羽村(はむら) 穀雨(こくう)。僕の名前だ。
 初夏の恵みの雨が降る時期に生まれたから、二十四節気(にじゅうしせっき)から取って、穀雨。
 自分の名前に入っているからか、小さい頃から雨は嫌いじゃない。晴れてる時には分からない、水の匂い、生き物の気配、様々な音。それらが全部一緒になって、僕の五感を心地良い刺激で満たしていく──

 窓に沿って切り抜かれた空がぴかりと光って、ドーンと大きな音が腹の底に響いてくる。それとほぼ同時に、外の景色が見えないくらいの大雨が降ってきた。
 訂正しよう。前言撤回だ。
 雨は好きだ、基本的には。でも、ここまで土砂降りの雷雨となると、僕でも少々うんざりしてくる。
 部屋で垂れ流したテレビの音が、僕の鼓膜を震わせた。
『関東地方は、昼過ぎから雷雨に見舞われています。この雷雨は明日の朝まで続くと見られていて...』
 無感情な声で読み上げられる天気予報を聞いて、はぁと溜息をつくと、僕はテレビを消して、家の外に出た。
 藍色の傘を開くと、少し自分の周りが暗くなる。
行く場所は決まっていた。
 家から5分程歩いたところにある、小さな神社。水の神様、龍神様(りゅうじんさま)が祀られているらしい。何でも、何百年だか何千年だか前に、ここらへんが水不足でえらいことになった時、龍神様が助けてくれたそうだ。
 別に神話とかを信じるタチではないけど、龍神と聞くとなんとなく胸が躍る心地がするのは何故だろう。
 何かあると、というか何もなくても、気が向いたらそこにお参りをしに行くのが僕の小さい頃からの習慣みたいなものだった。

 鳥居をくぐると、周りを木にぐるりと囲まれた小さいお社が建っている。
 そこでガラガラするやつを鳴らしてから、ぱんぱんと手を叩いてお祈りをする。
 目を開けて顔を上げると、どこか気持ちがすっきりと洗われたような感じがして、雷雨でうんざりしていた心にすこし光が射したように感じた。
 と、突然、ピシピシと何かが凍りつくような音がして、僕は思わず身を固くした。神社の庇の下に立って、空を見上げると、稲光が僕の真上を走るのが見えた。いつの間にか、雷雲がすぐ近くまで来たようだ。
 ピシャーン、といつもの雷鳴とは程遠い甲高い音が耳に飛び込んできて、僕は思わずぎゅっと目を瞑った。


 そっと目を開けると、目の前がさっきよりも幾分か明るくなったような気がする。でも、変わらず雨は降っているし、雷も鳴っている。
 ごしごしと目を擦って、もう一度見る。

 息が止まった。
 いや、息をするのを忘れた、と言った方が正しいだろうか。
 純白の鱗と(ひげ)白群(びゃくぐん)(たてがみ)
 こちらをじっと見つめる、琥珀色(こはくいろ)の瞳。
 そして、その前に立ってこちらを見つめる、1人の少女。
「...は?」
 思わず声が洩れる。
 僕の声が聞こえたのか、少女と僕の視線がぱちりと合った。
「誰」
 少女が口を開き、透き通った碧眼(へきがん)で探るように僕を見た。
 声を掛けられた驚きと僅かな恐怖から、刺々しい声が出る。
「そっちこそ、誰?」
「龍神様の下僕(げぼく)
「下僕ぅ?」
 龍神様、という言葉が少女の口から出たことにも驚いたけど、それ以上に下僕という言葉を今どき日常会話で聞くとは思っていなかった。いや、龍神様に逢っている時点で日常会話ではないのかもしれないけど。
「名前は」
雪華(せつか)鞠谷(まりたに) 雪華(せつか)。貴方は?」
「...穀雨だ。羽村、穀雨」
「どういう字を書くの?」
「羽に村で羽村、穀物の穀に雨で穀雨」
「二十四節気か。良い名前だね」
「雪華、さん、は、雪に花?」
「ううん、華やかの華」
「ふぅん、雪華、か。綺麗な名だ」
「そう?古臭くてちょっと嫌なんだけど」
「素敵な名前だと思うよ、雪の華って」
「...ありがと」
 ふっと雪華の碧眼が柔らかく微笑むのが見えた。その奥に琥珀色の鋭い視線が覗いて、僕はひくっと頬を引き攣らせた。
「...えーと、その、龍神様...」
 ああ、と雪華が龍神様の方に身体を向ける。雪華が手を出すと、龍神様が鼻面を雪華の手に擦り付けた。
「穀雨も知ってるんじゃないの?
この神社でお祀りしている龍神様だよ」
 穀雨、といきなり呼び捨てで呼ばれたことに驚きつつも、僕はゆっくりと口を開いた。
「知ってるよ、ここの神社は小さい時から来てるし。でも、実際に龍神様を見たのは初めてだったから...幻覚じゃないよね?」
「龍神様に失礼すぎる。本物に決まってるでしょう」
雪華が呆れたように溜息をついた。
「龍神様」
 恐る恐る声を掛けると、透き通った瞳が僕を捉えた。
「羽村、穀雨と言います。龍神様の、お名前は、その、何と仰るのですか」
【...勿忘(わすれな)
 持っていた傘をぱたりと取り落としたのは、驚きからだ。まさか、龍神様の声を聞くことができるなんて思っていなかった。
「わす、れな?」
【『忘れること勿れ』、即ち、忘れないで、という意味だ。...勿忘草色と言って、花の色の名前でもあるな】
「どんな色なんですか?」
 後ろから雪華の声が聞こえて、ひゅっと喉が音を立てた。
 驚きすぎ、と笑いながら、落とした僕の傘を手渡してくる。お礼を言って、龍神様──勿忘様、と言った方が良いだろうか──に向き直った。
【透き通った、鮮やかな薄い青色だ。
可憐で、どこか儚げな】
 何かを思い出すように、勿忘様は少し寂しげに笑った。
「あの、勿忘様。あ、龍神様?」
 勿忘様の目が、ふっと優しく微笑むのが見えた。
【勿忘で良いぞ。今時、私の名前を知っているのはお前たちくらいなのだから】
「では、勿忘様。僕、いつか、勿忘草の花を見てみたいです」
「...私も。せっかく龍神様の御名前を伺うことができましたし、お花見てみたいです」
【良かろう。春になったら、皆で探しに行くか】
 雪華がぱぁと顔を輝かせて、はじけるように笑った。
【では、雨も止んだたことだし、2人共、そろそろ帰りなさい】
「はい」
 いつの間にか、雷鳴はどこか遠くに去っていた。
「天気予報、見事に外れたな」
 僕はぽつりと呟いて、空を見上げる。
 見事な虹が輝いていた。

 これが、雪華と勿忘様に逢った、最初の記憶だ。