「穀雨ー」
 声がした方を見ると、雪華が手を振りながら走ってくるのが見えた。僕なんかここまで歩いて来ただけで疲れたというのに、なんというか元気な子だ。
「良かった、本当に来てくれた」
「友人との約束をすっぽかすほど僕は堕落していないよ」
「あれは約束っていうより宣言とか強要に近いでしょ」
 からからと笑う雪華に、僕は独り言のように呟いた。
「...自覚あったんだ」
「うーん、家に帰ったらじわじわと?
強引だったかなって思って。ごめんね」
「いや、別に良いよ。僕も来たくなかったらすっぽかすし」
「あれ、友達との約束はすっぽかさないんじゃなかったの?」
「あれを約束と取るか宣言と取るか独り言と取るかは僕の自由でしょ」
「確かに」
 雪華がまたも楽しげに笑った。
「じゃ、早いとこ行こうか。暑くて倒れちゃうから」
「そうだね」

 図書館に入ると、空調の効いた快適な空間に思わず溜息をついた。
 図書館は、小さい頃からずっと好きだ。
 古い本から新しい本、様々な紙の匂いで満ちていて、何よりも他人に必要以上に干渉されないのがとても楽だった。それに、ひとたび本を開けば、過去にも未来にも、例え異世界にだって、それは僕の手を引いて連れていってくれるのだ。
「本、好きなの?」
 雪華に急に声を掛けられて、僕ははっと我に返った。
「うん、本は小さい頃からずっと好きかな」
「そうなんだ、私と一緒だ」
 雪華が嬉しそうに笑う。
 と、「あ」と声を上げて、雪華が一つの棚に歩いていった。
「この本知ってる?面白かった。もう一回読もうっと」
 雪華がそう言って、一冊の本を手に取る。その後も棚の上から下まで眺め回して、何冊か本を引き出していった。
「この本は読んだことないけど、この作家さんは好きだよ」
 僕もその周辺から読んだことがない本を適当に何冊か見繕って、まとめて棚から引っ張り出す。
「お、話が合いそう」
 雪華がまたも嬉しそうに笑って、近くの机に腰を下ろした。僕もその隣に座る。
「てかさぁ」
「ん?」
「図書館デートなんて聞いたことがないんだけど」
「...は?」
「図書館デート。聞いたことがない」
「...デートではないだろ」
「まぁまぁ、細かいところは気にせず」
「十分過ぎるほど大きいところだよ」
 僕が溜息を吐いて頬杖をつくと、僕の呆れ返った顔が面白かったのか、雪華が愉快そうにくすくすと笑い声をあげた。
「じゃ、読みますかー」
「僕は大分前から読んでるよ」
「では、鞠谷雪華、入りまーす」
「はい」
 返事をしながらなんとなく横を見ると、彼女の意識がページに吸い込まれていくのが見えた。

 ふと空腹を覚えて顔を上げると、もう時計が12:30を指していた。
「雪華」
「...」
「ねぇ、雪華」
「......」
 余程の集中力だ、此方の呼び掛けに全く気づいていない。彼女の頭に僕が読み終わった本をこつんと軽くぶつけると、雪華ははっとして、やっと僕と目が合った。
「ごめん、何か言った?」
「言った。てか、呼んだ。
そろそろお昼だからさ、どこか食べに行かない?」
「もうそんな時間か。うん、行く」
「どこ行く?焼肉?」
「そんなお金はない」
「私も。ファミレスで良いよね?」
「うん」
 2人で本を何冊か借りて鞄に入れ、出入り口に向かって歩き出す。
「外出たくなーい」
「同感」
「でもお腹すいたー」
「うん、食べ行こう」
 図書館デートだ、と彼女は2時間ほど前に言っていた。では、図書館から移動したら何デートになるのだろう、なんてくだらないことを考えながら、僕は雪華と並んで図書館を出た。

「あそこで良い?」
 雪華が指差したのは、この辺りに多く展開しているファミレスだった。
「良いよ、今日割と空いてるね」
「ま、私たちは夏休みだけど、一般的には平日だからねー」
「あ、そっか」
「何食べるー?」
 僕が相槌を打った時には、既に彼女は一歩先にいて、僕のことを導いてくれているようだった。
「うーん、これ」
「パスタか、良いね。私グラタンにしようかな」
「美味しいよね」
「うん」
「あ、すいませーん」
 雪華が急に大きな声を出したので、僕は驚いて微かに肩を竦めた。
「パスタと、グラタン一つずつお願いします」
 はーい、と軽快な声が聞こえて、あれ、ここって呑み屋か何かだっけ、と僕は少し困惑する。
「...ここって居酒屋じゃないよね?」
「何言ってんの?違うに決まってるじゃん」
「いや、注文の仕方が居酒屋だから」
「いやぁ、声がよく通るのが取り柄で」
「うん、あんまり褒めてない」
 彼女はぽかんとした後、あ、という顔をして肩を竦めた。
「将来、蟒蛇(うわばみ)になるよと言いたいの?」
「どうかな。蟒蛇が似合うとは思うけど」
「ひっど。蟒蛇が似合うって何」
「そのままの意味だよ」
 やいのやいのと言い合っていると、「お待たせしましたー」という声が斜め上から降ってきて、料理が運ばれてきた。ありがとうございます、と言った途端に、空腹感を思い出した。
「食べちゃおうか」
 彼女が目を輝かせながら言うのに頷き、いただきます、と揃って手を合わせた。