【穀雨】
 頭上から深い響きの声が聞こえて、僕はそっと顔を上げた。
 美しい琥珀色の瞳をした勿忘様が、此方を見下ろしている。
「おはようございます、勿忘様」
【今日も暑くなりそうだな】
「えぇ」
 眩しい夏の日差しに目を細めながら、僕はふと気が付いて勿忘様に訊いた。
「そういえば、今日、雪華は?」
【まだ来ていないな。珍しい】
「あのぅ、気になってたんですけど、勿忘様と雪華って、どんな関係なんですか?」
【なんだと思う?】
 勿忘様の目が、悪戯っ子のように輝く。
「...雪華は下僕と言ってましたけど、今どきそんな...僕はお友達ってとこであって欲しいです」
 はは、と勿忘様が楽しそうに笑った。
【正直だな、穀雨は】
「...えと、すみません」
【何、謝ることじゃない】
 僕の頭に、そっと勿忘様の(ひげ)が触れた。
【雪華か。友達、という表現が正しいのか、私にはよく分からないが...少なくとも、主従関係を結んでいるわけではない。知り合い方は穀雨とよく似ている】
「僕と?」
【小さい頃からよくこの神社にお参りに来るのだ。前は仲良しの人間と来ていたが、最近は専ら1人だな。1人で寂しそうに立っているから、つい声を掛けてしまった。...怖がられると思っていたのだがな。龍神様の下僕だなんて言ってたのは穀雨と会ったのが初めてだ】
「...ちょっと安心しました」
【主従関係ではなくて?】
「それもありますが、その...生贄とかじゃなくて」 
【一体いつの時代の話をしているんだ】
 勿忘様が少し呆れたように溜息を吐いて笑った。
「あ、龍神様、穀雨」
 鈴のように澄んだ声が聞こえて顔を向けると、雪華が走ってくるところだった。
「おはよう」
 雪華が此方を見てにこりと笑う。
 初めて会った時には天気のせいもあって、少し不気味な印象を覚えたものだが、改めて見ると、雪華は整った顔立ちのとても綺麗な人だった。
「龍神様と何話してたの?」
「ん?今日も暑いって話」
「そりゃあ、もう8月に入ったじゃない、暑くもなるよ」
【最近は毎年暑くなっているような気がするな】
「本当ですね」
【もう少し前は今よりも涼しかったものだがな。少なくとも、500年前は...】
 勿忘様の言葉に、僕はあんぐりと開けた。
「ごひゃく、ねん、まえ?」
「なんだ、知らなかったの?」
 雪華が呆れたように溜息を吐いた後、勝ち誇ったような目をして此方を見た。
「龍神様は1000年ぐらい前からずっと此処にいらっしゃるんだよ」
「悪かったね知らなくて。僕は雪華と違って勿忘様とはこの前初めて逢ったばっかりなんだよ。
...それにしても勿忘様、1000年前って...平安時代?そんなに前からいらっしゃるんですか?」
【そうだな、そのぐらいになるか】
「1000年前に、この辺が雨降らなくてえらいことになって、勿忘様が助けてくれたんですよね?」
【そうだな、そういえばそうだった】
「そういえば?」
 雪華が不思議そうに首を傾げる。
【いや、何だ、最近は世界平和から学業成就から恋愛成就まで、幅広いものをお祈りされるものだから、この地に祀られたきっかけを忘れていた】
「水神様になんで学業成就を...」
【藁にも縋りたい思いなんだろうな】
 純粋な疑問を口にすると、勿忘様は優しげな目をして笑った。
「...勿忘様は」
【ん?】
「人間が好きなんですか?」
【...どうだろうな。雪華と穀雨はどう思う?人間は嫌いか?】
「私は、どっちでもないかも」
「...僕は」
 苦々しい記憶が頭の中を駆け巡った。
「僕は、人間は...嫌いです」
【そうか】
 勿忘様の、静かな声が響く。
【何故そう思う?】
「...人間は、他人の欠点を晒して安心する生き物だから」
 息を吐く。それは微かに震えていた。
「そんな、醜いだけの生き物だから。僕は、人間が嫌いです」
【そうか。そうだな。間違ってはいない】
 勿忘様の美しい(たてがみ)を、生温い風が撫でていく。
【...さっき、穀雨に人間が好きか聞かれて、どうだろうと言ったな。...すまない、前言撤回しよう。私は、人間が好きだ】
 僕と雪華は、揃って顔を上げた。
【確かに、人間は誰かを貶めて安心する生き物だ。でも私は、人間は醜いだけじゃないと思っている。言葉がある。想像力がある。学ぶ、力がある】
 僕と勿忘様の視線が、ぱちりと合った。
【穀雨。お前には、本当に、人間は...醜いだけの生き物に見えるか?】
 僕は、目を見開いた。
 頭の中に、風が吹き渡ったような感じがした。
【...穀雨。二十四節気か。良い名ではないか】
 はは、と僕の口が笑い声を立てた。
 その拍子に、雨も降っていないのに僕の頬に雫が伝った。
「雪華にも同じこと言われました」
 そう言いながら彼女の方を見ると、彼女は優しげに微笑んだ。

 勿忘様の琥珀色の瞳と、雪華の碧眼が見えた。何故だろうか、分からないけど、透き通ったそれらの瞳は、僕の視界の中で滲んで見えた。