息が苦しい。どれだけもがいても、ここから抜け出せないような感覚に陥る。
 それでも、腕を動かし、足を動かし、少しずつ、全身を前へ送り出していく。
「抜け……たあっ!」
 ずぶぬれのびっしゃびしゃで滝を抜けると、ひいひい言いながらどうにか向こう岸に渡り、ごろりと仰向けになって肩で息をする。
 俺のすぐ隣に、同じ様子でぜえはあと息をしたリタも転がった。
「雨、やんでるね」
 まだまだ風は強いけど、まるで俺たちが滝を渡りきるのを待っていたかのように雨がやみ、雲の間から明るい光が差し込み始めていた。
「それで? 次はどうすればいいの?」
「とりあえず、息を整えたら荷車を探そう。多分だけど、すぐ見つかるはずだから」
「わけわかんないけど、わかった。荷車を無事に見つけたら、帰ってあったかいお風呂に入りたい!」
 ばっと起き上がって、リタが両腕を真上にあげて叫ぶ。
 わかるよ、すごくわかる。そう言おうとした俺の口からこぼれ落ちたのは、「あ」というとっさの一言だけだった。
「どうしたの? って、ええっ!?」
 パーにして真上に広げたリタの両腕に、滝から飛び出した一匹の大魚がすっぽりと収まった。
「さ、魚!? なんで!? っていうかこれ……超レアものじゃない!」
 降ってきた魚をぎゅっと抱きしめてほおずりをするリタの姿は、とってもシュールだ。まあ、本人がいいならいいのかな。
「そんなにレアなの? でもそれ、大丈夫? うろことかひれで、ほっぺた削れない?」
「レアもレア、超レアだよ! あのゴールデンルビーフィッシュだよ! 食べられる宝石! 滋養強壮の鬼! 美と健康の化身! 重さイコール金貨の!」
 知らないことが申し訳なくなるくらい、リタは熱弁をふるって大魚を抱きしめている。
「この子が手に入るなら、荷車と今日集めた素材全部が戻ってこなくても、おつりがきちゃう。ありがとうノヴァ!」
 お祭りのために、多めに食材を確保しておかないといけないんじゃなかったっけ?
 思わぬレアものを前に、目的を見失いつつあるリタになんと言ってあげるのが正解だろうか。
 ひとまず落ち着くまで見守っていると、改めて大魚を抱きしめようとリタが力を込めたことで、つるりとその腕から飛び出した大魚が、空を泳いだ。
「ああっ! 待って、ルビーちゃん!」
 リタが大魚を追って走り出し、俺もそれに続く。
 驚異的な脚力で大魚に追いついたリタが、捕まえようと必死に手を伸ばす。
 何度も触れているのに、なかなか捕まえられない。大魚が、お手玉のように空中で跳ね回る。
「あなたまで、わたしの前からいなくなったら、許さないんだからね!」
 聞きようによってはちょっと怖い台詞を、見ようによってはちょっと怖いぎらぎらした目つきで発しながら、リタが何度目かのジャンプをキメた、そのときだった。
「えええ! なんでよおおおおお!」
 木から跳んできた一匹の猿が、リタの目の前で大魚を片手でかっさらい、隣の木に飛び移ったのだ。
「ちょっとあんた、返しなさい!」
 憤慨するリタをあざ笑うように、猿が横取りした獲物を両手で持ち上げ、笑うようにきいきいと鳴いた。こうなれば、当然リタは大激怒だ。
「そう、わかった……今晩のおかずになりたいってわけ」
 村には、猿を食べる習慣はない。つまりこれは、リタなりの威嚇だ。かなり本気で怖いし殺気も出ているけど、そのはずなのだ。
 びくりとした猿が手元を誤り、大魚が再び宙を舞う。
「渡さない!」
「落ち着いて、リタ!」
「ききぃっ!」
 リタ、猿、俺のみつどもえで大魚を追う。
 三人の手の上を順番にお手玉したり、風に煽られて進路を変えたりしながら、大魚が大空を舞い踊るように泳いでいく。
 雨がやんだ空には虹がかかり、水滴がきらきらと陽光を反射して、幻想的な光景だ。俺たちの視線は大魚に釘付けで、せっかくの景色を楽しむ余裕はほとんどないけどね。
 途中から、前に見かけたものより一回り大きな猛禽が大魚キャッチに参戦し、魚を狙っているのか俺たちや猿を狙っているのかわからない、巨大な植物までもがつるで参戦して、森は一気にさわがしくなった。
「あんたは絶対に、わたしが持って帰るんだからっ!」
「これだけ言われたら食べてみたい! 絶対に持って帰ろう、リタ!」
「きききっ!」「ぎゃあぎゃあ!」「しゅるるるる!」
 俺とリタ、猿、鳥、植物の鳴き声がこだまし、風が吹き荒れ、魚が空を舞い踊り、どんどんと森の奥深くへと突き進んでいく。
「リタ、ストップ! 今すぐ止まって!」
 そんな中、俺は急停止して、それをリタにも告げた。次の桶屋クエストが表示されていたからだ。
「なんで……ああ、ゴールデン……ルビー……行っちゃった……ううう」
「泣いてる場合じゃないよ」
「でも、もう少しであの子をキャッチできたのに。ひどいよ、ノヴァ」
「さかなぴょこぴょこみぴょこぴょこ、あわせてぴょこぴょこむぴょこぴょこ! さん、はい!」
「え? は?」
「三回唱えたら動いていいよ! さん、はい!」
「なにそれ、え? なんで?」
 わかる、すごくわかるよ。俺が聞きたい。どうしてここまでレアものを追いかけさせておいて、急停止して早口言葉を叫ぶのか。
「俺を信じて!」
 俺は、俺自身にも言い聞かせる気持ちで、曇りのないまなざしでリタを見つめた。そう、ここで俺が半信半疑の顔や態度をしようものなら、きっとスキルの効果は薄れてしまう。
 これを考えている時点で半分アウトかもしれないけど、最後までやってやるという気概は見せておかなくては。
「わかった、わかったよ! やってやろうじゃないの! さかなぴょこぴょこにぴょこ……みぴょこぴょこ? あわせてぴょこぴょきょむ……ぴょことこ! さかなぴょこぴょこ……!」
 やけくそ気味に、かみ気味に、リタが早口言葉を叫ぶ。
 それを表向き満足そうに眺めてうなずくと、俺も同じように残り二回にチャレンジする。
「むぴょこ! ぴょこっ! よし、もういいよね!? ひえっ!?」
 ぐすぐすと泣きべそをかきながら、リタが走りだそうとしたその鼻先を、どこかに消えていた荷車が猛スピードで横切っていった。
 タイミングを間違えていたら、完全に轢かれているところだ。
 目をぱちくりさせて、事態を呑み込めずにいるリタをしり目に、荷車は正面の大木へとまっすぐに突っ込んでいく。
「ああ、壊れちゃう……」
 ぽつりとつぶやいたリタの目から、すうと一筋、新たな涙がこぼれて頬をつたう。
 大木に真正面から衝突していく荷車を、俺もただ眺めるしかない。
 きらきらと日差しが照らす大木は、神秘的ですらある。そこへ、ひと際きらきらと輝く何かが、空を滑るように落ちてくる。
「さか……な?」
 俺たちがさんざんに追いかけ、森の奥へ消えていったゴールデンルビーフィッシュが、どこをどう泳いできたのか、荷車と大木の間にするりと滑り込んだのだ。
 ぬる、しゅるん、すとん。
 大魚がその肉厚な身体と絶妙なぬめりけをもって緩衝材となったらしく、荷車が無傷で止まる。大木と荷車に挟まれ、またしても浮力を得た大魚は、舞い上がった空でくるりと身をよじらせると、荷車の中にダイブしておとなしくなった。
 おそるおそる近づいた俺たちが見たのは、強風の中を走り回ったおかげで、森中のレア食材と素材がたっぷり詰め込まれ、仕上げに超レアものの大魚がそっとそえられた荷車だった。恐ろしいことに、傷ひとつない。
「あ、はは……まあざっとこんな感じ?」
 荷車をのぞき込んで、顔を見合わせて、俺たちはひとしきり笑った。
 ありえないことの連続だったけど、最終的に想定以上の結果を手に入れられた。
「リタのおかげだよ、ありがとう」
「全然。わたし、振り回されっぱなしだったよ」
「最初にさ、言ってくれたでしょ? ちゃんと期待してって。そのおかげのような気がするんだよね」
 もしかしたら、勇者パーティー時代も、これに近いことを無意識にやっていたのかもしれない。でもそれを、俺自身がきちんと意識したのは今回が初めてだ。
 スキルの持ち主のくせに、スキルを信じ切れていなかったことが恥ずかしい。そして、それに気づかせてくれたリタは、振り回されながらも本当に最後まで信じてくれて、今も隣で笑ってくれている。この子には、感謝してもしきれないな。
「これなら、村のみんなもびっくりするね。ちょっと休んだら帰ろうか」
 うなずいてから、俺はあれ、と気がつく。
 大木の根本、うろになっているところに何かある。それが陽光に反射したらしい。
「あれ、なんだろう?」
「卵、かな?」
 隠されているようにも、無造作に置かれたようにも見える卵がひとつ、そっと顔を出していた。
 俺が両手で抱えるほどの大きさだ。魚を狙ってきた猛禽だとかのものとは思えない。もっと大きな、何かがこの近くにいるのかもしれない。
「どうする? 卵があるなら親がいそうだし、ここからは早めに離れた方がよさそうだけど」
「とりあえず持っていこうか?」
「リタさん!?」
「ここがノヴァのスキルのゴールなんでしょ? ってことは、ここにあるものは全部、ものすごーくレアな、わたしたちのものってことだよね?」
「念のためだけど、これが何の卵かリタは知ってるの?」
「知らない。けど、この森にあるのにわたしが知らないってことは、きっとすごい何かなんだよ」
 リタはにっこり笑うと、うんしょ、と卵を抱えて荷車の上にそっと置いた。これは、何を言っても聞いてくれなさそうだね。
 レアものを目の前にすると止まらなくてね。村人さんの困った笑顔がとても印象的に、俺の脳裏に蘇ってきていた。