「暑ーい!」
 雪華の投げやりな声が、僕の耳に届く。
「うん、暑いね」
 僕もそう返して、額の汗を拭った。
「穀雨、声が全然暑そうじゃないね」
「何言ってるの、僕も暑さをしっかり感じる人間なんだけど。それはそうと、今日勿忘様は?いないけど」
 僕がペットボトルのお茶を開けながら訊くと、雪華が首を横に振りながら答える。
「分かんない。どこか出掛けてるんじゃない?」
「神様も出掛けるんだ」
「雲の上とか飛んでるのかね」
 神社の本殿の端に寝転がって、雪華が空に手を伸ばす。僕もそれを真似て燦々と輝く太陽に手を伸ばしてみたけど、その掌を生温い風が撫でていくだけで、特に興味深いものではなかった。
「それにしても」
 僕はそう言いながら、雪華をちらりと見やる。彼女は相変わらず寝転がりながら、美しい碧眼を煌めかせていた。
「随分と薄着だね、今日は」
 雪華は白いノースリーブのワンピースを着ていた。日焼けとか気にしないんだろうか。
「だって暑いし。...脱がないからね?」
「僕をなんだと思っているの、雪華は。会って1ヶ月経ってない友人をいやらしい目で見るほど、僕は堕落してないと自負してるんだけど?」
「流石。紳士だね」
「どうだか。でも僕は雪華を淑女だとは思っていないよ」
「酷い。言動が容赦ない人間は嫌われるよー」
「上等だよ。僕も人間、嫌いだから」
「ひっねくれてんなー」
「龍神様の下僕だとか言う人の方がよっぽど拗らせてると思うけど」
「それは忘れろ、記憶から消し去れ」
「自業自得以外の何物でもないな」
「煩い」
 雪華が口を尖らせる。僕はしてやったりと笑った。
と、突然、軽快なやり取りを繰り広げる僕たちの前に、ふわりと何か大きなものが舞い降りた。
「龍神様!」
 雪華が跳ね起きて、勢いよく駆けていく。勿忘様の美しい琥珀色の瞳が見開かれた。
【お前たち、居たのか?てっきり今日は暑いから来ていないと思っていたのに】
「龍神様にお逢いしたくて来ちゃいました」
「僕も暇だったので」
【人間は弱いんだから、すぐに暑さで倒れてしまうぞ。長月、9月か。9月なるまではあまり来てはいけないよ、どうしても来たい時は、早朝か日没後にしなさい】
 勿忘様が、鬚をぴんと伸ばして言う。
 僕たちは揃って、神様に叱られてしまった。
 雪華はしょんぼりとしていたけど、確かにこの暑さの中に何時間もいたら幾ら水分と塩分を摂っていてもぶっ倒れかねないだろう。
「分かりました」
【嗚呼、まだ午前中だし、2人とも暇ならどこか涼しいところにでも行って来たらどうだ?】
 時計を見ると、丁度9時を回ったところだった。
「そうですね。穀雨、どこ行く?」
「え?」
「え?じゃないよ。一緒にどこか行こうよ」
「僕、家で本読もうかと思ってたんだけど」
「じゃあ、図書館か本屋行こうよ」
「この滅茶苦茶暑い中出掛けるの?」
「今も滅茶苦茶暑い中にいるじゃん、それにきっと屋内は涼しいでしょ」
 こういう時、人とのコミュニケーション能力が低い人間は恐ろしく不利だ。僕もそこに該当する1人。
 僕はとにかく押しに弱い。
「...分かったよ。あんまり人が多いところは嫌だからね」
「やった。じゃ、とりあえず一旦家に荷物取りに行かせて。1時間後に...うーん、そうだな...駅前の図書館前集合ね。じゃ、また後で」
 くるりとUターンすると、雪華は神社を走り出て行ってしまった。
「雪華ってあんなに強引な人でしたっけ?」
 途方に暮れて勿忘様を見ると、その目が愉快そうに笑っていた。
【私が知っている雪華はもう少し大人しい子だったが、あっちが本来の雪華に近いのかもな。まぁ、同年代の話し相手が出来て嬉しいのだろう】
 感想が孫を可愛がるおじいちゃんだな、と思いながら、「じゃあ、僕も帰ります」と言って神社を出た。この暑さだというのに、涼しげに鬣を靡かせる勿忘様を、やっぱり綺麗な生き物だ、と思いながら。