やっぱりというか、兄が連れて行ってくれたのは派手なクラブだった。クラブと言えば聞こえはいいけれど、要するにやばそうな兄ちゃんとか、けばい姉ちゃんとかの溜まり場だ。
 八十年代くらいのディスコをイメージしたような、きらびやかかつ古い雰囲気も漂わせる狭い店内で、人が飲んだり踊ったりしてひしめき合っている。
 店に踏み込むなり、私は兄の袖を引いて尋ねた。
「私、踊れないよ。何してればいい?」
「だから来ても面白くねぇって言ったろ。隅で大人しくしてな。後でダチを紹介してやるから」
 それでも帰れと言わないのが不思議だった。上京したての頃だったら私を友達に会わせるのだって渋る兄だったのに、目の届く範囲内なら遊ばせてやろうという意思が見え隠れする。
「拓磨じゃん。あれ、そっちは?」
「これか? 連れてけってうるせぇんだよ。気にすんな」
 何人かがすぐに兄に気づいて集まってきたけど、彼は適当に答えた。それにかえって興味を持ったのか、五、六人の好奇の目が私に集中する。
 タンクトップから派手な花の刺青が覗いてたり、かなりきわどい場所にピアスやクリップがついてたりと、中々にファッションにはこだわりがありそうな人たちだった。強面ではないけど変に色白だったり痩せていたりして、正直なところカッコイイとは思えない。
「へぇー」
「いいじゃん。初めて見る子だな」
 きつい目で見ている私を可笑しそうに見やって、彼らは含み笑いをしながら目配せする。それに、兄は軽く私の頭に手を置いて返した。
「見た通りチビだからな。唾つけんなよ」
 彼らは何かを感じ取ったのか一瞬だけ表情を消す。私は首を傾げて、横に立つ兄を不思議そうに見上げた。
「俺の妹だからな」
 兄は薄く笑っているだけだった。からかっているような雰囲気しかないし、怒り出すような口調でもない。
「わかってる。冗談だって」
 それなのに彼らの表情に浮かんだのは畏怖に近い感情だった。
 見た目はやばい兄だけど、いきなり殴りだすような凶暴さはない人だ。……ただし、私の知っている限りではそうというだけだった。実際、兄と一緒にたまり場に行ったことはほとんどない私だった。
「大人しくしてろよ」
「うん」
 面倒くさそうに私の頭をぐりぐりして、兄は側にあった椅子に座らせる。そのまま彼は友達か子分かさえ不明な人たちを連れて中央へと行くのを、私は黙って見送っていた。
 広さはいつも行く兄のバイト先の三倍くらいで、奥まではちょっと見渡せない。わりと静かなテクノやポップが流れて、古臭い空気には良く似合う。
 変に感傷的なメロディは敬遠したい時もある。普段の喧しくて怒号に近いパンクミュージックなら頭の感覚が麻痺するけど、今耳に入るのは思考を遮らない隙のある音楽だ。
「沙世」
 いつの間にか兄が側に来ていたことに気づく。
「何?」
 座ったまま顔を上げる私の目に、浅黒い輪郭以外のものが映った。ミラーボールが眩しく反射して、私は目を細める。
「は、初めまして。沙世さん」
 まだ輪郭のはっきりしていない逆光の中、私の目の前で慌てて頭を下げた男の子がいた。
 顔を上げると、声と同じく幼さの残る十台の少年だった。奇抜な髪型やファッションの入り乱れる店内では浮いてしまう、控えめな茶髪に小さなピアスだけが装飾品で、かなり貧相なジーンズとTシャツに包まれた細身の体だった。
「初めまして。拓磨の妹の沙世です」
 なんとなく立ち上がって、私も頭を下げた。何をさせたいのかは不明だったけど、条件反射みたいなものだ。
 子供みたいな挨拶を交わした私たちを、兄は笑いを噛み潰しつつ見下ろしていた。私はそれに顔をしかめて不機嫌に問いかける。
「どちらさん?」
「お前と同じガキだ。っつっても、ここではお前よりずっと先輩か」
 兄は軽く少年の頭を叩いて、ふざけた調子で声をかける。
「馬鹿、頭下げんなよ。何恐縮してんだ」
「えっ、あ、すんません」
 おろおろする少年が面白くて私も少し笑うと、兄は横目で私を確認してから彼に向き直る。
「テツ。適当に面倒みてやれ。年が近いし話も合うだろ」
「え?」
「あ、はい。もちろんです。もちろん」
 眉を寄せた私と兄を見比べて、テツは繰り返し頷く。その上下運動はさながら振り子を思わせて、彼が兄に全く逆らえない立場であることが簡単にわかった。
「じゃあな」
 ぞんざいに言い捨てて、兄はさっさと仲間たちの所へ戻っていく。そのまま談笑しながら飲み始めて、他と同じように音楽に揺れていた。
 結局よそ者扱いされていることがわかって、私は口元を一文字に引き結んだ。確かに邪魔しないとは言ったけど、これじゃ完全に私は厄介者だ。
「テツ君」
「あ、はい!」
 振り返って、動揺する少年へ顔をしかめたまま向き直る。
「遊んできていいよ。私はここでぼーっとしてるから」
「い、いや。そういうわけにも」
 わかっていたけど慌てて反対してきた彼に、私は一つ頷く。
「じゃ、とりあえず兄の目が届かない所まで移動しようか。そこで解散」
 先に立って、私は店の奥まで歩いていく。聞きなれない音楽が大きくなり、見慣れない人たちがちらちらと私を窺っているのは感じていたけど、別段それは気にすることがなかった。兄の言う通り、自分が子供っぽく見えることは理解していた。
 照明の落ちた壁際まで来て、私は立ち止まる。背を灰色のコンクリート壁につけて腕組みをすると、しっかりついてきた少年をじろりと見やった。
「しつこい」
「すんません」
 謝りつつも去る気配のない彼に、私は深いため息をつく。
「……わかったよ」
 テツにも立場というものがあるだろうし、ここは私が折れるべきなのかもしれない。そもそも、独りになりたくてこんな場所まで来たわけじゃないのだ。
「テツ君は年いくつ?」
 話題を振ると、彼は私が話しかけてきたことにほっとした表情を見せた。
「二十歳です」
「嘘だ。十五くらいでしょ」
 私より年上であるわけがないと確信を持って返すと、彼はちょっと困ったように苦笑した。
「十七です」
「高校は?」
「行ってません」
「そう」
 私は横目で、私よりほんの少し背が高いくらいの少年を見やる。
「何でこんな所に来てるの?」
「楽しいからです」
「どうして?」
「質問ばっかりっすね。沙世さん」
「君が質問してこないから」
 私は文句を吐き出してから先を促す。テツはうなずいて答えた。
「楽しいに理由は要らないじゃないっすか。有意義とかより、ずっと単純」
「それはそうだね」
 適当に頷いて、私はカマを掛けてみる。
「で、この道には兄に引きずり込まれたんだ?」
 そう問いかけた途端、今まで緊張した面持ちで答えていた少年が顔を綻ばせた。
「そうです」
 眩しいものを見るように兄がいる辺りを仰ぎつつ、テツは頷く。
「オレ、拓磨さんみたいになりたくて。すげぇかっこいいじゃないっすか」
 自分のことをオレという言い方は、珍しくもないのにひどく幼く聞こえた。
 崇拝の色合いが濃い彼の声に、私は呆れて首を傾ける。
「どの辺が? 図体がやたら大きいだけだよ」
「いや、カリスマっすよ、カリスマ。頼りになるとか以上に、何かこう、オーラが出てるじゃないっすか」
 ますます眉を寄せる私に、少年は興奮した様子で続ける。
「沙世さんはわかんないっすか?」
「うん。さっぱり」
 即答して、私はテツを振り返る。
「そうか。兄ちゃんが好きなのか」
「……え?」
「男ということが一つの難関だね」
「え、あの、いやその」
 少年は私の言いたいことを察したのか慌てて首を横に振る。
「違いますよ! 男として憧れるってことに決まってるっすよ」
「ふうん」
 ちょっと考えが飛躍したかと反省して、私は頷く。
「オレたちの兄貴分ですから。仲間内でも尊敬されてます」
 そこまで言って、テツは少しだけ変な顔をして私を見る。
「でも、女から見るともっとすごいでしょ。沙世さんも思いません?」
 私はぷっと吹き出して、軽く答える。
「全然。私が何か感じたらやばいじゃん」
 どう頑張ったらあの趣味悪い兄がかっこよく映るんだろう。小汚いし、品が無いし、性格歪んでるし。
「さっきから考えてたことなんだけど、訊いていい?」
「はいはい。何でもどうぞ」
 フロアのミラーボールの下くらいを指差す。そこにはふざけあっている男女の中心にいる、兄の姿があった。
「兄ちゃんの彼女って、どの人?」
 これは先ほどどころか、上京して以来の謎だ。
「入れ替わり立ち替わり、いろんな女の人と話してる気がするけど」
「あー……」
 目を逸らして言葉に詰まる少年に、私はそっと付け加える。
「いや、答えにくいならいいよ」
 上京してすぐ、私は深夜に兄のアパートから出て行く女の人を見た。
 けど一週間後には別の女の人と街を歩いているのを目撃して、さらに兄の携帯に電話したらまた違う女の人に誤解されて怒鳴られたこともあった。
 いくら付き合いの少ない私でも、兄がつくづく女癖の悪い男であることくらいは察しがついている。
「ただ、本命くらいいてもいいんじゃないかと思って」
 遊びまくっているなら、却って特定の相手はいないのかと疑ってしまう。これは純粋な興味だ。
 本当に、ただの興味だ。決して嫉妬なんかじゃない。
「いますよ。皆知ってます」
 少年を振り返って見ると、彼は苦笑して頷いた。私はその即答に少なからず驚いて目を見開く。
「え、今日も来てる?」
「はい」
「あ、待って。当ててみせるから」
 短く制して、私はきょろきょろと辺りを見回す。
 あの派手な金髪の人は見覚えがあるなと思ったり、今兄としゃべってる人って大人しそうな人だけど以前に私を怒鳴りつけたことがあったと思い当たったり、とにかく色々と考えを巡らせる。
「んー」
 どの人とも親しそうだけど、殊更誰が際立ってるということもない。普通にふざけて兄に甘えてみたりとか、一緒に踊ってたりとか、せいぜいその程度だ。
 また別の曲に変わった時に、兄が何かに気づいたように移動する。数人の間を通り抜けて、ある場所で立ち止まる。
 そのまま兄が頬に笑みを浮かべて手を伸ばすのを見て、私は何だか複雑な気分になった。
「……あの人だ」
 ショートカットの黒髪で、すっきりした顔立ちの美人だった。普通の女の人より少し背が高くて、服装は他の人に比べてずっとシンプルなブラウスとスカートなのに、どこかドキリとさせるような艶がある。
 その彼女が涼やかな目元を少しばかり歪めて、拗ねたように兄を見上げる。今頃私に気づいたのと責めるような眼差しに、兄が困ったように肩を竦めるのが見えた。
 今度こそ紛れもない胸の痛みを感じて、私は短くテツへ問いかける。
「あの人は?」
絵梨(えり)さんです。まあ、拓磨さんとは結構長い付き合いっすね」
 急にこの場にいるのが苦痛になってきた。
 やだな。彼女くらい、いてもおかしくないのに。それを今知ったのは遅すぎるくらいなのに、訊かなきゃよかったと後悔する。
「でもあの人、ナンバーツーっすよ」
「二番目?」
 暴走族じゃないんだからと苦笑しながら、私は半信半疑で続ける。
「じゃ、ナンバーワンはどこへ?」
「わかんないっすか?」
 逆に問いかけられて、私はぐるりと辺りを見回す。光が取り巻いて音が溢れかえるその空間で、ふいに私は道に迷ってしまったような孤独感に沈んだ。
「わかんない。でも言わなくていい」
 子供っぽく呟いて、付け加える。
 十年以上も一緒にいたけど、兄が上京してからは私の知らない空白の時間もある。それを追求しようとしても無駄なのかもしれない。
「沙世さん、拗ねてるんですか?」
 からかうような口ぶりにむっとして、でも私は一瞬黙るだけに留める。
「別に」
「眉間にしわ寄ってますよ」
 年下のくせに、変な所だけ鋭い。嫌な子だ。
「からかわれるのは嫌い」
 今度は不機嫌を隠さずに呟くと、彼は少し吹き出して小声で言う。
「大丈夫っすよ。沙世さん、可愛いとこあるじゃないっすか」
 適当なことを言うのは、部外者だからだった。
 私は「もう帰る」とだけ兄に伝えて、その日はさっさと自分のアパートに帰ったのだった。