絵梨の彼氏を名乗る人が私のアパートをたずねたのは、まもなくのことだった。
「お兄ちゃんのこと、もっと知りたくない?」
 そう言って彼は、私を夜の街に連れ出した。
 終電で都心部まで行って、華やかなネオンの輝く街を歩いた。道行く人は皆自分の商売に夢中で、私には目もくれなかった。
 有名な風俗街だということは私も知っていた。
 じきに街灯すら壊れていて足元の危うい細い路地に入った。疲れ果てたように地面にうずくまる若者や、目だけギョロリとした老人が、灰色のコンクリートの隙間に見え隠れする。ゴミと汚物と、異臭とアルコールに満ちた中で。
 ここで立ち止まったら私は殺されるかもしれない。そんな物騒なことを考えて、私は無意識に前を歩く彼との間を狭めた。
「このビルの、地下三階」
 彼が示した先には、もう何年も放置された廃ビルがあった。ガラスはあちこち割れて窓枠は曲がり、今にも崩れてしまいそうな匂いを感じさせる。
「拓磨のお気に入りの場所」
 ……引き返したいと強く思った。
 パラパラと埃の舞う音と、どこからか聞こえる音楽。鳴り響く頭痛と喉を圧迫する息苦しさに私は眉をよせた。
 化け物の口のようにぱっくりと開いている地下への階段を見つめる。石で出来たそれはところどころ欠けていて、踏み外したら奈落の底へと真っ逆さまに転がって行きそうな気がした。
 でも兄ちゃんはこの中にいる。私の知らない兄ちゃんかもしれないけど。
 私は無言で最初の一歩を踏み出す。その横で、彼が深く笑みを刻むのが見えた。
 真っ暗な階段はあっという間に私の足元を過ぎていった。微かな振動だった音楽が次第に大きくなる。
「さ、行こうか」
 気づけば足を止めていた私を笑うように、彼は重そうな鉄の扉をこじ開ける。促されて前へ進み……私はそこに広がる光景の一部となった。
 フロアに転がるビンや倒れた椅子、逆さまのソファー、赤い裸電球。
 崩れた世界の中には様々なものが散らばっていた。物も人間も、雑多な空間に溶け込んだ。
 拓磨君と、彼は私を守るように後ろへ隠して言った。彼の背中ごしに何かが動いたのが見える。
「何だよ」
 兄の声だった。ひどく平坦で冷静で、まるでこの狂宴になど興味のない口調だった。
「いい加減に消えろよ。お前が要らねぇって言ったんじゃねぇか、絵梨は」
 酔っているのは確かなようで、疲れたようなため息が続く。
「拓磨ぁ、何こいつ?」
 女の人の声も聞こえて、私はそれに身を固くした。
 そこで初めて彼は私を前へと押しやった。
「絵梨を引き取ってくれたお礼にこのコも……拓磨君に、あげる」
 兄はただソファーに座っていた。周りに二、三人の女の人たちがいたけど衣服に乱れはなくて、ただテーブルに頬杖をついているだけだった。
 近くの酒ビンから、アルコールに染まっているのはわかる。それでも女の人たちの誘惑に乗る様子もなければ、まるで楽しそうでもない。
「何? ガキじゃん」
「拓磨を馬鹿にしてんの? 失せろっつーの」
「……黙れよ」
 だけど兄が静かに私の姿を目で捉えて女の人たちに投げつけた言葉は、どうしてか私の芯をぎくりと緊張させた。
 あっけなくテーブルを蹴り倒して、兄は座ったまま彼女らを見る。
「失せな。いい子にしてればまた遊んでやる」
 冷笑した表情にも侮蔑をはらんだ言葉にも、まるで甘い響きはなかった。ただつまらなそうに口元を歪めて、面倒とばかりに言い捨てた。
「あ……うん」
 それでも彼の目から、女の人たちは目を逸らすことができないようだった。どこか切ないまなざしで見つめながらもその場を去る。
「おいで、チビ」
 短い呼びかけに、私は顔を上げる。
 視線が絡んで、兄は目を細めてゆっくりと笑みを刻んだ。
 その瞬間、言葉ではなく直感で理解したことがあった。
 横柄な素振りの中の強さ、視線の凶暴さ、薄笑いの中の残酷さ。
 それらをこの男はすべて持っていて……そして女がどれだけそれに引き寄せられるかということを、私は今初めて自身で感じた。
「怖くねぇよ、な?」
 おいでとまた優しく言われる。いつの間にか、周りには誰もいなくなっていた。
 人がいたとしても、今の私は彼から目を逸らすことはできない。
 兄が私を妹だと認識できないからこそわかった。この人は、美しい獣だと。
 ……そしてこれに私という小動物は喰われたいのだと、確かに願ってしまっていた。
「いい子だ」
 ふらりと近づいて、促されるままに彼の膝へ横座りする。長く太い腕がすぐさま回されて、私は簡単に彼の胸の中に収まってしまった。
「冷えてるな、ちっこいの」
 軽く肩を擦られて、私はコトンと彼の胸に体を預ける。耳を胸に押し当てたら規則正しい鼓動が聞こえてきて、私は静かに目を閉じていた。
 喧しいほどの音楽もこの空間には溢れている。それなのに私の意識はすべて、今私を包み込んでいる人だけに向けられている。
「怖かったろ? 妙な連中ばっかいやがるんだから」
 つんと鼻をつくアルコールの匂いがするのに、私はただその中にある懐かしさを追って頬を緩める。
 温かい。ずっと昔は毎日のように感じてた兄ちゃんの匂いだと、こんな状況にあるのにひどく安堵した。
「……ふうん。よく似てる」
 大きな手で顔を上向かせられて、私はじっと彼の顔を見つめる。
「俺んとこ来いよ、チビ。死ぬほど甘やかしてやるから。なぁ?」
 その不遜で冷たい笑みを見て、私は引き寄せられるように彼の首に腕を回していた。
 煙草とアルコールと、男特有の体の匂い。それにぎゅっとしがみついて、私は口元を歪める。
 ここへ来た目的なんて忘れていた。ただ、今は流されてしまえと思う。
「拓磨、俺にも後で」
 誰か近づいてきた気配がしたけど、兄はそれを側にあった椅子を蹴倒すだけで黙らせる。ガラスの何かが砕ける音だけが響いた。
「触るんじゃねぇよ」
 私の頭を抱いてゆっくりと撫でながら、彼は低く笑う。
「これは俺のだ」
 言葉が終わる前に、デニムスカートの中に手を突っ込まれた。同時に上着を簡単に剥がされて、Tシャツをお腹の上までたくし上げられる。
 寝る前だからブラもつけてなかった。ごつごつした手が直接素肌に触れて、私はその初めての感覚に身を捩る。
「ちっせぇ胸」
 笑いを含んだ声にも、不思議と嫌悪感はなかった。体をいいように弄ばれている、そのむずむずした変な感じも全然嫌じゃない。
 私はくすぐったさに、無意識の内に彼の肌へ自分の体を押し付けながら思う。
「白いな。血管透けてて、食い破りてぇよ」
 彼は感心したように私の首筋に顔を埋めながら呟く。
「匂いもあいつに似てる。いい拾いもんだな……」
 手の動きはそのままに、顔を首からだんだんと上へと辿らせて、彼は笑いを含んだ声に呟く。
「変な所にケガしてんな。ピアスでも失敗したのか?」
 ぺろっと猛獣が獲物の最初の味見をするように、彼は私の右耳の傷を舐めあげた。
 兄が私を自分の彼女か何かに間違えてるなら、それでいいやと思うのだ。
 彼と一緒にいたい、離れたくないと切望するなら、私はこのアンダーグラウンドに身を置かなくてはいけない。
 ……それだったらいっそ、最初に私の世界を壊すのは兄であってほしい。
 ヤられちゃっても、もしかしたらボロボロに壊されてしまっても、他の人にされるくらいなら、ずっと彼の方がいい。
 ねぇ、兄ちゃん。私がここにいてもいいという、証をちょうだい。どんな時だってどこへだって、私が頼めば連れて行ってくれたように。
 そうしてくれたら私は兄ちゃんの風景に溶け込んで、もう二度と出しゃばらないと誓うから。
「なんであいつは、俺と全然違うのにこっちへ来ようとするんだろうな」
 彼はふいに思い出したように言った。
 うわ言のように、彼は耳元で呟く。
「もう十八だろ。気づけよ……」
 どこか苦しげに、うめくように兄は続ける。
「誰より俺から、守ってきてやったのにな」
 血が出るくらいにきつく、彼は私の耳たぶに噛み付く。
 悲鳴を上げそうなその痛みに、私が眉を寄せた時だった。
「愛してるとでも言えば満足するのかよ。……沙世」
 その名前を彼の口から聞いた時、私は急に目の前が晴れた気がした。
 それは私の名前だ。私……彼の妹の名。
 理解した途端、私は今自分の置かれている状況を初めて直視する。露出した胸、足の付け根まで外気にさらされ、弄ばれている現状を。
 嫌だと、強く思った。
 私は妹だったはずだ。女の枠には入っていない、たった一人の存在。
 ……それを兄は抱けるのだと知って、私は激痛に近い悲しみを覚えた。
「おい、どうした」
「……ぁ」
 力を振り絞って、私は兄を引き剥がそうとおもいきり胸を叩く。痺れた腕と拳で、大人の男にしてみれば幼すぎる程の抵抗を。
「チビ」
 違うよ、兄ちゃん。違う、違うんだ。
 せり上がってくる息苦しさと共に、私は顔を歪める。
「兄ちゃん……やだ……ぁっ!」
 壊さないで。私のたった一つの居場所を。
 血を吐くような思いで、私は力の限り叫んだ。
 兄の動きが止まって、ごくりと喉仏が上下する。
 何か恐ろしいものを見たかのように、兄の表情から笑みが抜け落ちた。
「まさかお前、本物の……」
 やっぱりと思った。
 沙世と彼がうわ言のように呟いたのは、間違いなく私のことだとわかってしまった。
 そう理解した瞬間、視界が反転したような思いがした。
 ずっと信じていた。何より大切で、決して手放せなかったもの。
「沙世、お前なんでここに? 何かされたか? おい!」
 激しく揺さぶられても、それが馴染んだ声でも、今の私には恐怖しか与えない。
 ……怖い。
 頭の中でかろうじて保ってきた理性の糸が、あっけなく千切れた気がした。
「い、や……ううう!」
 力の限り全身を動かして、私は浅黒い腕の檻から飛び出す。
「やだやだ! いやぁ!」
「待て、沙世!」
 だけど瞬時に腰に巻きついてきた腕が、それ以上離れることを許さなかった。暴れる私をフロアに倒して、ぐいと肩を床へ押し付ける。
 のしかかられて感じる体温に、私の頭は鋭い拒絶信号を発した。
「いやぁぁ!」
「落ち着け、違う! ここは一人じゃ危ねぇんだ!」
 誰かは努めて私の混乱した神経を鎮めようとするけど、まるで耳に言葉として留まらない。
「しっかりしろ! 沙世、本当に何もしねぇから暴れんな!」
 頭に触れようとするのを、意味を成さない声で拒否する。
 がむしゃらに腕を振り回して足をバタつかせた。とにかく、私の上にいる恐ろしいものから逃げられるなら何でもよかった。
「沙世、沙世! 落ち着け、頼むから落ち着いてくれ……!」
 懇願する声でさえ恐怖しか感じない。
 おもいきり右手を地面に叩きつけた時、ガシャンという音と鋭い痛みがその手に走った。
「馬鹿! 何てことを!」
 右手のじんじんした痛みと血の流れ出す感触に、ビンの破片が刺さったらしいとわかった。
 それに気が逸れた誰かに、私は勢いよく手足を波打たせる。ドスっという鈍い衝撃が膝に走って、彼は少し仰け反った。
「ぐっ!」
 短いうめき声と共に体を押さえつける力が一瞬緩んで、私は誰かの下から必死で這い出して立ち上がる。
「待て!」
 彼はそれでも私の左足首を掴んできて、走り出そうとした私は引き戻される。
「お前、怪我……血、出て、傷が……。動くな、動くんじゃない!」
 執念を叩きつけるような言葉に、一瞬脳が正常な動きを取り戻す。
 止まってしまえと私の中の誰かが優しく宥める。彼はお前を心配してくれてる、守ってくれようとしてるんだと。
 ……だけど、走れと叫ぶ狂気の声の方が、ずっと大きかった。
「い、やだぁ……っ!」
 力いっぱい、掴まれた左足を前に引いた。
 靴が脱げて靴下があっけなく破れて、その下にあった足首を変な風に捻ってしまう。激痛が走ったけど、解放された喜びに比べれば些細なものだった。
「沙世……っ!」
 血を吐くような呼び声を背に聞きながら私は駆け出した。地下を抜けて漆黒の空の下へ、灰色のコンクリートの世界へ。
 痛くて、体のあらゆる部位が悲鳴を上げていた。擦り切れて露出した肘も膝も、破れたシャツから覗く肩も、破片が刺さった裸足の指や手の平、どこからも血を流しながら。
 それでも走るのをやめなかった。喉が切れても息ができなくても、それでも立ち止まりたくなかった。
 がむしゃらに、どこへ行きたいのか、何から逃げていたのか、それすら思い返すことができなくなった頃、ようやく立ち止まった。
 気づけば明け方になっていた。私は心も体もボロボロのまま、天を仰ぐ。
 私は、何か間違えてしまったんだ。本当にダメだとわかっていたのに、踏み込んじゃいけない所に突っ込んだ。兄でさえ、今までずっと私を入れないようにと、拒絶することで守ってくれていたのに。
 ごめん、ごめん……。
 心の中で兄に謝りながら、それでも引き返すことはできないまま歩き始めた。