やがて前方に大きな扉が見えてきた。

「一般の者が進めるのはここまでよ」

 ローゼン総帥が巨大な扉の前で足を止める。

 その大きさに圧倒されたエレン達はただ呆然と上を見る事しか出来ない。

 巨大な扉の周りには更に巨大な壁がずっと奥まで続いており、城壁のように何かを囲っている壁なのか、エレン達の目の前の壁は大き過ぎて全貌が見渡せなかった。

 ここに来るまでに何十メートルもの建物を幾つも見てきたばかりであったが、目の前のこれは更に巨大な存在。

「ここはエルフ族の特殊な結界を解かないと入れない。一応妾のような魔導師が唯一この結界を解く力があるけれど、それが出来るかどうかは完全にその者の実力次第――」

 そう言うと、ローゼン総帥は徐に手を前に出して扉に触れ、そのまま静かにそっと目を閉じた。

 すると、彼女の体から徐々に淡い光が溢れ出した。
 どうやらマナを高めているようだ。

 珍しくローゼン総帥の表情から疲労を感じる。

「相変わらず強力な結界ね……」

 額から汗を流し、それでも懸命にマナを高め続けるローゼン総帥。
 
 2分程この状態が続いただろうか。

 次第に体から溢れる光が強くなり、エレンと同じ年頃の外見をしていたローゼン総帥の容姿がみるみるうちに変化していった。

 10代、20代、30代――。

 若い少女の姿から、綺麗で品のある大人の女性へと変貌を遂げるローゼン総帥。

「ハハハハ、ようやく見覚えのある姿になったの。懐かしいわい」
「うるさいわね! 集中してるんだから黙ってて頂戴!」

 大人の姿を見たエドが笑いながら言い、それを面倒くさそうにあしらうローゼン総帥。

 何気ない2人のやり取りから感じる関係性は昨日今日のものではない、と感じるエレンとアッシュであった。

 それと同時に、少なくともエドと近い年齢のローゼン総帥が何故自分と同じ年頃の見た目をしていたのかずっと気になっていたエレンであったが、その理由が今紐解かれた気がした。

 恐らくローゼン総帥は魔法で容姿を変化させていたのだ。

 ――ブワァァァン。
 と、エレンがそんな事を思っていた次の瞬間、突如目の前の扉が強い光を発した。

「ふう……。何度やっても疲れるわね」

 愚痴を吐きながら、扉に翳していた手を引っ込めたローゼン総帥。気が付くと、彼女の見た目はいつもの姿に戻っていた。

 そしてそんなローゼン総帥が結界を解いた事により、巨大な扉は地響きを奏でながらゆっくりと開いていく。

 扉の先。

 そこに一面真っ白な空間が広がっていた。

「うわ……何ここ」
「“何もねぇな”」

 どこまで続いているか。近いのか遠いのか。そんな感覚すらも分からなくなる無機質な真っ白な空間。

 ここにはアッシュの言う通り何もない。

 いや。

「何もないように見えて、ここには“全て”があるのよ」

 ローゼン総帥はそう言うと、真っ白な壁に触れてマナを流し込んだ。

 ――ファァン。
 すると刹那、何もない真っ白な空間に“都市”が出現した。

「「……!?」」
「驚いた? これが古代都市イェルメスの正体よ」

 突如の目の前に現れた都市。
 そこには外で見た建造物と同じような建物が一面に建てられており、全てが当時のままと思われる原形を残していた存在していた。それも良く見ると、建物の至る所が“黄金”に輝いている。

「凄いッ……! なにこれ!?」
「これがイェルメス……」
「とても綺麗な眺めですねぇ」

 初めて見た光景に、エレンとアッシュとエドは度肝を抜かれる。

「本当に同じ世界なのこれ……」
「あの輝いているのは、まさか本物の黄金では?」
「そうよ。あれは本物の黄金。このイェルメスは黄金で造られているのよ」

 視覚から入る情報を処理し切れない。
 エレンは完全に頭がパニックだ。

「さあ、行くわよ。まだここがゴールじゃないわ」

 驚くエレン達を横目に、ローゼン総帥は再び歩き始めた。

**

「はぁ……。考えただけで溜息が出るわ」

 とある大きな教会で歩みを止めたローゼン総帥。
 屋根の上には黄金で造られた十字架が施されている。
 
 ローゼン総帥がこれまた黄金で造られた教会の扉を開けて中に入ると、直径10mはあろうかという円形の祭壇らしき場所に上った。

「今度は何をする気ですか?」
「エルフ族の結界はかなり強力なの。あれで終わりじゃないのよ。また待ってて頂戴」

 気怠そうに言ったローゼン総帥は、どこからともなく取り出したペンのような道具で、円形の祭壇の床に魔法陣を描き始める。

 当然エレンには理解出来ない。
 見た事もない形の文字が床一杯に描かれると、今度はローゼン総帥が静かに詠唱を唱え始めた。

 すると直後、円形の祭壇がゆっくりと地面に沈んでいき、エレン達の前に地下へと続く長い階段が出現した。

「本当に疲れるわ。さあ、行くわよ」

 長く下へと続く螺旋状の階段。

 ここは何百年も前からほぼ人の出入りがないというのに、長い螺旋状の階段には灯り代わりの松明が等間隔で設置されていた。

 これもエルフ族の魔法による力なのか、松明の火はこの場所が発見された時からずっと点いているとローゼン総帥は言う。

 エレン達はそのまま長い階段を下り切ると、そこは地下にもかかわらず多くの木々が生い茂る豊かな自然が広がり、その自然に囲まれた真ん中には王都の城よりも更に大きい宮殿らしきものが建てられていた。

「え! 地下にこんな大きな建物が……!?」
「ここはエルフ族の中でも王族が暮らしていたとされる宮殿よ」

 イェルメスに来てからというもの、エレン達は何度驚かされたか分からない。1つ1つ気になって見学でもしようものならば、とても1日では時間が足りないであろう。

「この宮殿が妾の目的地。ここからは貴方達も“気を引き締めなさい”――」

 神妙な面持ちでエレン達に告げたローゼン総帥。

 彼女はそのまま真っ直ぐ歩いて行くと、そのまま宮殿の扉を開けた。
 エレン達の視界に映されたもの。

 それは時空を歪ませるほど強力な魔法で造られた“ゲート”であった――。

「これは……!」

 扉の先には部屋や空間ではなく、明らかに異質な何かが目の前に存在していた。

「これは“異空間”へと続くゲート。この先にはまだ人類が辿り着いていない領域が存在するの」
「人類が辿り着いていない領域?」
「ええ。兎も角、そこへ行けば全てが分かる筈よ。この異空間の中で迷子になったら終わり。全員ロープで体を縛って、絶対に妾から離れないようにしなさい」

 急に物騒な事を言い出したローゼン総帥。
 怖くなったエレンは「行くの嫌です」と思わず言い掛けたが、流石にここまでやって来てその理由は通じる筈がない。

 エレン達はローゼン総帥が魔法で出したロープでそれぞれ体を縛り、全員がはぐれないよう固定した。

「そんなに気負わなくて大丈夫よ。別に魔物が襲ってくる訳でもないわ。ただはぐれないように妾について来ればすぐよ」
「分かりました。絶対に離れません!」

 ロープだけではとても信用出来なかったエレンはグッとローゼン総帥の服を後ろから掴む。

 そして一行は異空間へと続くゲートに足を踏み入れた――。

**

~イェルメス・異空間内~

「グニャグニャ気持ち悪い景色っていう以外は普通だな」
「そうですね。魔物の気配も確かにしません」
「よくそんなに普通でいられるな……」

 異空間を歩く事数分。
 
 ここが“異空間である”という事を除けば、一行は本当にただ歩いているだけであった。

「このまま行けばもう着くわよ」
「なあローゼンや……」

 皆で歩いていると、徐にエドが口を開いた。

「あのラグナという青年が使っていた練成術。あれもエルフ族の魔法でもあると言いっておったな?」
「そうよ。長年の研究で練成術はエルフ族の魔法の1つだと発表されているわ。それがどうかしたのかしら」

 話すエドの表情は神妙な面持ち。
 対するローゼン総帥も一瞬何かを言いたそうな雰囲気であった。

「昔に全ての種族が平和に共存していたとするなら、何故エルフ族は“魔物を操れる”ような練成術など扱っていたのか……」
「その答えは貴方も薄々感づいているでしょ。エドワード」

 意味深な2人の会話。
 隣で聞いていたエレンが嫌な違和感を覚えた瞬間、アッシュがそれを口に出した。

「平和に共存なんてしてなかった――って事だろ」

 静かな異空間にアッシュの声が響く。

「真実はまだ分からない。けれど、知性や言語能力のある人間やエルフ族、竜族ならまだしも、本能で生きている言葉の理解出来ない魔物達と何の争いもなく共存するのは難しいんじゃないかしら。
それこそ魔物の特性を理解した上で、人間とエルフ族と竜族が上手く魔物を避けていたと言う方がしっくりくるわね」

 言葉が出される度に、エレンが思い描いていた全ての種族が平和に共存していたという理想の世界像が少しづつ砕けていく。そんなもどかしさを感じた。

「じゃあ歴史は全部嘘って事?」
「全部が嘘という訳では決してないわ。ただ少なからずズレはあるでしょうね。エルフ族や竜族の歴史情報が少ない上に、現代まで続く言い伝えだって昔を遡れば生き残った人間達によるもの。だからどこまでが真実で、どこまでが嘘なのかもはっきり分からないのよ。

ただ、妾なりに今まで調べてみて分かったのは、現実はお伽話のように美しくはないという事かしらね――」

 ローゼン総帥は淡々と語るが、その言葉には説得力がある。

「外に大きな建物が幾つもあったわよね? これは最近の考古学者や専門家の研究で分かってきた事らしいけど、どうやらあの建物は魔物を飼っていた家畜小屋ではないかと言われているわ」
「魔物の家畜小屋……!?」

 思わずエレンから驚きの声が零れる。

「ええ。建物の中は人間やエルフ族達が生活していたとは考えにくい造りでね、どの階も四方3~10mの四角い部屋が設けられているのよ。まるで家畜小屋や牢屋のようにね」
「成程。目的は知らねぇが、要はそこで魔物を飼い慣らしてした訳か」

 エレンとは違い、特に驚く様子もないアッシュとエド。
 しかし、次のローゼン総帥の言葉はそんな2人の表情に反応を示させた。

「そう考えるのが自然ね。それに、飼い慣らされていたのは“魔物だけとは限らない”わよ――」
「「……!」」
「おいおい、まさか……」

 アッシュのその言葉の続きを代弁するかの如く、最後はローゼン総帥が言い放った。

「ええ。エルフ族のあの建物から、魔物以外にも人間と竜族がいたとされる痕跡が少し前に見つかったの。
つまり、あそこは魔物と人間と竜族が入れられていた“奴隷小屋”……とでも言うべき場所だったのではないかと関係者界隈で言われているわ」

 奴隷――。

 平和とは対照的なその言葉に、エレンは物凄い虚無感を感じた。

「昔、お前は今と同じような事を言っておったなローゼン」
「そうね。あの頃は解明されていなかった事が徐々に明らかになってきている。その善悪は別としてもね」
「共存どころか完全なる支配。練成術もエルフ族がただ魔物を都合よく操る為のものだと考えれば、練成術という存在の辻褄も合うの」

 歴史はエレン達が思うよりも遥かに残酷なのかもしれない。

 だが、それでもエレン達はここで立ち止まる訳にもいかない。

 その全てを知る為に、前へと進んでいるのだから。

「着いたわよ――」

 異空間を歩き続ける事数十分。
 遂に一行は目的地に辿り着いた。

「また扉……」

 そう。
 今エレン達の目の前には1つの扉がある。

「これが人類が未だかつて誰1人として足を踏み入れる事が出来ていない領域――『終焉の扉』よ」
 目の前に現れた真っ赤な扉。
 既に異空間という異様な場所にいたエレンであったが、目の前の赤い扉からはまた違う空気を感じた。

「未だかつて誰もこの扉を開けていないって事ですよね? 何故開けないんですか?」

 エレンが率直な疑問を問う。
 アッシュも同じ事を言いたかったのか、エレン同様にローゼン総帥へと視線を移した。

「開けたくても開けられないのよ。誰1人としてね」
「え!? ローゼン総帥でも開けられないんですか?」

 そう聞かれたローゼン総帥は一瞬顔を歪める。

「そうよ。悔しいけどね。妾も過去に1度試したことがあるけれど、開ける事が出来なかったわ」

 リューティス王国一の魔導師でも開けられない扉。

 最早次元が違い過ぎる話に、エレンはこの扉が何なのかさえ分からなくなりそうだった。

「でも、ローゼン総帥でも開けられない扉をどうやって……?」
「開けられる根拠があるからまた来たのでしょう。ねぇ、ローゼン」
「嫌味な言い方ね。もう昔とは違うわ。今度こそ開けてやるから見てなさい」

 エドの挑発に乗ったローゼン総帥は前に出る。
 そして赤い扉の前で手を合わせると、いつもの詠唱を始めた。

**

 ローゼン総帥の詠唱が始まって既に1時間――。

 彼女の額からは何度も汗が流れ、最初よりも呼吸が苦しそうだ。

 なにより初めの大きな扉を開けた時と同様、やはりこの赤い扉はそれ以上に空けるのが困難なのか、詠唱をし続けているローゼン総帥のその姿は最初に見た30代よりも更に歳を重ねた姿になっていた。

「やっと同期に再会している気持ちである」
「……黙って頂戴……!」

 エドなりの気遣いだろうか。
 ローゼン総帥の強気な口調に、どこか安心した表情を浮かべたエド。

 そして。

 ――ガチャン。

「「……!?」」

 赤い扉から重厚な鍵の音が響き、キィィ……っと赤い扉が僅かに動きを見せた。

「開いた! 凄いッ! 開きましたよローゼン総帥!」
「流石だな」
「ハハハ。ご苦労様でした」
「……本気でそう思ってるのかしら?」

 呼吸を荒くし、辛そうに立っているローゼン総帥であったが、彼女の表情はとても嬉しそうにも見えた。

「凄いですよローゼン総帥ッ! 人類で初めてこの扉を開いたってことですよね!?」

 まるで自分の事のように興奮するエレン。

 しかし、ローゼン総帥が嬉しそうな表情を浮かべたのも束の間。
 彼女の顔は再び深刻そうな表情へと変わっていた。

「妾が“初めて”かは分からないわ……」
「え?」

 急に意味深な事を言ったローゼン総帥。

「まさかラグナとかいう野郎も開けられるのか?」

 アッシュの核心を突いた言葉。
 その問いに対する数秒の無言が答にもなっていた。

「嘘ッ……! ラグナが先にこの扉を開けていたって事!?」
「まぁそれも含めて中を見れば、全てが分かるわよ」

 そう言いながら、ローゼン総帥は前人未到の領域へと足を1歩踏み入れた――。

**

「わあ、何この部屋……」

 赤い扉を開き、エレン達は中へと入った。
 するとそこには1つ部屋のような空間が。

「こんな所に誰か住んでいたのか?」
「どうでしょうか。でも僅かに“生活感”が感じられますね」

 部屋の広さは四方7、8m程だろうか。
 全体的に質素な木の造りの部屋。中は水道と簡易的なベッドが1つだけ。後は小さな棚のような物に数冊の本が倒れていた。

「こんな所に一体誰が住んでいたんだろッ……って、わッ!」

 エレンが突如大きな声を出す。
 彼女の直ぐ横の壁には“血”のようなものがベッタリとこびり付いていた。

「これは血だな」
「もしかしてラグナの……?」
「それはないだろ。もう完全に乾いてるし、時間が経ってるのか赤黒く変色してる」
「そうね。間違いなくラグナの血ではないわ。恐らく666年前にここを使っていた誰かの血よ。
勿論その誰かは分からないけど、どうやらラグナは“ここに入った”みたいね――」

 その言葉に、エレン達は一斉にローゼン総帥を見る。

「ラグナがここに……!? どうして分かるんですか」
「マナの“残り香”よ。この部屋から僅かにラグナのマナが感じられるわ」

 冷静ながら、僅かに悔しさで眉を顰めたローゼン総帥。

「あの野郎にここを開ける力が?」
「そういう事になるわね。一足先にやられたわ。ここに来ればまだ明かされていない真実が分かると思っていたけれど、とんだ期待外れだったわね。この部屋は何も収穫がなさそうだわ」

 イェルメスの最深部まで辿り着いた一行であったが、今回の任務ではこれと言った収穫は得られなかった。

 分かった事と言えば、ラグナがかなりの実力であり、エレン達と同じようにエルフ族や過去の事を調べているという事。

 そして証拠がある訳ではないが、ラグナの練成術はやはりエルフ族の魔法。一体ラグナがどうやってその術を見つけたのかは結局分からず終い。

 これ以上は成す術がない一行は、不完全燃焼ながらも帰路に着く事にした。

 また別の手掛かりを探そう。

 全員がそう気持ちを切り替えた次の日。

 ローゼン総帥の元へ緊急の指令が入った。

<緊急伝令! 敵国のユナダス王国が進撃を開始した模様! レイモンド国王の命令により、ローゼン総帥は直ちに王都へとご帰還ください!>

 雲1つない快晴の昼間。

 リューティス王国とユナダス王国にて、再び戦争の火蓋が切って落とされた――。
♢♦♢

 古代都市イェルメスを出発したエレン達。

 ファストホースを勢いよく走らせる一行は、イェルメスから少し離れた北部の“ベローガ拠点”へと向かっていた。

「後数時間で着くわよ」

 椅子に腰掛けたローゼン総帥がエレン達に言った。

(戦争がまた始まる――)

 イェルメスの最深部で赤い扉を開いた翌日、ローゼン総帥の元へ「ユナダス王国が進撃を始めた」という一報が入った。

 レイモンド国王からの緊急指令によってローゼン総帥は一旦王都へ戻る事が決まり、今回の任務を終えて晴れて戦線部隊へと異動が決まっていたアッシュは早速ベローガ拠点へ向かうよう指示を受けたのだ。

 勿論エレンとエドもアッシュと行動を共にするとレイモンド国王に告げ、一行を乗せた馬車はベローガ拠点へと向かっている。

 このベローガ拠点はリューティス王国とユナダス王国の国境線に最も近い場所。そして戦争時には進撃、防衛等の拠点となる重要な場所でもある。

 それ故、王都から遠く離れたベローガ拠点には多くの騎士団員も駐屯されており、ベローガ拠点に下された第一指令はユナダス軍の進撃阻止であった。

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<緊急伝令! 敵国のユナダス王国が進撃を開始した模様! レイモンド国王の命令により、ローゼン総帥は直ちに王都へとご帰還ください!>

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 エレン達がイェルメスにてその伝令を受けてからもう2日が経つ。

 ずっとファストホースを走らせたエレン達はもうベローガ拠点の近くまで来ていた。

(遂にまた戦争が……)

 椅子に腰掛けたエレンはグッと強く拳を握り締めている。

 いつかこの日が来るだろう。

 そう頭では分かっていたのに、実際に起こった現実を前にした途端、エレンは恐怖で体の震えが止まらない。

(嫌だ……怖いよ……)

 勢いとは言え、アッシュとエドと一緒にベローガ拠点に行くと言ってしまったのは自分。

 正式な戦線部隊ではないが、ベローガ拠点に行くという事はエレンもそこに加わって最前線で武器を取る事を意味している。

(どうしよう……怖過ぎるよもう! 今すぐ逃げたい。家に帰りたい。でも……)

 “もう逃げたくない”――。

 自分の命を……そしてアッシュの命も失いたくないエレンはそう固く決意をした。

 大丈夫だと何度も何度も自分に言い聞かせるエレン。
 震える体を抑え、ガタガタ鳴る歯をこれでもかと噛み締め止める。

(アッシュを絶対に死なせたくない。今度は僕が守らないと――)

 エレンの脳裏を過る明るい夜。
 焦げ臭い煙の中を、無我夢中で祖父と共に走った。

 肌を焼かれる熱波に晒され、転がる死体を、殺される人々を沢山見た。

 両親と楽しく過ごした記憶ごと燃やそうとする業火をエレンは一生忘れる事は出来ないだろう。

 思い出したくない記憶が走馬灯の如く頭を駆け巡ると、勢いよく走っていた馬車が動きを止めた。

 ベローガ拠点に到着したのだ。

「これを持って行くといいわ」

 馬車から降りたエレン達に、ローゼン総帥は何かを渡した。

「これは?」
「妾のマナで作った勾玉よ。緊急の時はそれを投げなさい。そうすれば妾に伝わるわ」
「分かりました。ありがとうございます」
「3人共、生きて戻るのよ」

 最後に真剣な顔でそう告げたローゼン総帥。

 エレン達が力強く頷くと、ローゼン総帥は1人王都へと向かって馬車を走らせたのだった。

**

~ベローガ拠点~

 戦争時の要となるここベローガ拠点は、多くの騎士団員が派遣されているという事もあり、それなりに大きな宿舎が建てられていた。

「護衛隊の宿舎と雰囲気が似てるね」
「本当ですね。なんだかもう懐かしい気がしますよ」

 ベローガ拠点の宿舎は王都の護衛隊の宿舎と似ていた。
 それをより強く思わせたのは、外観の造りだけでなく、内装や部屋のレイアウトもほぼ一緒であったからだろう。

 宿舎を見たエレンは少し心が和んだ。

(まだ数日しか過ごしていないのに、なんか家に帰って来た気分だな。ダッジ団長や他の護衛隊の皆も動き始めているんだよねきっと……)

 そんな事を考えながら宿舎へ入ると、早速騎士団員の1人がエレン達が使う部屋へと案内してくれた。

 偶然部屋の割り振りも同じ。
 エドが隣の部屋で別の団員と相部屋となり、エレンとアッシュが同じ部屋となっている。

 それから数時間が経った日が沈む頃、他の区域からも騎士団員がこのベローガ拠点に応援で派遣されて来た。

「おう。ローゼン総帥との任務は無事に終えたみたいだな!」
「ダッジ団長!」

 派遣されてきた多くの団員の中にダッジ団長の姿が。
 ダッジ団長は明るい笑顔をエレン達に向けて馬から降りた。

「3人共元気そうで何よりだ」
「ダッジ団長もです」

 陽気なテンションで会話を始めたダッジ団長であったが、直後に表情が強張った。

「いよいよこの日が来たな。誰も好んで戦争なんかしたくねぇっていうのによ。
まぁそんな愚痴を言ったところで何も変わらないが、兎に角全員無事で帰れる事を祈ろうぜ」
「そうですね……」

 最低限のやり取りを終えたダッジ団長は「また後でな」と馬を連れて馬小屋に行き、派遣団員を出迎えたエレン達も部屋へと戻った。

「何でついて来たんだよ」

 部屋に戻った瞬間、アッシュが唐突にエレンに言った。
 その表情はどことなく不機嫌だ。

「怖ぇんだろ? わざわざベローガに来なくても、ローゼン総帥と一緒に王都に戻れば良かったじゃねぇか」
「怖くないよ。僕だって戦える」

 精一杯の強がり。エレンの声は少しの震えを感じる。

「そんなビビった面してよく言うぜ。馬車の中でもずっと震えてただろ」
「そりゃ馬車が走ってるんだから“振動で”震えるさ。ビビッてる訳じゃない」
「言い訳だけは実力者だな」
「君も自己中の実力者だね」
「……なんで逃げなかったんだよ」

 アッシュの声が1トーン低くなる。

 それもいつもの馬鹿にする感じではなく、まるで心配するかの如く真剣な眼差しをエレンに向けていた。

「今ならまだ間に合うぞ。俺は別に報告したりしねぇからよ……今の内に逃げろ。お前が行きたい所へ自由にさ。戦争が終わるまで隠れてろ。
その緑の目は難しいかもしれねぇが、髪なら簡単に染めて誤魔化せるだろ?」

 アッシュなりの最大限の気遣い。
 彼はエレンの事を思って言ったに過ぎない。

 だが、エレンはアッシュの発言に強い憤りを感じた。

「……なにそれ、どういう意味? 自分勝手な事ばっかり言うなよッ!」

 抑えきれない感情が勢いよく声に出た。

「ビビってる? 黙ってるから逃げろ? 行きたい所へ? ……ふざけるな! 僕はもう逃げないって決めたんだ! 僕の生きる道を君が勝手に決めるなよ! 僕はッ――! (決めたんだ。絶対に君を死なせないって)」

 1番伝えたかった言葉が声に出ない。

 決死の覚悟を嘲笑された気がしたエレンは悔しかった。

 言葉が出ない代わりなのか、エレンは腰の短剣を引き抜いてアッシュのへと切っ先を向ける。

「もう僕を舐めるな。今度何か言ったらまず君から斬ってやる」
「……」

 エレンがアッシュにそう啖呵を切ると、アッシュは小さく息を吐いて部屋から出て行ってしまった。
**

 ベローガ拠点に辿り着いた翌日。

 エレン達は緊急編成された戦線部隊の一員として荒野へと向かっている最中。大きな岩や崖のある北の荒野目掛けてユナダス軍が進行していると一報が入った為だ。

 諜報員の情報によれば、ユナダス軍との兵数はほぼ互角。
 このまま進めば明日の昼間には敵軍と遭遇するとの事。

(ユナダス軍は強気だ……。まぁ勝つ気があるから進撃してきたんだよな)

 鋭い傾斜の崖に囲まれた道を進むリューティス軍。
 ここを抜ければ比較的見晴らしの良い荒野へと出られる。

 快晴の空。
 エレン達が進む横では綺麗な川が静かに流れ、時折聞こえる鳥のさえずりは、何でもない平穏な日常を演出している。

(とてもこれから戦争に行くとは思えない)

 余りに長閑な空気感に、エレンは一瞬自分の置かれている状況を忘れそうになる。

「ん……?」

 直後、リューティス軍の進行が止まった。

「どうしたんだろう。急に止まって」
「嫌な気配だな」

 首を傾げたエレンの横で、アッシュが呟く。
 すると、隊の先頭で何やら団員達の動きが騒がしくなった。
 
「馬鹿な……ッ!」
「どうしてここに!?」
「“敵軍”だあああ――ッ!!」

 場に轟いた声に、エレンは背筋が凍った。

「前方に敵軍確認! ユナダス軍だッ!」

 隊の先頭にいたダッジ団長が大声で叫ぶ。
 一気に全員に緊張が走った。

(嘘でしょ……!? 何でこんなに早く……!)

 事前に聞いた情報によれば接触は明日の昼間。
 予定よりも異常な速さでの衝突となってしまった。

「あれは“ノーバード”ですね」
「ラグナの練成術か」

 ノーバードは首と足の長い鳥類系の魔物。鳥類だが空は飛べず、代わりにその屈強な脚で馬以上の速度を出す。嘴も刃物の如く鋭く、大きい体格の為、背中に大人2人は優に乗る事が出来る。

 異常な速さの接触となったのは間違いなくノーバードの影響だ。

「やっぱりアイツらの進撃の要は、ラグナの練成術で出した魔物なんだ……!」

「総員、行くぞぉぉ!」
「「うおおおおおッ!」」

 ダッジ団長の鼓舞を合図に、リューティス軍も一斉に敵軍目掛けて動き出す。全員が手にする武器を勢いよく掲げた。

 馬に乗るエレンは背負った箙から弓矢を1本取り出し、投擲のモーションに入る。

(逃げるな――)

 エレンの体から淡い光が立ち込めると、エメラルドグリーンの瞳が輝きを発した。

(生きる為に……前へ……!)

 数百メートル先にいるユナダス軍目掛け、エレンは弓を投擲する。

 ――ヒュン。

 まるで弓の名手が矢を射たかの如く、エレンの放った矢は瞬く間に自軍の団員達を抜き去り、次の瞬間ユナダス軍の1人の兵の胸に勢いよく突き刺さったのだった。

(……生きたいのなら。死にたくないのなら。失いたくないのなら……戦え――!)

 実に1年半振りにリューティス軍とユナダス軍が衝突。

 互いに万を超える兵隊が再び戦争の狼煙を上げた。

「「うおおおおおッ!!」」

 戦場と化した場。

 エレンの脳裏に4年以上も前の記憶が鮮明にフラッシュバックする。

(負けるな。ここでビビッて目を閉じたら終わり。戦場では一瞬の弱さが生死を分けるんだから……!)

 臆する事なく、エレンは再度箙から矢を取り出して投擲した。

 ――シュバン。
「ぐあッ!?」
「あの敵兵、目が光ったぞ!」
「もしや魔導師か!?」

 ――シュバン。シュバン。
 僅かな隙を突かれたユナダス軍の兵達が次々にエレンの弓の餌食となる。

 ――シュバン。シュバン。
 
 今ので何回投擲をしただろう。箙に入っていた10本近い矢がいつの間にか無くなっていた。

「ふう……。まだまだ使いこなすのは難しいけど、前よりだいぶ楽になった」

 連続で投擲を繰り出したエレンは早くも少し疲れが見えていた。

 しかし、自分の力を再認識し、強くなるという覚悟を決めたエレンは、ローゼン総帥にお願いして投擲の力をコントロールする特訓もしていた。

 勿論力を完璧に使いこなせるようになった訳ではない。
 寧ろ思い描いていたものよりずっとお粗末なものだ。

 しかし、日々のエドとの剣術特訓とローゼン総帥との投擲特訓により、本当に微々たるものだが、エレンは着実に肉体や精神が鍛えられ強くなっていた。

 これだけ投擲を使って意識を失わないのなら上出来。
 体はどっと疲労感を感じているが、まだまだ動く事は出来るようだ。

「よし。まだまだ……!」
「焦りは禁物ですよエレン君」

 興奮状態となっていたエレンを落ち着かせるように、エドが優しく声を掛けた。

「強くなったからといって、暴走してしまえば元も子もありませんよ。こういう時にこそ1歩引いて周りを見る事が大事です」

 エドの言葉にふと我に返る。

(おっと、そうだった……)

 怖がらずに前を見る事は大事。
 でもそれで自分を見失っではいけない。

「エドさん、アッシュは?」
「あちらで戦っていますよ」

 エレンがするべきは恐怖やユナダス軍と戦う事ではない。

 大切なもの――アッシュを守る事だ。

 エレンとエドの先ではアッシュが交戦している。
 周りと違う甲冑を装っているところをみると、敵兵の中でも幾らか位の高い者だと分かる。

「貴方は1人ではありません。私がサポートします」

 ――シュバン。
 そう言ったエドは、エレンに襲い掛かって来た敵兵を斬り倒した。

「アッシュを生かせるのはエレン君だけ。頼みましたよ。後ろは私が請け負います。だから貴方は前だけに集中して下さい」
「……はい!」

 力強く返事をしたエレンは一直線にアッシュの元へ向かって走り出す。

 アッシュが戦っている相手は実力者。
 だが、アッシュは余裕の動きで敵兵の攻撃を躱すと、甲冑の無い関節部分を狙って剣を振るった。

 ザシュン。

 舞う血飛沫と共に、敵兵の顔が歪む。
 そこへすかさずアッシュが敵兵の首を刎ね、命を狩った。

「ッ!? アッシュ……!」

 刹那、敵兵を倒したアッシュの死角から別の敵兵が彼に忍び寄っていた。

 しかしアッシュは気付いていない。

(やばいッ。間に合って……!)

 いち早く気が付いていたエレンは決死に走る。

 アッシュの背後では既に敵兵が槍を突き刺そうとしていた。

「アッシュゥゥ!!」
「エレッ……『――ザシュン』

 アッシュがエレンに気付く。
 エレンがアッシュ目掛けて飛び込む。
 敵兵がアッシュに槍を突き刺す。

 それらの全てがほぼ同時に起こった――。

「ゔぐッ……!」
「エレンッ!?」
「ちっ、殺し損ねたか」

 敵兵の槍には血。
 攻撃を食らったのはエレンだ。

 間一髪の所でアッシュを突き飛ばしたエレンであったが、敵兵の槍が彼女の脇腹を抉った。

「馬鹿ッ! 何してんだよお前!」

 バランスを崩して地面に倒れたエレンは痛みで起き上がれない。
 すぐにアッシュがエレンの傷口を確認するが、またしても背後で敵兵が槍を構えていた。

「死ねええッ!」
「……テメェがな」

 ザシュン。

 電光石火の一撃。
 何事もなかったかのように敵兵の首を斬ったアッシュはすぐにエレンの無事を確かめ、丁度死角となる岩の裏へとエレンを隠した。
「おい! しっかりしろエレン!」
「アッ……シュ。良かった……無事だった」
「何やってんだよお前は……! って、おい。動こうとするな」

 エレンはアッシュに支えられながらゆっくりと上半身だけを起こした。

「弱い奴が出しゃばるなよ」
「仕方ないでしょ。無意識に体が動いていたんだよ……」
「幸い傷口は深くねぇ。俺が止血してやるから、お前はもっと奥で隠れてろ」

 アッシュはそう言って、自分の服の袖を破いてエレンの傷口を固く縛った。

「い"ッ……!」
「これでよし。あっちの岩陰なら人も来ないだろ。ここで動けるまで隠れたら、お前はそのまま逃げッ……「嫌だよ」

 エレンがアッシュの言葉を遮る。
 そしてグッと睨みつけた。

「僕はもう逃げないって言っただろ。目の前で君が戦っているのに、それを見て見ぬふりなんて絶対にしたくない」
「この状況でまだそんな事言ってんのかお前」
「もう嫌なんだよ! 大切な人達が傍からいなくなるのは――」

 エレンのその言葉に、アッシュは目を見開いた。

「アッシュにだって僕の気持ちが分かる筈だ。突然大切な人を失う気持ちが……いなくなる怖さが……!」

 いつの間にか1人なってしまったエレン。
 彼女は大切な家族や友達を失った。

 だがそれでも、時流れが止まる事は決してない。

 悲しみに打ちひしがれながらも、エレンは今日という日を生き抜いてきた。

 毎日毎日自分の為に。
 ただ自分が今日を生きる為に。

 いつからか自分の事だけで精一杯になっていたエレンは、アッシュやエド達との出会いで再び実感したのだ。

 当たり前のものが失う怖さを――。

「僕達もう仲間だよね……? 確かに出会ってまだ日が浅いかもしれないけど、一緒にここまで生き抜いてきた仲間じゃないか。
だから僕は怖くなるんだよ。もし君を失ってしまったらって……また大切な人が傍からいなくなってしまったらって……!
僕は絶対に嫌だ。こんな僕を何度も助けてくれた君を……僕は失いたくない」

 話す度に。
 呼吸をする度に。
 抉られた脇腹がズキズキと痛んで熱い。

 それでもエレンは言葉を止められない。

 だって。

 それほど目の前の彼を失いたくないのだから――。

「また1人になりたくない。だから僕は逃げずに戦うと決めた……。君の戦いが終わるまで、死に急ぐ君がまた生きると決めるまで……僕はその時まで絶対に逃げ出さない……!」

 エレンの瞳は真っ直ぐアッシュを捉える。
 その瞳は今まで彼が見てきた中で1番強い思いを感じるものだった。

「……っとに。テメェは果てしなく馬鹿な野郎だな」

 アッシュの眉間に皺が寄る。
 そして彼は一瞬口籠った後、しっかりとエレンの目を見て言った。

「そんなに怖いならもっと強くなれ。俺はお前に守られるほど弱くねぇ。それにな、エレン。俺はもうとっくにッ……「よお。久しぶりだな――」

 次の瞬間、エレンとアッシュの背後から低い声が響いた。

「テメェは……!?」

 バッと勢いよく2人が振り返ると、そこには深緑色のローブを纏ったラグナの姿があった。

 グラニス街ぶりに遭遇したエレンとアッシュの胸は大きく脈を打つ。

「約束通り迎え来たぜ、混血の女神様。って事でバイバイ!」

 くしゃっと笑顔を見せながら徐に手を振ったラグナ。

 エレンとアッシュが呆気に取られていた次の瞬間、突如エレンの体が地面に沈んだ。

「え、ちょッ……!?」
「エレン!」

 エレンとアッシュは互いに手を伸ばす。

 しかし、ラグナの繰り出した魔法によって、エレンの体は一瞬で異空間に呑み込まれ姿を消してしまった。

「おいエレンッ! ちっ、ラグナお前一体エレンをどこにッ……!?」

 怒り心頭でラグナの方へ振り返ったアッシュであったが、そこには既にラグナの姿もなくなっていた。

「くそッ! あの野郎……!」

 ラグナがエレンを連れ去った。
 それを理解したアッシュは凄まじい怒りが込み上げている。

 直後アッシュは岩陰から戦場へと戻ると、通りかかった敵兵――ノーバードに乗っていた男を瞬殺して引きずり落とし、そのまま無人となったノーバードに跨りユナダス軍へと突っ込んだ。

「あの野郎、どこ行きやがった……!」

 何万もの兵が入り乱れる中、アッシュは血眼でエレンとラグナを探す。

「アッシュ! エレン君は?」

 ノーバードを勢いよく走らせていたアッシュの後ろから、同じくノーバードに乗ったエドが追いついた。

「ラグナに連れ去られちまった!」
「そうでしたか。ならばやる事は1つですね」

 アッシュとエドはユナダス軍の後方、この軍の大将となる者がいるであろうユナダス王国の紋章を施した一際大きな旗目掛け、敵軍のど真ん中を突き進んで行く。

「どけえええッ!」
「いざ味方となると頼もしいですね、ノーバード」

 2人の猛攻がユナダス軍に混乱を招き、隊列を徐々に大きく崩していった。

 そして。

 大きく開かれた道。

 如何にも実力がありそうな団長クラスの敵兵数十人が固まる中、忌まわしい深緑色のローブを身に纏う人物をアッシュは捉えた。

「いた! ラグナだ――!」

 エドが援護に回り、アッシュは一直線にラグナ向かってノーバードを走らせる。

 瞬く間にラグナと距離を詰めたアッシュはノーバードを踏み台に、周りの団長達を無視してラグナに斬りかかった。

 ――ガキィン。

剣と剣が衝突する金属音が響き、互いの剣が一瞬弾かれる。

「エレンを返しやがれ!」

 鬼の形相を浮かべるアッシュは立て続けに剣を振るい、防ぐラグナの体勢を思い切り崩した。

 そこへ間髪入れずに飛び込んだアッシュがラグナの胸ぐらを掴むと、そのまま渾身の力で地面に叩きつける。馬乗り状態となったアッシュは剣の切っ先を奴の首元へと突き付け、酷く冷酷な声を漏らした。

「ぶっ殺してやる」

 自分の目の前には全ての元凶。

 彼の家族を奪った憎き男がいる。

 それに加えてエレンを誘拐。

 アッシュにはもうラグナを殺す以外の選択肢はなかった。

「死ね。くそ野郎が――」

 アッシュが“違う”と気付いたのは直後の事――。 

 妙な違和感を感じ取ったアッシュはラグナの顔を覆っていたローブを乱雑にめくり上げた。

 すると、そのローブの下にはラグナ――ではない、別人の姿があった。

「なッ……お前は……!?」

 視界に捉えた男の顔を見て眉を顰めるアッシュ。
 目の前に倒れる彼からは確かにラグナの面影を感じる。

 だがまるで“別人”だ。
 似てる部分もあるが、髪色も目の色も違う。

 アッシュが驚きと困惑で一瞬で言葉を詰まらせると、次に男が口を開いた。

「その様子だと、私をラグナと間違えたみたいだね。……“ブルーランド王子”」
「……!?」

 突如その名を出されたアッシュは無意識に剣を握る手に力を入れていた。

「何者だテメェ」

 再び鋭い眼光を男へ向けるアッシュ。
 喉元に突き付けた剣先をギリギリまで沈みこませると、男の首筋に一筋の血が伝った。

「私はラグナではないが、奴の居場所に心当たりがある」
「心当たりがある……? ここにいる筈だろ。練成術で魔物を操ってるんだからよ」

 底の知れない怒りと同時に、アッシュは冷静でもあった。

「確かに今いるノーバードは練成術で生み出した魔物だよ。だが肝心の“術者がラグナではない”」
「何ッ……!?」
「この練成術は別の魔導師の仕業だよ。ラグナから教えられたのさ」
「どこまでもふざけた野郎だ……! なら奴はどこだ? 答えなければ殺す」

 脅しではない。
 それはアッシュの瞳を見れば一目瞭然だ。

「私を殺せば奴の居場所は分からくなるよ。それでもいいなら殺してみろ」

 男も相応の覚悟を決めているのか、その言葉と表情に偽りがない。

「私の名はジャック。“ジャック・ジョー・ユナダス”――」

 名を聞いたアッシュは目を見開いた。

「ユナダス……だと?(じゃあコイツは……)」
「ああ。父はヨハネス・ジョー・ユナダス国王。証明出来る物はないが、私は正真正銘ユナダス王国の王子。そして……ラグナの“兄”でもある」

 驚きを隠せないアッシュであるが、そんなアッシュを他所にジャックは淡々と言い放った。

 以前彼ら2人の周りでは激しい争いが続いている。
 しかしアッシュとジャックには最早それら全ては雑音。
 互いの言葉しか耳に入っていなかった。

 更にジャックは話を続ける。

「君がユナダスを恨んでいるのは重々承知している。しかし事態は一刻を争っているのだ。ラグナの居場所は私が教えてあげよう。だからその代わりに……私も一緒に同行させてほしい――」
「お前を一緒に……?」

 目まぐるしい状況変化にアッシュも険しい表情を浮かべている。
 一度に得た情報が多い。それも思わず聞き直したくなるような内容ばかり。

 それでもアッシュはこの緊迫する戦況の中で懸命に頭を回転させる。

(コイツがユナダスの王子……そしてあのラグナの兄だと……? 一体コイツは何を考えてやがる。何故俺なんかと一緒に……)
「考えているところ悪いが、事態は一刻を争っていると言っただろう」

 未だアッシュに馬乗りで剣を突き付けられている状態にもかかわらず、ジャックは真っ直ぐアッシュを見て煽るように言った。

 確かに迷っている暇はない。
 こうしている間にもエレンの危険は続いている。

「助けたいんじゃないのかい? 混血の女神を」
「――!?」

 ジャックの言葉で我に返るアッシュ。

 一瞬エレンの顔が脳裏に浮かんだアッシュはゆっくりと立ち上がった。

「……何が目的だ。何故エレンを狙う? 混血の女神とは何だ!」

 立ち上がりながらも、アッシュは剣先をジャックに向けたまま睨みつける。

「事情を全て話すには時間が足りないが、ラグナを止めたいのは俺も同じだ。でも残念ながら俺にはその力が備わっていない……。全く以て情けない話さ。
だから恥を忍んで君にお願いしている。ラグナの居場所は教えよう。だからお願いだ。私も一緒に同行させてくれないか」

 ジャックという男の言葉は全て本心。
 
 それは先程からずっとアッシュも感じている。

 しかし状況が状況なだけに、彼の発言を鵜吞みにする危険さもまたアッシュは感じていた。

 だがそんなアッシュの警戒を解くかの如く、ジャックは“誠意”を見せる。

 ――カラン、カラァン……。

 徐に自分の剣や甲冑を脱ぎ捨てるジャック。
 そしてゆっくりと立ち上がった彼は両手を上に挙げ、戦意が無い事を伝える。
 更にジャックはそのままアッシュの前で両膝を地面に着けると、自ら両腕を後ろに回したのだった。

「君が俺を信用出来ないのは当然だ。だから抵抗しないように自由に拘束してくれ。私はラグナを止められればそれで十分なんだ――」

 無抵抗の意を示すジャック。
 アッシュは彼の発言や行動に驚かされるばかりであったが、アッシュもまた何か決意した表情を浮かべるのだった。

**

 日は沈み、辺りはすっかり暗い。

「信用出来るの?」
「分からない」

 神妙な面持ちでそう言葉を交わすのはアッシュとローゼン総帥――。

 彼らが乗る馬車は通常よりも大きい特別製。
 馬車を引くのは最速のファストホースである。

「まぁ他に手掛かりがない以上、今は彼を頼るしかありませんな」
「ああ。舐めた事したら首を掻っ切ってやる」

 エドが訝しい表情を浮かべていた横で、アッシュは躊躇いなく殺気を向ける。

「……勿論だ。もし嘘だったら殺してくれて構わない」

 アッシュ、エド、そしてローゼン総帥の3人から視線を注がれる中、ジャックは真っ直ぐな瞳で訴え掛けていた――。
~馬車内~

 エレンがラグナに連れ去られ、ジャックという目の前の男に出会うまでの一連の経緯をローゼン総帥に話したアッシュ。

 アッシュはジャックとの会話の後、直ぐにローゼン総帥から貰った“勾玉”を投げていた。

 それがローゼン総帥に伝わり、まだ王都へ向かっている途中であった彼女は迷った挙句、嫌な予感がして引き返す決断を下したのだ。

 ローゼン総帥がベローガ拠点へ急いで戻ると、既にアッシュとエド……そしてジャックが彼女の到着を待っていた。彼らはリューティス王国とユナダス王国が激しく入り乱れる戦場から上手く抜け出していた。

 この選択は確かに後ろめたさも感じたアッシュとエドであったが、ジャックの言う通り事態は一刻を争っている。エレンの命が危ない状況で、アッシュはこの選択以外考えられなかった――。

 そして現在。
 無事ローゼン総帥と合流したアッシュ達は勢いよくファストホースを走らせ、目的地へと向かっている。

「それで? 進路はこのままでいいのかしら」
「ああ、問題ない。このままリューティス王国の“東部”へ向かってほしい」

 躊躇う様子なく言い切るジャック。
 当然簡単に信用など出来る相手ではないが、アッシュ達は皆ジャックの発言が嘘であるとも思っていなかった。

「時に――ジャックと言ったかな? 君は何故ラグナを止めようとしているのですか?」

 要約状況の把握と、少しの時間が生まれたエドは核心を突く質問をジャックに投げかけた。これにはアッシュもローゼン総帥も同じ意見なのだろう。2人共エドと同じくジャックへと視線を移す。

 当のジャックはゆっくりと口を開き、「話せば長くなる……」と前置きをしながら事の経緯を語り始めるのだった――。

♢♦♢

~数十年前・ユナダス王国~

「今日からコイツはお前の弟だジャック――」
「え……弟?」

 突如ユナダスの国王……実の“父”からそう告げられた10歳そこそこのジャック少年は困惑を隠せなかった。

「何かあればジャックに聞くがよい。後は頼んだぞ」
「ちょ、ちょっと待って下さい父上……! って、行っちゃったよ……」

 父がいなくなった場所を数秒見つめた後、ジャックは首を横に動かした。

「え~と……。あの……俺の名前はジャック……。き、君は……?」

 余りに想定外の事態に全く気持ちの整理が付いていないジャックであったが、相手が自分と同じぐらいの子供であったお陰で幾らか緊張は緩み始めていた。

「……」
(あれ? 聞こえなかったのかな……?)

 ジャックからの問いに無言の少年。
 彼は俯いたままボーっとした様子で立ち尽くしている。

「ね、ねぇ! 名前は何て言うの?」
「……」
「どこから来たの? 何で俺の父上と一緒に?」
「……」
「あ、そっか。ひょっとしてお腹空いてる? お菓子あげるよ!」
「……」

 矢継ぎ早にあれこれ話し掛けたジャックであったが、少年は終始無言のまま。

 困り果てたジャックも打つ手がなくなったようだ。

(え、どうすればいいんだろう俺……)

 これがジャック少年と“ラグナ少年”の最初の出会い――。

**

 数日後。

 ――ブワァン。

「おー! やっぱ何度見ても凄いよ。ラグナの魔法は」
「別に普通だと思うけど……」

 目を輝かせてラグナを見るジャックと、そんなジャックを落ち着いた様子で見るラグナ。歳も近いお陰か、出会った初日よりも少し距離が縮まったようだ。

 ジャックがこの数日でラグナについて分かった事と言えば、名前と魔法が得意だという事。

 そして。

 ラグナが正真正銘、自分の異母兄弟に当たる存在であるという事だった。

「普通じゃないって絶対! 俺と2つしか歳が違わないのに魔法が使えるなんて天才だよ! マナ使いだって珍しいって言われてるのに」
「そうなんだ……。よく分からないや」
「父上がラグナは将来優秀な魔導士になるって言ってたよ。凄いな~。俺も使ってみたい」

 ジャックとラグナは日に日に仲良くなっていった。

 まるで昔から一緒だった本当の兄妹のように。

 あの日、決して裕福だとは言えない装いをしたラグナが自分の前に現れ、更に同じ生活をするようになった理由は、父上がラグナの魔法の才能を認めて期待したからだとジャックは信じて疑っていなかった。

 しかしそれと同時に、ジャックはまだ幼心ながら父上やラグナに“それ以上”の事を聞いてはいけないとも心の何処かで感じ取っていた。

 いや――それはジャック本人が本能的にそうしたのかもしれない。

 ジャックは知るのが怖かった。
 自分から聞く勇気もなかった。

 そもそも何もないかもしれない。
 ただ自分が勝手にそう思っているだけ。

 理由も根拠もない。

 でも何故かジャックは“それ”を聞いてしまったら、全てが消え去ってしまう……そんな気がしていたのだった。

 それから数年の時が流れ、いつからかジャックはそんな事すら考えなくなっていた。

 時が流れれば流れる程、喜怒哀楽を共有すればする程、ジャックとラグナの絆はより深く当たり前のものへと変化。

 そして。

 ジャックは“後悔”する――。

 何故もっと早くラグナという存在を知ろうとしなかったのだろうと。

 何故もっと早く“それ”をラグナに聞かなかったのだろうと。

 何故……こうも変わってしまったのだろうと。










「ヒャハハ。久しぶり、ジャック――」