「お久しぶりです、勿忘様」
【あぁ、穀雨か。久しぶりだな】
まだ陽が昇っていない朝の5:00頃であるので、辺りは心地よい涼しさと静けさに包まれていた。
「最近、雪華って来ているんですか?」
【嗚呼、来ているぞ。雪華も早いからな、5:30ぐらいには来るんじゃないか】
「そうなんですね、雪華と会うのも久しぶりです」
【そうか。そういえば、この前雪華と出掛けたそうじゃないか】
「ええ、1週間ちょっと前に」
【どうだった?】
「まぁ...悪くは、なかったです」
【よっぽど楽しかったんだな】
僕が言葉を濁したにも関わらず、勿忘様は嬉しそうに笑って言った。
「悪くなかったって言っただけなんですけど」
【いや、穀雨は普通に楽しかったくらいだと『えぇ、まぁ』ぐらいで終わるだろう】
「...なんで分かるんですか」
まるで琥珀色の瞳に心の奥まで見透かされているようで、不思議に思った。
【神さまを舐めてもらっちゃ困る】
「そういえば神さまでしたね」
【そういえばって。穀雨は私のことを何だと思っていたんだ?】
「…龍?」
【間違ってはいないが...うん...】
少し呆れたように、勿忘様が溜息を吐いた。
「龍神様。あ、穀雨だ」
鈴の音のように澄んだ声が聞こえて顔を向けると、雪華が此方に向かって歩いてきた。
「久しぶり。元気?」
声を掛けると、美しい碧眼が僕を捉えた。
「久しぶり。元気だよ、穀雨は?」
「うん、元気」
【何だ、少し見ない間に随分と仲良くなったな。良いことだ】
「挨拶しただけですよ?」
【前は『元気?』なんて聞かなかったのに。それに、今までは私がいると私を挟んで会話していただろう】
「...そう、でしたっけ」
「そうですか?」
【2人とも自覚なしか。でも、人々の絆は美しい。大いに結構、仲良くやってくれたまえ。神社で喧嘩するなよ】
「神社で、なんですね」
少し笑いながら言うと、勿忘様が驚いたように僕を見た。
【雪華の言う通りだな】
「え?」
【穀雨は楽しそうに笑う人だと、前に雪華がにこにこしながら言っていた。なぁ、雪華?】
「...なんのことでしょうか」
雪華は僕と勿忘様から顔を背けて、ぼそぼそと呟いた。
「...照れてる」
【照れてるな】
「照れてない!です!」
雪華が顔を赤くして大きな声を上げた。華奢な体躯なのに、意外と大きな声が出るものだ。
勿忘様が楽しそうに笑った。
むぅと頬を膨らませる雪華を見て、僕も勿忘様に釣られて笑ってしまった。
「あー、穀雨も笑ったー」
「笑ってない、笑ってないよ」
笑いを噛み殺しながら言ってみたけど、雪華にはお見通しだったようだ。
「笑ってるじゃんー!」
尚もむくれたように雪華が不満げな声を上げる。でもその声の中には、微かに楽しそうな響きが混ざっていた。

本殿の端で、雪華が大の字にひっくり返っている。
「...暑いのは分かるけどさ、神社の本殿でひっくり返るのはどうなの」
僕は溜息を吐きながら、雪華の頭の横辺りに腰を下ろした。
「前に穀雨もやってたじゃん。龍神様も許してくれてるし、良いでしょ」
彼女はそう言いながら、掛けていた眼鏡を外して両手でいじくりまわしている。
「雪華って、眼鏡外すと誰だかわかんないよね」
「酷いなぁ。もうすぐひと月近くの付き合いだよ、良い加減顔くらい覚えてよ」
「いや、いつも眼鏡掛けてる人は大体そうじゃない?ところで雪華はさ、いつも眼鏡してるけど目悪いの?」
「そうでもないんだよね。これは唯のクリアサングラス」
「くりあ、さんぐらす?」
初めて聞く単語の並びに目を瞬かさせていると、雪華が愉快そうに笑った。
「レンズが透明なサングラスだよ。私、目の色素が薄いから紫外線に弱いんだよね。すぐ目が痛くなるの。でも、レンズの色が濃いサングラスだと物の元の色が分からないから」
「へぇ、それでクリアサングラス」
「そゆこと。私も穀雨みたいな黒い目が良かったなぁ」
「...なんで?綺麗じゃん、青い目」
「そうかな。綺麗でも、目立ちたくない私には不要なものだよ」
「...何かあったの?」
「青い目の人って、日本には殆どいないじゃん。私みたいなクォーターとか、あとはハーフの人はいるかもしれないけど...だから目立つし、皆気に入らないんだろうね、孤立したり、虐められたりとかもよくあったよ」
雪華がクォーターだというのは初耳だけど、今根掘り葉掘り訊くべき話題ではなさそうだ。
「そう、なんだ。人間、嫌いにならなかった?」
「うーん、嫌いになるっていうより無関心になったかも」
「...え?」
「どうせ分かり合えないから、別に良いかって。だから、人間好きでもないけど、嫌いにもならなかったな」
なんてことないように語る雪華を見て、途方もない無力感に襲われた。雪華は、人間と関わりたくないわけじゃなくて。人間と関わることを、諦めているだけだ。
何か言いたかった。
何も言えなかった。
「そう、なんだ」なんて、ありきたりな相槌が口から零れただけで。
蝉が狂ったように鳴いている。それを聞いていたら、自分の心がどんどん空っぽになっていって、身体から力が抜けていって。思わず項垂れた僕の耳に、深い響きの声が届いた。
【大丈夫か?暑さにやられたか?】
勿忘様が、ふわりと僕たちの前に舞い降りてくる。
「あ、龍神様。大丈夫です、私がちょっと重い空気にしちゃっただけで」
雪華がはぐらかすように笑ったのが見えて、僕はぽつりと呟いた。
「...雪華は悪くないよ」
「そ?」
「うん」
僕が弱々しく笑ったのを見て、雪華は少し首を傾げながら笑っていた。