「泳げない!?」
 なんだそれ。
「人魚」は、まるで水をかくように、暗闇にゆっくりと手を広げた。
 手首の真珠のブレスレットが、ふたたびシャラン、と淡い音を響かせる。
「泳げないから海では暮らしていけない。だけど、陸にいるのも息苦しい。夜更けになってようやく活動できるの。静かで、ひんやりとしていて、深い海の底みたいなこの時間帯が、私にとっていちばん落ち着くから」
 そう言って、人魚は大きく息を吸いこんだ。
 しいんとした夜の空気を、まるでソーダ水のように味わうみたいに。
「ふうん」
 そっけないオレの態度に人魚はちょっとムカついたらしい。
「信じてないんでしょ」
「そーゆーわけじゃないけど」
 今はお前より、もっと気になるモンがあんだよ。
「……きみはここでなにしてるの?」
「オレ? 見りゃ分かんだろ。天体観測」
 バッチリ望遠鏡まで準備してんだ。
「天体観測?」
 人魚のやつはキョトンとしてる。
「お前、ニュース観てねーのか? ま、人魚だからしょーがねーか。今夜は皆既月食なんだよ」
「月食って、月が欠けて見える現象のこと?」
 なんだ、意外と知ってんじゃん。
「そう、月が地球の影に入るんだよ。今みたいな夜更けが、ちょうど見ごろなんだけどな。あの雲が動かないせいで、どーしても見れねーんだ」
 そう言うと、人魚も空を見上げて、
「あんな大きな雲、動くの?」
 と、首をかしげた。
「動くんだよ! いつになるか分かんねーけど、風もあるし、うまくいけば雲は晴れてくれるはずなんだ。オレは今夜、ここで、ずーっと、ずっと待ってんだ」
 今夜を逃したら、次、皆既月食を見られるのは三年後になっちまう。
 それを思えば、今夜三時間くらいここでねばるのなんて大したことねーよ。
 寒いし、眠いし。正直、退屈っちゃ退屈だけど……。

「動け~、動け~っ」
 一生けん命夜空に手を伸ばしてみるけど、相変わらず雲はビクともしない。
「おい、お前もいっしょに念じてくれよ。人魚なんだろ?」
 すると、人魚はちょっととまどったように、
「だからって、雲を動かす力なんてないけど」
「でも、やってみなきゃ分かんねぇじゃん。手貸してくれよ」
 人魚が、しぶしぶ暗い空に向かって両手を伸ばした。
 すると。
「あっ」
 わたあめがホロホロとちぎれていくみたいに、厚い雲がゆっくりと割れはじめた。
 雲の切れ間から、ぼんやりと赤黒い月がのぞいている。
「出た……!」
 皆既月食だ。
 待ちに待った、念願の瞬間が今――!
「見ろ、見ろっ!」
 オレは、人魚に望遠鏡のそばに来るよう誘った。
「えっ?」
「のぞいて見ろって! 今、ちょうどキレイに見えるから」
 人魚はこわごわ望遠鏡を手にしていたけど、やがて、わあっ、と歓声をあげた。
「ほんとうだ。満月が地球の影にかくれてる。月食のときの月って、赤く見えるんだね。不思議だな……」
「あぁ、あかがね色ってやつだ」
 よかった。ようやく見ることができた。
 今までの疲れが一気にふき飛んでいくみたいだ。

「あーっ、満足!」
 オレは、ゴロンと芝生の上に寝っ転がった。
 ひやっとして、やわらかい感触が心地いい。
 このままここで眠りたい気分だ。
「ちょっと、こんなところで寝たら風邪ひくよ?」
 人魚がオレを起こそうと、肩や顔にふれてくる。
 なんだ、人魚なんて言ってるわりには、ずいぶんとあったかい手だな。
 オレは人魚の手をにぎって、
「さっきは手伝ってくれてありがとな。お前のおかげで皆既月食見ることができたよ」
 と、お礼を言うと、人魚はパッ! と手を引っこめて、足早に暗闇のなかに去ってしまった。
「あちゃ~……」 
 逃げるように行っちまった。ナンパだとかんちがいされたかな?