7月20日。

いつも通り学校に来て、昼休みは屋上で茜と過ごした。そして、何事もなく一日が過ぎ去り、学校が終わる。

ようやく終わった、と屋上にいる茜を迎えに行こうとした──その時だった。

「怜香、話がある」

ここ数日、嫌と言うほど聞いた声。振り向かなくても誰かわかってしまう。

それでも私は無視して立ち去ろうとした。でも、ガシッと手首を掴まれ、身動きできなくなった。

「離してよ」

「お願いだ、少しだけで良い。少しだけで良いから、話をさせてくれ……」

頼む、と頭を下げられる。掴まれたままの左手首を見つめ、溜め息を吐いた。

「少しだけ、だからね」



*



空き教室に移動し、私は一息吐いた。移動中も、逃がさない、というように握られたままだった手首がようやく解放される。

「で、何の用?」

相対したその男を睨み付ける。小久保一樹は珍しく視線を逸らした。そして、覚悟を決めるように一呼吸置くと、こちらを真っ直ぐに見つめてきた。

「怜香、お前、何か悩んでるんじゃないか?」

「──は?」

予想外の言葉に、低い声がでた。どうせ、最近冷たく当たっていることを問い詰められるのだろうと思っていたのに。全く違う所──そして、触れられたくなかった所に、こいつは踏み込んできたのだ。

「顔色、いつもよりずっと悪い。最近は──西村さんが亡くなってからは、ずっとそうだったけど、それよりも酷いぞ」

西村さん、と茜のことに触れられて、ドクンと心臓が脈打つ。

「やっぱりお前も、大切な友達が亡くなってショックだったんだろうけど、それでも俺たちは生きていかなきゃいけないんだ。だから、そんなに思い詰めた顔、するなよ」

──俺たち?

その言葉に、何かが切れた音がした気がした。自分の中の暗い感情が、ドロドロと渦巻いている。小久保一樹にぶつけるべきではない、否、小久保一樹だからこそぶつけるべき言葉。

「──ふざけるな」

「……え?」

突然の低い声に目を丸くした小久保一樹のネクタイを掴む。そのままグイッと引っ張り、目の前に来たそいつの顔を睨み付けた。

「あんたが、幽霊の見えないあんたが、私と同じ? ふざけるなよ」

それは、ずっと思っていたことだった。

今までに感じてきた疎外感。世界からの隔たり。孤独感。周りへの壁。“普通の人”になれなかった私の、普通じゃなかった世界。

それが、“普通の人”で、誰よりも皆から好かれてる小久保一樹(お前)なんかと、同じなわけがない。わかってたまるものか。

「“見えない” あんたには、“普通” のあんたには、私の気持ちなんてわかるわけないっ!!」

その言葉に、小久保一樹が息を呑んだ。同時に、その双眸が見開かれる。

「──私は、見える人の言葉しか、信じない」

叩き付けるようにそう言い放つと、私は小久保一樹のネクタイを離し、教室を出た。今度こそ茜を迎えに行くために。

──最後に視界に入った、小久保一樹の傷付いたような、絶望したかのような表情が、しばらく脳裏から離れなかった。



*



ガタン、と扉が閉められる。瞬間、俺は壁に背中を預けた。顔を片手で覆い、天を仰いだ。

「──どうすりゃ、良かったんだ」

絞り出した声は、思ったよりもずっと弱々しく、情けなく聞こえた。

どうするのが正解だったのか、それはわからない。

ただ、一つだけ、はっきりとわかるのは。

──自分の不用意な発言が、怜香(あいつ)を傷付けたということだけ。

「……どうすれば、お前にまた笑ってもらえるんだろうな」

俺は、顰めっ面しか見せなくなった幼馴染に思いを馳せた。



*



初めて怜香に出逢った時、不思議な少女だと思った。

「幽霊が見える」

そう言った彼女のことを信じたのは、自分が見えたからでも、幽霊の存在を信じていたからでもない。

ただ、そう言った彼女の瞳が、綺麗に澄んでいたから、俺は彼女が嘘を吐いていないと、そう思ったのだ。

怜香と友達になって、じいちゃん()にも一緒に遊びに行くようになった。最初に出逢った時はあまり笑わなかったのに、よく笑うようになった。からかうと不機嫌になったり、拗ねたり、そういう人間らしい感情を、少しずつ見せるようになっていった。

──そんな、ある日だった。

小学三年生の夏。

俺はじいちゃんと一緒に散歩していた。いや、怜香が来る時用のお菓子の買い出し、の次いでの散歩だった。

その、買い出し終わり。じいちゃんの家に帰る途中だった。

なぜか、頭上が暗くなった。何だろう、と思って上を向く暇もなく、「カズッ」と名前を呼ばれ、ドンと突き飛ばされた。

突き飛ばされた衝撃でゴロゴロと地面を転がり、皮膚を擦り剥いた痛みに顔を顰めながら起き上がった──瞬間、視界に衝撃の光景が飛び込んできた。

さっきまで自分が立っていた場所に積み重なる鉄骨と、その下敷きになっている人の姿。その人からは血が流れ、アスファルトが赤黒く染まっていた。

「嘘、だろ……」

その人が誰か、なんて、すぐわかった。さっきまで隣を歩いていた、鉄骨が落ちてくる直前に自分の名前を呼んでくれた人。でも、わかりたくなんてなかった。

「──じい、ちゃん」

そう呼んだ掠れた声は、けたたましいサイレンの音に掻き消された。



*



じいちゃんが死んで、俺は部屋から出られなくなってしまった。

食事も喉を通らず、学校に行くこともできず、ただ暗い部屋の中でぼうっと空を見つめて過ごした。

最低限の栄養補給だけは両親に泣きながら頼まれてしたけれど、それも戻してしまうものだから、俺はどんどんと痩せ細っていった。友達も何人も訪ねてきてくれたけれど、その全てを拒否し、部屋に引き籠った。誰にも、逢いたくなかった。

じいちゃんが死んだ光景を、何度も何度も夢に見た。

あの日、俺が「お菓子を買う次いでに散歩しよう」なんて言わなければ、いつもと違う道を通らなければ、俺が、じいちゃんに庇われなければ。

──俺が、いなければ。

グルグルと回る思考はいつもそこに行き着いて、自責の念と後悔に押し潰されそうになる。死んで、しまいたくなる。

苦しくて、息ができない。溺れているような感覚に、俺はまた膝に顔を埋めた。

──その時。

「カズ、開けて」

凛とした声が耳に届いて、俺は水中から引き上げられるように顔を上げた。心配するようでも、気遣うようでもない、至って無機質な声音。だけど、わかりにくいだけで、彼女が普通の感情を持つことを、俺は知っていた。

ベッドから降り、そっとドアを少しだけ開くと、それを逃さないというようにそのまま強引にドアが開けられた。そこにいたのは、思った通り怜香で、涙一つも流していなかった。

「カズ、なんで学校来ないの」

「え、それは……」

じいちゃんが俺のせいで死んだから、とは言えなかった。喉が貼り付いたように、上手く言葉が出てこない。それを見かねたのか、怜香は矢継ぎ早に言葉を重ねた。

「カズ爺が死んだから? カズ爺がいなくなっちゃったから? だから、学校に来ないの?」

一番言われたくなかったことを、あっさりと言われた。

そうだ。もう、じいちゃんはこの世にはいない。俺の大好きだったじいちゃんは、もう死んでしまった──俺の、せいで。

胸が締め付けられるような痛みに、顔を歪ませた──その時。

「バッカじゃないのっ」

パン、と頬を叩かれた。驚いて手を頬に当てる。叩いた本人である怜香は、俺のことを睨み付けていた。

「カズ爺はそこにいるのに、カズのことが心配で、ずっとあんたの傍にいるのに、気付かないで“いなくなった”とか、ふざけてる」

俺の後ろを指差して、怜香は言った。その言葉に、俺は目を見開く。

「……いるのか?」

すーっと、頬を熱い滴が伝った。

「じいちゃん、ここにいるのか? 俺の傍に、いてくれるのか──?」

涙が次々と溢れ落ちる。じいちゃんが死んでからずっと、心が凍り付いたように泣けなかったのに、今はもう恥も外聞もなく、俺は啜り泣いていた。

「ありがとう、じいちゃん。俺、じいちゃんに助けてもらった命、ちゃんと生きるから。じいちゃんに恥ずかしくないように、精一杯生きるから。だから、見守っていてくれ」

傍にいるというじいちゃんにわかるように、俺は精一杯笑った。涙で顔はぐちゃぐちゃだったけれど、それでも必死に笑った。

「……“ワシが死んだのはカズのせいじゃないから、気にするな”ってさ。──それは、私もそう思うよ。カズのせいなんかじゃない。カズは、悪くない」

ぶっきらぼうに告げられた伝言と、付け足された言葉に、俺は片手で顔を覆った。嗚咽が止まらない。

ああ、俺は。

──じいちゃんが死んだのは俺のせいじゃないって、ずっと誰かに言ってほしかったんだ。

勿論、自分のせいじゃないなんて、そんなことはないこともわかってる。誰がなんと言おうとも、結局はじいちゃんは俺のせいで死んだのだから。

それでも、“俺のせいじゃない”と言ってくれる誰かが居るのなら、俺は生きていてもいいのだと、そう自分のことを少しは赦せる気がしたんだ。

「あり、がとう、怜香……。本当に、ありがとう──」

もう、顔を上げていられなかった。怜香に情けない泣き顔を見られないように下を向く。声を詰まらせながら、俺は縋るように怜香の服の袖口を掴んでそう言った。

怜香は袖を掴まれたことに戸惑った様子だったが、おずおずと俺の頭を撫でた。

怜香は、俺が手を離すまでの間、ずっと黙って傍にいてくれた。

──それが、俺にとって、怜香が“特別な友達”に変わった瞬間だった。



*



それから、四年生になって、怜香とはクラスが離れた。少し経ってから、怜香の様子がおかしいことに気付いたけれど、何がおかしいのかわからず、怜香がクラスで無視されているということを知ったのは、随分後になってからだった。

自分なりに何とかしようと、何とか怜香を助けたいと、そう思って動いた矢先、俺は怜香から無視されるようになってしまった。

話しかけても答えてもらえない、いないかのように振る舞う怜香に、そこそこ傷付いたけれど、何より一番辛かったのは、笑顔を見れないことだった。

怜香は笑わなくなった。俺がしたことが嫌だったのか、傷付けてしまったのかと相当悩んだけれど、俺は怜香に話しかけることを止めなかった。怜香が俺を嫌っていることを考えれば、止めてやるべきだったのかもしれない。それでも、俺は止められなかった。諦められなかった。──怜香は、俺にとって、“特別”だったから。

そうして、怜香が俺を無視するようになって、気付けば俺たちは高校生になっていた。

クラスが違った一年の頃は、怜香に話しかける機会もあまりなかったが、それでも別によかった。──怜香に、“特別な友達”ができていたから。

西村茜。可愛らしいツインテールの少女は、怜香とよく一緒にいた。あの怜香が突き放さないのだから、怜香にとって相当特別な相手だったのだろう。自分が怜香にとっての特別になれなかったことは悔しくもあったが、俺は西村さんに感謝していた。

──怜香が、また笑うようになったからだ。

怜香を知らない人から見たら些細な変化かもしれないが、俺からしたら青天の霹靂だった。あの怜香が、また楽しそうに笑っている。普通の子のように、人間らしい感情を見せている。……まるで、昔のように。

彼女がいるなら、俺はもう必要ない。自分勝手な感情にしがみついてないで、もう怜香を解放するべきだと、そう思った。怜香が笑ってくれるなら、もう、それだけでいいと。

──しかし、その西村茜が、一ヶ月ほど前に事故死した。

それから、また怜香は笑わなくなった。



*



『“見えない” あんたには、“普通” のあんたには、私の気持ちなんてわかるわけないっ!!』

怜香の叫びは、痛いほど胸に沁みた。

『──私は、見える人の言葉しか、信じない』

そう言われてしまったら、もう何も言えなくなる。俺は幽霊は見えない。普通の人間だから。見えない俺が何を言っても、怜香には届かない。

「どうすりゃ、お前に俺の言葉を届けられる?」

一人呟いた。

──俺の言葉は、君には届かない。



*



7月21日。深夜0時。

「……でーきた、っと」

私は書き上げた三枚の手紙を手に取った。

一枚はこの部屋の机の上に、残り二枚はスカートのポケットに入れて、玄関へと向かう。

「──バイバイ、お父さん、お母さん」

少し感傷的な気分になったけれど、それを振り払って私はドアを開けた。

夜の街を歩く。途中で、見覚えのある家を見つけて、立ち止まる。

「……君枝さん、元気にしてるかな?」

君枝さん──少し前に出逢ったお婆さんのことを、私は思い出していた。



*



君枝さんとの出逢いは、レイと喧嘩した日まで遡る。

レイと喧嘩して気まずくなった私は、だらだらと自分の家までの道を歩いていた。その時、ある家の前で、見覚えのある少年とお婆さんが話しているのを見つけたのだ。

「あれ、小久保君──じゃなくて、カズ爺?」

そう呼ぶと、クラスメイトにそっくりな少年──中身は彼の祖父──は振り返った。

「おお、茜ちゃんか。元気にしておったか?」

「う、うん。まあ。それより、そちらの方は?」

「彼女は三津下君枝さんじゃ。ワシの将棋仲間のかみさんでの、ちょっくら世間話をしとったんじゃ」

「え、でも、カズ爺と話せるってことは──」

「そうよ、お嬢さん。わたしも幽霊よ」

鈴の音を転がすような声でお婆さん──君枝さんは答えた。

「それよりも、あなたみたいな若い人まで幽霊だなんて、悲しいわね。それとも、一正さんみたいに若くなっている守護霊の方なのかしら?」

「いえ、私はただの幽霊ですよ。そういう君枝さんは?」

「わたしはただの里帰りよ。今日が命日なの」

そう言って家の方を少しだけ切なげに眺めた彼女の背中には、銀色の『1』の数字が浮かんでいた。

「主人が元気にしてるか、一年に一回確かめに来るの。あの人は、見かけに寄らず寂しがりやだったから」

「でも……それって、辛くないですか?」

思わず、言葉が溢れ落ちた。──それは、私自身の本音だった。心の奥に、押し込めていた本音。

だって、大好きな人と離れるのは辛い。苦しい。それを、私は知っていた。

「大丈夫よ、茜ちゃん。確かに、離ればなれになるのは辛いかもしれない。でも、またいつか逢える、そう信じているから、寂しくないの」

優しく、私の頭を撫でた君枝さんは、そっと微笑んだ。

「だから、わたしは死んでからずっと笑顔で待っているわ。あの人が命を全うして、こっちに来た時に、笑って逢えるように」



*



旦那さんの傍で過ごすという君枝さんと別れ、私はカズ爺と一緒に歩いていた。

君枝さんの言葉が、頭から離れない。彼女は愛ゆえに「待っている」ことができるのだろう。そう言える彼女は、きっと誰よりも強い。

でも、私は、そこまで強くなれる気がしなかった。だけど、このままでいるわけにもいかない。

「……ねえ、カズ爺は、どうして守護霊になったの?」

「──カズが、心配でな。まあ、それも、エゴなんじゃがな」

「エゴ?」

「そうじゃ。守護霊なんてものは、守っていると言いながら、その実エゴの塊みたいなもんじゃ。ワシはワシのためだけに守護霊になった。守護霊になりたいのなら、そこだけは勘違いしてはならん。守護してやりたい誰かのためなんて、そんなのは言い訳じゃからな」

ビクリ、と肩が震えた。まるで私の心を見透かしているかのような言葉に、醜い自分を隠したくなってしまう。

「自分がどうするかは、たとえ誰のためという理由があろうと、結局は自分のためでしかない。見返りも、期待もしちゃいけない。それがわかっているなら、きっと大丈夫じゃよ」

チラリとカズ爺は私を見て、優しく微笑んだ。本当に全て見透かして、私を勇気づけてくれているみたいな言葉だ。

「……うん、そうだね。ありがとう、カズ爺」

君枝さん、そしてカズ爺のお陰で、ずっと考えていたことに決心が着いた。

暮れていく空の下、明日の仲直りのことを考えていた。



*



持ってきた一通の手紙をある人の机の上に置き、もう一通はまだスカートのポケットに忍ばせて、私は屋上にやって来た。

全てを終わらせるなら、やはり、全てが始まったここがいいと思ったから。

『許すけど、でもその代わり、一つだけお願いを聞いてほしいの』

あの日した約束を、私はちゃんと覚えている。

『そう、お願い。いつかこの先、私がレイにお願いしたら、そのお願いを聞いてくれるって、約束してくれない?』

あの日の約束の意味を、私はちゃんとわかっている。

『──約束、守ってね』

それが呪いと言われようが、エゴと言われようが、構わない。私は私のためだけに、この約束をしたのだ。

「レイ、待ってるよ」

まだ暗い夜の中で、私は静かに夜明けを待つ。