水晶の部屋から外に出てすぐに、クイナの姿を発見した。
少し遠くで何だか非常にソワソワしている様子だったが、俺を見つけるなりすぐに小さく跳ねて駆けだしてくる。
「アルドっ!!」
「ぉわっ?!」
盛大に飛びついてきたクイナから強めのタックルを受けて、俺は思わず尻もちをついた。
胸の中に滑り込んでくるフワリと温かい体温と、俺の胴体にギュッとしてくる小さな手。
今の勢いでフードが外れ、ピンと立ったケモ耳が目下に姿を現す。
何かがワッサワッサとしてるなと思えば、コートの裾を押し上げて黄金色の尻尾が揺れていた。
少なくとも歓迎モードだ。
そう思えば、とても微笑ましくて、嬉しくって、くすぐったい光景だなって……って、ん?
《《見えて》》?
「バッ! お前っ、耳としっぽ!!」
「ハッ!!」
俺の叫びにクイナが「マズい!」と頭を隠した。
でもね、クイナさん。
お陰でケモ耳は隠れたけれど、尻尾はまだ丸見えだよ。
これぞまさしく『頭隠して尻隠さず』の典型――なんて言ってるような場合じゃない。
俺は慌てて押し上げられてたコートの裾を引っ張って尻尾を隠す。
が、覆水は盆に返らない。
額を汗がタラリと伝う。
今まで様々な社交場に立ちそれなりの経験を積んできた筈の俺だけど、今ほど手の施しようがない事態に出会ってしまった事はない。
どうしよう。
せっかくここまで来たっていうのに、結局俺はこの子を無事に安全地帯へと連れてく事さえ出来ないのか。
そう思った時だった。
「ここはもう、ギリギリですが確実にノーラリア共和国の中ですよ」
そんな風に声を掛けられて、俺は「へ……?」と少し間の抜けた声を上げた。
ゆっくり顔を上げると、そこにはあのダンディーな微笑みがあって。
「運がよかったですね。この国では、彼女がたとえ人族でなくとも誰も何も言いはしません」
「あ……」
そうだった。
ノーラリアに入ってしまえばもう大丈夫。
そしてここはノーラリア。
俺は今正に、国境を越えてきたのだ。
安堵に思わず頬の筋肉が力無く緩み、深い息が漏れて出た。
するとそれを真似したように、クイナも同じく息を吐く。
体の力が抜けたんだろう。
胸の上でグッタリだけどホッとしたクイナのせいで、体に伝わる重みが増した。
そんな俺達の脱力具合に、ダンディー・ダンノは可笑しそうにクスクスと笑い、地べたに押し倒されたままの俺にスッと手を差し出してきた。
それをありがたく受けながら、俺はゆっくりと立ち上がる。
その時に空いた方の手でクイナの頭を「どいてくれ」とポフポフ撫でてみたんだが、まったく退く気配が無かった。
そのお陰で俺の腰に、クイナがデローンと付いてくる。
ぶら下がる結果になったとしても今の俺に寄っかかるスタンスを崩すつもりは無いらしいクイナは、きっとさっき「鍋にされる!」と心臓が縮み上がるような思いだったんだろう。
気が抜けてしまったのは、仕方が無いのかもしれない。
仕方がない。
そう思いつつ、俺はその頭をワシワシしながら再びダンノに目を向けた。
今もすかさず手を貸してくれたダンノは、そういえばさっきクイナを見つけた時もすぐ近くでメルティーと一緒に俺を待っててくれてた気がする。
もしかしたら兵とちょっと話し込んでいる様子だった俺に配慮して、クイナを宥めてくれていたのかもしれない。
「ありがとうございます」
「いえいえ別に、そんなお礼を言われるような事は一つもありませんでしたよ?」
「でも、クイナの事は見てくださっていたでしょう?」
だからと言えば、彼は「律儀な人ですね」と言って笑った。
そんな彼に「出来る事なら嫌われたくはないよなぁー……」と思いつつ、今までの無礼を謝罪する。
「それからクイナの事、ずっと黙っていてすみません」
「ソレについても気にしていません。状況が状況でしたし、少しビックリしたくらいですよ」
そもそもここでは獣人なんて、珍しくもなんとも無いですしね。
彼はそう言い、隣にいる娘のメルティーの頭にポンっと手を置く。
そこで初めてメルティーの様子に目が行った。
そして俺はその顔を見て、ちょっとギクリとしてしまう。
そこには、驚きの表情を浮かべた彼女が立っていたからだ。
ダンノからは、偽りの気配を感じない。
多分本当に驚いただけで、隠し事をしてた俺もクイナも、悪くは思っていないだろう。
しかし彼がどう思っても、メルティーはメルティーだ。
彼女がどう思うかは、また別の問題である。
せっかくクイナと仲良くしてくれていたし、出来れば二人の仲もこのまま……と願いたくなってしまう。
もしここで拒絶されたら、クイナだってきっととっても落ち込むに違いない。
と、クイナを見れば、彼女も隠していた事を後ろめたく思っているのか。
耳も尻尾もしょんぼりとさせていた。
その様子を少し心配しながら見てると、やがて驚き顔のメルティーが「……クイナ、ちゃん」と口を開いた。
彼女の声に、クイナの耳と肩がビクリと跳ねる。
「あの、その……」
クイナが俺の服の裾を握った。
その手の上から包むようにして握ってやれば、裾から俺へと彼女の熱が乗り替わる。
ギュッと握られた手は、心細そうで縋るようで。
心細いのだろうという事は、手に取る様に理解できた。
だから「大丈夫」と、その手をちゃんと握り返す。
するとメルティーは、意を決したようにぐっと少し顎を引いた。
「あの! クイナちゃんはワンちゃんなの……?!」
「え、そこ?」
彼女の言葉に、思わずそう呟いたのは俺だ。
え、気になるのは種類の方なの?
何とも抜けた問いである。
が、その瞳がクイナに対して肯定的どころか爛々と興味に輝いているものだから、こちらもホッと胸を撫で下ろす。
クイナも緊張から脱したのだろう。
相変わらず手は繋いだままだったけど、それでもチョイっと身を乗り出して。
「クイナはワンちゃんじゃなくて、キツネなの!」
「キツネさんっ?! 金色の子は初めて会った!」
「確かに珍しいですね」
「え、そうなんですか?」
獣人が多く集まるこの国でも?
言外にそう尋ねれば、ダンノさんはすぐに頷く。
「黄色ならばともかくとして、この輝く様な金色の毛並み、しかもキツネ族とならば、おそらく神の眷属と謳われる『輝弧《きこ》』の一族だと思います」
「そうなんですか」
「まぁもちろん隔世遺伝の可能性もありますけどね。どちらにしろ輝弧は獣人の中でも絶滅危惧指定Bですから珍しい事には変わりないですよ」
「『絶滅危惧指定B』……確かノーラリアでの種族人口に応じたグループ分け、でしたよね?」
そんな俺の言葉に彼は「あくまでも学術分類ですから、別に指定されたからどうという訳ではないのですが」と教えてくれた。
軽く微笑んでくれているのは「それほど気にすることでもない」と暗に言ってくれているんだろう。
そう。
この指定がされているからといって、国から何か補助が出るわけではない。
ただどうしても珍しい種族というのは、裏の人間に目を付けられやすい。
それなりに自衛ができるようにするべき、という一つの指標には、多分なる。
「じゃぁやっぱり、もし種族を聞かれたら『犬だ』と答えた方が良いんですかね……?」
「身の安全を守る手段としては一案ですね。でも……」
と、ダンノの視線が俺の手先へと滑ったところで、その手をグイっと引っ張られた。
「クイナはキツネなのっ!! ワンちゃんじゃないの!」
ムンッと怒り顔の彼女に、俺は「あぁ」と思い出す。
そういえば、出会った時からずっと彼女は自分の種族に固執していた。
という事はもしかして、犬族と間違われる事はクイナにとってキツネ族としてのプライドに障る事なのかもしれない。
彼女の年齢を考えれば、ほんの少し「いっちょ前にまぁ……」と思わないでもないけれど、自らに誇りを持てる事自体はとても大切な事だとも思う。
第一ここまでのプライドならば、俺が幾ら隠したところで彼女が端からすべて訂正してしまうだろう。
(これは多分無理だろうなぁー……)
ちょっと想像したただけで、思わず遠い目になってしまう。
だから嘘をつくのは諦めて、代わりにこんな約束をする事にする。
「じゃぁとりあえず、『《《聞かれたら》》答えていい』っていう事にしよう。その代わり自分から『キツネの獣人だ』って言いふらす事は無し。じゃないと、もしかしたら《《鍋にされて食べられちゃう》》かもしれないからな」
「えっ」
俺の忠告に、クイナは途端に不安顔だ。
それを「約束を守れば大丈夫だよ」と言い含めて約束させる。
一緒にいればもちろん俺が守るけど、クイナが珍しい種族だと知られたら、1人を狙われる確率も高くなる。
やっぱりそれなりの警戒は必要だろう。
少なくとも、彼女自身がある程度の自衛が出来るようになるまでは。
そんな風にあれこれと話しながら、俺達は首都行きの馬車を探しつつ歩く。
並んで歩く俺とダンノさんのすぐ前では、メルティーと耳も尻尾も全開のクイナが2人でキャッキャと笑い合っていた。
何となくだけど、俺は何だか「この光景は今後も長いこと見る事が出来るものなんじゃないかなぁ」と密かに思ったのだった。
ノーラリアに入ったとはいえ、ここはまだ国の端。
目的地である首都までは、まだ少し馬車で走らなければならない。
「遅かったな、なんかあったか?」
乗り込む際に御者にそう尋ねられ「偶々兵士に顔見知りが居た」と答えると、彼は特に怪しむ様子も無く乗車を急かした。
俺たちが馬車に乗り込めば、最後の乗客だったのだろう。
馬車はゆっくりと再出発する。
この馬車の終点は、この国の首都・イリストリーデン。
あと2日も掛からない距離にある都市だ。
国に入ってから一日と15時間もすれば、遠くの方に豆粒のような建物群が見えてきた。
周りが平地で邪魔するものがちょうど進行方向に無いのに加えて天気の良さも手伝った結果の景色だ。
俺達は実に幸運である。
「見ろクイナ! 見えてきたぞー」
俺がそう教えてやれば、クイナの耳がピヨッと立った。
狭い馬車の右側席から俺が居る左側席にピョンッと飛び移り、俺が覗いていた窓に鼻がペシャンコになりそうなくらいひっつけて外を見る。
「おぉー! ……?」
「ん? どうした?」
一度は喜んだ筈なのに何故か耳がへチョンと下がったクイナにそう尋ねれば、彼女はその両眼に至極残念そうな色を灯して言った。
「何かとってもちっちゃいの……」
その言葉に一体何の事を言っているのか分からなくて、俺は一瞬キョトンとした。
が、数秒遅れで理解する。
なるほど、つまり今見えてる大きさの街だと思った訳だ。
「大丈夫だぞ、クイナ……っ、それはただまだ距離があるからでだな……っ」
頑張れ、頑張るんだ俺。
耐えろ、笑うな!
確かにずっと目指してきた街が、例えば本当にあんな「もしかしたら踏み潰しても気づけないんじゃないだろうか」と思わず不安になるような大きさだったとしたら、俺だって落ち込むだろうけど!
耳も尻尾も肩も顔も、全部ショボーンてなっちゃうだろうけど……!
でもクイナはあくまでも真剣にまるで「もう世界は終わりなの……」みたいな感じで絶望してるんだ。
だから絶対に。
「近くに着けば、フッ」
笑っちゃぁ。
「ちゃんと大きく……フフッ」
「んむーっ! アルド、何笑ってるの?!」
「わ、笑ってない、笑って……ブッフハハッ」
「笑ってるのーっ!!」
「グフッ!」
怒ったクイナが俺の横腹に頭から突っ込んできた。
そのままドリルの刑に処してくるから、結構これが地味に痛い。
「痛い痛いゴメンって。ほら干し肉あげるから!」
「んんんーっ!」
「何っ?! 干し肉でも釣れないくらいのご機嫌斜めだと?!」
まさかのクイナが好物に誘われないとは。
どうやらかなりのオコらしい。
だけど早く何か対策を打たないと俺のわき腹、もしかしたら本当に抉れちゃう可能性がある。
痛い。
「な、なぁクイナ? 俺は別にお前をバカにした訳じゃなくてだな。その、お前があんまり可愛い反応してくるからつい――」
「……可愛い?」
俺がとりあえず言い訳を並べてみると、クイナが一つのワードに反応した。
そうか、『可愛い』か。
まぁ確かにクイナだって女の子なんだし、そういう褒め言葉は嬉しいのは当たり前か。
しかしこの子、食い物以外にも反応する事あるんだなぁー。
新たな発見が嬉しいような、新たな弱点を見つけてしまって心配度が増したような。
(コイツ、街に着いた後で誰かに「キミ可愛いね、甘いお菓子を上げるから一緒に来ない?」とか言われたらホイホイついて行っちゃいそうなんだよなぁー……)
今は俺も、旅のお供兼一応クイナの保護者のつもりだ。
その辺を心配しない訳にはいかない。
俺と出会ってまだほんの数日だというのにこの懐きようなんだから、猶更。
が、まぁそっちの話は今はとりあえず置いておく。
今この瞬間の俺は、未来の脅威よりもわき腹の鈍痛の方がよほど気になる。
「あぁ可愛い、クイナは可愛い!もう世界一!」
「世界一?」
「あぁ、むしろ宇宙一!」
食い付いてきた彼女を懸命に、努めて真面目な顔で褒めてやれば、彼女は「ふぅん」と言って視線を下げる。
お陰で表情は見えなくなったが、それもほんの数秒の事だった。
些かの沈黙の後、クイナの頭が俺の膝にちょっとした重みと一緒に転がってきた。
あっちを向いているせいで表情はまだ見えにくいけど。
(あ、こりゃぁ機嫌直ったな)
その結果は、頭の上でピルピル動いている耳と、ファッサファッサと動く尻尾。
これらを見れば、まさに一目瞭然だ。
とりあえず何とかなった……。
そんな安堵と共にちょっとした疲労を感じながら、俺は目の前の頭を撫でつつ窓の外へと目をやった。
馬車は少しずつ、しかし確実に首都に近付いていっている。
俺はこの街の城下に降りたことは無いし、もちろん交流を持ったことだって無い。
だからこそ不安で、しかし少し楽しみだ。
一体どんな物があって、どんな人達が居るんだろう。
そしてそこで俺は、どんな事をするんだろう。
今までは道中急いでいた事もあって街歩きも何かと控え目だったけど、首都ではやっと堂々と平民街を歩く事が出来るだろう。
平民として、ただ純粋に。
やりたい事も沢山ある。
なんてったって、まだあと8つもやりたい事が渋滞中だし、クイナについても今後の事を色々と考えなければならない。
なんていう事を色々考えていると、ダンノが声を掛けてきた。
「そういえば首都に着いた後、アルドさん達はどこに宿泊するのか決めておいでで?」
その問いに振り向いて「あぁいえ、着いてから探そうかと」と言えば、少し曇った顔が返ってくる。
「しかし着いた時にはもう夕方でしょう?」
「それは確かにそうなんですけどねー……」
それでも伝手が無いんだから仕方がない。
「もし宿が埋まっていたら、最悪野宿も在り得るかなぁ」なんて思っていると、ダンノが「うーん」と小さく唸った。
「アルドさんは宿にお金は掛ける派ですか?」
「え? あ、いいえ。寝れれば特に」
王太子だった頃は勿論ふかふかのベットで寝ていたけれど、それはそういうベッドしか用意されていなかったからだ。
別にそこに拘りは無いし「ベッドの固さが変わったら眠れない」とか、そんな繊細な体でもない。
見た所クイナも特に現状で不自由はしてないようだから、猶更俺はそこに必要以上の金を掛ける気は無かった。
そんな気持ちを一部隠して要所だけ伝えると、彼は「ふむふむ」と頷いた。
「ならば、街の西にある『天使のゆりかご』という所に行ってみると良いでしょう。とてもいい宿なんですけど、多分今日も空いてます」
「えっ、そうなんですね。助かります! じゃぁちょっと行ってみよう」
良い情報を手に入れた。