【穀雨】
勿忘様の声がして、本殿の端に座っていた僕は顔を上げた。
【神社で喧嘩するなと言っただろう】
「喧嘩は、してませんよ」
少し笑って答えた僕に、勿忘様が首を傾げる。神様なのに、こういう仕草がどこか可愛らしいのはどうしてだろう。
【雪華と全然顔を合わせようとしなくなったではないか。喧嘩ではないのか?】
「気まずいだけです、僕が一方的に避けているというか」
勿忘様が、鼻からフゥと息を吐いた。
【人間は、やはり面倒だな。まぁ、そこが良いのだが...どうして対話を拒む?】
勿忘様は、当たり前だけど人間じゃない。その為か、人間である僕らと絶妙な距離を保ち続けてくれていて、僕にはそれが心地良かった。
「この前、雪華が人に無関心になったきっかけを聞いたんです」
琥珀色の瞳が、僕を真っ直ぐ見てくれる。それだけで、僕の口は自然と動いてくれた。
「僕が人間を嫌いになったきっかけなんかよりもずっと理不尽な仕打ちで、どうしようもなくて。なんて言うか、僕は何もできないな、って思っちゃったんです。別に雪華が僕に何か行動を求めてきた訳ではないのは分かってるんですよ。...でも」
【力になりたい、か?】
「...はい」
幼稚な台詞だ。具体的な何かがあるわけでもなく、ただ「力になりたい」。でも、それ以外に言葉が思いつかなかった。
【雪華のことを、穀雨は大事にしているな】
「まぁ、友達ですから」
ごく自然に僕の口から零れた言葉に、自分で驚く。友達。そんな言葉が自分の口から出たことは、終ぞなかった。僕は、雪華を、友達だと認識していたのか。友達だと、思えたのか。
勿忘様が、嬉しそうに笑ったのが見えた。
【だ、そうだぞ。雪華】
「龍神様...隠すなら最後まで隠してくださいよ、トラブルのもとです」
勿忘様の背後から、ひょっこりと雪華が顔を出す。
想像はしていた。
想定はしていなかった。
「ゔわ」と変な声を上げて、目を丸くして雪華の碧眼を見つめる。勿忘様が突然話しかけてきたのは、この為だったのか。
「穀雨」
「なに?」
「ごめんね」
「...え?」
想像していなかった言葉が雪華の口から零れて、反応が一瞬遅れた。
『ごめんね』と言ったか、彼女は。
何が、『ごめんね』なんだ?
「穀雨が言ってた通り、何か行動を求めたわけじゃないの。でも私、穀雨が優しい人だって知ってたのに、辛くなるような話して、悩ませちゃって」
雪華の美しい碧眼が、痛みを孕んで揺れていた。その目に初めて明確な感情を見て、僕は調子外れなことに驚いてしまう。
「...違うよ」
上手く言語化できる気がしなかった。でも、黙っていることもできなかった。喋らなきゃいけない、なんて重苦しい強迫観念なんかに一切囚われることなく、僕の喉がすぅと音を立てる。
話したかった。ただ、伝えたかった。
「雪華は、本当に悪くない」
「穀雨は」
「僕は」
雪華の言葉を遮って、言葉を続ける。情けないことだ。感情が、邪魔をした。
「きっと、雪華が思っているほど優しい人間じゃない。でも雪華が苦しかったなら、苦しいなら、力になりたいって」
目の前にある碧眼が、大きく広がるのが見えた。それに、光が灯る瞬間が見てみたいと思う。
「そう、思える程度には、...僕は、雪華のこと大事だって思ってるみたい」
言い終わって、急に気恥ずかしくなる。
「...その、変な意味じゃなくて」
慌てて付け加える僕を見て、雪華がふっと笑った。僕は驚いて、笑い出す彼女を見つめる。何か面白いことを言っただろうか。
「穀雨」
「...なに」
「ありがとう、あのね」
雪華の美しい碧眼が、光を反射して煌めく。
「私も、穀雨が苦しかったら側に居たいよ、力になりたいよ。そのくらい、私も穀雨のことは大事に思ってる」
その美しい青が僕を真っ直ぐ捉えてくれているのが、何だろう、どうしようもないくらいに嬉しかった。
「あ、変な意味じゃなくて」
僕の口調を真似て、少し戯けたように雪華が続ける。それを聞いて、思わず僕も笑ってしまった。
何だろう、人間嫌いの癖に。
彼女とは、もっと関わりたいと。
初めて明確に、自覚した。

【話は終わったか?】
深い響きの声が聞こえて、驚いて振り返る。勿忘様がふわりと地面に舞い降りるところだった。いつの間にここを離れたんだろう。
「はい、ありがとうございます」
【な、雪華。言っただろう、悪いようにはしないと】
「ほぼ穀雨の手柄じゃないですかこれ」
【切っ掛けを作ったのは私だ】
「それはそうですけど。仲介役してくれるのかと思いきや、いつの間にか龍神様どっか行ってるし」
【仲介役を必要としない空気だっただろう、神さまだって空気は読むんだ】
「態々居なくなることないじゃないですか。要らぬ気遣いです、それ」
雪華と子供のような言い合いを続ける勿忘様に、思わず笑ってしまう。
「勿忘様」
【何だ?】
「ありがとうございます」
真っ直ぐに勿忘様の目を見て、もう一度言う。本当に、ありがたかった。ふっと笑うと、僕の目を覗き込む琥珀色の瞳が、少し戸惑ったように揺れる。
【...嗚呼】
「...あれ」
雪華の碧眼が、悪戯っ子のように輝いた。
「龍神様、照れてます?」
【好きなように受け取れば良い】
平静を装おうとしているけど、勿忘様が慌てているのが分かる。それを見て、僕はもう一度笑ってしまった。
【穀雨は、よく笑うようになったな】
「本当ですね」
勿忘様と雪華の嬉しそうな声が、蝉の鳴き声に混ざって確かに聞こえた。