茜の衝撃の告白に、私は目を見開いた。
でも、それは、茜が気にしているよりはずっと小さな衝撃だった。
そりゃあ、全く傷付かないと言えば嘘になる。でも、色々と納得できることが多かった。屋上の扉の開け方を知っていたこととか、初恋の人の話とか。むしろ、ただ私と友達になりたかったと言われるより、その従兄弟と重ねていたからと言われる方がよっぽど納得できる。
だから、いい。私も茜を引き留めて迷惑をかけたし、お互い様だ。
それに、茜が私に“嫌われるのが怖い”と思ってくれるほど、私のことを好きになってくれていたのなら、それでもう十分だったのだ。
「いいよ、茜。嘘吐いてたの、許す」
だから、心置きなく成仏して。
そう言った、その時だった。
「……じゃあ、どうして」
低く、茜が呟いた。そして、顔を上げる。
笑っているかと思っていた茜は、思ったよりもずっと険しい顔をしていた。
「じゃあ、どうして、──レイは、死のうとしてるの」
レイの言葉に、私は息を呑んだ。
──茜の言葉は、図星だったから。
*
死にたいと、思ったことはない。
──ただずっと、生きている理由が、わからなかった。
*
「私が幽霊に執拗に関わるのは、成仏できないほど生に拘る理由を知りたいからって、前に言ったことあるよね」
未だに険しい顔のままの茜に、そう呟く。
「私には、何一つなかったの。生きることに拘る理由が。わからなかったの、自分が生きている意味が。だから、死んでも尚生きることに縋り着く幽霊のことが、とても不思議だった」
生きていたい理由を持つ幽霊のことが不思議で、だけど少し羨ましかったのかもしれない。それは、私にはないものだったから。
だから、知りたかったのだ。彼らの死後も生に拘る理由を、彼らの未練を。それがわかれば、私にも生きていたい理由がわかるかもしれない、そう思ったから。
だけど、そうは簡単にはいかないものだ。
彼らの未練を知っても、私の生きたい理由を見つけることはできなかった。私が生きる意味を、知ることはできなかった。
そのうち、思うようになった。
──どうして生きていたかった幽霊が死んでいて、生きる理由の見つからない私が生きているのだろう、と。
未練を知る度に、その思いは大きくなる。彼らの絶望を、慟哭を、目にする度に、私は思った。
──どうして、私が生きているのだろう。
『死神』
嘗てそう呼ばれたことを思い出す。私には誰かを殺す力などないと、呼ばれる度に思ったものだが。
ああ、そうか。 “普通” の人間ではない、という意味では、ぴったりかもしれない。
もしも私が本当に死神なら、真っ先に私の命を奪うのに。
そんなことを思いながら、私は毎日ほんの少しずつ、消えない絶望を積み重ねていった。
ああ、今日もまた、誰かが死んでいった。
ああ、今日もまた、生きる意味を見つけられなかった。
ああ、今日もまた、私は死ななかった。
ああ、今日も、また。
彼らの嘆きを、絶望を目にしておきながら、私は意味のない生をもて余している。
それが、ずっと苦しかったのかもしれない。
私は、生きていることにずっと懐疑的だった。死にたいと、思ったことはないけれど。薄っぺらい自殺願望だけは、ずっと胸の奥に燻っていたのだ。
「だから、これは私のエゴだ」
本当は、茜が成仏したのを見届けてから、ここから飛び降りるつもりだった──茜を成仏させなかったことへの罪滅ぼしとして。でも、結局はそれも体のいい言い訳だった。
「私は、もう、独りぼっちで生きることに耐えられないんだ」
茜がいなくなったら、私はまた独りになる。誰とも違う、誰にもわかってもらえない存在になる。
「ねえ茜。最低なこと、教えてあげよっか」
私は笑う。自分がどれだけ酷い人間なのかを、自嘲するように。
「──私ね、羨ましかった。死んだ茜が、もう生きなくていい茜が、心底羨ましかったんだ」
生きていたかった茜や、今まで出逢ってきた幽霊たちを怒らせるような、そんな言葉。でも、それが、心の底からの本心だった。
死んでしまえば、生きる理由をもう見つけなくていい。幽霊の絶望に、後ろめたくなることもない。
だから、ずっと死んでしまえばいいと思っていた。ただ、行動に移す理由が、なかっただけで。
「茜。私はね、」
そして、これがもう一つの本音。
「──死ぬことよりも、また独りになることの方が、ずっとずっと怖かったんだ」
茜に出逢ってから、独りが怖くなった。また誰にもわかってもらえない、独りぼっちの世界を生きるのが、怖くなった。だから私は、茜がいなくなる今日、自分もここからいなくなってしまおうと思ったのだ。
進路希望の紙も、本当は白紙だった。打ち上げ花火を見に行ったのも、死ぬつもりだったから、最期になると思ったからだった。
『──間違いばっか選ばずに、たまには正解を選んでみろ。きっとお前ならできる』
牧野弘昌にそう言われたけれど、私は間違いを選んでしまった。申し訳なく思いながらも、それでも正解を選ぶ強さが、私にはなかったのだ。
「死ぬのなんて、やめてよ」
茜が必死な声で訴えかける。それでも、私の決意は変わらなかった。
「ごめん、茜。茜の頼みでも、それはできない。それに、茜には、私を止められないでしょ」
茜はもう死んでいる。つまり、私を実力行使で止めることはできないということだ。“火事場の馬鹿力”に頼るという手もあるが、そんな不確かなものじゃ確実に止められるか怪しいものだ。
「うん、わかってる。でも、私は絶対にレイを死なせない。そう、決めてるから」
なぜか強い確信の籠った瞳を、茜は閉まった扉へと向けた。
「なんかよくわかんないけど、バレちゃったんならもういいや」
そう言って、私は茜の身体をすり抜け、屋上のヘリに立った。風に髪が舞い上げられ、セーラー服をバタバタと揺らした。見下ろす遥か先の地上も、全く怖くなかった。
「やめて、レイ!」
引き止める茜の声を無視し、身を乗り出した──その時。
「怜香!!」
バンッと勢いよく何かが開く音がして、振り向くと、よく見知った男が扉を開け放っていた。奴はそのまま私の方に走ると、ヘリに乗った私の身体を引き寄せた。
「うわっ」
引っ張られる力に体勢を崩し、小久保一樹の方に傾く。奴に抱き止められるようにして、二人で屋上に倒れ込んだ。
「……なんで、あんたがここに」
身体を起こし、私は呟いた。
「それは、西村さんが、手紙をくれたから」
驚いて、茜を見た。茜はこうなることがわかっていたかのように、微笑んだ。
「私が、手紙を書いたの。レイが屋上から飛び降りるかもしれないから、止めに来てって」
茜には全て、お見通しだったというわけだ。
「怜香、お前、ふざけるなよ。飛び降りるなんて、死のうとするなんて、そんなの間違ってる」
怖い顔をして、小久保一樹が言う。
「何さ。私と違って普通のあんたには、私の気持ちなんてわかんないって言ったでしょ──」
「──ああ、わかんねえよ! 俺にはお前の気持ちなんてわかんねえ。でも、そんなの関係ない。だって俺は、お前と生きていたいんだから!」
小久保一樹の叫びに、目を見開いた。そんなことを言われるなんて、思ってもみなかったから。
「大体、普通ってなんだよ。俺が幽霊が見えないから普通なのか? それならお前だって、十分普通の人間だろ! お前は“死神”なんかじゃない。普通に喜んで、普通に悲しむ、他の奴らと何一つ変わらない、普通の人間なんだよっ!!」
──私が、普通の人間?
困惑する。でも、どこかで、“死神なんかじゃない”と、“普通の人間”なんだと言われたことに、喜んでいる自分がいた。
「レイはさ、人間なんかに興味ないって言ってたけど、あれは嘘だよ。本当は、誰よりも普通の人に憧れてたから、幽霊にもあんなに興味津々だったんだよ」
茜の言葉に、どこか腑に落ちるものがあった。──ああ、私はずっと、“普通の人間”になりたかったのか。
不意に手を掴まれ、小久保一樹に顔を覗き込まれた。真っ直ぐな視線が、私を射抜く。
「俺はどんなに頑張ったってお前と同じ世界は見ることはできない。一緒になってやれない。──だけど、お前と一緒の世界で生きていたいって、心の底から思ってるんだ」
──私はもう、独りぼっちの世界で、生きなくてもいいのか。
気付くと、一筋の涙が頬を伝っていた。同じじゃなくても、幽霊が見えなくたっていい。私の隣で一緒に生きてくれる誰かを、私はずっと望んでいたんだ。
そんな私を見て、茜は微笑んだ。
「ねえ、レイ。覚えてる? 私たちが喧嘩した時、仲直りの条件に何でも一つお願いを聞いてくれるって約束したよね」
そう問いかけた茜の雰囲気に、私は思わず小久保一樹の手を振り払って茜へと近寄った。
「覚えてるけど、それがどうしたの」
「あの時のお願いを、今言うね」
ふわりと笑った茜がなぜだか儚げに見えて、嫌な予感がした。
「レイ、私がいなくなっても、生きてほしい」
「え──」
その言葉に、顔が強ばる。一生の別れのようなその言葉を、受け止めたくないと、そう思ってしまう。
「……嫌だよ。やっぱり嫌だ。茜ともう一緒にいられないなんて、そんなの嫌だよ──」
我が儘だとわかっていながら、思わず涙がボロボロと溢れ落ちていく。子供みたいな泣き言に、茜は「しょうがないなあ、レイは」と笑って、私の涙を掬う。すると、触れられないはずの茜の指先が、私の頬を拭っていた。
「茜、なんで──」
「火事場の馬鹿力。手紙を書いて見られないように持ってきたから、もう一回くらいは使えるみたい。だからね、レイ、泣かないで」
優しく頬に触れた茜の冷たい手が、次々と溢れる涙の滴を拾っていく。
「大丈夫だよ。私がいなくても、小久保君がいてくれる。小久保君だけじゃない。カズ爺も、他の皆も、レイが心を開けばきっと傍にいてくれる人がもっといるはずだよ。だからもう、レイは大丈夫」
「でも──」
尚も言い募ろうとする私を、茜はふわりと抱き締めた。最初に屋上で抱き締められた時には感じられなかった感触が、私を優しく包んでいた。
「ズルくてごめん。でも、聴いて、レイ。私からの一生のお願い」
耳元で、茜が囁く。
「──生きて、レイ」
その瞬間、茜が真っ白な光に包まれる。何とか目を凝らして見えたのは、泣きながら笑う茜の顔だった。
──そして、光が収まっていく。しっかりと目を開けられるようになった時にはもう、茜の姿はそこになかった。
「……ズルいよ、茜」
なくなった感触を思い出しながら、私は呟く。
「そもそも、もうあんたの一生は終わってるのに、一生のお願いなんてできないでしょうが」
茜への恨み言が、口から溢れ落ちた。
「ズルいよ、茜」
手で顔を覆う。絞り出した声は、涙で滲んでいた。
「そんなこと言われたら、生きるしかなくなるじゃんか──」
箍が外れたように、私は子供のようにわんわんと泣きじゃくっていた。
青空の下、泣きじゃくる私の背中を、小久保一樹の手が優しく撫で続けていた。
*
7月22日。
私は、茜のお墓を訪れていた。
茜が死んだことを認めたくなくて、一度も訪れていなかったお墓。でも、もう今は、茜がいないことを受け止められる。
「茜、何がいいかわかんなかったから、取り敢えず花、持ってきた。また、逢いに来るから、その時まで待ってて」
オレンジのチューリップを供え、私は踵を返す。
「……あ、そうだ」
立ち止まって、振り返った。
「──じゃあね、茜」
──ずっと言いたくなかった“さよなら”を、今は言える気がした。